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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 51

みなさま、2週間以上放置してしまって申し訳ありません。

こうした問題は正直かなり慎重を期しておかなければならないだけについつい後回しになってしまいます。

申し訳ありません、またまだまだ勉強不足の領域でありますので、間違い等は是非ともご指摘いただけますようよろしくお願いいたします。

そもそも、国鉄の赤字とは?その原因は?

国鉄の再建問題は昭和42年頃の積立金を食い潰した頃から顕著となり、それまでの国鉄>運輸省という力関係はやがて、国鉄運輸省になっていき。

運輸省による法案を通してもらわない事にはどうにもならないという形に追い込まれていきました。

その原因を探るときに、すぐに新幹線を建設した時の無茶な資金計画だとか、国鉄労使関係の悪化が原因・・・と言った風に紋切型に行ってしまう傾向があるのですが。

国鉄の赤字というのはそんな簡単なものではありません。

例えば、「国鉄労働者が悪いから」という意見だけで国鉄が赤字になったのかというと答えはNOです。

国鉄労働者の働きが悪かったから・・・多少はそうした影響もあるでしょうが、それだけではありません。

国鉄赤字ローカル線の問題・・・実はこれはかなり大きな問題ではありました。

赤字線をさっさと廃止すればよかったというよりも、残すのであればその地域の開発をすべきであったと。そうした意味では三全総(地域を中心とした産業を興していく政策)

下記の通り、第三次全国総合開発計画から引用させていただきます。

第1計画の基本的目標

地方都市は,これまでも,周辺農山漁村を含めた地域の経済,社会,文化の中心としての役割を果たしてきたが,人口の大都市への流出を抑え,若年層の定着性を高めて活力ある地域社会を再建するために,地方都市に対する期待は一層高まってきている。しかしながら,現状においては,教育,文化,医療等に関するサービスや多様な就業の機会等において,大
都市よりも一般的に低水準にあって,若年層の定住の基礎条件はなお不備,不足であるばかりでなく,日常の生活環境についても住民のニーズとの間に乖離がある。また,モータリゼーションの進展に伴って,生活の広域化が急速に進み,これに即応する都市構造を持たないため,種々の困難に直面している。更に,一方で,急速な都市化,情報化の進展は,地方都市の生活環境の画一化をもたらし,固有の風土の中ではぐくんできた地域の文化と景観の維持,発展は困難となり,それぞれの地域の持つ個性と魅力は失われつつある。このような状況の下で,地方都市への人口の定着は着実に進行しており,今後地域の自然条件との望ましい対応関係を超えて膨張が続けば,新たな過密問題をひき起こし,市民の生活環境条件をかえって劣悪化させるおそれがある。

http://www.mlit.go.jp/common/001135928.pdf   から引用

国鉄再建特別措置法とは?

本文でも書かれていますが、国鉄労働者にとっては、35万人体制に伴う合理化による人員削減(指名解雇等ではなく、合理化による要員減と採用数減に伴う自然減)であり、労働組合にすれば労働者の減少=組合員数の減少(組合費の減少)ということで反対していたわけです。

国民にしてみれば、「地方交通線の切り捨てと国鉄運賃、料金の値上げ」を伴うものでした。

実際、この頃は国鉄運賃の値上げは毎年の恒例行事となっており、最初の30円から60円への大幅値上げ以降は、10円程度初乗り運賃が毎年上がっていました。

参考に、運賃を当時の時刻表で確認しますと。

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昭和55年10月では初乗り運賃100円、B寝台は4500円となっています。

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昭和55年10月の時刻表から抜粋

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昭和45年頃 いただき物の画像から

国鉄再建特別措置法条文

第4条のみ抜粋

  (経営改善計画)
第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。
  経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。
  1. 経営の改善に関する基本方針
  2. 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項
  3. 輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項
  4. 業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項
  5. 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項
  6. 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項
  7. 収支の改善の目標
  8. 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項
 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。
  日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。
  日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

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********************************************以下は、国労の資料になります。********************

 

国鉄再建特別措置法

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 三 国労の「国鉄の民主的再建に関する提言 │
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 これより前、1980(昭和55)年秋、国鉄労働者の大幅な削減と徹底した”減量経営をもくろむ「国鉄再建特別措置法」が国会で採択されようとしてい た。国民のとっては、地方交通線の切り捨てと国鉄運賃、料金の値上げを伴う公共交通としての国鉄の縮小・再編にほかならなかった。「国民の足を守る会」 (1972年9月結成)は法案の国会審議状況をふまえながら、80年10月23日、全文運と共催で「国民の国鉄を破壊する国鉄再建法反対中央集会」を開、 集会は「地域住民の生活交通としての国鉄地方線を存続させ・総合交通体系を確立するための運動を堅持しながら、国鉄再建法に反対するすべてのひ人びとと共 に最後まで「闘い抜く」ことを宣言し、国会請願デモをくり広げた。11月に入って法案の強行採決の迫った4日、総評が国鉄本社前で緊急抗議集会を開いて法案反対の意思を表明したのをは じめとし、連日にわたり参議院運輸委員会への傍聴行動が組織され、11日から23日にかけて総評、全交運、公労協、国民の足を守る中央会議などによる中央 行動として国鉄本社前集会と国会請願行動を行った。(11月28日、国鉄再建特別措置法成立)
 明けて1981年1月19日、国労動労は総評、私鉄、都市交、全日通、自治労全逓日教組などの各組合と学者、文化人、国民の足を守る中央会議など の支援を受けて「公共輸送優先の交通体系実現をめざす国民共闘会議」を発足させた。そして3月の第2臨調の発足、また国鉄経営再建特別措置法の公布・施行 に先立って1月27日、国労は「国民の国鉄」を目指す年来の主張を実現するために、当局に「国鉄再建についての要求を」を提出すると同時に、「国鉄の民主 的再建に関する提言」を発表した。この「提言」は、国鉄再建特別措置法の成立。施行といった新しい局面を前に、「国鉄を愛するすべての勤労国民・諸団体と 連帯行動を強める目標を内外に明らかにする」という立場からなされたものであった。
 その骨子は、①公共交通優先の総合交通体系の確立、②国鉄経営機構の民主化、③国鉄財政(予算を含む)改善、④「国民の国鉄」のための施策、⑤要員をは じめとした労働条件の充実・確保、⑥労使関係の健全な確立(スト権回復 202億損害賠償訴訟の無条件取り下げ)を主な柱としていた。主要な柱は、概ね次 のような内容からなっていた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 50

本格的な労働統一戦線構想始まる

昭和53年(1978年)以降の労働運動方針は、春闘方式による対立による賃上げから、全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJCが提唱した、無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱した運動が広がりつつありました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。

公労協とは一線画すこととなる「この指とまれ方式」の結集

そうした中、1980年9月20日に労働戦線統一推進会が発足し、総評加盟の鉄鋼労連や中立労連の電機労連、純中立の 自動車総連等の委員長が「統一準備会の合意形成の場として必要な諸活動」を開始したそうですが、協議を重ねていく中で、1981年5月1日、「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を発表するに至りました。

基本構想は、

  1. 運動の基調(理念)
  2. 情勢の基本認識
  3. 統一の必要性と目的
  4. 統一の進め方
  5. 全的統一への展望

と言う構成となっており、統一労組懇の排除など反共・選別結集の性格をも備えていたそうです。

 

5月2日付の朝日新聞朝刊が上手く表現していますが、”この指とまれ”方式で「まず 運動の基調を示し、この路線に賛成の組合は集まれというやり方でした。

その辺を少し大原社会問題研究所の資料から引用してみたいと思います。

 統一推進会が進めている民間労組の結集構想は「この指とまれ」方式である。まず運動の基調を示し、この路線に賛 成の組合は集まれ、というやり方。その意味では、「労働戦線の統一」というよりも、「再編成」に近い。統一推進会の動きには、野党再編成の土壌づくりに向 けた政治的戦略も秘められているとみられ、それだけに、民間労組の結集といっても、そう簡単ではないようだ。

  統一推進会の〃指〃にどの範囲の組合が結集できるかは、「ハードルの高さ」によって決まる。このハードルの役目になっているのが、基本構想の中の 国際自由労連問題と、統一労組懇問題。新しくできる協議会が反共色の強い国際自由労連加盟を前提とすることが明確になれば、総評主流派の多くがハードルを 越えられない。共産党系の統一労組懇を排除するかどうかも同じ問題だが、固有名詞を削除したものの、反共色はかなり鮮明に出している。

  このハードルの高さを六人の統一推進会メンバーで決めるのはどうか、という声も労働界には根強い。まして、「選別結集方式による再編成は反対」 との原則をとる総評にとっては、受け入れにくい問題。総評側がクレーム(苦情)をつけて国際自由労連問題の決着を先に持ち越したのも、こうした事情を背景 としている。

法政大学大原社研 労働戦線統一基本構想について、発表以後の労組の対応〔日本労働年鑑 第52集 071〕

ただし、民間先行で進んだ統一懇ですが、総評は公労協を抱えていることもあり、基本戦略では賛成としながらも、 動労国労などからは、戦線の在り方に異論が出され、一元化はなかなか難しいところが多々あったようです。

国労などは明確に統一労組懇には反対を示した。

この点は、以下本文に出てきますが、「(1981年)七月二〇日からの総評第六三回定期大会は、統一準備会参加をめぐって、鉄鋼労連、合化労連、電通労連、全日通が参加の方針を固めている一方、運輸一般、 医労協、全日自労建設一般が「基本構想」反対の態度を明確にしている、という状況のもとで始まった。富塚事務局長提案による本部提案は、まず「基本構想」 について「大筋において理解するが、問題点も多いので、団体間協議などを通じて合意が得られるよう努力する」というなんとも苦しい言い訳に終始する発表が行われました。

そこで、総評が発表した5項目補強意見、それは下記のようなものでした。

  1. 全的統一への展望
  2. 官公労働者全体の話し合いのためのテーブル設置
  3. 労働基本権の確立
  4. 国際自由労連加盟を前提としない、
  5. 「基本構想」はあくまで民間 先行の構想

    ということで、総評は基本的には統一労組懇には積極的に入れないよ、もしくは入れないよと宣言したようなものです。

ちょっとまとまりがないのですが、また機会を見つけて加筆させていただきます。

申し訳ございません、正直学ぶことが多くて自分の中で整理しきれていない部分も多々ありますので・・・。m(__)m

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編統一をめざす」方針を決め、 翌79年2月には中立労連と新産別が総連を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。又、総評加盟の鉄鋼労連は78年9月の定期大会で政権会議が民 間労組結集の基板となり結果として統一の足がかりとなりうるとの立場から「民間労組の戦線統一の80年代初頭での実現に全力をあげる」との方針を決めた。 こうした流れのなかで総評は、79年7月の定期大会で「全的統一を目指しつつ具体化にあたって民間先行を認め」る方針を決めたが、しかしこれは従来の「官 民一体とする全国的統一の原則(統一4原則、7方針)の変更であった。そこで、総評民間単産会議は早速、労働戦線統一問題に積極的に取組むことを確認し た。
 1980年9月20日に労働戦線統一推進会が発足した。総評加盟の鉄鋼労連・全日通、同盟加盟のゼンセン同盟、電力労連、中立労連の電機労連、純中立の 自動車総連の委員長・会長を構成メンバーとし。民間労組の統一を推進する目的をもって「統一準備会の合意形成の場として必要な諸活動」を開始した。統一推 進会は、翌81年5月1日に「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を発表し、つづいて6月3日には「民間先行による労働戦線統一準備懇への参加要請」 を発表した。この「基本構想」は「運動の基調」とともに「全的統一への展望」という柱をもってはいたが、民間先行の戦線統一を妨害する団体への毅然たる対 応、国際自由労連との連携強化、公労協働界自身の統一への努力要請など問題点をはらんでおり、「朝日新聞」が解説したように”この指とまれ”方式で「まず 運動の基調を示し、この路線に賛成の組合は集まれというやり方であった。
 この「基本構想」をめぐっては、各ナショナルセンターのなかや各単産の間で賛否両論が表明され、同盟は早くも統一準備懇設置に向けて動きだした。 また総評は、「基本構想」に大筋で理解を示しながらも、官公労働者を含めた全的統一への展望、労働基本権の確立、国際自由労連加盟問題などについて、これまで の経緯を踏まえながら、①国民春闘路線の継承。発展②反自民勢力、全野党との共同闘争の展開③全的統一は多様なエネルギーの必要と全逓、選別方式は絶対 にとらない。④中小企業労組、未組織労働者に対する援助、共同の組織対応、⑤企業主義の克服、たたかう運動目標の明確化などの「五項目補強見解」を提示 し、総評としては統一して対応することを決めた。しかし、具体的には統一準備懇への参加は足並みが揃わなかった。
 国労は81年7月27日からの第42回定期全国大会(釧路)において、この「基本構想」が「戦後労働組合運動を全面的に否定した方針である」と指摘する とともに、「これに同意できないことはあきらかである」との方針を決定した。またこの大会では、中央執行委員長が次のような特別発言を行った。

 「統一推進会の基本構想は、たたかう労働組合の破壊と総評分断・解体の策動であり、労働組合の資本への従属と軍備拡大路線を推進するものであります。し たがって、基本構想に対するわれわれの態度は、階級的労働運動をめざす国労綱領と運動方針に照らして容認することはできませんし。反対であることは明らか であります。
 総評の5項目補強意見は、日本の労働組合の現状を真剣に憂うる労働者と労働組合の苦悩の所産であります。国労は、補強意見を支持するに当たって、決して 基本構想の容認を前提としておりません。したがって、本部は階級的労働組合運動の構築を目指して、補強見解を日取低の条件として、職場・地域から学習会、 共同行動を組織するなど、全国的な運動を展開するための指導を行う考えであります。

 しかし、民間先行による労働戦線統一、再編の動きは急ピッチで進展し、81年3月「労戦統一準備懇」発足(39組織、378万人)、82年3月、同盟と中立労連傘下組織、総評からは鉄鋼労連、合化労連など5組織が参加して「全民労協」が発足した。
 さらに、全民労協発足当時参加しなかった私鉄総連・全国金属などの総評系8単産は、翌83年3月に全民労協に加盟し、全民労協は49単産480万人と なった。ところで、この時期に特徴的であったことは、労働戦線統一の流れと並行して”第二臨調”行革路線が明確な形を持って展開し始めたことに対し、民間 先行労働戦線統一、再編の主流になった同盟や民間大手企業労組が行政「改革」推進の意見を表明していたことであった。
 81年3月16日、第二臨調が発足してすぐの3月25日、同盟、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協の労働四組織を中心に民間有識者が加わり「行政改革推進国民運動会議(行革推進会議)が発足し、行革断行を求めるアピールを発表した。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 49

 

皆様こんにちは、気が付けば2週間以上放置状態になってしまいました、申し訳ありません。
今回は、「政策推進労組会議」について少し私なりに調べたことを述べてみたいと思います。

昭和50年に景気は落ち込んだものの、昭和51年には景気は持ち直しを見せ始めていきました。

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「政策推進労組会議」の背景について考える

政策推進会議が出来た背景には、電機労連とJC(全日本金属産業労働組合・現JCM)の統一組合運動にあったと言われています。
その辺りを、電機連合のサイトから少し長いですが、引用させていただこうと思います。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

前年の75春闘に続いて攻勢を強めつつある政府・財界に対して、労働側はいかなる闘争体制の構築を図るか、とりわけ電機労連の動向が注目された。と いうのは、電機労連は75春闘で、JCの集中決戦・スクラムトライへの参加を見送り、春闘共闘会議の中核として5月路線・無期限の重点部門ストで挑んだも のの、結果は10%の壁を破れず、9%プラス解決金という結果に終わったという経緯があった。

したがって、76春闘に電機はどのような春闘方針を決めるのか、1976年2月、千葉県館山市で開かれた電機労連の第60回中央委員会が注目 された。この冒頭では、竪山利文委員長が「76春闘は長期・強靭な闘争体制で…」とあいさつして、従来路線かと思わせたが、論議が進み、各大手組合の意見 表明の最後に発言した日立の鮎沢保親委員長が「もう去年のような闘いは組合員に申し訳ない。金属労協で交渉重視を」と訴え、総括答弁に立った竪山委員長も 金属労協を重視するとまとめた。電機労連がストライキ春闘から決別して、JC路線に大転換した日であった

全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJC、以下は全て、JCと記述させていただくのですが、JCの戦術が基本的には労使協調路線でした。

無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱しました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。
電機労連も、重厚長大産業が中心であった1970年代は、電機連合とJCがという二つの組合が春闘相場を決めたものでした。

そんな中、1975年は電機労連はJCとの合流を見送って単独で春闘ストライキを中心とする戦術)にでたが、十分な賃上げ回答額を得られなかった反省から、1976年には電機連合もJCと合流したことで、民間を中心に成果配分型の組合運動が起こってきます。

「政策推進労組会議」はどのように政策実現を目指したのか。

さて、ここで「政策推進労組会議」(政権会議)と呼ばれるものが民間の組合を中心に発達してきた背景について改めて考えてみたいと思います、それまでは組合がその政策実現に頼るのは、社会党【現・社民党】であり民社党民進党の前身である「新進党」に吸収される形で1993年に消滅)でしたが、それでは十分に政策を反映させることは難しく、むしろ政権党である「自民党」の直接言うほうが政策実現をしてもらえる可能性が高かったと言われています。

それが流れとなって、JCは電機労連との合同を積極的に考えていくとしたそうです。

大原社会問題研究所法政大学大原社研 1976年労働戦線統一への新たな抬頭、政策推進労組会議の結成〔日本労働年鑑 第52集 058〕から引用させていただきます。

七六春闘で「JC集中決戦」に電機労連が参加したことなどから急速に流動化の方向をたどった。同年五月の鉄鋼労連春闘総括中央討論集会で宮田委員長 は「共同行動会議は電機労連の参加を得られるなら発展的に改組する」と提唱。一方、電機労連は六月の第二四回定期大会で「民間労組と共通する課題や国民的 課題についての情報交換や共同行動強化のため、主要単産労組組織による共同行動組織の結成に本格的行動を起こす。民間労組共同行動会議については、新規参 加単産による新たな共同行動組織として発足させる」との方針を決定した。

 これを契機に共同行動会議は、同会議の改組および政策課題について検討する一方、電機労連や全機金とも調整をかさねた。共同行動会議の拡大なのか、新しい民間組織の結成なのか、この間の問題はこの点にしぼられた。

 そうしたなかで、76年10月7日には 「政策推進労組会議」(政権会議)が新たに発足し総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったと言われています。

ただ、こうした組合運動の変節に対して、私鉄総連が「総評、春闘共闘、全交運をとび越えての運動はありえない。民間労組共同行動会議は真の革新とはいいがたく警戒が必要だ」とのきびしい見方をしたことなどが指摘できよう。

と言う評価をしているのは注目される部分と言えましょう。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 民間先行の労戦統一の動きと国鉄労働組合
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 戦後労働運動路線の変換は労働組運動の側からすすめられた。
1966年末、全逓宝樹委員長の論文をきっかけに始められた労働戦線再編・統一運動が挫折した後、この運動を推進してきたグループは、76年10月7日 「政策推進労組会議」(政権会議)を発足させた。この会議は、総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったが、その後の労働戦線再編・統一の流れに大きくかかわっていった。すなわち、この政権会議参加組合は、国民春闘共闘会議とは 別に77年春闘から毎年設置された賃闘対策民間労組会議のメンバーとして運動をすすめ、80年春闘地にはこの賃聞会議代表の四単産鉄鋼労連・電機労連・ 電力労連・自動車総連)と総評加盟の民間三単産私鉄総連・全日通・全国金属)によるブリッジ共闘連絡会議が発足し、賃金闘争を媒介に”民間結集”が再浮 上した。
 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編・統一をめざす」方針を決め、翌79年2月には中立労連と新産別が総連合を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 48

 

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国鉄改革の直接の引き金となった第2臨調ですが、国鉄という存在自体が最初から中途半端な形でスタートしたことにその問題があったわけで、臨調のお話をする前に少しだけ振り返ってみたいと思います。

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下記サイトから引用しました。

bizacademy.nikkei.co.jp

  1. 国鉄職員の身分が、公務員ではないが、民間企業の社員でもない。(スト権の否認など)
  2. 税制も中途半端な形であり、その整備が遅れたと言われています、その後その煽りもあって昭和30年代地方交付税が不足した時に3公社に対して「市町村納付金」として、地方税法で定める固定資産税の代わりに納付する事が定められ、国鉄の場合、鉄道線路等もその対象となるためその額は巨大なものとなりました。(駅舎等は、固定資産税の対象となっていた)
  3. スト権がないので、本来はストをできないはずですが、スト権をよこせという違法ストライキが行われ、結果的には国民の信頼を失う結果となりました。
  4. 元々、公務員なのか民間企業なのかあいまいなうえ、国からも同様に曖昧な位置づけとされたため結果的に政治に翻弄されることとなりました。

といった具合でしょうか。

行政改革の進展、第二臨調発足

鈴木内閣の目玉であった行政改革は、土光敏夫経団連名誉会長に要請することから始まりました。

就任に際しての条件は、

  • 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  • 増税によらない財政再建の実現。
  • 地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  • 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

の4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。

と言われています、また、私生活は非常に質素であったと言われており、「メザシの土光さん」というイメージが定着したと言われています。

臨調の委員については、土 光氏のほか、円城寺次郎氏(日本経済新聞社顧問)、林敬三氏(日本赤十字社社長)、宮崎輝氏(旭化成工業社長)、瀬島龍三氏(伊藤忠商事会長)、辻清明氏 (国際基督教大教授)、谷村裕氏(東京証券取引所理事長)の他に、労働界代表として丸山康雄総評副議長(自治労委員長)、金杉秀信同盟副会長(造船重機 労連委員長)の九氏が選出、専門委員二一人には、労働界から鶴園哲夫元全農林委員長、山田精吾政策推進労組会議事務局長を選ばれました。

 このほか、臨調は、 四月にかけて顧問五人、参与四九人を各界代表として選出、槇枝総評議長、宇佐美同盟会長、竪山中立労連議長の各氏も選ばれましたが、臨調の審議に加 わるとされたこれら委員、専門委員、顧問、参与は、国労が指摘しているように6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまったことが批判の的とされました。

また、非公開、多数決の運営が確認されたとのことです。

労働運動側から見た時、行革はどう映ったか

意外と柔軟だった総評

総評は、第二臨調の発足に対し下記のような方針を決定した。

  1. 国民生活のニーズに直結 した民主的行政改革の取組を強めること
  2. そのために積極的提言や対策を国民の前に示すことをかかげ、「積極的かつ大胆に対応していくことが80年代戦略の観点からも重要」と国民的行革の推進を強調しつつ、転換に応じる意向を明確にするなど臨調の審議方向へ柔軟な姿勢をみせた。

ということで、非常にこの点は重要視すべきことではないかと思います。

特に配置転換問題に関しては、「かつて三井三池鉱山閉鎖時にとった措置 同様、雇用先を明確に打ち出すこと」といっそう具体的かつ柔軟な姿勢を示したとされており、何でも反対ではなくより合理的な判断をしていたと言う点が注目されます。

同盟も異論はなく賛成に

 同盟は、評議会で「行政改革に関する国民運動の展開と第二次臨時行政調査会への対応について」を決め、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協とともに、第二臨 調に呼応して行革推進に協力する方針を明確化。四つの労働団体は「行政改革推進国民運動会議」(略称・行革推進会議)を個人参加の形で発足させるなど積極的な動きを伴っていました。

翌年昭和57年には、国鉄に関しては分割民営化の方針が決定されたと言われています。

臨調の基本方針

大原社会問題研究所の資料から引用させていただきます。

法政大学大原社研 1982年国鉄分割・民営化問題についての臨調「基本答申」の特徴〔日本労働年鑑 第57集 038〕

分割・民営化方針の確認

 臨調の第四部会は八二年初めから分割・民営化で固まったとの報道もあったが、第四部会としては四月一七日に国鉄の分割・民営化の方針を確認し、四 月二〇日には素案をまとめた。五月一七日に電電公社・専売公社の民営化、国鉄の分割・民営化を内容とする部会報告を提出した。第四部会報告の内容は、八二 年七月三〇日の臨調基本答申(第三次答申)にすべて盛りこまれたが、基本答申ではいくつかの手直しがなされた。それは、分割案を具体化し「七ブロック程 度」としたこと、政府側の意向をうけて国鉄再建監理委員会を「行政委員会」(国家行政組織法三条)とせず、単なる「付属機関」(同八条)としたことなどで ある。

この時の案では全国7ブロックとされており、おそらく東北地域が分割されていたものと推測されます。

 

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指摘された、公社制度の理念と現状の問題点

下記のように、臨調では国鉄の現状と問題点が指摘されました。

重要な指摘をされていると思われます。

 「公共性と企業性の調和という理念に基づき設置された」公社は、現状をみると「企業性が発揮されているとはいえず、その結果、果たすべき公共性さ え損なわれがちであり」、公社制度への疑問が生じているとし、制度改革の必要性を説き、つぎのような公社制度の問題点をあげる。第一に、「公社幹部の経営 に対する姿勢について」、国会や政府による外部干渉が経営責任を不明確にし、安易感を生み、労使関係でも当事者能力が不十分なため、賃金を除く「他の勤務 条件で安易な妥協」をする。第二に、労働者の側にも倒産の恐れがない「公社制度の上に安住し、違法な闘争をおこなうなど、公社職員としての自覚、義務感」 に欠けがちである。第三に、「公社に対する国民の過大な期待」が「公社の経営に負担をかけ、効率性を阻害する要因となっている」。以上の問題を解決するた めには、「単なる現行制度の手直しでなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営形態に改める必要がある」という基本的立場を明 確にして国鉄問題の分析に進む。

公社に対する国民の過大な期待・・・昨今で問題になっていますが、ローカル線問題など上げられると思います。この辺の問題はまた別の機会にでも取り組みたいと思います。

以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 ついで81年9月、第2臨調は検討課題ごとに新たな4つの部会を設置し、第1部会「行政のはたすべき役割と重要行政施策のあり方」【部会長・梅本純正武 田薬品副会長】、第2部会「行政組織及び基本的行政制度のあり方」【部会長・山下三井造船会長】、第3部会「国と地方の機能分担及び保護助成・規制監督行 政のあり方」【部会長・亀井正夫住友電工社長、日経連副会長】、第4部会「三公社五現業特殊法人等のあり方」の初会合を順次開いた。部会を構成するメン バー延べ78人のうち、6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまった。国鉄問題の審議は9月7日に設置された「三公社五現 業、特殊法人等のあり方」を検討する第4部会に委ねられ、第4部会長には加藤寛慶応義塾大学教授が就任し、部会長代理を2名おき、専門委員7名、参与9名 の構成でスタートした。こうして週1回といわれる早いペースで基本答申に向けた活動が開始された。
 さて、1982年になると、国鉄「改革」をめぐる動きは、臨調第4部会での討議と併行してその内部情報のリーク【意図的漏出】とともに、いわゆる自民党 三塚委員会の活動と提言、マスコミ上での国鉄「破産論」や国労敵視キャンペーン、そして国鉄内における「太田労政」の展開などが相互に関連しあいながら文 字どおり国鉄つぶしを狙った国鉄「分割・民営化」論が、第2臨調第4部会報告を経て7月30日に第三次答申【基本答申】へと急展開していった。第2臨調の 第三部会長をつめ、後に国鉄再建監理委員会委員長に就任した亀井正夫日経連副会長は「国労動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動史の終焉を、国鉄 分割によって目指す」と語っていたという(『文芸春秋』1985年9月号所載の内藤国夫国鉄落城前夜の修羅場」による)。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 47

 

鈴木善幸内閣は、昭和55年、選挙中に亡くなった、大平正芳前首相の盟友であった田中角栄元首相の意向を受けて誕生した内閣で、本人も予測していなかった節があり、角福戦争のしこりもあって、党内にもこれ以上の混乱は避けたいと言った意向もあり、結果的に田中角栄が強く推薦する形で誕生したと言われています。

本人も、そうした事情と言いますか空気を読んでいて、「和の政治」をスローガンに掲げて就任しました。

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鈴木善幸首相 画像 wikipedia

 

また、石油ショック以降に財政収支が悪化していたこともあり、昭和50年(1975)から赤字国債の発行が平成5年(1993年)まで続けられることとなりました。

目標としては、国庫財政を立て直すため、1984年(昭和59年)までに赤字国債脱却を目標とし、増税を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示す「増税なき財政再建」を最重要課題として掲げていました。

その流れを汲んで、行財政改革に取組んでいきました。

それが、その後新自由主義の流れの中で中曽根行革へと続く道筋を作っていったと言えそうです。

 

ただ、和の政治家と言う印象の他にもう一つ、田中角栄元首相とも相通じるものがあり、東北新幹線の終点を盛岡にしたのも実は鈴木善幸氏の意向があったからと言われています。

 

昭和46年(1971年)鈴木善幸氏が鉄道建設審議会長で有ったときに、仙台までで止めておきたい国鉄・運輸。大蔵省に対して、盛岡延長を強く希望したからだと言われています。

なお、この時の「新全国総合開発計画」というのは、昭和60年までに全国に高速道・高速鉄道などを整備するというもので、当初は北海道まで一気に開通させるとしていましたが、財政的な問題もあり、当初案では仙台であったのを無理やり盛岡に延長したと言われています。

また、三陸鉄道を開通させたのもいわば鈴木善幸首相による意向でありそれ以外にも多数の施設の誘致など地元利益誘導型の古いタイプの政治家でもありました。

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 画像 Wikipediaから引用

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当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省・運輸省国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うのであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年 引用Wikipedia から

そこで、ここで打ち出された、

今までも、国鉄財政再建については色々と検討されてきましたが、ここに来て国鉄の抜本的改革を目指して、「国鉄再建特別措置法」が公布され、「輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項」・「運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項」ということで、輸送需要に適合した・・・要は採算の全く合わないローカル線は基本的に廃止ですよと謳っています。

なお、それを受け「第8条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。・・以下は省略」で地方交通線を選定する旨書かれています。

目玉政策も無かった鈴木善幸首相が始めた行財政改革はその後大きな流れとなり結果的にはそれまでくずぶっていた、国鉄民営化まで進んでいったと言えるかもしれませんが、ちょうどこの頃は新自由主義が世界的にも流行となっていた時期でもあり現在の低迷している時代に有って、新自由主義そのものが正しかったのかと言う懸念は有りますが、結果的に日本もその流れに組み込まれるように新自由主義の中に巻き込まれていくようになっていったように思われます。

(趣旨)

第1条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

(経営の再建の目標)

第2条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和60年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

(責務)

第3条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

(経営改善計画)

第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

1.経営の改善に関する基本方針

2.事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

3.輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

4.業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項

5.運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

6.組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 

 

7.収支の改善の目標

8.前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

 以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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鈴木内閣はその当初から「増税なき財政再建」を表看板とし、国家予算の歳出見直し、各種補助金のカット、福祉関係予算の圧縮など緊縮財政措置に取り組み、 翌81年3月16日には第二次臨時行政調査会(会長・土光敏夫前経済連会長)を発足させた。この第二臨調と前後して、「国鉄再建特別措置法」が公布・施行 された(3月11日)。
 さて82年10月、鈴木首相が自民党総裁選への不出馬を表明したことから自民党総裁予備選挙が行われ、その結果を受けて鈴木総裁の後継者には中曽根康弘 行政管理庁長官(行政改革担当大臣)が選ばれ、2月27日には中曽根内閣が誕生した。中曽根首相は就任後、「私は改憲論者」と国会で答弁し、その後も「戦 後政治の総決算」「日米は運命共同体」などと発言し、又鈴木内閣から引き継いだ行政改革の”断行”を強調し、いわゆる「民活論」を唱えながら臨調一行革路 線の具体的推進高った(ママ)。この中曽根内閣の登場は、イギリスにおける保守政党サッチャー政権の牽(1979年青)及びアメリカにける共和党レーガン 大統領の双 (1981年月)と並び称されるほどに”新自由王弄の流れに乗っているところに特徴があり、又従来の自民党的手法の政治とはいささか異なる側 面をもっていた。
 その流れは、対外的には「強いアメリカ」(レーガン)、「フォークグランド武力制圧」(サッチャー)・「日本列島不沈空母化」中曽根とを3張しつつ、国 内的にはいずれも「小さな政府」「規制緩和」「民営化」などを旗印とし、それらを目指した。「改革」が1980年代を特徴づけた。また中曽根内閣では、審 議会や懇談会、調査会といった諮問機関を多く設置して、その答申や報告を援用しながら政治をすすめるという手法が目立った。防衛費の1%わく問題を始め、 国鉄分割・民営化、教育改革、靖国神社公式参拝など、これら諮問機関に自分のブレーンである学者や文化人を送り込んで政策展開の地ならしを行い、マスコミ をとおして世論操作の道具ともした。
 1981年7月10日に出された第2臨調の第1次答申は、「行政改革の理念と課題」「緊急に取組むべき改革の方策」「今後の検針方針」の十二部から成 り、答申の骨子は「活力ある福祉社会の実現」「国際社会に対する貢献の増大」を基本理念におき、82年度予算編成に関連した「緊急に取組むべき改革方策」 として補助金等の削減給枠の設定、教科書無償制度の再検討、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画の強化、公務員給与の抑制など支出削 減の個別的方策まであげた。「今後の検討方針」として「行政の役割の見直し」「官民の役割分担」などを柱に特殊法人の民営化、情報の公開やオンブズマン制 度の導入をかかげて、財政支出の削減、行政の効率化をテコに「国の歩み」
「行政のあり方」の転換をはかる。という行政改革の位置づけ、ないし方向性を示すものとなっていた。 
 

国鉄労働組合史詳細解説 46

 

みなさま、こんばんは、長らく放置してしまって申し訳ありません。この辺りまで来ると複数の要素との組み合わせが出てきますので、併せて国鉄があった時代blogも併せてお読みいただければ幸いです。

国鉄財政再建が本格化した昭和55年

blog.goo.ne.jp
当時の国会議事録を参照しながら、簡単な解説を加えさせていただいております。

さて、国労が、「赤字ローカル線の切り捨てと国鉄労働者7万4000人削減(35万人体制)を柱とした国鉄経営再建特別措置法案」とはどのような法案だったのでしょうか。

簡単にまとめると

  • 人員整理を行い、昭和60年度までに35万人体制にします。(当時の国鉄職員は40万人)
  • 地方ローカル線は基本廃止します。ただし、地方が残したいということであれば地方に譲渡します、その仕組みも作ります。
  • ローカル線建設も基本ストップします、ただし、必要な路線は別途建設します。
  • 全国一律ではなく地方の実情に応じた運賃にします
    と言ったところでしょうか。

深刻な慢性的赤字と国鉄再建

まず最初に、国鉄の経営再建の目標と言うことが掲げられました。

スト権スト以降、大幅な運賃値上げなどもあって、国民の国鉄離れは深刻化し、運賃値上げしても想定以上に国鉄の利用者が減り、通勤・通学輸送では並行する私鉄に奪われたり、中長距離では飛行機料金との差額が小さくなったことから飛行機利用が一般化し東京⇔札幌や、東京⇔博多といった長距離路線では鉄道は歯が立たなくなり、特に東京⇔博多などでは新幹線と言う選択肢があるとしても片道7時間はやはり昼行列車の利用時間としては限界であり、飛行機の利用が好まれる結果となっていました。
そうしたわけで、国鉄の本来得意とする中距離旅客輸送も飛行機と高速バスに浸食され、貨物輸送に至っても車扱いの単一貨物輸送などもトラックへの切り替えなどで減少傾向となっており、唯一気を吐くフレートライナーに代表されるコンテナ輸送だけという現象になっていました。

そんな中、国鉄財政再建計画として「国鉄経営再建特別措置法案」が提出されたのでした。
特に目玉と言える政策を持っていなかった鈴木首相にしてみれば、財政再建は自身にとっても丁度良い政治的材料と言えました。

当初は、民営化ありきでは無かった国鉄改革

そこで、法案を参照しますと、

 「昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。」と言う方向性は示されていますが、国鉄を民営化するつもりは全くありませんでした。

それは、第3条2項、「国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずる」と書かれているところからも見る事が出来ます。

(経営の再建の目標)

第二条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

 (責務)

第三条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

 さらに、具体的な経営改善計画として、下記のように職員数の削減などについても言及しています。

「二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項」とあるように、職員数削減を求められているわけで、昭和60年度末までに35万人体制(実際の民営化前にはさらに絞り込まれた任数になったことはご存じのとおりです。)

(経営改善計画)

第四条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

 一 経営の改善に関する基本方針

 二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

 三 輸送需要に適合した輸送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

 四 業務の省力化その他の事業運営の能率化に関する事項

 五 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

 六 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 七 収支の改善の目標

 八 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

国鉄ローカル線に有っては原則バス化もしくは地方切り捨て政策

さらに、国労の資料でも「赤字ローカル線の切り捨て」と言う風に書かれていますが、国鉄ローカル線については基本的に国鉄の経営から切り離す。

ただし、特定の条件(並行道路の未整備など)に該当する場合は除外しますと言う方向性が打ち出されました。

地方に多くある第3セクターの私鉄はその殆どが国鉄のローカル線を転換したものであると言えましょう。

いすみ鉄道若桜鉄道も第1次地方交通線として廃止転換されたものです。

www.isumirail.co.jp

http://www.infosakyu.ne.jp/wakatetu/

両鉄道とも色々なアイデアを出して頑張っておられますが、どうしても沿線人口の減少などもあり楽観は許されないと思われます。

ちょっと話題がずれてしまいましたので、本題に戻したいと思います。

特に、第8条で「幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準」と言うことに対して判断基準があいまいになるのではないのかと言った質問が何度もされています。

地方交通線の選定等)

第八条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。

2 日本国有鉄道は、前項の承認を受けた鉄道の営業線(以下「地方交通線」という。)のうち、その鉄道による輸送に代えて一般乗合旅客自動車運送事業(道路運送法(昭和二十六年法律第百八十三号)第三条第二項第一号の一般乗合旅客自動車運送事業をいう。以下同じ。)による輸送を行うことが適当であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。

3 日本国有鉄道は、前項の政令で定める基準に該当する営業線を選定したときは、その旨を関係都道府県知事に通知しなければならない。

4 前項の通知を受けた都道府県知事は、当該通知に係る営業線の選定について、運輸大臣に対し、意見を申し出ることができる。

5 日本国有鉄道は、第一項又は第二項の承認を受けたときは、遅滞なく、当該承認に係る地方交通線について運輸省令で定める事項を公告しなければならない。

6 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、経営改善計画において、第二項の承認を受けた地方交通線(以下「特定地方交通線」という。)ごとに、その廃止の予定時期及び次条第一項に規定する協議を行うための会議の開始を

 

希望する日(以下「会議開始希望日」という。)を定めなければならない。

 最後に、国労が語っていますが、現在も問題として話題に上る、赤字国債(それまでも国債は発行されていましたが、それは予算の範囲内での発行であり財源不足を補うための国債発行は本来は非常措置として厳しく戒められていました。その後は、「1974年度以降、赤字国債発行が普通のこととなってしまい、1980年度 末には国債発行残高が国家財政の2年分を上回る70兆円を超え、83年度末には100兆円を超えることが予想されるようになっていた。」という国労の解説に繋がるわけです。

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紀勢本線を行く春日塗の113系

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 赤字ローカル線の切り捨てと国鉄労働者7万4000人削減(35万人体制)を柱とした国鉄経営再建特別措置法案は、1980年2月に国会に提出された が、この年5月、社会党提出の大平内閣不信任案が可決されて衆議院は解散となりいったんは廃案となった。しかし、6月22日の衆参同日選挙の結果は、自民 党が圧勝し、選挙中に急死した大平首相を継いだ鈴木内閣は、財政再建のための行財政改革を最重要課題とするとともに、「国鉄経営再建特別措置法案」を再提 出した。
 もともと政府は、1973年秋の石油ショック後の長期不況(スタグフレーション)のもとで74年度以降、赤字国債発行が普通のこととなり、1980年度 末には国債発行残高が国家財政の2年分を上回る70兆円を超え、83年度末には100兆円を超えることが予想されるようになっていた。一方に、やはり財政 赤字に悩むアメリカから極東における日本の防衛負担の拡大(防衛費の増大)を押しつけられながら、国内では財界から「増税なき財政改革」を迫られ、 1970年代後半の歴代自民党政府はいずれも「行財政改革」を掲げていた。

国鉄労働組合史詳細解説 45

国鉄赤字と再建計画

国鉄における赤字は昭和39年度に始まり、その後は赤字が解消することは無かった、昭和40年に運賃改定が行われていれば赤字に陥ることが防げたのではないかとも言われています、この時期はまだ余裕があり昭和43年頃から減価償却前でも赤字を計上するようになったと言われています。

すでに昭和30年代から見え隠れしていた赤字体質

ただ、昭和30年代は潤沢に黒字を計上していたかと言うとそうでもなく、戦争中に疲弊したレールなどの更改やその他老朽資産の置換えに費用を使っていた他、後に記しますが一部貨物の政策運賃として低く抑えられていたことや人件費の高騰などもあって徐々にその経営を圧迫していたのも事実でした。

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地方交付金の一部として使われた納付金制度

他にも、地方交付税の不足を補うために固定資産税相当額を地方納付金と言う名称で地方自治体に納付させる制度がありました。

こちらも、昭和31年に制定されたもので、電電公社日本専売公社も対象になっていますが、鉄道の場合線路がすべてその対象となるため電電公社日本専売公社よりも負担額は大きかったものと思われます。

注:納付金問題は、昭和24年から?

*1

   wikipediaから引用させていただきます。

国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律として昭和31年に制定され、市町村交付金の他に市町村納付金が存在した。納付金とは、日本国有鉄道日本電信電話公社日本専売公社の旧三公社に対して課せられるもので、特徴としては、基準日が交付金と異なり固定資産税と同じ納付年の1月1日となっていたり、納期限は7月31日と12月31日の2回に分けて納付される等市町村交付金と固定資産税の中間的なものになっていた。

国有資産等所在市町村交付金 - Wikipedia

参考 国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律

法律第八十二号(昭三一・四・二四)

さて、こうした数々の赤字になる要素は有ったと思われます。

新幹線の開業が赤字を誘発したわけではありません。

さて、先ほど書きましたが人件費は昭和30年代から70%近くを占めており、戦時中の復員と満州鉄道、海軍・陸軍の技術者などを受入れた特定人件費部分も大きかったと言われています。

そしてもう一つは特定貨物輸送に対する大幅な運賃割引でした。

石炭やセメントと言った重厚長大な貨物に対して大幅に割り引いた運賃を強いられており収支合償わなかったとも言われており、この辺は国鉄当局も苦慮していたのですが政府の政策的意味合いで低く抑えられていたといわれています。

この辺は組合も反対はしていました。

そんな中で、昭和44年頃から再建計画が立てられるのですが、再建計画のための再建計画と揶揄されるように再建計画はことごとく失敗し、赤字は急速に増えていくこととなりました。

昭和55年の運輸白書から引用します。

(3) 第3次再建対策(51~52年度)

  日本国有鉄道再建対策要綱(50年12月閣議了解)において次の具体的な内容が定められ,また,これに伴い必要な法改正が行われた。その後,対策の一 層の推進を図るため,日本国有鉄道の再建対策について(52年1月閣議了解)に基づき国鉄の投資事業範囲の拡大,運賃決定方式の弾力化等を内容とする法改 正が行われた。

〔対策の概要〕

 ① 財政再建の目標

 51及び52年度の2カ年で収支均衡を図る(52年1月の閣議了解において,54年度までに収支均衡を図ることと改定された。)。

  ② 経営分野

 国鉄は,我が国の総合交通体系のなかで,今後とも都市間旅客輸送,大都市圏旅客輸送及び中長距離・大量貨物輸送について重点的にその役割を果たすべき であるが,同時に,その本来の使命からみて,これら以外の分野を含めた全体について,独立採算性を指向した自立経営を行うこととする。また,赤字ローカル 線は,国の積極的な支援のもとに,国鉄の責任においてその取扱いを検討することとする。

  ③ 経営の合理化

 貨物輸送等の近代化,合理化等を行うことにより55年度までに要員増を含め1万5,000人の要員縮減を行う。

  ④ 運賃決定制度の弾力化

  国鉄の自主的経営能力を強化するため,運賃法定制度を改め,その決定方式を弾力化する。

 ⑤ 経営改善計画の策定

  国鉄は,その経営の健全性を確立するため,経営の改善に関し必要な事項についての計画を定め,これを実施することとする。

  ⑥ 国の助成

  国鉄の膨大な過去債務から生ずる財政上の圧迫を抜本的に解消するため,50年度末債務の一部(約2兆5,404億円)について棚上げ措置を講ずる。

  なお,これらの再建対策に応じて,国が講じた具体的な助成措置は下図のとおりである。

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 結局、利子が利子を生む自転車操業状態になり、,昭和50年度末における累積赤字のうち2兆5,404億円の 繰越欠損金及びこれに相当する長期債務をについては、特定債務整理特別勘定において別途計理することとして、昭和51年度からは特定債務について 政府からの利子補給及び償還資金の無利子貸付けを受ける等の補助を受けるようになるのですが、それでも赤字は増え続けることとなりました。

国鉄としても、貨物輸送の合理化(拠点の集約・ヤードパスの地域間急行貨物列車などの増発)といった貨物輸送合理化を推進しようとしました、更にはその後問題となってくるのですが、地方ローカル線の分離・バス輸送化が叫ばれました。

昭和52年時点における貨物輸送の鉄道が占めるシェアは11%でありこれはコンテナ輸送も含めた数字であり車扱いだけでは7%程度まで落ち込んでいたと思われます。

ローカル線の審議にかかる内容などは、幣ブログ「国鉄があった時代blog 「国鉄改革関連国会審議」を参照」願います。

国鉄があった時代blog版

国労運動方針の転換

国労の運動方針がこの時期に変化したことは注目に値するかもしれません。

スト権ストの失敗の反省から、”国民の国鉄”と言う方針に転換していきました。

そこで、①国民の生活要求にもとづく国鉄づくり。②国鉄経営の民主化に分けて具体的に方針を決めた。

① 総合的な交通民主化のたたかい

②「国民の足を守る会議」の充実・強化

③貨物輸送の民主化

④地方ローカル線問題などへの取り組み

と言った方針を出してきたようです。

とありますが、これがローカル線廃止反対運動などとして繋がっていくわけでしょう。

 

***********************以下は、国労の資料になります。*******************************

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 3 「国民の国鉄」を目指す民主化・政策要求闘争
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├○ 国鉄「再建」の計画の挫折と政府・国鉄の対策 │
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 国鉄は、75年度現在、累積債務6兆7793億円、単年度決算で9147億円の欠損を出していた。これまでの政府や当局の国鉄「再建」計画は、つぎつぎ に失敗した。とくに「財政再建10か年計画」は、オイルショック、インフレのもとで破綻を余儀なくされた。75年12月、政府は、「国鉄再建対策要綱」を 閣議了解し、関連法案を翌年の国会に提出した。だが折からのロッキード疑惑の発覚で国会審議は中断し、国鉄関連法案は審議未了または継続審議となった。 「再建対策要綱」は出発からつまずいた。
 77年1月、政府は改めて、79年度に収支均衡を図る「日本国有鉄道の再建対策について」閣議了解した。そして、運賃値上げが意図されたが、継続審議と なり、秋に国会を通過した。この間、76年12月を中心に貨物大「合理化」提案が出され、77年、78年、国労動労は、貨物「合理化」反対闘争を展開し た。
 77年12月、政府は、「日本国有鉄道の再建の基本方針」を閣議了解した。これに沿って、国鉄当局は『国鉄再建の基本構想案」を提出した。それに基づ き、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法案」が80年2月、国会に提出された。70年代前半の政府・国鉄当局の「再建」策は結局、運賃値上げと要員削 減、貨物「合理化」とローカル線切り捨て、若干の公的助成に留まり、抜本的な総合交通政策を提示できず、国鉄の縮小再編へ、向かっていった、

┌──────────────────┐
├○ 民主的規制から民主化政策要求へ │
└──────────────────┘

 国労は、長年の「合理化」反対闘争、スト権奪還闘争などの経過と教訓を踏まえ、全交運の仲間や地域住民とともに、「国民の足を守る」闘い。「国民の交 通・国民の国鉄」を目指す闘いを積み重ね、政府・当局の再三の「再建」計画に対し、国鉄民主化国鉄の民主的再建を主張して闘ってきた。
 77年8月の第39回定期大会(新潟市)では、これらの取り組みをより総合的かつ系統的に発展させる必要があるとの立場から、民主的規制という新しい方 針を打ち出した。この民主的規制は、①社会的レベルにおける国鉄の民主的規制と②国鉄内の民主的規制の二つのレベルで構成され、具体的な闘いとしては、① 総合的な交通民主化のたたかい、②「国民の足を守る会議」の充実・強化、③貨物輸送の民主化、④地方ローカル線問題などへの取り組みを提起していた。
 この民主的規制方針の提起の背景には、国鉄再建問題がきわめて政治色の強い問題として浮かび上がっているという情勢、国会が70年代後半、与野党伯仲の 場面を迎えており、国鉄の再建策をめぐって各野党の政策提起が相次ぎ、重要な点での製作一致の可能性も見通せるとの情勢の発展もあった。
 方針討議では、民主規制について、貨物「合理化」との闘いと関連させた多くの意見表明があった。同時に本部が提起した「労働者の自主的規律」をめぐって も論議が集まった。その結果、「働く、要求する、たたかう」という三要素を結合していく作風を職場で確立していくことが、国労の課題として確認された。こ れは、当時、異常とも思えるマスコミの「国鉄職員タルミ論」の立場からするキャンペーンに対して批判的に対処するためであったが、同時にそうしたキャン ペーンが、生じていた事態の一面を誇張しているにせよ、全面的に否定しさることができないという事実への自省の念も込められていた。
 他方、民主的規制を含む新しい方針案は、最終的に原案どおり可決・決定された。大会後、民主的規制について、中執の「統一見解」をまとめ、78年には、『国鉄新聞』2月12日付で、「”民主的規制”問題討議資料」を特集した。
 78年7月に第40回定期大会(高知市)では、「民主的規制」を「”国民の国鉄”を目指す民主化・政策要求闘争」という表現で定式化した。この点、書記 長は、「”民主的規制”」の用語が労使協調と誤解されたので民主化・政策要求闘争と改める。しかし汚染の内容は変わらない」と述べた。79年7月の第41 回定期大会(鹿児島市)では、それまでの「国民の国鉄」を目指す民主化・政策要求闘争の成果と問題点を整理し、これからの闘いの目標とその組織化につき、 ①国民の生活要求にもとづく国鉄づくり、②国鉄経営の民主化に分けて具体的に方針を決めた。
 だが、80年代を迎える国労の前途は、当面する政府、当局の国鉄対策を見る場合、きわめて多難であった。国鉄は、79年度に812億円の欠損を出し、繰 越欠損金は、76年度の棚上げ2兆540億円と資本積立金5,604億円を差し引いても3兆5,167億円となり、長期債務残高は10兆円を超えていた。

続く

*1:国鉄地方税との関連の歴史は古く、昭和24年、25年に出されるシャウプ税制勧告まで遡ることが出来ます。その後、紆余曲折はありますが、駅等への固定資産税が先行して昭和29年頃から課税され、その流れで地方納付金が決定されていった経緯があります。
その辺は更に体系的に今後調べていければと考えております。