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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 53

増税なき財政再建から始まった、国鉄改革問題

goo blogでも当時の衆議院運輸委員会のやり取りなども記してあるのですが、ここで問題になったのは、特定交通線と呼ばれた地方交通線の取り扱いでした。

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国鉄におけるローカル線問題は実は、この時期に問題化したわけではなく、昭和30年代から何度も何度も言われてきたことでした。

元々が過疎地域であるということで、貨物輸送の廃止や駅員配置の集約などの措置を取ってもなお、赤字であり、その多くは公共性という名目の中で維持管理すべきものとされていました。

廃止となった日本国有鉄道法を参照しますと。

    (目的)
第1条 国が国有鉄道事業特別会計をもつて経営している鉄道事業その他一切の事業を経営し、能率的な運営により、これを発展せしめ、もつて公共の福祉を増進することを目的として、ここに日本国有鉄道を設立する。
(法人格)
第2条 日本国有鉄道は、公法上の法人とする。日本国有鉄道は、民法明治29年法律第89号)第35条又は商事会社その他の社団に関する商法(明治32年法律第48号)の規定に定める商事会社ではない。

 ここでも明記されていますが、「公共の福祉を増進することを目的」ということで他の現業機関同様に、公共性が強く謳われていましたので、ローカル線問題は、公共の福祉の関連で語られることが多く、その都度公共企業体であるから「儲けてはダメ」という足かせをかけられてしまうことになります。(この足かせは昭和57年頃から順次緩和されて行きます。)

また、「国鉄再建法」の制定により、国鉄のローカル線問題は、法的に廃止するための枠組みが出来上がったことも大きかったと思います。

昭和43年(1968)にも国鉄諮問委員会が、輸送量の少ないローカル線廃止を答申しましたが、法的な根拠もなく地元の反対も根強く、全国総合開発計画などの発表もあったりしてそのまま有耶無耶になってしまったという経緯があります。

赤字83線に関しては下記もご参照ください。

jnrera3.webcrow.jp

しかし、昭和39年(1964)以降赤字決算となった国鉄は、昭和42年には積立金も取り崩してしまい本格的な赤字対策を迫られることになるのですが、中々有効打を打てず、昭和55年(1980)年頃になると国鉄の赤字は、3K赤字(コメ・国鉄国民健康保険)と言われ大きな問題となっていました。

そこで、国鉄当局としても国鉄単体で解決できる問題の時期は過ぎて、政府に頼らざるを得ない状況になっていたと言えます。

第二臨時行政調査会の発足

昭和56(1981)年3月16日に鈴木内閣によって首相の諮問機関として発足、第2次臨調が発足した背景には、消費税による増税で、赤字国債依存から脱却しようとした大平首相の路線が、増税反対という世論の中で、歳出削減による行政改革は目玉になる政策が無かった鈴木首相にしてみれば格好の政治材料に感じられたのではないでしょうか。

ここで少し、大原社会問題研究所の「日本労働年鑑 第57集 1987年版・I 分割・民営化論の台頭から具体案の作成まで」から少し長いですが、引用させていただきます。

臨時行政調査会(第二臨調)は、一九八一年三月一六日に鈴木内閣によって首相の諮問機関として発足した。この時期、行政改革が必要とされたのは、一九七三年末の石油ショックを契機とする不況から低成長経済を経るなかで、政府の景気対策国債に依存しつつ実施することで国家財政の破綻が目に見えるほど明らかとなったためである。一九七九年一〇月の総選挙で、大平内閣は国債依存からの脱却を一般消費税の導入でおこなう政策を掲げたが、自民党の敗北、与野党議席伯仲の実現により撤回せざるをえなくなった。すなわち増税路線が国民的反発にあうなかで、今度は逆に歳出削減につながる行政改革へ転換を余儀なくされたのである。

 第二臨調は、土光敏夫経団連名誉会長を会長とし、合計九名のメンバーで発足した。土光会長は会長就任の条件として、増税なき財政再建とともに三公社の民営化その他を鈴木首相に了承させた。こうして発足した第二臨調は、第一次答申へ向けて活発に活動をはじめた。八一年七月一〇日に第一次答申が提出されたが、答申は「行政改革の理念と課題」、「緊急に取り組むべき改革の方策」、「今後の検討方針」の三部から成っていた。答申では、財政支出の削減、行政の効率化をテコに「国の歩み」、行政のあり方の転換をはかるという行政改革の位置づけをおこなった。

 国鉄問題が臨調で具体的に論議されたのは、八一年九月七日に四つの部会が設置されてからであった。三公社五現業特殊法人等のあり方を検討する第四部会において国鉄問題が審議され、基本答申に向けで活発な活動が開始された。第四部会長には加藤寛、部会長代理二名、専門委員七名、参与九名の構成でスタートした。

oohara.mt.tama.hosei.ac.jp

特に国鉄の赤字は、すでに3K赤字ということで大きな問題となっていました。

特に同年9月7日に第4部会が設置されてからは、三公社五現業特殊法人等のあり方、が議論されて行きました。

国鉄職員に書かれたものとしては下記のようなものがあったと言えましょう。

そうした臨調が動き出す中で、同年12月以降マスコミによる国鉄批判キャンぺーンが始まるのでした。

その辺は、また別の機会に書かせていただこうと思います。

 参考 昭和55年度の国鉄経営状況

 昭和55年度の経営成績は,一般勘定でみると営業収入が2兆9,637億円,営業経費が3兆9,643億円で,その差額1兆6億円が営業損失となり,これに営業外損失78億円を加えた1兆84億円の純損失を計上した。純損失は前年度に対し1,866億円,23%の増加となっている。なお,本年度純損失から職員構成の歪みによる退職手当の異常な支出に係る特定退職手当純損失1,784億円を除いた一般純損失でみると8,300億円と,前年度に対し1,018億円,14%の増加となっている。

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 四 最後の「国鉄再建法」と国労の闘い │
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1981(昭和56)年3月11日施行となった「国鉄再建法」(国鉄経営再建特別措置法)(本文章、末尾に、条文を抜粋)に基づき、国鉄当局は5月1日、運輸省に要員削減による35万人体制などを柱とした「国鉄経営改善計画」を提出し、同月21日に承認を得た。さらに6月10日、特定地方交通線(第1次選定)う40線区(730km)に廃止を運輸大臣に申請(9月18日運輸大臣承認)すると共に、関係都道府県知事に通達した。ついで9月2日、国鉄当局は「経営改善計画」の概要と84年度までに実施する「要員合理化計画」を組合側に提示した。また、9月20日には「経営改善計画」の一環である、「線路保守の改善について」と題する合理化案を提案し、12月8日には地方機関における内部組織の簡素化(238課の統廃合など管理機構の縮小)について組合に説明した。
 この間。7月10日には早くも第二臨調が第一次答申を出し、緊急に取り組むべき改革方策として国鉄については、次のように指摘していた。
 日本国有鉄道については、当面、経営改善計画の早期かつ着実な実施を図ることとし、このため、毎年度、経営改善計画の実施状況を明らかにするとともに次の措置を講ずる。

 ① 国鉄の置かれた現状に労使とも厳しい認識を持つとともに、経営姿勢の是正及び労使慣行の改善を図る。なお、その一環として、職員研究の充実、無料乗車証制度等の見直しを行う。
 ② 新規採用の徹底した抑制を図るとともに、業務運営全般の合理化による生産性の向上、特に貨物部門の徹底した業務縮小等の減量化を行う。
 ③ 未利用地等遊休資産の処分等増収努力を徹底する。
 ④ 特定地方交通線対策を速やかに実施に移すとともに、特定地方交通線以外についても必要に応じ民営化を図る。

この第二臨調第一次答申は、「経営改善計画」をさらに徹底推進しようとするものであったが、運輸省からの求めに応じて八一年9月までに提出された第一次廃止対象路線関係の20道県知事の「意見書」は。そのほとんどが路線の存続を強く要望していた。全国市長会も10月7日に国鉄ローカル線関係都市協議会を開き、①廃止路線の輸送実態や経営内容の細目とその算定根拠、②路線ごとに輸送量の増加、乗客サービスの改善などに向けこ国鉄の行った努力とその効果、③経営改善計画の進み具合と計画目標達成の見通し、などの三点からなる要求を運輸省国鉄当局に提出するとともに、全国知事会全国町村会にも同一歩調を取るよう働きかけた。

続く

以下、国鉄経営再建特別措置法抜粋

 (趣旨)

第一条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

 (経営の再建の目標)

第二条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

 (責務)

第三条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

 (経営改善計画)

第四条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。
 一 経営の改善に関する基本方針
 二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項
 三 輸送需要に適合した輸送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項
 四 業務の省力化その他の事業運営の能率化に関する事項
 五 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項
 六 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項
 七 収支の改善の目標
 八 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

全文を参照の場合は、下記URLより御覧ください。

 国鉄があった時代

国鉄労働組合史詳細解説 52

 

みなさん、こんばんは。

また2週間近く空けてしまいました。

宜しければお読みくださいませ。

今回は、適切な資料が見つけられなかったので、主に私見を述べさせていただく形になるかと思います。

前回の記事を引用させていただきます。

国労が提唱した「国鉄の民主的再建に関する提言」は注目

国鉄再建についての要求を」を提出すると同時に、「国鉄の民主的再建に関する提言」を発表した。この「提言」は、国鉄再建特別措置法の成立。施行といった新しい局面を前に、「国鉄を愛するすべての勤労国民・諸団体と 連帯行動を強める目標を内外に明らかにする」という立場からなされたものであった。
 その骨子は、①公共交通優先の総合交通体系の確立、②国鉄経営機構の民主化、③国鉄財政(予算を含む)改善、④「国民の国鉄」のための施策、⑤要員をは じめとした労働条件の充実・確保、⑥労使関係の健全な確立(スト権回復 202億損害賠償訴訟の無条件取り下げ)を主な柱としていた。主要な柱は、概ね次 のような内容からなっていた。

f:id:whitecat_kat:20161005215607g:plain 引用 国労着メロ・マーク

国労としては、政府が国鉄再建特別措置法(大幅な合理化・ローカル線の廃止を含む)が成立したことから、ストによる要求貫徹からその方針を国民の心情に訴えようといしたと言えます。それが、「国鉄の民主的再建に関する提言」でした。

上記にも書かれていますが、ローカル線廃止反対を暗に差しているであろう。①公共交通優先の総合交通体系の確立、でしょう。

ただ、③国鉄財政(予算を含む)改善、④「国民の国鉄」のための施策、・・・・これらは評価は出来るのですが、⑤要員をは じめとした労働条件の充実・確保、⑥労使関係の健全な確立(スト権回復 202億損害賠償訴訟の無条件取り下げ)の2点は、人員削減を伴う合理化や、一度は否定されたスト権を公共企業体職員のままで認めようということで、全体から見ると、どこまで国民の理解を得られるのかなと言うところがあるように思います。

ただ、一部地域では団体旅行の募集などを駅長が中心になってセールス活動を行うなど積極的に増収にもめむきになるなど、徐々に国鉄も代わっていく時期であったたのですが、その取り組みはまだまだでした。

国労の提言で注目された、 「交通省の設置」

さらに国労が提唱した、「交通省の設置」については、建設省運輸省が合併して国土交通省が誕生しましたが、国労が提唱しているような「総合交通審議会」と言えそうなものはいまだに誕生していません。

現在の交通問題の一番の問題は、補助金まみれで使わない道路や空港が作られて結果的にそれが地方の財政を圧迫している部分もあるのではないでしょうか。

特に地方空港の場合、LCCを就航させるには、飛行機の利用時間制限(22時以降翌7時までの使用禁止)などの問題や、空港からの交通アクセスを整備しないと絵に描いた餅になってしまうでしょうし。

f:id:whitecat_kat:20161005215853j:plain

インバウンドで外国からの観光客を呼び込んだとしてもそれを受入れるだけの仕組みがないと結果的には、上手く行かないと言った問題も生じるかと思います。

「総合交通審議会」が出来ていれば・・・。

本題から離れていますが、本来は国労が提唱するような「総合交通審議会」のようなものが設置されて、高速道路と鉄道が融合する(例えば、阪急京都線に誕生した「西山天王山駅」のように、鉄道と高速道路が一体化)施設などの建設をすべきだと思うのですが、こうした仕組みが30年ほど前に出来ていれば日本の交通状況も変わっていたのではないかと思うのは私だけでしょうか。

f:id:whitecat_kat:20161005215343j:plain

画像 Wikipedia 西山天王山駅

www.hankyu.co.jp

歴史にIFは無いけれど。

歴史にIFは無いですが、高速道路・鉄道・空港などの設置を省益・業界別の利益ではなく横断的かつ総合的に判断する仕組みが当時に出来ていれば、今ほどの地方の疲弊は無かったと思うのは私だけでしょうか。

以下、地方の在り方については後日、こちらで扱いたいと思います。

 

個々の国労の、提言内容に関しては後日改めて別の章で検討してみたいと思います。

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 三 国労の「国鉄の民主的再建に関する提言 │
└───────────────────────┘

続き

 ① 交通省の設置、運輸、建設、自治省に分散している交通運輸行政を「交通省」の設置により一元化し、所管の一元化に伴って、運輸審議会、道路審議会な どの交通運輸関係審議会、委員会を「総合交通審議会」に一元化する。審議会の構成は利用者、関係労働者代表を含めたものとすると共に、国民、利用者のニー ズの多様化、都市と地方の特性に応えた行政を実現するために、権限の大幅地方移譲を行う。
 ② 国鉄民主化国鉄の運営・経営については意思決定機関として「国鉄経営委員会」を設置し、執行機関は現行の国鉄理事会とする。運営・経営の国民的監 査を実施するために、国鉄監査委員会を独立した機関とする。また、利用者のニーズに応えられる体制を確立するために、ダイヤ、車両運用、施設の活用及び営 業諸活動についての諸権限を地方に移管する。
 部内の職業的、専門的養成教育の充実。強化、地域に密着し利用者のニーズに応えられる人的配置、現行の選考上制度の弊害の是正、公安官及び運輸長制度の廃止など組織、職制、人的運用の民主化をはかる。
 ③ 国鉄財政の改善構造的欠損については国鉄と政府の責任分野を明確にし、その制度的解決をはかる。
 旅客・貨物誘致システムの開発、ギフト乗車券の開発、高架下の有効活用、貨車のボデーなどを利用した広告の開発などによる利用の拡大と増収努力を行う。
他方、入札制度の改善、不要不急の工事費・物件費の10%節約、割高な契約単価の是正などによる経費削減をはかる。
 ④ 国民の国鉄とするための施策現行制度の拡大など、運賃・料金の改善をはかり、利用者の要求に応えるダイヤ改正や車両の改善、駅前広場の解放、特急・ 急行列車への定期券による乗車制度の拡大など、利用者ニーズに応える措置をとる。また、地域住民の健康保持と施設の国民的活用をはかるために国鉄病院を一 般に開放する。
 設備・車両の有効活用による荷主のニーズに応える輸送サービスの提供など貨物輸送の改善をはかる。
 ⑤ 総合交通政策の推進公共交通の今日的危機は政府のかたよった交通・投資政策及び競争主導型の交通政策にあり、これらを是正し、調和のとれた公共交通 の維持と国民の足を確保するため、総合交通特別会計制度の確立、大都市交通圏の共通定期券と一元的な管理、マイカーの規制、トラック輸送に対する規制、公 共交通の充実と強化などの措置をととる。
 ⑥ 国鉄運賃値上げ反対、今日の国鉄においては、運賃値上げによる増収再建は困難であり、逆に客離れにより「国民の国鉄」といった機能が失われることに なる。それゆえ、構造的欠損の処理、増収努力、経費節減、国民、利用者のための諸施策をとりう、国鉄運賃値上げは中止する。
 ⑦ 地方交通線の切り捨ては、「地域住民の足」の切り捨て、また、地域の産業、文化島の面を含め地域社会の破壊計画である。地方交通線の廃止政策に反対する。
 ⑧ スト権をはじめとする労働基本権の確立スト権をはじめとする労働基本権の確立、損害賠償請求訴訟の即時撤回が広範な国民・利用者・地域住民の期待に応えて国鉄を再建飼していく必須の条件であり、真に健全な労使関係を確立する基本である。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 51

みなさま、2週間以上放置してしまって申し訳ありません。

こうした問題は正直かなり慎重を期しておかなければならないだけについつい後回しになってしまいます。

申し訳ありません、またまだまだ勉強不足の領域でありますので、間違い等は是非ともご指摘いただけますようよろしくお願いいたします。

そもそも、国鉄の赤字とは?その原因は?

国鉄の再建問題は昭和42年頃の積立金を食い潰した頃から顕著となり、それまでの国鉄>運輸省という力関係はやがて、国鉄運輸省になっていき。

運輸省による法案を通してもらわない事にはどうにもならないという形に追い込まれていきました。

その原因を探るときに、すぐに新幹線を建設した時の無茶な資金計画だとか、国鉄労使関係の悪化が原因・・・と言った風に紋切型に行ってしまう傾向があるのですが。

国鉄の赤字というのはそんな簡単なものではありません。

例えば、「国鉄労働者が悪いから」という意見だけで国鉄が赤字になったのかというと答えはNOです。

国鉄労働者の働きが悪かったから・・・多少はそうした影響もあるでしょうが、それだけではありません。

国鉄赤字ローカル線の問題・・・実はこれはかなり大きな問題ではありました。

赤字線をさっさと廃止すればよかったというよりも、残すのであればその地域の開発をすべきであったと。そうした意味では三全総(地域を中心とした産業を興していく政策)

下記の通り、第三次全国総合開発計画から引用させていただきます。

第1計画の基本的目標

地方都市は,これまでも,周辺農山漁村を含めた地域の経済,社会,文化の中心としての役割を果たしてきたが,人口の大都市への流出を抑え,若年層の定着性を高めて活力ある地域社会を再建するために,地方都市に対する期待は一層高まってきている。しかしながら,現状においては,教育,文化,医療等に関するサービスや多様な就業の機会等において,大
都市よりも一般的に低水準にあって,若年層の定住の基礎条件はなお不備,不足であるばかりでなく,日常の生活環境についても住民のニーズとの間に乖離がある。また,モータリゼーションの進展に伴って,生活の広域化が急速に進み,これに即応する都市構造を持たないため,種々の困難に直面している。更に,一方で,急速な都市化,情報化の進展は,地方都市の生活環境の画一化をもたらし,固有の風土の中ではぐくんできた地域の文化と景観の維持,発展は困難となり,それぞれの地域の持つ個性と魅力は失われつつある。このような状況の下で,地方都市への人口の定着は着実に進行しており,今後地域の自然条件との望ましい対応関係を超えて膨張が続けば,新たな過密問題をひき起こし,市民の生活環境条件をかえって劣悪化させるおそれがある。

http://www.mlit.go.jp/common/001135928.pdf   から引用

国鉄再建特別措置法とは?

本文でも書かれていますが、国鉄労働者にとっては、35万人体制に伴う合理化による人員削減(指名解雇等ではなく、合理化による要員減と採用数減に伴う自然減)であり、労働組合にすれば労働者の減少=組合員数の減少(組合費の減少)ということで反対していたわけです。

国民にしてみれば、「地方交通線の切り捨てと国鉄運賃、料金の値上げ」を伴うものでした。

実際、この頃は国鉄運賃の値上げは毎年の恒例行事となっており、最初の30円から60円への大幅値上げ以降は、10円程度初乗り運賃が毎年上がっていました。

参考に、運賃を当時の時刻表で確認しますと。

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昭和55年10月では初乗り運賃100円、B寝台は4500円となっています。

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昭和55年10月の時刻表から抜粋

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昭和45年頃 いただき物の画像から

国鉄再建特別措置法条文

第4条のみ抜粋

  (経営改善計画)
第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。
  経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。
  1. 経営の改善に関する基本方針
  2. 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項
  3. 輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項
  4. 業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項
  5. 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項
  6. 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項
  7. 収支の改善の目標
  8. 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項
 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。
  日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。
  日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

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国鉄再建特別措置法

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 三 国労の「国鉄の民主的再建に関する提言 │
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 これより前、1980(昭和55)年秋、国鉄労働者の大幅な削減と徹底した”減量経営をもくろむ「国鉄再建特別措置法」が国会で採択されようとしてい た。国民のとっては、地方交通線の切り捨てと国鉄運賃、料金の値上げを伴う公共交通としての国鉄の縮小・再編にほかならなかった。「国民の足を守る会」 (1972年9月結成)は法案の国会審議状況をふまえながら、80年10月23日、全文運と共催で「国民の国鉄を破壊する国鉄再建法反対中央集会」を開、 集会は「地域住民の生活交通としての国鉄地方線を存続させ・総合交通体系を確立するための運動を堅持しながら、国鉄再建法に反対するすべてのひ人びとと共 に最後まで「闘い抜く」ことを宣言し、国会請願デモをくり広げた。11月に入って法案の強行採決の迫った4日、総評が国鉄本社前で緊急抗議集会を開いて法案反対の意思を表明したのをは じめとし、連日にわたり参議院運輸委員会への傍聴行動が組織され、11日から23日にかけて総評、全交運、公労協、国民の足を守る中央会議などによる中央 行動として国鉄本社前集会と国会請願行動を行った。(11月28日、国鉄再建特別措置法成立)
 明けて1981年1月19日、国労動労は総評、私鉄、都市交、全日通、自治労全逓日教組などの各組合と学者、文化人、国民の足を守る中央会議など の支援を受けて「公共輸送優先の交通体系実現をめざす国民共闘会議」を発足させた。そして3月の第2臨調の発足、また国鉄経営再建特別措置法の公布・施行 に先立って1月27日、国労は「国民の国鉄」を目指す年来の主張を実現するために、当局に「国鉄再建についての要求を」を提出すると同時に、「国鉄の民主 的再建に関する提言」を発表した。この「提言」は、国鉄再建特別措置法の成立。施行といった新しい局面を前に、「国鉄を愛するすべての勤労国民・諸団体と 連帯行動を強める目標を内外に明らかにする」という立場からなされたものであった。
 その骨子は、①公共交通優先の総合交通体系の確立、②国鉄経営機構の民主化、③国鉄財政(予算を含む)改善、④「国民の国鉄」のための施策、⑤要員をは じめとした労働条件の充実・確保、⑥労使関係の健全な確立(スト権回復 202億損害賠償訴訟の無条件取り下げ)を主な柱としていた。主要な柱は、概ね次 のような内容からなっていた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 50

本格的な労働統一戦線構想始まる

昭和53年(1978年)以降の労働運動方針は、春闘方式による対立による賃上げから、全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJCが提唱した、無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱した運動が広がりつつありました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。

公労協とは一線画すこととなる「この指とまれ方式」の結集

そうした中、1980年9月20日に労働戦線統一推進会が発足し、総評加盟の鉄鋼労連や中立労連の電機労連、純中立の 自動車総連等の委員長が「統一準備会の合意形成の場として必要な諸活動」を開始したそうですが、協議を重ねていく中で、1981年5月1日、「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を発表するに至りました。

基本構想は、

  1. 運動の基調(理念)
  2. 情勢の基本認識
  3. 統一の必要性と目的
  4. 統一の進め方
  5. 全的統一への展望

と言う構成となっており、統一労組懇の排除など反共・選別結集の性格をも備えていたそうです。

 

5月2日付の朝日新聞朝刊が上手く表現していますが、”この指とまれ”方式で「まず 運動の基調を示し、この路線に賛成の組合は集まれというやり方でした。

その辺を少し大原社会問題研究所の資料から引用してみたいと思います。

 統一推進会が進めている民間労組の結集構想は「この指とまれ」方式である。まず運動の基調を示し、この路線に賛 成の組合は集まれ、というやり方。その意味では、「労働戦線の統一」というよりも、「再編成」に近い。統一推進会の動きには、野党再編成の土壌づくりに向 けた政治的戦略も秘められているとみられ、それだけに、民間労組の結集といっても、そう簡単ではないようだ。

  統一推進会の〃指〃にどの範囲の組合が結集できるかは、「ハードルの高さ」によって決まる。このハードルの役目になっているのが、基本構想の中の 国際自由労連問題と、統一労組懇問題。新しくできる協議会が反共色の強い国際自由労連加盟を前提とすることが明確になれば、総評主流派の多くがハードルを 越えられない。共産党系の統一労組懇を排除するかどうかも同じ問題だが、固有名詞を削除したものの、反共色はかなり鮮明に出している。

  このハードルの高さを六人の統一推進会メンバーで決めるのはどうか、という声も労働界には根強い。まして、「選別結集方式による再編成は反対」 との原則をとる総評にとっては、受け入れにくい問題。総評側がクレーム(苦情)をつけて国際自由労連問題の決着を先に持ち越したのも、こうした事情を背景 としている。

法政大学大原社研 労働戦線統一基本構想について、発表以後の労組の対応〔日本労働年鑑 第52集 071〕

ただし、民間先行で進んだ統一懇ですが、総評は公労協を抱えていることもあり、基本戦略では賛成としながらも、 動労国労などからは、戦線の在り方に異論が出され、一元化はなかなか難しいところが多々あったようです。

国労などは明確に統一労組懇には反対を示した。

この点は、以下本文に出てきますが、「(1981年)七月二〇日からの総評第六三回定期大会は、統一準備会参加をめぐって、鉄鋼労連、合化労連、電通労連、全日通が参加の方針を固めている一方、運輸一般、 医労協、全日自労建設一般が「基本構想」反対の態度を明確にしている、という状況のもとで始まった。富塚事務局長提案による本部提案は、まず「基本構想」 について「大筋において理解するが、問題点も多いので、団体間協議などを通じて合意が得られるよう努力する」というなんとも苦しい言い訳に終始する発表が行われました。

そこで、総評が発表した5項目補強意見、それは下記のようなものでした。

  1. 全的統一への展望
  2. 官公労働者全体の話し合いのためのテーブル設置
  3. 労働基本権の確立
  4. 国際自由労連加盟を前提としない、
  5. 「基本構想」はあくまで民間 先行の構想

    ということで、総評は基本的には統一労組懇には積極的に入れないよ、もしくは入れないよと宣言したようなものです。

ちょっとまとまりがないのですが、また機会を見つけて加筆させていただきます。

申し訳ございません、正直学ぶことが多くて自分の中で整理しきれていない部分も多々ありますので・・・。m(__)m

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編統一をめざす」方針を決め、 翌79年2月には中立労連と新産別が総連を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。又、総評加盟の鉄鋼労連は78年9月の定期大会で政権会議が民 間労組結集の基板となり結果として統一の足がかりとなりうるとの立場から「民間労組の戦線統一の80年代初頭での実現に全力をあげる」との方針を決めた。 こうした流れのなかで総評は、79年7月の定期大会で「全的統一を目指しつつ具体化にあたって民間先行を認め」る方針を決めたが、しかしこれは従来の「官 民一体とする全国的統一の原則(統一4原則、7方針)の変更であった。そこで、総評民間単産会議は早速、労働戦線統一問題に積極的に取組むことを確認し た。
 1980年9月20日に労働戦線統一推進会が発足した。総評加盟の鉄鋼労連・全日通、同盟加盟のゼンセン同盟、電力労連、中立労連の電機労連、純中立の 自動車総連の委員長・会長を構成メンバーとし。民間労組の統一を推進する目的をもって「統一準備会の合意形成の場として必要な諸活動」を開始した。統一推 進会は、翌81年5月1日に「民間先行による労働戦線統一の基本構想」を発表し、つづいて6月3日には「民間先行による労働戦線統一準備懇への参加要請」 を発表した。この「基本構想」は「運動の基調」とともに「全的統一への展望」という柱をもってはいたが、民間先行の戦線統一を妨害する団体への毅然たる対 応、国際自由労連との連携強化、公労協働界自身の統一への努力要請など問題点をはらんでおり、「朝日新聞」が解説したように”この指とまれ”方式で「まず 運動の基調を示し、この路線に賛成の組合は集まれというやり方であった。
 この「基本構想」をめぐっては、各ナショナルセンターのなかや各単産の間で賛否両論が表明され、同盟は早くも統一準備懇設置に向けて動きだした。 また総評は、「基本構想」に大筋で理解を示しながらも、官公労働者を含めた全的統一への展望、労働基本権の確立、国際自由労連加盟問題などについて、これまで の経緯を踏まえながら、①国民春闘路線の継承。発展②反自民勢力、全野党との共同闘争の展開③全的統一は多様なエネルギーの必要と全逓、選別方式は絶対 にとらない。④中小企業労組、未組織労働者に対する援助、共同の組織対応、⑤企業主義の克服、たたかう運動目標の明確化などの「五項目補強見解」を提示 し、総評としては統一して対応することを決めた。しかし、具体的には統一準備懇への参加は足並みが揃わなかった。
 国労は81年7月27日からの第42回定期全国大会(釧路)において、この「基本構想」が「戦後労働組合運動を全面的に否定した方針である」と指摘する とともに、「これに同意できないことはあきらかである」との方針を決定した。またこの大会では、中央執行委員長が次のような特別発言を行った。

 「統一推進会の基本構想は、たたかう労働組合の破壊と総評分断・解体の策動であり、労働組合の資本への従属と軍備拡大路線を推進するものであります。し たがって、基本構想に対するわれわれの態度は、階級的労働運動をめざす国労綱領と運動方針に照らして容認することはできませんし。反対であることは明らか であります。
 総評の5項目補強意見は、日本の労働組合の現状を真剣に憂うる労働者と労働組合の苦悩の所産であります。国労は、補強意見を支持するに当たって、決して 基本構想の容認を前提としておりません。したがって、本部は階級的労働組合運動の構築を目指して、補強見解を日取低の条件として、職場・地域から学習会、 共同行動を組織するなど、全国的な運動を展開するための指導を行う考えであります。

 しかし、民間先行による労働戦線統一、再編の動きは急ピッチで進展し、81年3月「労戦統一準備懇」発足(39組織、378万人)、82年3月、同盟と中立労連傘下組織、総評からは鉄鋼労連、合化労連など5組織が参加して「全民労協」が発足した。
 さらに、全民労協発足当時参加しなかった私鉄総連・全国金属などの総評系8単産は、翌83年3月に全民労協に加盟し、全民労協は49単産480万人と なった。ところで、この時期に特徴的であったことは、労働戦線統一の流れと並行して”第二臨調”行革路線が明確な形を持って展開し始めたことに対し、民間 先行労働戦線統一、再編の主流になった同盟や民間大手企業労組が行政「改革」推進の意見を表明していたことであった。
 81年3月16日、第二臨調が発足してすぐの3月25日、同盟、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協の労働四組織を中心に民間有識者が加わり「行政改革推進国民運動会議(行革推進会議)が発足し、行革断行を求めるアピールを発表した。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 49

 

皆様こんにちは、気が付けば2週間以上放置状態になってしまいました、申し訳ありません。
今回は、「政策推進労組会議」について少し私なりに調べたことを述べてみたいと思います。

昭和50年に景気は落ち込んだものの、昭和51年には景気は持ち直しを見せ始めていきました。

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「政策推進労組会議」の背景について考える

政策推進会議が出来た背景には、電機労連とJC(全日本金属産業労働組合・現JCM)の統一組合運動にあったと言われています。
その辺りを、電機連合のサイトから少し長いですが、引用させていただこうと思います。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

前年の75春闘に続いて攻勢を強めつつある政府・財界に対して、労働側はいかなる闘争体制の構築を図るか、とりわけ電機労連の動向が注目された。と いうのは、電機労連は75春闘で、JCの集中決戦・スクラムトライへの参加を見送り、春闘共闘会議の中核として5月路線・無期限の重点部門ストで挑んだも のの、結果は10%の壁を破れず、9%プラス解決金という結果に終わったという経緯があった。

したがって、76春闘に電機はどのような春闘方針を決めるのか、1976年2月、千葉県館山市で開かれた電機労連の第60回中央委員会が注目 された。この冒頭では、竪山利文委員長が「76春闘は長期・強靭な闘争体制で…」とあいさつして、従来路線かと思わせたが、論議が進み、各大手組合の意見 表明の最後に発言した日立の鮎沢保親委員長が「もう去年のような闘いは組合員に申し訳ない。金属労協で交渉重視を」と訴え、総括答弁に立った竪山委員長も 金属労協を重視するとまとめた。電機労連がストライキ春闘から決別して、JC路線に大転換した日であった

全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJC、以下は全て、JCと記述させていただくのですが、JCの戦術が基本的には労使協調路線でした。

無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱しました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。
電機労連も、重厚長大産業が中心であった1970年代は、電機連合とJCがという二つの組合が春闘相場を決めたものでした。

そんな中、1975年は電機労連はJCとの合流を見送って単独で春闘ストライキを中心とする戦術)にでたが、十分な賃上げ回答額を得られなかった反省から、1976年には電機連合もJCと合流したことで、民間を中心に成果配分型の組合運動が起こってきます。

「政策推進労組会議」はどのように政策実現を目指したのか。

さて、ここで「政策推進労組会議」(政権会議)と呼ばれるものが民間の組合を中心に発達してきた背景について改めて考えてみたいと思います、それまでは組合がその政策実現に頼るのは、社会党【現・社民党】であり民社党民進党の前身である「新進党」に吸収される形で1993年に消滅)でしたが、それでは十分に政策を反映させることは難しく、むしろ政権党である「自民党」の直接言うほうが政策実現をしてもらえる可能性が高かったと言われています。

それが流れとなって、JCは電機労連との合同を積極的に考えていくとしたそうです。

大原社会問題研究所法政大学大原社研 1976年労働戦線統一への新たな抬頭、政策推進労組会議の結成〔日本労働年鑑 第52集 058〕から引用させていただきます。

七六春闘で「JC集中決戦」に電機労連が参加したことなどから急速に流動化の方向をたどった。同年五月の鉄鋼労連春闘総括中央討論集会で宮田委員長 は「共同行動会議は電機労連の参加を得られるなら発展的に改組する」と提唱。一方、電機労連は六月の第二四回定期大会で「民間労組と共通する課題や国民的 課題についての情報交換や共同行動強化のため、主要単産労組組織による共同行動組織の結成に本格的行動を起こす。民間労組共同行動会議については、新規参 加単産による新たな共同行動組織として発足させる」との方針を決定した。

 これを契機に共同行動会議は、同会議の改組および政策課題について検討する一方、電機労連や全機金とも調整をかさねた。共同行動会議の拡大なのか、新しい民間組織の結成なのか、この間の問題はこの点にしぼられた。

 そうしたなかで、76年10月7日には 「政策推進労組会議」(政権会議)が新たに発足し総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったと言われています。

ただ、こうした組合運動の変節に対して、私鉄総連が「総評、春闘共闘、全交運をとび越えての運動はありえない。民間労組共同行動会議は真の革新とはいいがたく警戒が必要だ」とのきびしい見方をしたことなどが指摘できよう。

と言う評価をしているのは注目される部分と言えましょう。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 民間先行の労戦統一の動きと国鉄労働組合
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 戦後労働運動路線の変換は労働組運動の側からすすめられた。
1966年末、全逓宝樹委員長の論文をきっかけに始められた労働戦線再編・統一運動が挫折した後、この運動を推進してきたグループは、76年10月7日 「政策推進労組会議」(政権会議)を発足させた。この会議は、総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったが、その後の労働戦線再編・統一の流れに大きくかかわっていった。すなわち、この政権会議参加組合は、国民春闘共闘会議とは 別に77年春闘から毎年設置された賃闘対策民間労組会議のメンバーとして運動をすすめ、80年春闘地にはこの賃聞会議代表の四単産鉄鋼労連・電機労連・ 電力労連・自動車総連)と総評加盟の民間三単産私鉄総連・全日通・全国金属)によるブリッジ共闘連絡会議が発足し、賃金闘争を媒介に”民間結集”が再浮 上した。
 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編・統一をめざす」方針を決め、翌79年2月には中立労連と新産別が総連合を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 48

 

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国鉄改革の直接の引き金となった第2臨調ですが、国鉄という存在自体が最初から中途半端な形でスタートしたことにその問題があったわけで、臨調のお話をする前に少しだけ振り返ってみたいと思います。

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下記サイトから引用しました。

bizacademy.nikkei.co.jp

  1. 国鉄職員の身分が、公務員ではないが、民間企業の社員でもない。(スト権の否認など)
  2. 税制も中途半端な形であり、その整備が遅れたと言われています、その後その煽りもあって昭和30年代地方交付税が不足した時に3公社に対して「市町村納付金」として、地方税法で定める固定資産税の代わりに納付する事が定められ、国鉄の場合、鉄道線路等もその対象となるためその額は巨大なものとなりました。(駅舎等は、固定資産税の対象となっていた)
  3. スト権がないので、本来はストをできないはずですが、スト権をよこせという違法ストライキが行われ、結果的には国民の信頼を失う結果となりました。
  4. 元々、公務員なのか民間企業なのかあいまいなうえ、国からも同様に曖昧な位置づけとされたため結果的に政治に翻弄されることとなりました。

といった具合でしょうか。

行政改革の進展、第二臨調発足

鈴木内閣の目玉であった行政改革は、土光敏夫経団連名誉会長に要請することから始まりました。

就任に際しての条件は、

  • 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  • 増税によらない財政再建の実現。
  • 地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  • 3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

の4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。

と言われています、また、私生活は非常に質素であったと言われており、「メザシの土光さん」というイメージが定着したと言われています。

臨調の委員については、土 光氏のほか、円城寺次郎氏(日本経済新聞社顧問)、林敬三氏(日本赤十字社社長)、宮崎輝氏(旭化成工業社長)、瀬島龍三氏(伊藤忠商事会長)、辻清明氏 (国際基督教大教授)、谷村裕氏(東京証券取引所理事長)の他に、労働界代表として丸山康雄総評副議長(自治労委員長)、金杉秀信同盟副会長(造船重機 労連委員長)の九氏が選出、専門委員二一人には、労働界から鶴園哲夫元全農林委員長、山田精吾政策推進労組会議事務局長を選ばれました。

 このほか、臨調は、 四月にかけて顧問五人、参与四九人を各界代表として選出、槇枝総評議長、宇佐美同盟会長、竪山中立労連議長の各氏も選ばれましたが、臨調の審議に加 わるとされたこれら委員、専門委員、顧問、参与は、国労が指摘しているように6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまったことが批判の的とされました。

また、非公開、多数決の運営が確認されたとのことです。

労働運動側から見た時、行革はどう映ったか

意外と柔軟だった総評

総評は、第二臨調の発足に対し下記のような方針を決定した。

  1. 国民生活のニーズに直結 した民主的行政改革の取組を強めること
  2. そのために積極的提言や対策を国民の前に示すことをかかげ、「積極的かつ大胆に対応していくことが80年代戦略の観点からも重要」と国民的行革の推進を強調しつつ、転換に応じる意向を明確にするなど臨調の審議方向へ柔軟な姿勢をみせた。

ということで、非常にこの点は重要視すべきことではないかと思います。

特に配置転換問題に関しては、「かつて三井三池鉱山閉鎖時にとった措置 同様、雇用先を明確に打ち出すこと」といっそう具体的かつ柔軟な姿勢を示したとされており、何でも反対ではなくより合理的な判断をしていたと言う点が注目されます。

同盟も異論はなく賛成に

 同盟は、評議会で「行政改革に関する国民運動の展開と第二次臨時行政調査会への対応について」を決め、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協とともに、第二臨 調に呼応して行革推進に協力する方針を明確化。四つの労働団体は「行政改革推進国民運動会議」(略称・行革推進会議)を個人参加の形で発足させるなど積極的な動きを伴っていました。

翌年昭和57年には、国鉄に関しては分割民営化の方針が決定されたと言われています。

臨調の基本方針

大原社会問題研究所の資料から引用させていただきます。

法政大学大原社研 1982年国鉄分割・民営化問題についての臨調「基本答申」の特徴〔日本労働年鑑 第57集 038〕

分割・民営化方針の確認

 臨調の第四部会は八二年初めから分割・民営化で固まったとの報道もあったが、第四部会としては四月一七日に国鉄の分割・民営化の方針を確認し、四 月二〇日には素案をまとめた。五月一七日に電電公社・専売公社の民営化、国鉄の分割・民営化を内容とする部会報告を提出した。第四部会報告の内容は、八二 年七月三〇日の臨調基本答申(第三次答申)にすべて盛りこまれたが、基本答申ではいくつかの手直しがなされた。それは、分割案を具体化し「七ブロック程 度」としたこと、政府側の意向をうけて国鉄再建監理委員会を「行政委員会」(国家行政組織法三条)とせず、単なる「付属機関」(同八条)としたことなどで ある。

この時の案では全国7ブロックとされており、おそらく東北地域が分割されていたものと推測されます。

 

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指摘された、公社制度の理念と現状の問題点

下記のように、臨調では国鉄の現状と問題点が指摘されました。

重要な指摘をされていると思われます。

 「公共性と企業性の調和という理念に基づき設置された」公社は、現状をみると「企業性が発揮されているとはいえず、その結果、果たすべき公共性さ え損なわれがちであり」、公社制度への疑問が生じているとし、制度改革の必要性を説き、つぎのような公社制度の問題点をあげる。第一に、「公社幹部の経営 に対する姿勢について」、国会や政府による外部干渉が経営責任を不明確にし、安易感を生み、労使関係でも当事者能力が不十分なため、賃金を除く「他の勤務 条件で安易な妥協」をする。第二に、労働者の側にも倒産の恐れがない「公社制度の上に安住し、違法な闘争をおこなうなど、公社職員としての自覚、義務感」 に欠けがちである。第三に、「公社に対する国民の過大な期待」が「公社の経営に負担をかけ、効率性を阻害する要因となっている」。以上の問題を解決するた めには、「単なる現行制度の手直しでなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営形態に改める必要がある」という基本的立場を明 確にして国鉄問題の分析に進む。

公社に対する国民の過大な期待・・・昨今で問題になっていますが、ローカル線問題など上げられると思います。この辺の問題はまた別の機会にでも取り組みたいと思います。

以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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 ついで81年9月、第2臨調は検討課題ごとに新たな4つの部会を設置し、第1部会「行政のはたすべき役割と重要行政施策のあり方」【部会長・梅本純正武 田薬品副会長】、第2部会「行政組織及び基本的行政制度のあり方」【部会長・山下三井造船会長】、第3部会「国と地方の機能分担及び保護助成・規制監督行 政のあり方」【部会長・亀井正夫住友電工社長、日経連副会長】、第4部会「三公社五現業特殊法人等のあり方」の初会合を順次開いた。部会を構成するメン バー延べ78人のうち、6割を財界・官界の出身者が占め、労働界からはわずか3人の参加にとどまった。国鉄問題の審議は9月7日に設置された「三公社五現 業、特殊法人等のあり方」を検討する第4部会に委ねられ、第4部会長には加藤寛慶応義塾大学教授が就任し、部会長代理を2名おき、専門委員7名、参与9名 の構成でスタートした。こうして週1回といわれる早いペースで基本答申に向けた活動が開始された。
 さて、1982年になると、国鉄「改革」をめぐる動きは、臨調第4部会での討議と併行してその内部情報のリーク【意図的漏出】とともに、いわゆる自民党 三塚委員会の活動と提言、マスコミ上での国鉄「破産論」や国労敵視キャンペーン、そして国鉄内における「太田労政」の展開などが相互に関連しあいながら文 字どおり国鉄つぶしを狙った国鉄「分割・民営化」論が、第2臨調第4部会報告を経て7月30日に第三次答申【基本答申】へと急展開していった。第2臨調の 第三部会長をつめ、後に国鉄再建監理委員会委員長に就任した亀井正夫日経連副会長は「国労動労を解体しなければダメだ。戦後の労働運動史の終焉を、国鉄 分割によって目指す」と語っていたという(『文芸春秋』1985年9月号所載の内藤国夫国鉄落城前夜の修羅場」による)。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 47

 

鈴木善幸内閣は、昭和55年、選挙中に亡くなった、大平正芳前首相の盟友であった田中角栄元首相の意向を受けて誕生した内閣で、本人も予測していなかった節があり、角福戦争のしこりもあって、党内にもこれ以上の混乱は避けたいと言った意向もあり、結果的に田中角栄が強く推薦する形で誕生したと言われています。

本人も、そうした事情と言いますか空気を読んでいて、「和の政治」をスローガンに掲げて就任しました。

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鈴木善幸首相 画像 wikipedia

 

また、石油ショック以降に財政収支が悪化していたこともあり、昭和50年(1975)から赤字国債の発行が平成5年(1993年)まで続けられることとなりました。

目標としては、国庫財政を立て直すため、1984年(昭和59年)までに赤字国債脱却を目標とし、増税を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示す「増税なき財政再建」を最重要課題として掲げていました。

その流れを汲んで、行財政改革に取組んでいきました。

それが、その後新自由主義の流れの中で中曽根行革へと続く道筋を作っていったと言えそうです。

 

ただ、和の政治家と言う印象の他にもう一つ、田中角栄元首相とも相通じるものがあり、東北新幹線の終点を盛岡にしたのも実は鈴木善幸氏の意向があったからと言われています。

 

昭和46年(1971年)鈴木善幸氏が鉄道建設審議会長で有ったときに、仙台までで止めておきたい国鉄・運輸。大蔵省に対して、盛岡延長を強く希望したからだと言われています。

なお、この時の「新全国総合開発計画」というのは、昭和60年までに全国に高速道・高速鉄道などを整備するというもので、当初は北海道まで一気に開通させるとしていましたが、財政的な問題もあり、当初案では仙台であったのを無理やり盛岡に延長したと言われています。

また、三陸鉄道を開通させたのもいわば鈴木善幸首相による意向でありそれ以外にも多数の施設の誘致など地元利益誘導型の古いタイプの政治家でもありました。

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 画像 Wikipediaから引用

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当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省・運輸省国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うのであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年 引用Wikipedia から

そこで、ここで打ち出された、

今までも、国鉄財政再建については色々と検討されてきましたが、ここに来て国鉄の抜本的改革を目指して、「国鉄再建特別措置法」が公布され、「輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項」・「運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項」ということで、輸送需要に適合した・・・要は採算の全く合わないローカル線は基本的に廃止ですよと謳っています。

なお、それを受け「第8条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。・・以下は省略」で地方交通線を選定する旨書かれています。

目玉政策も無かった鈴木善幸首相が始めた行財政改革はその後大きな流れとなり結果的にはそれまでくずぶっていた、国鉄民営化まで進んでいったと言えるかもしれませんが、ちょうどこの頃は新自由主義が世界的にも流行となっていた時期でもあり現在の低迷している時代に有って、新自由主義そのものが正しかったのかと言う懸念は有りますが、結果的に日本もその流れに組み込まれるように新自由主義の中に巻き込まれていくようになっていったように思われます。

(趣旨)

第1条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

(経営の再建の目標)

第2条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和60年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

(責務)

第3条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

(経営改善計画)

第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

1.経営の改善に関する基本方針

2.事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

3.輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

4.業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項

5.運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

6.組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 

 

7.収支の改善の目標

8.前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

 以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
└─────────────────────┘

鈴木内閣はその当初から「増税なき財政再建」を表看板とし、国家予算の歳出見直し、各種補助金のカット、福祉関係予算の圧縮など緊縮財政措置に取り組み、 翌81年3月16日には第二次臨時行政調査会(会長・土光敏夫前経済連会長)を発足させた。この第二臨調と前後して、「国鉄再建特別措置法」が公布・施行 された(3月11日)。
 さて82年10月、鈴木首相が自民党総裁選への不出馬を表明したことから自民党総裁予備選挙が行われ、その結果を受けて鈴木総裁の後継者には中曽根康弘 行政管理庁長官(行政改革担当大臣)が選ばれ、2月27日には中曽根内閣が誕生した。中曽根首相は就任後、「私は改憲論者」と国会で答弁し、その後も「戦 後政治の総決算」「日米は運命共同体」などと発言し、又鈴木内閣から引き継いだ行政改革の”断行”を強調し、いわゆる「民活論」を唱えながら臨調一行革路 線の具体的推進高った(ママ)。この中曽根内閣の登場は、イギリスにおける保守政党サッチャー政権の牽(1979年青)及びアメリカにける共和党レーガン 大統領の双 (1981年月)と並び称されるほどに”新自由王弄の流れに乗っているところに特徴があり、又従来の自民党的手法の政治とはいささか異なる側 面をもっていた。
 その流れは、対外的には「強いアメリカ」(レーガン)、「フォークグランド武力制圧」(サッチャー)・「日本列島不沈空母化」中曽根とを3張しつつ、国 内的にはいずれも「小さな政府」「規制緩和」「民営化」などを旗印とし、それらを目指した。「改革」が1980年代を特徴づけた。また中曽根内閣では、審 議会や懇談会、調査会といった諮問機関を多く設置して、その答申や報告を援用しながら政治をすすめるという手法が目立った。防衛費の1%わく問題を始め、 国鉄分割・民営化、教育改革、靖国神社公式参拝など、これら諮問機関に自分のブレーンである学者や文化人を送り込んで政策展開の地ならしを行い、マスコミ をとおして世論操作の道具ともした。
 1981年7月10日に出された第2臨調の第1次答申は、「行政改革の理念と課題」「緊急に取組むべき改革の方策」「今後の検針方針」の十二部から成 り、答申の骨子は「活力ある福祉社会の実現」「国際社会に対する貢献の増大」を基本理念におき、82年度予算編成に関連した「緊急に取組むべき改革方策」 として補助金等の削減給枠の設定、教科書無償制度の再検討、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画の強化、公務員給与の抑制など支出削 減の個別的方策まであげた。「今後の検討方針」として「行政の役割の見直し」「官民の役割分担」などを柱に特殊法人の民営化、情報の公開やオンブズマン制 度の導入をかかげて、財政支出の削減、行政の効率化をテコに「国の歩み」
「行政のあり方」の転換をはかる。という行政改革の位置づけ、ないし方向性を示すものとなっていた。