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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説2

本日も引続き、国鉄労働組合史をお送りします。

皆様こんにちは、久々に国労が作成した、国鉄労働組合史を基に、私の解説を簡単に加えた形でアップしていこうと思います。

戦前期における労働運動について
労働運動というと戦後のGHQの政策によるものと思われる方も多いかと思いますが、労働運動は戦前から行われていました。
ただし、結成後すぐに「労働運動は非合法」であると規定されていたためです。
当然のことながら、こうした労働運動を支える組織としての日本共産党(当時はコミンテルン(別名第三インターナショナル)指示を受けていたことも有り、その思想はマルクス・レーニンの思想をついだものと言えましょう。
共産主義というか、レーニンの考え方は、「国家と革命」を読むとよくわかりますが、

「国家自体の解体」が本当の意味でのプロレタリアによる解放である。

という非常に過激な内容が書かれています。
今の日本共産党の殆どの議員も党員もこんなことは知らないとおもいますが、国を破滅させることが労働者の解放であると本当に信じていたのかちょっと不思議な感覚になりますけどね。

おっと、話が脱線してしまいましたね。
それでは、話を戻したいと思います。

日本における労働運動の始祖は、明治30年(1897年)片山潜・高野房太郎らが「労働組合期成会」を立ち上げたのが日本における最初の労働組合とみなされますが、その3年後の明治33年(1900年)に治安警察法が制定されてストライキは「違法行為」と定められるとともに労働運動の弾圧が始まり、明治35年には「労働組合期成会」も解散に追い込まれたと言われています。
マルクスの「共産党宣言」が翻訳されたのはこの2年後で、「資本主義が昇華して共産主義に至る」「もしくは、資本家階級を打倒することで・・・」的な内容がでてきます。
国労の資料にもその辺は出てきますが、さらに、職長などが従業員に対して圧力を加えたという件がありますが、このへんも少し解説を加えてお育必要がありそうです。

国鉄の制度、明治期は資料が手元にないのでいささか心もとないのですが、基本的には正規の職員と雇員・傭人 と呼ばれる人が居ました。
主に機関区の庫内手(明治期ならば火夫もそうかな?)あやたりは、雇員・傭人として区別されて、給料も日雇い給など、かなり待遇は低く置かれていました。
機関士になって判任官待遇だったと思います。(このへんはもう少し詳しく調べる必要はあると思いますが。汗)
その辺の知識を踏まえた上で読んでいただけると幸いです。

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二 戦前における国鉄労働者の闘い

労働者階級の形成と抵抗の開始

日本資本主義の急速な発展は。労働者階級の形成と抵抗を伴った。1870【明治3】年には、長崎高島炭鉱の労働者が賃下げに反対し、暴動【争議】を起、同炭鉱ではその後も争議が相次いだ。明治10年代には、全国各地の炭鉱や銅山で争議が発生した。1886【明治19】年には、甲府の女子労働者が、支配人の差別待遇に反対してストライキを行った。鉄道では、1892【明治25】年、東京・新橋駅員が給料半減に反対してストを計画したが、数百人が解雇され、敗北した。これら諸争議は自然発生的で、争議における一時的な組織ではあったが、恒常的なものではなく、労働組合組織化は、日清戦争産業革命を経た1890年代後半以降のことであった。
 1897【明治30】年、高野房太郎、片山潜らの指導により、労働組合期成会が発足し、労働者階級の自主的運動が芽生え始めた。期成会は労働組合ではないが、労働者の共済活動などの重視、職能別組合の組織化を目的としていた。同年末、その直後の指導により、機械工を中心に鉄工組合が結成された。この組合は、1900年9月末には、42支部、組合員5400人余りまで躍進した。鉄工組合には、新橋鉄道局、民営鉄道であった甲武鉄道【現在の中央本線)、日本鉄道【現在の東北本線及び大宮工場】の労働者が、150人近く参加していた。国鉄・鉄道労働者の最初の組織化であった。

日鉄機関方の大罷業大宮工場の闘い

鉄工組合とは別に、翌年の1898年2月、日本鉄道の機関方【機関士】に密かに「我党待遇期成大同盟会」と題する秘密組織のビラ【起草者は、尻内在勤の機関方でクリスチャンの石田六次郎だと言われる】が配布された。この文書は、「待遇を改善すること」、「機関方、火夫一同臨時昇給のこと」、「機関方を機関手に、心得を機関手心得に、火夫を乗り組み機関生に、掃除夫を機関生に、・・・・名称を改むべきこと」を要求し、課長宛に上願書を提出することなどを指示した。秘密ビラを受け取った各駅の各駅の機関方は同様な不満を持っていたので、熱心な駅の機関方は秘密に会合、討議し、この文書を増し刷りして配布し、2月21日までに、10名の首謀者(うちクリスチャン5名)を解雇した。
 だが、日鉄主要駅の機関方は電報で意思統一し、先の要求と解雇反対を掲げ、2月25日から同盟罷業=ストに突入した、このストは、福島を中心に、上野、宇都宮、黒磯、仙台、青森、尻内、一の関に及び、参加者400名、2日間にわたり郵便列車を除く全列車が停止した。この争議は、日本の鉄道労働者の最初の大規模な争議であった。
この大罷業に直面して、狼狽した会社側は和解を申し入れ、機関方は解雇撤回を含め要求を全て勝ち取った。この後、結成されたのが日鉄矯正会。組合は最盛時1000名の組合員を擁した。
 大宮工場では、鉄工組合員に対し種々の圧力が加えれた。工場幹部は、組合員はいずれ工場から追放されるとの風説を流したり、組長を呼んで、組合と関係するなと注意したり、組合員以外の労働者の賃金引上げを図り、組合員を差別した。これに対し、組合員たちは、現在の多少の利益を捨て、また現在の無念はこれを忍耐し、とにかく組合に加入し、組織を拡大せよ。然らば、汝らの思うこと何事もなるべしとして、組織の強化に務めた。今日の国労組合員に共通する性格をもった事態である。
 1899年11月、職制が解雇すると脅迫したのに抗議して集団で退場し、翌日無断欠勤という職制との抗争で、長谷川清作組合員ら8名が解雇され争議行為に発展した。この争議は鉄工組合本部が指導にあたった。解雇撤回は実現しなかったが、依願退職となり、無届け欠勤10日間の猶予などの補償を勝ち取った。1900年、大宮工場の組合員は、職工間の差別を廃止すること、時間給を日給に改めることなどを要求して再度、争議を行った。会社側は、中心人物28名解雇という弾圧を行ない、他方、一定の労働条件の改善に乗り出した。
 鉄道国有化以前における日鉄の機関方と大宮工場の戦いは、鉄道労働運動史だけでなく、日本の労働者全体の先駆的な戦いであった。それは初めて大規模なストライキを行った点でもそうであるが、労働組合組織に結実し、労働組合の組織的なたたかいであったという点でも先駆的であった。

 

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