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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説4

皆様、約6日ぶりの投稿でございます。
実は、6日に1回夜勤が有りましてその出勤前に書いているのでこういった周りになりますことをお許し願います。
本来、研究職として仕事ができればこうした内容にアップもより深く、かつ広範囲な考察が出来るのですが、今はまだそこまで出来ていませんので中途半端感は拭えませんが、よろしくお願いいたします。

大正という時代は、大正デモクラシー運動(、政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動、風潮)という追い風も有り全国各地で労働運動が急増したと言われています。
さらに、1920年大正9年)には、国鉄の中でも、大日本機関車乗務員会が組織され、これに対して、鉄道省では、機関車乗務員会を「労働組合化して来たと危険視」とされる記事が大阪毎日新聞、 1920.11.20(大正9)に出ていました。

全文を引用したいと思います。

> 大阪毎日新聞 1920.11.20(大正9)
> 労働組合化して来たと鉄道省から危険視された機関車乗務員会
>
> 鉄道省の機関車乗務員によって組織せられて居る大日本機関車乗務員会に向って鉄道省は過般来切崩しを試みて居るという説がある、之に就て問題とさるるは今後此種の組合が他にも実現する場合鉄道省が如何なる態度を以て之に臨むかの点であるが同省監督局長井出繁三郎氏は石丸次官に代って次の如く言明した
> 鉄道省には現業委員会があり此機関に依って現業員は十分に自己の意のある処を述べ当局も之を尊重採択し以て諸般の改善進歩を図るべき制度になって居る今問題となって居る機関車乗務員会の会員も現業委員会の一員であるから若し正当な主張があるとすれば此機関に拠るのが正当である乗務員会は最初会員相互の事務研究の機関で事務の研究の外単に会員の吉凶禍福を慶弔するに過ぎぬというから現業委員会の存否に拘らず別に干渉を試みなかったのであるが最近に於て同会は会員誘引のため後藤男や鈴木商店の後援があるなどと疑わしきことを宣伝するのみか労働組合的実行運動の傾向が愈々顕著となって来た斯くては国民の機関たる国有鉄道の秩序を□すのみならず現業員自身としても服務規則に反するので適宜の処置に出でなければならぬ次第となったのである今後此種の組合が生れ相互の研究扶助の範囲を越えて労働運動化した場合には当局としては積極的行動に出で或は処分もし或は切崩しを試みる場合が無いとも限らぬ(東京電話)
>
>
> データ作成:2002.6 神戸大学附属図書館

特に鉄道省がこの「機関車乗務員会」をことさら危険視したのは、「労働組合」としてストライキ等を行った場合、以下の様な危険性があると認識したからではないでしょうか。

当時、鉄道省経理局長であった、別府丑太郎氏は、下記のよう考えていたようです。 
鉄道は、陸上輸送における大動脈であり、それがために産業が停滞することを一番恐れたのでしょう、そのために昔から鉄道省の時代から「大家族主義」が提唱されており、国鉄当局としてもこうした組合になりうる可能性のある乗務員会に対して非常に敏感になるとともにドイツの鉄道における、現業委員会と同じような組織を作って、従業員の希望意見を聴き、それによって当局の施設を定めるという所謂上下協力して進むという方針を考えていたようです。

*1

そして、その大きな理由は

> 全国津々浦に伸びている、いわば国の産業の大動脈である。故に万一鉄道従業員がストライキを起す様なことがあれば大変である。たとえ一部分の交通機関が停まっただけでも重大事である。況んやそれが拡大し、これに他産業が雷同して騒ぎ出すやうなことがあれば、誠に由々しき重大問題である。

と言った理由がありそうです。
なお、大日本機関車乗務員会というのは、当時の新聞が危惧するほどの組合組織といえるものではなく、その綱領には

< 綱領 >
 皇室中心主義により全国の鉄道機関車乗務員を糾合し、当局者及び乗務員の正常どおり平穏なる手段による理解と協調とにより生活の向上を期すべく、これがためには階級のいかんを論ず、全員一致協力のもとに一大団結し、経済的手段により生活の安定を期す。

以下に、機関車乗務員会の宣言等を引用しますが、マルクス主義の思想が入ってきてるとはいえ、あくまで皇室中心主義の考え方であり、
> 有産者及び無産者は、所有関係に於いて利害正に相反す。としながらも、

> 我国産業発展、延いては我国運の隆盛の為に如何なる犠牲をも惜しまず、最善を尽くさんと欲す。

自分たちの利権ではなく、国のために働きますよということで、いわば皇室に忠誠を誓いますよという言い方にも取れます。

実は、戦後日本共産党も合法化されるのですが、その多くの組合は皇室廃止ではなく、天皇親政によるデモを行っているという事実が有ります。
このへんも、殆ど現在は伝えられていないところが困ったところなのですが、日本における労働運動というものを考えていく時に色々考えさせられる内容であったりします。
このあたりが、現在の左翼思想とは根本的に異なるものになります。(現在の日本共産党の基本思考は、天皇制廃止)ということで、当時の階級闘争と言うのは、かなり緩やかなものであるといえそうです。

以下、赤松秀雄著(1977)『暗黒時代の鉄道労働運動史』叢文社から、抜粋して引用します。

大日本機関車乗務員会

< 決議 >
一、建国の大義に基づき、吾人の責任を明らかにし、地位の擁護を期す。
一、人格を尊重し、時勢に順応したる経済的生活の改善と精神の向上を期す。

< 綱領 >
 皇室中心主義により全国の鉄道機関車乗務員を糾合し、当局者及び乗務員の正常どおり平穏なる手段による理解と協調とにより生活の向上を期すべく、これがためには階級のいかんを論ず、全員一致協力のもとに一大団結し、経済的手段により生活の安定を期す。

< 宣言 >
 利害一致ならざるもの相撃てば、必ず火花を散らす。而して一者砕けれざれば、二者共に全からず。有産者及び無産者は、所有関係に於いて利害正に相反す。
 然るに二者相撃つに至るは執拗なる利己的発動に原因するものなり。執拗なる利己的発動は、無産者にありては其自身、完全に、一個人の人格的存在たる迄は、己むを得ざる所なりといえども、有産者雖にありては貧婪飽くなきものといふべし。
 想うに今や無産者の眼は覚め、有産者の階級意識明瞭なるものあり。しかも両者は利己的に相反目し、将に火花をも散らさんず状態にあり、日に我国の危急これより大なるはなし。
ここに於いて我らは大日本機関車乗務員会なるものを組織し、我国産業発展、延いては我国運の隆盛の為に如何なる犠牲をも惜しまず、最善を尽くさんと欲す。

 

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以下、国労による資料になります。

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大正時代を代表する機関車9600

 

単一組合結成条件が整っていないことを覚った機関車乗務員によって1920年大正9年)、大日本機関車乗務員会が組織された。会長には田中利三郎【東京機関庫】が就任し、東京、上野、田端、飯田町、錦糸町の5機関庫の乗務員多数が参加した。その後、組織は急速に拡大し、東京だけでなく、名古屋、仙台におよび、会員数も3,000人、全国乗務員の4分の1に達した。この乗務員会は、「当局および乗務員の正常平穏なる手段による理解と協調とにより生活の向上を期す」ことを綱領とした乗務員会は、職能団体と労働組合の中間的な存在で、思想的には「皇室中心主義」を掲げた穏健な組織であった。だが、当局は、この程度の自主的組織さえ認めなかった。組織が、仙台鉄道管理局管内に及び福島機関庫にも動きが伝わると、往年の日鉄機関方争議の記憶と重なって当局は狼狽し、新津機関区支部設立を契機に新津機関庫と東京鉄道局沼津機関庫の指導的会員の解雇を行った。こうした弾圧もあって、1921年、同組織は崩壊した。
 1921年【大正10】年頃、国鉄鷹取工場では、従業員1,800名のうち300名が、友愛会【すなわち総同盟】の須磨支部に加盟していた。この工場の従業員は全体に急進的で、1919年7月、賃金増額や8時間制の実施などを要求してサポタージュを行い、国鉄の他の工場、例えば浜松工場などにも影響を与えた。その後も、特に現業委員会制度には批判的であったし、この頃、阪神地方にはストが多かったので、当局も警戒していた。友愛会の支部会員は、外部団体に加盟していることで、当局の監視が一層厳しくなると判断し、友愛会を離れ、21年6月、独自の神戸鉄工組合を結成した。この頃、同工場には、役付き職工を中心にして工友会というという組織があり、当局の保護を受けていた。
 21年7月1日は神戸の川崎造船所、8日には神戸の三菱造船所の労働者が人員整理に反対してストに入り、7月13日には、川崎造船所争議団は工場管理を宣言した。この大闘争は、8月9日、労働者の敗北に終わったが、この間、近隣の工場の労働者はこの闘争を支援し、この闘争に加わらなかった鷹取工場にデモをかけた。鷹取工場では、鉄工組合が現業委員会の臨時委員会を開いて、同時ストの可否を決することを主張したが、校友会などの反対で、この問題は討議に至らなかった。だが、これを契機に、当局の鉄工組合に対する圧迫は一層、強化され、21年8月には、指導者3名が解雇された。組合員も急速に減少し、自然消滅に近くなった。正式な解散は1926【大正15】年6月であるが、この間数名の人たちがその名を保っていただけであった。

┌─────────────────────────┐
├○ 国鉄現業委員会の組織化と国鉄現業委員会の結成 │
└─────────────────────────┘

組合結成の機運が起こり始めたのを察知した国鉄当局は、1920年5月に制定されていた国鉄現業委員会規程に基づき、現業委員会の組織化に乗り出し、自主的結成の動きを封じた。現業委員会は、各運輸・保線の管内・工場を地域の単位とし、運輸事務所では地域内をさらに運輸系統と運転系統にわけ、各地域ごとに組織した。そして、地域内の共通の利害に関する事項について、当局に諮問し、また自ら意見を開陳して上下意思の疎通を図ることとされた。現業委員会の組織は、鉄道手・雇傭人を対象とし、委員の選出は選挙制をとった。現業委員会は、国鉄大家族主義の枠内で労働者の不満の一部を温情的に解決する制度でもあった。この現業委員会に対し、かっての乗務委員会会長であった田中利三郎らは、東京鉄道管理局管内の現業委員を結集して、国鉄現業委員会後援会をつくった。この会は、現業委員会開催前に総会を開いて、提出議案を協議したほか。1925年【大正14】年には、都市在勤者の生計調査を実施し、都市手当要求の資料を作成するなど注目すべき活動を行った。
 こうして官製組織を巧みに活用しつつ、現業委員会後援会が活動していたが、1920年代、社会主義思想・運動が、現行委員会後援会の中でも影響力を強めた。1926【大正15】年2月、第4回総会で、全日本鉄道従業員組合と名称を改め、ここに国鉄内では最初の純然たる労働組合が出現した。
結成時の勢力は、13支部、組合員2,600人であった。この組合は、「無産階級の経済的利益を擁護するために組織された労働組合は常にこの立場に立脚して活動を進展させなくてはならない」【組織テーゼ】とその階級的立場を明示した。中央執行委員長には、品川栄治【蒲田電車庫】が選出された。この組合は以後、組織を拡大し、1927【昭和2】年には、組合員7,400人に達した。
 国鉄当局は、この左翼的な」鉄道従業員組合に対し、激しい弾圧を開始した。結成年の1926年には、判任官は同組合から脱退させること、また組合員である限りは判任官に任じないことを全国に通達した。いわゆる昇格差別である。ついで、翌年の1927年、同組合が労農党支持を打ち出すと、労農党支持首唱者ままたは不穏と認むべき者は、事務都合により退職させること、しかも、これは主義のうえの問題であって、勤務成績の如何にかかわらないことを省議で決定した。これは、明らかにレッドパージであった。事実この省議に基づき、組合指導者の薮本正義【品川電車庫】、唐沢茂雄【東京機関庫】ら系73名が解雇された。指導部を失った同組合はまもなく崩壊した。国鉄内部で短命に終わった単一の労働組合であったが、歴史に刻むべき重要な事実である。
 鉄道従業員組合の崩壊後も国鉄労働者のたたかいは続いた。1927【昭和2】年5月には、蒲田を中心とする電車庫で電車連盟を結成し、時間短縮要求などを行ったが、3・15事件で指導部を失い、読書会のかたちなどで、組織の継続を図ったが。やがて崩壊した。しかし、そこに共産主義者たちがいたことを示している。電車庫以外の旧組合員の中にも協議的方向での組合再建に批判的な人たちが、共産党の影響力の強い全協の運動方針に沿い、東京市電の東京交通労働組合と一つになって、産業別労働組合を作ろうとした。1937【昭和5】年には、日本交通運輸労働組合東京支部国鉄分会となって活発な地下活動を展開したが、同年6月、指導的な人たちが検挙され、しだいに衰退した。このあとも、全協系の人たちの運動は執拗に続けられた。1940年、東京鉄道管理局工務部庶務課員の野本正治ら9名が検挙された国鉄共産党事件は、度重なる弾圧があっても、なお有力な共産党員が活動していたことを示し、これらのグループから数名の現業委員を当選させていた。

続く

 

 

*1:余談ですが、この方式、実は経営の神様と呼ばれた、松下幸之助がpansonicの社長時代などに行った手法です。