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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説5

皆様お久しぶりです、本日も国労の資料を底本にして、労働運動について自分なりに考えてみたいと思います。
今回は、戦時下における労働運動ということから見て行きたいと思います。
みなさまこんにちは、ここで現業委員会と言う言葉が出てきますが、
前回の記事にもありますが、

> 現業委員会は、各運輸・保線の管内・工場を地域の単位とし、運輸事務所では地域内をさらに運輸系統と運転系統にわけ、各地域ごとに組織した。そして、地域内の共通の利害に関する事項について、当局に諮問し、また自ら意見を開陳して上下意思の疎通を図ることとされた。現業委員会の組織は、鉄道手・雇傭人を対象とし、委員の選出は選挙制をとった。現業委員会は、国鉄大家族主義の枠内で労働者の不満の一部を温情的に解決する制度でもあった。

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現場の声を聞くための制度であり組合を結成させないでおくための方策とも言えました。
その中で、、1931【昭和6】年、若槻内閣の官吏減俸案に対して少し述べておかなくてはなりません。

1929年【昭和4年】10月24日のニューヨーク株式市場の株価暴落に端を発した米国の恐慌は、またたく間に全世界に波及し、空前の「大恐慌」となり、当然日本においてもその影響は大きく影を落とし、娘の身売りといった今では人身売買として許されないことも結果として行われた時代でもありました、そんな折浜口雄幸は凶刃に倒れその後を継いだ若槻内閣は財政建て直しの一環として、官吏減俸案を提出、それに対して国鉄現業機関が一斉に反発、約十日間(昭和六年五月十九日から二十五日まで内閣をぎりぎりと締めつけて、一大鉄道ストライキに発展したがギリギリのところで、結局当局側の力で押さえつけたと言われています、しかし一触即発の危機であったことに変わりはなかったと言われています。

その後、日本は何者かに引きずられるように、満州事変へと準戦時体制に組み入れられるわけですが、そうした中で、1941【昭和16】年4月、現業委員会は解散させられ、産業報国会体制の一環として、国鉄奉公会が発足したとあります。

なお、産業報国会というのは簡単に言えば、日本の戦時体制下における戦争協力のための組織であり、実際には下記のように、事業者と従業員が一体となって国益のための働こうということで、設立されたものでした。

産業の発展により国民の厚生を図り、以て皇国の興隆、人類の文化に貢献するという使命の達成のため、両者は一体とし。事業者はまず第一に産業の国家的使命を体得し、産業報国の精神に基づいてその経営に当たらり、従業員はまず勤労の神聖なることを自覚し、勤労報告の精神に基づいて精励努力する。そのために、各事業場内にこの指導精神を普及徹底するための機関を設け、この機関を通じて事業者と従業員の意思疎通を図るのみならず、待遇改善、能率増進、保健衛生、福利共済、教育修養、慰安娯楽等の施設を行うということで産業報国連盟が発足、【1940年】昭和15年には各種労働団体を統合して大日本産業報国会が設立されたとあります。
国鉄にあっては、その翌年国鉄奉公会が発足したことになります。
これにより、国鉄も完全に戦時体制に組み込まれることになるのですが、国鉄の場合鉄道の運輸収入も戦費に繰り入れることとされていたため、戦後大変な労苦を強いられることになるのですがそれは別の機会にさせていただきたいと思います。

なお、戦後の労働運動については来週以降に改めて章立てをしてアップさせていただきます。

 

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以下は、国労資料からの引用です。

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├○ 戦時下における国鉄労働者 │
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 国鉄現業委員会は、1931【昭和6】年、若槻内閣の官吏減俸案に激しく反対し、反対集会や決議を行ない、提案の撤回は実現しなかったが、国鉄ではかなりの譲歩を勝ち取った。だが、その後の戦時体制の強化の中で、1941【昭和16】年4月、現業委員会は解散させられ、産業報国会体制の一環として、国鉄奉公会が発足した。国鉄労働者は完全に戦時体制に組み込まれた。
 無権利状態で、ものも言えない状況の中で、強制労働を遂行させられた。その上。空襲による犠牲者数は、職員の死者1250人、負傷者3,153人、旅客の死者717人、負傷者1,777人に達した。ただし、広島・長崎の原爆被害の際の死傷者数および国鉄労働者の戦地における死傷者数は不明である。
 明治以来の鉄道労働者・国鉄労働者の先駆的な苦闘は、戦時下の言語を絶する労働の中では、いかにしても活かすことはできなかった。その戦前のたたかいは、第二次大戦後のたたかいに活かす以外にはなかった。

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        第二節 戦後初期の国鉄と労働運動

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 戦後、労働組合運動は法的にも認められ、きわめて短い間にたちまち組織化を行ない、運動を展開していった。戦後の国鉄労働運動について、運動史上の時期区分を行うと、ほぼ次のようになる。

 ① 戦後初期、占領下の労働運動(1945~1949年)
 ② 国鉄の公企体化以降の労働運動(1949~1955年前後)
 ③ 高度成長下の労働運動(1)(1955~1960年頃)
 ④ 高度成長下の労働運動(2)(1960~1970年前半)
 ⑤ 「マル生」粉砕、スト権回復、「管理春闘」打破の運動(1970年前半~70年代後半)
 ⑥ 「臨調=行革」路線と国鉄の「分割・民営化」をめぐる運動の展開(1980年代以降~)
以下、その時期区分に沿いつつ、第一部では、1970年代末までの国鉄労働組合のたたかいについて概説する。

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 1敗戦後の国鉄輸送と経営・財政 
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 敗戦により、国鉄の輸送は戦時輸送=貨物輸送優先から民需輸送へ転換した。輸送負担は、荒廃した輸送施設のため著しく過重であった。国鉄は一般旅客輸送のほか、復員者や引揚者、疎開復帰者の輸送、それにGHQ=アメリカ占領軍のための輸送が緊急必要条件になった。加えて、45【昭和20】年末以降の石炭不足が輸送困難に拍車をかけ、列車削減が行われた。47年度の輸送量は、戦前(1936年度・昭和11年度)の3倍を超えていたが、旅客キロは対戦前指数66に低下しており、主要線区の列車は3倍から4倍、1両300人以上という大混雑であった。大都市の電車区間はもっと酷かった。
 鉄道省は戦時中に運輸通信省に変わり、46【昭和21】年に運輸省鉄道総局が設置され、国鉄が運営されていた。49【昭和24】年8月、運輸省は、『国有鉄道実相報告書』=いわゆる『国鉄白書』を発表した。この白書は、輸送力の逼迫している国鉄の現状を訴え、復興のための各方面の協力を要望していた。同時に48年度から5カ年計画にわたる復興計画をまとめた。また、48年度から鉄道は石炭などと同様、傾斜生産方式のもとで、超重点産業として扱われることになったため、車両・施設の復旧に一定の見通しが持てるようになった。戦後初期の国鉄の建設・改良工事は鉄道緖施設・船舶の戦災復興、維持工事が大半を占め、改良工事としては、輸送力の増強と石炭の節減を目的とする一部の電化工事と車両の増備が行われたにすぎなかった。
 GHQの鉄道管理は、対日管理の一般的方式に従い、運営は日本側に任せられた。だが、鉄道管理はアメリカ陸軍の第8軍の鉄道輸送指令部があたり、国鉄の基本的な政策決定や運営方針については、最初はGHQ経済科学局が担当し、46年9月以降は新設のGHQ民間輸送局(CTS)が監督した。占領軍の鉄道管理は厳しく、鉄道の組織や運営はもちろん、列車の運転・施設の保持などあらゆる面に及んだ。しかも全てをアメリカ式で運営しようとする占領軍の方針は、その指令や命令を占領という絶対的な権限によって強制した。占領軍の輸送は、至上命令として遵守優先させられ、かっての戦時軍事ダイヤのような特別優先ダイヤが組まれ、専用列車の運転が行われた。
 とくに国鉄にとって大きな痛手は、車両・施設の供与であった。
 例えば専用車として徴用された客車は最高1000両に達し、当時の国鉄保有客車の1割以上を占めた。加えて、1950年【昭和25】年、朝鮮戦争が勃発すると、今度はアメリカ軍の輸送のために、国鉄は軍事輸送を強制された。
 戦後の経済秩序の混乱とインフレは、国鉄経営・財政を大きく圧迫した。インフレは、戦前基準を100とすると、48年度には東京物価指数で1万4159で、賃金は製造業労働者の場合、8861であった。国鉄経営も深刻で、損益勘定の営業費は、戦前基準100に対し、48年度は2万9151に高騰した。45年度から48年度にかけ、4度の運賃引き上げを行ったが、それでは賄えなかった。インフレと経営諸条件のもと、国鉄の営業係数は創業以来、初めて100を突破し、48年度は139.8となり、この年度の間の赤字累計額は403億円にのぼった。この経営危機は49年、ドッジラインの強行=大量人員整理、公共企業体移行により、切り抜ける政策が取られた。

続く