みなさま、こんにちは。
約6日ぶりの更新でございます、皆様しばしお付き合いください。
本日は、前回の
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1敗戦後の国鉄輸送と経営・財政
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についてお話をさせていただこうと思います。
戦時中と呼ばれた時期、国鉄の輸送はその大半を軍事輸送に追われることとなり、収益の殆どは戦費に消えたと言われています。
また、当時に会計は鉄道会計では減価償却という概念がなかったため、内部留保が全くない状態で国鉄は置かれることとなりました。
> 敗戦により、国鉄の輸送は戦時輸送=貨物輸送優先から民需輸送へ転換した。輸送負担は、荒廃した輸送施設のため著しく過重であった。国鉄は一般旅客輸送のほか、復員者や引揚者、疎開復帰者の輸送、それにGHQ=アメリカ占領軍のための輸送が緊急必要条件になった。
今でもそうですが、大量に物資を運べるのは鉄道であり、アメリカ軍も重点的に国有鉄道の施設や機関車を破壊して行ったのでした。
そんな中、一番アメリカ軍が驚いたことの一つにそれでも鉄道は機能していたという事実でした。
画像wikipediaから引用
当初は、鉄道は復旧していないであろうから自分たちで運転する必要があると思い、軍用機関車を持込みました、【形式はUS ARMY8500(後のDD12形)】しかし、昭和20年8月15日も国鉄は時間通りに運転されていたという事実
多くの回想などに、玉音放送が放送されている時にも鉄道は時間通り運転されており、その人達は玉音放送を聞かなかったのであろうか?といった回想記があるように。
国鉄は、被害甚大であったとはいえ、列車は走っていたという事実にアメリカが一番驚いたそうです。
余談ですが、原爆投下当日も、救援列車が宇品に、そして長崎に向かったという記録も残されておりこうした記録も含めて、後世に鉄道員の働きについてきちんと残していくべきと思います。
そこで、GHQは当初の方針を変更して第3鉄道輸送司令部(MRS)(実際の指示はその下部組織である地区司令部(DTO)と鉄道司令部(RTO))による直接管理を改め、MRSから国鉄への指示という方針に変更されました。
ただし、アメリカにしてみれば、戦勝国であり、いわば日本を再びアメリカに歯向かわせない国にすることが目的であったためその方針は過重を極め、戦火を免れた優等車を中心に接収されていきました。
その辺は機会があればまた述べてみたいと思います。
>加えて、45【昭和20】年末以降の石炭不足が輸送困難に拍車をかけ、列車削減が行われた。47年度の輸送量は、戦前(1936年度・昭和11年度)の3倍を超えていたが、旅客キロは対戦前指数66に低下しており、主要線区の列車は3倍から4倍、1両300人以上という大混雑であった。大都市の電車区間はもっと酷かった。
これは、実は炭鉱労働者の労働放棄により石炭の産出量が激減したことなどが原因と言われており、【朝鮮人労働者の労働放棄といった記述もありその辺は更に調べてみるつ必要がありそうです。】これにより復員輸送に加えて進駐軍による鉄道輸送と言った事情に加えて戦時中に酷使された疲弊した線路などは何時故障しても不思議ではない状況でした。
> 鉄道省は戦時中に運輸通信省に変わり、46【昭和21】年に運輸省鉄道総局が設置され、国鉄が運営されていた。49【昭和24】年8月、運輸省は、『国有鉄道実相報告書』=いわゆる『国鉄白書』を発表した。この白書は、輸送力の逼迫している国鉄の現状を訴え、復興のための各方面の協力を要望していた。同時に48年度から5カ年計画にわたる復興計画をまとめた。また、48年度から鉄道は石炭などと同様、傾斜生産方式のもとで、超重点産業として扱われることになったため、車両・施設の復旧に一定の見通しが持てるようになった。戦後初期の国鉄の建設・改良工事は鉄道緖施設・船舶の戦災復興、維持工事が大半を占め、改良工事としては、輸送力の増強と石炭の節減を目的とする一部の電化工事と車両の増備が行われたにすぎなかった。
ここで書いているように、国鉄は戦前は、「鉄道省」と呼ばれるお役所であり鉄道部門は郵政同様、鉄道省の現業でした。
その後昭和18年に、当時は通信全般を仕切っていた逓信省と鉄道省が合併して運輸通信省に組織変更され、更に昭和20年5月には再び逓信省部門が分離されて運輸省に変更されました。
> 占領軍の鉄道管理は厳しく、鉄道の組織や運営はもちろん、列車の運転・施設の保持などあらゆる面に及んだ。
例えば、列車の後部標識【尾灯】は戦前は左側1灯のみだったかなで、良かったのが左右対称に設置するように決められたりしました。
ただし、運転区間が極めて短い場合などは例外的に1灯で可能とされていました。
ということで、今回は前回の記事の解説に終始するとともに労働関係の話は出てきませんでした。
期待されていた方には申し訳ありません。
以下は、本文の再掲になります。
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1敗戦後の国鉄輸送と経営・財政
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敗戦により、国鉄の輸送は戦時輸送=貨物輸送優先から民需輸送へ転換した。輸送負担は、荒廃した輸送施設のため著しく過重であった。国鉄は一般旅客輸送のほか、復員者や引揚者、疎開復帰者の輸送、それにGHQ=アメリカ占領軍のための輸送が緊急必要条件になった。加えて、45【昭和20】年末以降の石炭不足が輸送困難に拍車をかけ、列車削減が行われた。47年度の輸送量は、戦前(1936年度・昭和11年度)の3倍を超えていたが、旅客キロは対戦前指数66に低下しており、主要線区の列車は3倍から4倍、1両300人以上という大混雑であった。大都市の電車区間はもっと酷かった。
鉄道省は戦時中に運輸通信省に変わり、46【昭和21】年に運輸省鉄道総局が設置され、国鉄が運営されていた。49【昭和24】年8月、運輸省は、『国有鉄道実相報告書』=いわゆる『国鉄白書』を発表した。この白書は、輸送力の逼迫している国鉄の現状を訴え、復興のための各方面の協力を要望していた。同時に48年度から5カ年計画にわたる復興計画をまとめた。また、48年度から鉄道は石炭などと同様、傾斜生産方式のもとで、超重点産業として扱われることになったため、車両・施設の復旧に一定の見通しが持てるようになった。戦後初期の国鉄の建設・改良工事は鉄道緖施設・船舶の戦災復興、維持工事が大半を占め、改良工事としては、輸送力の増強と石炭の節減を目的とする一部の電化工事と車両の増備が行われたにすぎなかった。
GHQの鉄道管理は、対日管理の一般的方式に従い、運営は日本側に任せられた。だが、鉄道管理はアメリカ陸軍の第8軍の鉄道輸送指令部があたり、国鉄の基本的な政策決定や運営方針については、最初はGHQ経済科学局が担当し、46年9月以降は新設のGHQ民間輸送局(CTS)が監督した。占領軍の鉄道管理は厳しく、鉄道の組織や運営はもちろん、列車の運転・施設の保持などあらゆる面に及んだ。しかも全てをアメリカ式で運営しようとする占領軍の方針は、その指令や命令を占領という絶対的な権限によって強制した。占領軍の輸送は、至上命令として遵守優先させられ、かっての戦時軍事ダイヤのような特別優先ダイヤが組まれ、専用列車の運転が行われた。
とくに国鉄にとって大きな痛手は、車両・施設の供与であった。
回想の旅客車から引用
例えば専用車として徴用された客車は最高1000両に達し、当時の国鉄保有客車の1割以上を占めた。加えて、1950年【昭和25】年、朝鮮戦争が勃発すると、今度はアメリカ軍の輸送のために、国鉄は軍事輸送を強制された。
戦後の経済秩序の混乱とインフレは、国鉄経営・財政を大きく圧迫した。インフレは、戦前基準を100とすると、48年度には東京物価指数で1万4159で、賃金は製造業労働者の場合、8861であった。国鉄経営も深刻で、損益勘定の営業費は、戦前基準100に対し、48年度は2万9151に高騰した。45年度から48年度にかけ、4度の運賃引き上げを行ったが、それでは賄えなかった。インフレと経営諸条件のもと、国鉄の営業係数は創業以来、初めて100を突破し、48年度は139.8となり、この年度の間の赤字累計額は403億円にのぼった。この経営危機は49年、ドッジラインの強行=大量人員整理、公共企業体移行により、切り抜ける政策が取られた。
続く