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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説6

みなさま、おはようございます。
本日も、国鉄労働運動を中心に話をさせていただこうと思います。
実はこのそこ本になった国労資料自体が結構なボリュームになるためかなり長期間にわたっての掲載となると思いますがよろしくお願い致します。

戦後の混乱とストライキと、GHQ

昭和16年に米国に宣戦布告した太平洋戦争(大東亜戦争)は昭和20年8月15日、日本がポッダム宣言を受け入れることで終結しましたが、それにより日本は昭和27年の講和条約発効までの約7年間アメリカの占領下に置かれることとなりました。
当時のGHQの政策の良否は別として、最初にアメリカが行ったことの一つに労働組合の合法化がありました。
昭和20年12月には最初の労働組合法が発布されて労働組合が名実ともに労働者のための組織となりました。

色々と調べると面白いもので、昭和20年戦後という嵐の中で、ストライキは待ったなしでありそれらをGHQは何故容認していったのでしょうか。
その思惑の一つには、日本の弱体化という側面がありました。
日本をアメリカに歯向かわせないため。それが一番の方針であったということですね。
そのためには、多少の、無茶は見ないふりをしておこうそんな風潮があったと思われます。

実際、線量当時のGHQの方針を見ていますと。

日本軍国主義復活を阻止する目的で、労働基本権の保障、財閥解体農地改革など一連の「民主化」政策を実施した他、十月に政治犯釈放、治安維持法など弾圧立法廃止と続き、これらの施策は労働者の闘争と組織化を更に広げることとなっていきました。

高野実「日本の労働運動」という本を参照しますと。

荒々しいストライキの波が、職場の重圧を一挙に吹き飛ばした。「どこの職場でも、要求がたくさんあったし、要求を出すか出さないうちに、ストライキに突っ込んでいた。暴動的な雰囲気があふれていた。職場の労働者にとっては、どこかに姿を隠してしまった事業者にとってかわって、自分らの手で職場を守りぬくよりなくなった。労働者にはやれそうもない事業経営が、集団討議の中で立派にやりとげられた。労働組合が決議しさえすれば、倉庫の扉を開くことができた。隠匿物資を掘り出すこともできた。食糧の買い出しも、食糧の公平な配分もできた。…この職場の主人は俺たちだという確信がわきあがってきた。こういう活動や自覚は、物資の枯渇していた当時の国民的要求と合致していた」

戦後の組合運動は戦前の重圧による反動ともいうべき圧力で沸き起こっていたことが理解できます。

当時の労働運動をリードした官公労

そんな中で中心的役割を担ったのは、官公労と呼ばれる3組合でした。

それは、日教組全逓、そして後の国労となる「国鉄従業員組合」でした。
当時の国鉄従業員組合は決して当初から戦闘的な組合であったわけではなく、どちらかと言えば当局に協力的な組合であったと言えます。
その事実としては、下記にように「全国鉄単一労組準備会【全単準】」が排除されていたことからも理解することができます。

国鉄単一労組準備会【全単準】は、「安全運転」【後の順法闘争】による争議を行ったことを問題としており、当時の炭鉱、工場、私鉄などが実施した生産管理の考え方と同根であり、この争議により省電(国電】は大混乱となりました。

>  国鉄総連合会が、国鉄の全従業員を結集していなかったのは、省電闘争のために先に述べた全国鉄単一労組準備会【全単準】が、東京地方協議会から除名されていたためである。省電闘争は、片山津で全国組織結成の打ち合わせが行われていた2月25日とは26日に、省電労組が行った「安全運転」【後の順法闘争】による争議のことである。東京地協では、賃金引上げの要求を運輸省に提出し、交渉していたが、運輸省側の回答が前進しないのを見て、地協傘下の省電中央労組を中心とする全単準が独自の闘争に入った。この「安全運転」には、当時、炭鉱、工場、私鉄などで実施されていた生産管理の考え方を反映していた。だが、この争議で、省電(国電】が大混乱となったため、当局は全単準の幹部を休職処分【のち復職】とし、東京地協は、全単隼を除名した。

 

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以下、国鉄労働組合からの記事の引用になります。

関連 

昭和毎日:人民電車事件 - 毎日jp(毎日新聞)

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戦後を代表する電車クモハ73

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  2 戦後初期の国鉄労働者の闘い
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├○ 国鉄における組合結成の動き   │
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 戦後改革で、きわめて早かったのが労働運動の合法化であった。
45(昭和20)年12月には、労働組合法が公布され、46年3月から施行された。労働組合の組織化や労働争議も急速に展開され、45年10月には、全日本海員組合が結成され、その直後には第一次読売争議が発生し、組合側が勝利した。
 国鉄での組織化の動きは、当局の方が早かった。運輸当局は、戦時中の国鉄奉公会の解散後、鉄道委員会の組織化を開始した。だが、労働基本権も保障されない鉄道委員会への国鉄内部への批判は強く、45年12月に解消した。この後も、国鉄当局は組合づくりに関心を示し、職業的組合運動家に支配されることを恐れ、上からの「内面指導」を行った。そして、下からの組織化の動きと上からの「内面指導」が交錯しつつ、組織化は企業別組合の方向に向かった。
 45年11月には、戦前の共産党系の流れを引きつぐグループが、国鉄従業員組合準備会を結成し、機関紙『汽笛』を発行して、組合結成の呼びかけを行った。現場レベルでの組織化では工場が先行し、11月には、釧路工機部と大宮工機部で組合結成と賃金五倍などの要求提出が行われた。運転区関係では、12月、東京鉄道管理局管内13電車区の組合による省電中央労組が結成された。46年に入ると、仙台、四国、東京を初め鉄道管理局ごとの統合組織が作られた。また組合の全国組織を結成する機運も高まった。46年1月には、省電中央労組を初め31組合が結集して、全国鉄単一労働組合準備会(全単準)の結成を行ない、同時に当局への要求事項などを決定した。他方運輸省は。46年1月28日、本省に各鉄道局の指導課長と組合の指導者を集め、職能別組合を示唆する「内面指導」を行った。この時、集まった組合代表は全国組織の在り方で意見が分かれ、別行動を取り、千葉の鴨川で協議することになった。

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├○ 国鉄総連合の結成   │
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 鴨川での会議では、全国組織を単一体にするこか連合体にするか意見がまとまらず、組合代表者らは、46年2月25日、石川県片山津に集まって、国鉄労働組合結成準備会を開いた。この準備会で、東京・札幌代表は単一体を主張したが、連合自体が多数であり、連合体として発足することになった。
 2月27日片山津で、国鉄労働組合総連合会(国鉄総連合)の結成大会が開かれた。大会では、「正当な権利を主張し、その生活権を擁護し、経済的、社会的、かつ政治的地位の向上をはかるとともに、相互扶助の正義を体得し、もって社会的責務の完遂を期そう」という「宣言」、労働条件の維持改善と地位の向上、国鉄輸送完遂による新日本の建設などを謳った三項目の「綱領」、国有鉄道運営参加、生活費を基準とする最低賃金制確立などの「要求事項」と規約を採択した。結成大会では、大会を東京で開くことも決めた。国鉄総連合の第一回中央大会は、3月15日から2日間、東京で開かれ、役員の選出などを行った。国鉄総連合の第一回中央大会は、3月15日から2日間、東京で開かれ、役員の選出などを行った。国鉄総連合の初代三役は、斎藤鉄郎委員長【大宮工機部】、菊川孝夫副委員長【名古屋】、野口信十郎書記長【本省】であった。この大会で発表された組合員数は、50万8656人で、国鉄全従業員の96%に達した。
 国鉄総連合会が、国鉄の全従業員を結集していなかったのは、省電闘争のために先に述べた全国鉄単一労組準備会【全単準】が、東京地方協議会から除名されていたためである。省電闘争は、片山津で全国組織結成の打ち合わせが行われていた2月25日とは26日に、省電労組が行った「安全運転」【後の順法闘争】による争議のことである。東京地協では、賃金引上げの要求を運輸省に提出し、交渉していたが、運輸省側の回答が前進しないのを見て、地協傘下の省電中央労組を中心とする全単準が独自の闘争に入った。この「安全運転」には、当時、炭鉱、工場、私鉄などで実施されていた生産管理の考え方を反映していた。だが、この争議で、省電(国電】が大混乱となったため、当局は全単準の幹部を休職処分【のち復職】とし、東京地協は、全隼単を除名した。なお、要求は、運輸省が賃金について配慮すると約束した。

続く