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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 12

みなさまこんにちは、本日もしばしお付き合いください。
本日は、総評の結成についてお話をさせていただこうと思います。

 

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昭和26年ころの検修風景

> 民同派の労働組合勢力は、49年には大同団結の機運を強めていった。それは、アメリカ占領軍の強力な後押しによる日本政府の行政整理や民間における企業整備の名による共産党系活動家のパージとメタルの裏表の関係にあった。

これについて解説を加えたいと思います。

総評(正式名称・日本労働組合総評議会)は、昭和25年7月、日本社会党の強い支持を受けて、日本共産党が支持する産別(正式名称・全日本産業労働組合会議)と置き換わる形で発足しました。


産別は、昭和21年8月19日に発足し一時期は、当時の組織労働者の40%以上にあたる組合員163万人をもつ組合として結成されましたが、2.1ストの挫折以降内部批判が続出、やがて占領軍によるレッドパージにより、組織内でも分裂が生じ反共を明確にした、産別民主化同盟が誕生しました。

産別会議の衰退と反共運動

実はその前後には、国労内における「国鉄反共連盟結成」などもあり、やがて弱体化して昭和33年には消滅しています。
産別の多くの組合は、反共を鮮明にした総評に移行し。これには占領軍(GHQ)の意向も入っていたようです。
その後、総評から左派的組織が新産別として分離しています。(新産別は連合発足で昭和63年10月25日に解散)

なお、総評は当初は反共色の強い組合として結成されましたが、翌年の第二回大会では、平和四原則を決定するなど急速に左傾・反米化した。この変化を、当時のマスコミは“ニワトリからアヒルへ”と呼んだ。と言われています。
これには諸説あって、日本人記者が
昭和28年には一部の組合の離脱は有ったものの、それを機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標とする路線を明確にした。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めたとされています。
これにより、組合運動は労使協調から労使対決路線が長く続くこととなるわけですが、「階級闘争」という考え方が結局は「労働者=搾取される存在」という固定観念をつけてしまった感があるのは残念です。
実際には、労働者のほうが経営陣よりも恵まれている部分も多いんですけどね。(^^ゞ

総評が、日本社会党を支持した理由

なお、総評が日本共産党ではなく、日本社会党を選択したかというのは、総評が、労働者階級解放のためには政治権力を持つ必要がある、その獲得は「立憲的手段によって」と書かれており、当時、革命は近しとして暴力事件等を起こしていた日本共産党とは共闘できないということであり、この目的を達成するための一番近い組織が日本社会党であったと言えます。

 

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国労内における「国鉄反共連盟結成」の記録

以下、大原社会問題研究所から

国鉄における組合分裂運動の例として、国労内における「国鉄反共連盟結成」の記録をアップしようと思います。
少し長いですが全文引用します。

旧右派執行部および東鉄管内一六支部有志の会合が行われ一月七日ついに国鉄反共連盟結成大会が開かれ反共宣言書と基本運動方針を発表した。

 反共宣言書
 親愛なる組合員諸君、愛国の情熱と理性に満ち満ちた国民諸君、われわれ国鉄労働組合内の有志は過去二カ年の労働運動の体験によって、こゝに反共を宣言し、同志を糾合し、固く相結んで国鉄再建のために、そして、祖国日本再建のために起ち上ろうとするものである。われわれの理想は新日本の再建につきる。

 

 

われわれの主義は
一、新憲法を擁護し、民主革命を達成する
二、政治的には、社会民主主義を、経済的には社会主義を支持する
われわれの手段は
一、労働関係立法の精神を尊重し、労働組合の運営を徹底的に民主化する
二、勤労階級の利害を代表し偽瞞的社会悪と勇敢に闘う
 親愛なる組合員諸君、われわれは真実を告げたい。


共産党の政策並びに労働組合指導方針は甚だ非民主的であり、偽瞞的な社会悪の一つである。二月一日のゼネストに対する自己批判はスト偏重及び政治ストに対する反省を公表したが、それは単に世人を欺くための偽装にすぎなかった。十月十六日より十九日迄四日間に亘って開催された国鉄労組第二回臨時大会では、共産党のフラクション活動によって、中央委員会の決議に基いた本部提案を否決し、理論生計費による最低賃金と支部が指令権を持ち本部が責任を負う地域闘争を可決し、組合員を強制して、地域的な混乱を誘発し、全国的ゼネストにまで導入しようとしたのである。

これに対し重大な責任を感じた中央執行委員会及び中央委員会は止むなく総辞職を決行した。これに件い賢明な代議員の相次ぐ退場声明となり、遂に議長はその責任と権限において流会の宣言を下した。この決断は国家的危機を見事に阻止し、共産党の陰謀を完全に粉砕したのであった。しかし彼等との戦は終ったのではない、これから開かれるのである。国民生活の困窮と敗戦の荒廃のさ中に立って、祖国日本の興廃を思うとき、諸君はいずれの側につかんとするか、組合員の生活安定のため正しい要求を堅持し、その実現のために真に闘う者をこそ支持すべきではないか。組合員の生活の安定と、国鉄再建を口実としてゼネストを劃策し、組合員を犠牲にする共産党員を排除しなければならない。

組合員諸君、全官公の兄弟諸君、全国の労働者諸君
組合の自主性を確立し、労働組合の使命を完うするためにはわれわれの強力な組織が必要である。先覚者としての前途はよし困難であろうとも祖国再建のため援け合い信じつつ正しい道を歩もうではないか。

特にこの宣言が全国の青年によって白熱的に支持され、強力に推進される日の一日も早からん事を念願するものである。

 

                      昭和二三年一一月一日
                      国鉄反共連盟代表


 国鉄反共連盟の基本運動方針
 一 われわれは強い団結の力をもって、組合の自主性を確立し、共産党の革命手段として利用されることを排除するとともに共産党員の組合職員になることを防止する。

 二 われわれは強い団結の力を以て、生活の安定と労働条件の改善に努めると共に、現実の経済及び社会状勢に立脚して要求の貫徹をはかる。

 三 われわれは組合員相互の友愛と信義を重んじ、いよいよ団結の強化をはかる。
 四 われわれは経営協議会の権威を尊重し経営の民主化をはかると共に国鉄再建に最大の努力を発揮する。
 五 われわれは新憲法により保障された基本的人権の擁護につとめると共に当然果すべき義務の完遂をはかる。
 六 われわれは議会を中心とした、政治活動を活発にすると共に政治意識の昂揚につとめる。
 七 われわれは現在おかれている国際的立場を充分に理解して、強力に生産力を増大し一刻も早く敗戦国民としての屈辱と窮乏から解放されることに努めると共に、講和会議への促進体制を整える。

 八 われわれは政治的に、社会民主主義を遵法し、経済的には社会主義体制の確立につとめる。

 


                        昭和二三年一〇月 

                     

 

   国鉄労組反共連盟

 主なる指導者
 仁村重者、蓮見太一、寺山源助、片岡文重、矢上正直、大西要、三ツ木種理、沢田広、木田喜心、長山衛、遠藤甫、大橋秋次、山田博、菊川孝夫、星加要、野口信十郎、藤井專藏、小柳勇、藤井忠勇、榊たか子、瀬谷英行、山本孝三、中島淳次、高橋福次郎、山下之光、長谷川英雄、植木仙次郎、佐々木正、中村博

 

以下は、国労の資料になります。


┌───────────┐
├○ 総評の結成と国労  │
└───────────┘

民同派の労働組合勢力は、49年には大同団結の機運を強めていった。それは、アメリカ占領軍の強力な後押しによる日本政府の行政整理や民間における企業整備の名による共産党系活動家のパージとメタルの裏表の関係にあった。49年10月には世界労連が分裂し、あたらに国際自由労連が結成されたが、この結成大会には、占領軍の後押しで加藤国労委員長も出席した。49年10月、総同盟・新産別・国労・正統派全逓など民同派23組合は、国会闘争共同委員会を設置した。50年3月、電産、炭労、全鉱など同組織加盟組合によって、賃上げを要求し、3月闘争が展開された。これには国労も参加し、一部で有給休暇消化運動や、後の順法闘争につながる職場規律運動も展開された。
 その3月闘争の最中、総同盟と民同派組合を中心とする日本労働組合総評議会(総評)の結成準備大会が開かれた。国労もこの大会に参加し、さらに6月に開かれた国労第8回定期大会で、加盟を正式に決定した。総評は7月11日~12日、結成大会を開催し、基本綱領、規約、行動規範、当面の闘争方針や大会宣言を採択したが、全体として占領軍の後押しを受けながら、産別会議で影響力の強かった共産党支配を打破するという意味で反共的色彩が色濃く打ち出された。また、行動綱領では、国際自由労連への参加も盛り込まれた。

┌────────────────┐
├○ 朝鮮戦争の勃発と日本の情勢  │
└────────────────┘

 

 総評の結成直前、緊張の続いていた朝鮮半島で、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)と大韓民国(韓国)の間で朝鮮戦争が勃発し、日本(含む沖縄)は朝鮮半島の最前線基地となった。朝鮮戦争の勃発は、日本を西側の「自由陣営」に組み込む上で、決定的な役割を果たした。50年7月には、GHQは日本政府に。警察予備隊(今日の自衛隊)の創設を指令した。GHQはは、国内の政治・労働運動にも、共産党を中心に弾圧を行った。共産党の幹部の一部が公職追放され、『アカハタ』や『前衛』が発刊を停止された。また、47年の2・1スト中止後に結成され、、この当時はすでに共産党系の組合の集合体となってた全労連への解散命令が出された。さらに新聞通信部門を中心に、各産業でレッドパージの嵐が吹き荒れた。国際的には、対日講和条約ををソ連などの参加なしに行なおうとする「片面講話」条約の動きが急速に進められた。
 日本経済は、49年にドッジプランが実施され、民間でも企業整備の名による解雇が行われた。そこの朝鮮戦争による特需が発生し、産業界は活況を呈し、戦後の復興、再建の飛躍台となった。だが、職場の労働者は無権利で、低賃金、長時間労働がまかりとおり、労働運動の分裂、停滞もあって、その状態は改善されなかった。
 国労は、50年6月末からの第8回定期大会(登別)で、全面講和、永世中立、戦争反対の講話三原則を決め、後の社会党の平和四原則、総評の平和四原則の先駆けとなった。
10月の第9回臨時大会(松江)でも、この方針をさいかくにんし、同時に国鉄当局の23鉄道管理局設置など機構改革に対応する地方本部の設置を決めた。同大会では機関車協議会から、当局と団体交渉の職能別協議会代表を加えることが提案されたが否決された。このため機関車協議会の中で独自の組合結成の動きが強まり、51年5月、日本国有鉄道機関車労働組合(機労)が結成され、国労の最初の分裂となった。
 51年1月、社会党は大会を開き、左右両派の大論戦を経て、講和三原則=全面講和、中立堅持、軍事基地反対と再軍備反対を決定した。この講和三原則と再軍備反対を合わせた平和四原則は3月の総評第二回大会でも採択され、総評は同時に国際自由労連への総括一括加盟を否決した、平和四原則の採択などに見られる総評への「左傾化」は、「にわとりからあひるへ」という比喩では呼ばれたが、総評内の平和四原則に反対する批判勢力(全繊同盟、海員組合など)は、54年4月、総評を脱退して全労会議(同盟の前身)を作った。
 国労では、5月の中央委員会で、平和4原則による運動方針案と、平和4原則棚上げ、政治的中立の愛国的労働運動推進案が17対17となり。委員長の、委員長の二重裁決権で、後者の案が可決された。だが、6月の第10回定期大会(新潟)では結局、平和4原則が確定した。同時に国労民同派は左右に分裂した。

 

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*1:平和4原則
全面講和,中立堅持,軍事基地反対,再軍備反対」を含めた原則