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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 13

皆様お早うございます、約2週間ほど開いてしまいました。
今回は頑張って2週分を埋めたいと思います。

 

今日は講和条約以後の国鉄とその動きということでお話を進めたいと思います。

> 国内における全面講和の声を無視して、51(昭和26)年9月、サンフランシスコで対日講和会議が開かれ、講和条約日米安全保障条約が締結された。この講和会議には、中国は招かれず、ソ連、インドは調印しなかった。両条約の日本の国会での批准は11月8日に完了し、52年4月28日に批准書が交換されて発効した。講和条約の批准国会を目に開かれた社会党大会では、安保条約に反対する点ではほぼ意見の一致を見たが、講和条約については左右の対立が激化し、ついに左派社会党(左社)と右派社会党(右社)に分裂した。

講和条約とは?

ここで簡単に講和条約について振り返ってみたいと思います。
一般的には「サンフランシスコ講和条約」と呼ばれていますが、正確には(「日本国との平和条約」昭和27年条約第5号)英:Treaty of Peace with Japanと呼ばれるもので、7章27条にわたって規定されており、平和・領土・安全・政治及び経済・請求権及び財産・紛争の解決・最終条項問いた章立てで構成されています。
これにより、日本は基本的には独立することとなるのですが、全面講和を目指していましたが、実際には会議参加国のうちソ連ポーランドチェコスロバキアの3カ国は平和条約に署名しない一部講和という形になりました。
この時に日本の領土の範囲等が確定したのです。

中野文庫 - 対日講和条約 日本国との平和条約

【中野文庫】

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1E.html

【全文(英文)】

> 講和条約発効前に、日本政府は、占領体制から「独立」した日本の状況に合わせ、労働法規の改定や新しい治安立法を制定しようとした。特に破壊活動防止法破防法、52年7月21日公布)は、治安立法として反対闘争の的となった。

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画像 Wikipedia (血のメーデー事件)でひっくり返された自動車

ここで出てくる破壊活動防止法は、Wikipediaによりますと、講和条約発効直後の昭和27年5月、東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件(血のメーデー事件)がその発端となったと書かれています。

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画像 wikipedia (血のメーデー事件)

 ポツダム命令の一つ、団体等規正令(昭和21年勅令第101号)の後継立法として同年7月21日に施行されたとありますが、当時は日本共産党【暴力革命による日本転覆を狙っていた】がターゲットにされていたこともあり、日本共産党は猛反発したと言われています。

なお、破壊活動防止法は、戦後適用されたのは2回だけで、その後の改正された破防法は今だ施行されていません。

三無事件 - Wikipedia

 

渋谷暴動事件 - Wikipedia

> 52年頃になると、私鉄や炭労の職場闘争が展開され、労働運動は職場から再生し始めた。国鉄では、50年代後半、職場闘争は実力行使の職場での展開を基礎に展開された。その要因は、定員法のもとで、厳しい要員規制が行われる一方、経済の回復に伴う輸送需要が増加し、これに対処するため、もっぱら人手に依存する労働強化が行われていることにある。また、新規採用が抑制されたため、昇進・昇格があっても下位職を代行する場合もあった。

石炭の増産それに伴う鉄鋼産業への石炭優先配分で鉄鋼産業が復興、鉄鋼生産により新たなレールが更改されてさらなる輸送力増強へと進んでいく中で当然人員が不足することとなったと推測されますが、当時は蒸気機関車による労働集約産業であったこと、またこの当時は国鉄自体が赤字体質であり、満州鉄道からの職員引受もあったので人員が足らないというところはちょっと疑問がありますが、それはまぁよしとしましょう。

> 昇進・昇格があっても下位職を代行する場合もあった。
余談ですが、ここで出てくる下位職代行は、昭和50年代のマル生運動失敗後は中間管理職の吊し上げの格好の材料となり。
助役が事務所の清掃、便所掃除などおよそ新入職員が行う仕事を助役が本来の業務に加えて行うという異常事態をまねき職場は混乱したと言われています。

> 職制マヒ闘争、職場ろう城戦術など激しい戦術が採用された。また、当時は、職場交渉が公式な協定では不明確であったことにも起因していた。

職場マヒ闘争では、下記のような戦術が取られたと、大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編には書かれています。

参考 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1952/1952_50.html

> 10月23日からの第28回中央委員会で仲裁裁定完全実施・年末手当を要求して実力行使も辞さずという方針をきめた国労は,政府が裁定11月実施,年未一時金0.75月分支給を決定したのに対して,12月1日から本庁内すわり込みやハンスト,超勤拒否に入り,9日以降は地本1ヵ所以上の地区で運転保安規制運動(順法闘争)に入った.14日までに全国で列車の遅れ,運休,打ち切りなどが出た.15日からは各地で一斉休暇闘争に入った.実力行使は19日の交渉妥結で中止したが,翌’53年1月14日当局は,年末闘争実力行使の責任者として本部三役に公労法17条による免職(公労法による解雇第1号)を通告した.〔参〕《国鉄労働組合20年史》1954.⇒1954[経]1.22.

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├○ 労組スト等の展開と運動の前進   │
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国内における全面講和の声を無視して、51(昭和26)年9月、サンフランシスコで対日講和会議が開かれ、講和条約日米安全保障条約が締結された。この講和会議には、中国は招かれず、ソ連、インドは調印しなかった。両条約の日本の国会での批准は11月8日に完了し、52年4月28日に批准書が交換されて発効した。講和条約の批准国会を目に開かれた社会党大会では、安保条約に反対する点ではほぼ意見の一致を見たが、講和条約については左右の対立が激化し、ついに左派社会党(左社)と右派社会党(右社)に分裂した。
 講和条約発効前に、日本政府は、占領体制から「独立」した日本の状況に合わせ、労働法規の改定や新しい治安立法を制定しようとした。特に破壊活動防止法破防法、52年7月21日公布)は、治安立法として反対闘争の的となった。政府の動きに対し、総評を中心に労働法規改悪反対闘争委員会(労闘)が結成され、52年、活発な大衆行動を展開した。4月12日には、第一波の労闘ストが実施されたが、これは実施されたものとしては、日本で最初の統一政治ストであった。国労は、全国で職場大会を実施した。4月18日には、第二波労闘ストが実施され、第一派ストには参加しなかった炭労、全鉱も参加した。国労は抗議職場大会と定時退庁を行った。だが5月1日、皇居前広場で《血のメーデー事件》が起こり、6月段階の労闘ストは参加者の数も減った。
 52年2月には、戦前の実質賃金回復のため、マーケット・バスケット方式で理論生計費による総評・賃金綱領草案が発表され、その後の賃上げ要求の根拠ともなった。同年、賃上げなどを中心に電産争議が発生し、電産は停電・電源ストなど激しい闘争を展開したが、会社側は譲らず、電産は敗北した。炭労も激しい賃金闘争を展開した。この電産・炭労争議に対し、53年政府は「電気事業及び石炭事業における争議行為の方法を規制する法律案(いわゆるスト規制法)を提案し、反対闘争を押し切り、8月7日、公布、施行した。同法は3年間の時限立法であったが、実際は廃止されず、現在に至っている。
 総評結成後、52年頃になると、私鉄や炭労の職場闘争が展開され、労働運動は職場から再生し始めた。国鉄では、50年代後半、職場闘争は実力行使の職場での展開を基礎に展開された。その要因は、定員法のもとで、厳しい要員規制が行われる一方、経済の回復に伴う輸送需要が増加し、これに対処するため、もっぱら人手に依存する労働強化が行われていることにある。また、新規採用が抑制されたため、昇進・昇格があっても下位職を代行する場合もあった。
 こうした状況のもと、当局の専制的な職場管理に対抗しつつ、さまざまな職場要求という形をとって職場闘争が展開された。とくに53年から57年にかけて、要員闘争を中心に展開されたが、要員があまりにも厳しく抑制されているため、しばしば職制マヒ闘争、職場ろう城戦術など激しい戦術が採用された。また、当時は、職場交渉が公式な協定では不明確であったことにも起因していた。