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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 14

今回から高度経済成長と国鉄経営という視点で書かれている記事について思索を深めていこうと思います。
ここで重要なキーワードは下記に書かれているように、朝鮮特需と55年体制、更にその後の国鉄に大きな影を落とすこととなる、日本生産性本部による生産性運動と言ったところでしょうか。

簡単に、上記の3つのキーワードについて解説を加えさせていただこうと思います。

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最初に朝鮮特需について、
朝鮮戦争、1948年に成立した大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争であり、解決したわけではありません。
この戦争は、いわばアメリカとソ連の思惑による代理戦争のようなものであり、実際にはソ連に相談せずにアメリカ軍が派兵を決めて、それに反発する形で中華人民共和国義勇軍北朝鮮へ送ったことにより更に泥沼化したと言われています。
この戦争は、資本主義と共産主義の代理戦争というのが一般的な定説となっています。

アメリが軍が参戦したことにより、アメリカは日本に対する立位置を変えざるを得なくなり、自衛隊の創設(当初は警察予備隊)等が併せて行われることとなります。
日本は、講和前ですので戦闘には参加せず、前線への補給基地としてその責を追うことになりました。
物資調達がメインで、土嚢用麻袋・軍用毛布および綿布から始まり、トラック・航空機用タンク・砲弾・有刺鉄線など、サービスでは、トラック・戦車・艦艇の修理、基地の建設・整備、輸送通信など多岐にわたり、休戦交渉以後は復興物資の調達などが行われ、これにより鉄鋼・セメント等の当時の重厚長大産業と呼ばれた重工業が息を吹き返してきたと言われています。
その規模は、昭和25年から28年の間、年間の貿易額が1年間10億ドル程度であった時期に、朝鮮戦争の特需による総額は53年までに24億ドル、55年までの累計で36億ドルに達して、日本の復興には追い風になったと言えます。

難民として密入国した韓国人

その点で、不幸だったのは韓国であり、その時に脱出した多くが現在の在日韓国人のルーツと言われています。実際戦時徴用で日本に来た韓国人は戦後すぐの帰還事業で本国に帰っていますし、その後も講和条約発効後も帰還事業は続けれらており、強制連行された子孫というのは非常に根拠が薄いものとなっています。

なお、帰還事業は昭和30年代まで行われており、この時点で帰還しなかった人たちは自らの意志で日本に残ったのです。

次に
> 政治的にも重要な年であった。社会党左派と社会党右派が合同し統一を回復した。保守陣営も合同によって自由民主党となった。


と書かれている保守合同でありますが、社会党は派内でも、社会党左派と社会党右派に別れており、左派は旧来の無産政党の流れを汲むもので、資本主義市場経済の枠内での福祉国家建設よりも、労農派マルクス主義に基づく政治路線を志向するグループであり、総評の運動方針などと合致していたと言えます。
逆に、社会党右派は、ソ連・中国型の社会主義ではなく、西欧型の社会民主主義を模範とするという考え方であり、保守に近い中道と言ったところでしょうか。
逆に左派は、総評との連携を図ったことでその組織拡大を進め、非武装中立論を主張して再軍備に反対し、護憲を主張し、女性やホワイトカラー層を中心に支持を集めた。とされています。

また、同じ保守政党であった、自由党日本民主党が合同して自由民主党が結党したのも昭和30年【1960年】であり、ここに2大政党制の萌芽が生まれたと言えます。

現在の小選挙区制による少政党分立はむしろ民意を反映するのには無理があるのではないかと思ってしまうのは言いすぎでしょうか?

 

そして最後に、公益財団法人日本生産性本部についてお話をしたいと思います。

財団法人日本生産性本部は、「生産性向上対策について」の閣議決定(1954年9月24日)に基づき 1955年3月1日に設立された団体で、設立当初から、経済活動における人間尊重を基本理念に、(1)雇用の 増大、(2)労使の協力・協議、(3)成果の公正分配からなる運動三原則を掲げ、経営者、労働者、学識 経験者の三者構成による中立機関として活躍していると書かれています。

国鉄でもマル生運動として導入されましたが、マル生=国労組合員の孤立を図るものとしたマスコミ工作が功を奏してそうしたキャンペーンが行われたこともあり、当時の国鉄総裁であった磯崎叡が不当労働行為があったと認めたため、現場の助役は梯子を外された格好となり、その後の職場は大きの混乱することとなり、作業手順を多少変更するだけでも団体交渉の対象であるとごねて作業をしない、定時になったら帰ることで残業をしない等のサボタージュが行われており、この時期に完成した車両はそうしたメンテナンスを受けられないかもしれないという前提で組み立てられていますので、それが原因で長持ちしたという皮肉な現状もありますけどね。(^^ゞ

 

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 第4節 高度成長下の国鉄経営・財政と国鉄労働組合の闘い

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 1 高度成長下の国鉄経営・財政
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├○ 高度成長の開始と1955年という年     │
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 朝鮮では、1953(昭和28)年、休戦協定が調印された。この間、初めは朝鮮特需で潤った日本経済も特需の減少につれ、不況に陥り、この乗り切りのため経営者側は厳しい「合理化」を実施した。だが、55年以降、戦後復興の時期は終わり、1970年代前半まで、高度経済成長の時期に入った。
 1955(昭和30)年は、政治的にも重要な年であった。社会党左派と社会党右派が合同し統一を回復した。保守陣営も合同によって自由民主党となった。これにより、いわゆる「五五年体制」が成立し、日本でもイギリスのような保守政党労働党の2大政党間の政権交代の現実的可能性が生まれたとする論調が盛んになったが、事実は自民党が国会で単純過半数を占め、日本社会党は数では拮抗できず、1対2分の1の関係に留まった。また、「50年問題」を契機に分裂した日本共産党も、この年、第6回全国協議会(六全協)を開き統一を回復した。
 労働運動との関係では、日本生産性本部が発足し、生産性向上運動を展開し始めた。全労会議(後の同盟)は、生産性向上運動に賛成し、分配で争うパイを大きくすることを主張した。(パイの理論)。総評は、生産性向上運動が搾取強化の体系的運動であるとして、これに反対の態度をとった。