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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 15

皆様こんばんは、本来であれば昨日アップすべき内容でしたが野暮用で走り回っておりまして今日になりました。

本日も、国労の資料を底本として私なりの解説を加えさせていただこうと思いますのでよろしくお願い申し上げます。

朝鮮戦争後のデフレ経済と国鉄

昭和27年の講和条約発効以降、日本は名目上は独立を取戻し【独自の軍隊を保有せず、米軍基地が日本にあることが真の独立か否かという議論はさておき、少なくとも占領政策は終わったわけです。
朝鮮戦争の特需による景気回復なども有りましたがその後は昭和29年にはデフレの波が日本を襲い、倒産、並びに賃下げや解雇、労働強化などが国鉄に限らずすべての職種において実施されたと言われています。

国鉄職員の推移

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法政大学大原社会問題研究所労働年間 昭和31年から引用

 

元々労働集約産業である鉄道の場合機械化、動力近代化等を行わない限り人員の削減は難しいことも有り、実際には東海道線の電化に代表されるように幹線を中心とした電化などが行われたほか、昭和30年には仙山線で行われた交流電化の成績が良かったことから、昭和32年に計画された北陸本線は急遽交流電化に変更された経緯があります。

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余談ですが、昭和32年北陸本線が直流化のままだったら意外とJRがそのまま運営していたかも・・・もちろん歴史にIFはありませんが。
さらには、昭和35年からは動力近代化計画もスタートし、昭和50年末までに蒸気機関車を全廃するという目標が出され実行に移されました。

第1次5ヵ年計画

> 50年代前半のもっぱら労働強化に依存する国鉄輸送力には限界があった。動力近代化と幹線の電化なども行われたが、設備面では老朽設備の取り替え、改良がほとんであった。その国鉄で、57(昭和32)年、第一次五ヵ年計画が策定され、実施された。

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昭和27年頃から急増する鉄道輸送

この計画では、財政投融資並びに13%の運賃値上げにより確保できる自己資金で賄うこととされました。これが、国労の資料にも書いているように、国鉄独自の予算【国は関与しない方針】であり、4年目には計画自体が頓挫し改たな第2次5ヵ年計画に着手することとなりました、(その理由は後述)このとき、政府が財政投融資ではなく、助成金という形で行っていたならば国鉄のその後も変わっていったかもしれません。
 この当時は、国鉄も「政府の現業機関」である、言わば「郵政省や造幣局」と同列であると言う意識が強くあったのも事実です。
 この点は、かっての「電電公社vs郵政省」の構図と同じものがあり、国鉄運輸省の意識が強烈に、国鉄部内にも運輸省内にもありました。

話が横道にそれましたが、

> このための投資は5,020億円であったが、独立採算制のもと、資金は自前で調達しなければならず、実際には資金不足で、計画は4年で打ち切られた。

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第1次5カ年計画進捗率

この計画が完成すれば、旅客輸送において計画当初の1.3倍に貨物輸送にあっても1.2倍以上の輸送力となり、幹線及び支線区の列車本数の増加【概ね1.3倍から2倍】を図れると考えていましたが、この計画に先立ち、国鉄経営調査会が設置されることとなり。
運輸大臣から、収入の確保以上に無駄な支出の節約など、合理化を強く推し進めることの答申が1956年1月12日に国鉄経営調査会から諮問されました。
これが、国労が指摘する

> 国労に対する組織分裂攻撃を伴っていたことが特徴的である。この点、具体的には後に述べる。

ということに繋がる内容であると思われます。

さらに、実際には第1次5ヵ年計画では、当初の運賃値上げ18%→13%に圧縮、工事費予算1割圧縮、仲裁裁定による賃金上昇【この辺りは国労はスルーしていますけどね】により当初4年間で予定していた900億円は650億円にしかならず最初から達成不可能な計画となってしまいました。

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***************************以下、国労の資料になります。****************************

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├○ 国鉄第一次五ヵ年計画から第二次五ヵ年計画     │
└────────────────────┘

 高度経済成長の開始は、鉄道を含め産業基盤の整備を必要とした。
50年代前半のもっぱら労働強化に依存する国鉄輸送力には限界があった。動力近代化と幹線の電化なども行われたが、設備面では老朽設備の取り替え、改良がほとんであった。その国鉄で、57(昭和32)年、第一次五ヵ年計画が策定され、実施された。
 基本方針は、次のとおりであった、

 ① 老朽施設。車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
 ② 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り、増大する輸送力を強化する。
 ③ サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進

 このための投資は5,020億円であったが、独立採算制のもと、資金は自前で調達しなければならず、実際には資金不足で、計画は4年で打ち切られた。
 この第一次5ヵ年計画の遂行は、同時に国労に対する組織分裂攻撃を伴っていたことが特徴的である。この点、具体的には後に述べる。
 これに続く第2次5ヵ年計画は、61年度を初年度として計画された。第1次5ヵ年計画が政府の経済自立計画に即応していたのに対し、第2次5ヵ年計画は池田政権の所得倍増計画に対応していた。計画の骨子は、主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化、経営の合理化であった。計画の目玉は、東海道新幹線の建設にあった。設備投資額は。9,750億円(うち東海道新幹線1,735億円)であった。もっとも。62(昭和37)年の三河島事故、63年の鶴見事故により輸送力増強が一層必要となり、資金計画は当初計画より大幅に増額された。東海道新幹線投資も同様で、資金追加が必要であった。このため当初計画では予定のなかった世界銀行からの8,000万ドル=288億円(年利率5.75%)借款が行われた。
 この銀行からの借款は、国鉄当局、政府、独占資本が一体となって、初めは渋っていた世銀を説得したもので、いわば国家と独占資本との共同行為による外資導入であった。しかも入札は一部を除いて、世銀の了承もあったが、国際的入札は行わないこととし、国内の独占企業がこれを落札し、膨大な利益を得た。だが皮肉なことに、、世銀からの借款を含め、投資資金が大幅に膨らんだ結果、東海道新幹線が営業を開始した。つまり、これ以降以降、新幹線を初めとする幹線投資を行えば行うほど、赤字が累積するという構造となったのである、