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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 17

皆様こんにちは、

国鉄では昭和28年頃から処分撤回闘争をというのを行っており、公労法ではストを禁止されており、その禁止事項により処分されたものをさらに処分を撤回するために違法なストライキを行うというおよそ理解不能な行動を取っていました。

少し長いですが、大原社会問題研究所の日本労働年鑑 第27集 1955年版から引用してみます。

処分撒回闘争

 前年末の賃金闘争における一斉賜暇などの闘争戦術にたいして、国鉄当局は強硬処分をほのめかしていたが、その発表は一日延しにされていた。組合側の処分反対運動は五三年に入ってから次第に動きはじめ、一月一〇日には全国にさきがけて北陸地方本部から組合員署名簿と血書をもった激励団が上京し、つづいて一一、一二両日には全国委員長が上京、処分反対を当局、関係大臣に申し入れた。また西鹿児島工場支部からも「九日第一八回闘争委で、処分反対闘争にはストも辞せないと決定した」との決議文が手交された。
 なお中闘は一月八日すでにつぎのような声明書を発表していた。

 (声明書)
 情報によると国鉄当局は近く年末闘争の責任者を処分すベく寄り寄り協議中の模様であり、このことはわれわれにとって極めて遺憾なところである。

 国鉄当局が今次処分を決定するにいたった経緯は、今次闘争において国鉄労働組合が一二月一五日本庁はじめ非現業部門において一斉休暇をとったことは争議行為であり、公労法違反であると判定していることによるものである。然しこれは国鉄当局の一方的な判断であり、われわれの絶対容認できないところである。

 そもそも仲裁制度は、わが国鉄労働組合から罷業権を禁止し、それに代るものとして、労資間の紛争を友好的且つ平和的に解決するため設けられたものであり労資双方が最終的に拘束されるものであるにも拘らず、過去二回にわたってこれを蹂躙し、今回またこれを無視しようとしていたのである。

 われわれは公労法の権威を尊重し、民主主義と生活を守る立場から、四ヵ月の長期にわたり平和的努力を続けた後、一二月一五日に一斉休暇をとり、国鉄当局並びに政府に対してその反省を促したのであり、しかもこの場合保安要員を除外して列車の運行に支障の起らない様慎重に配慮した等、決して正常なる業務の運営を阻害する目的をもって行った行為でなく、公労法を些かも蹂躙するものでないことを確信するものである。

 国鉄当局が今回の裁定を実施出来得る財源を国会において認められたにも拘らず裁定を実施せず、自ら法律を無視する態度をとりながら、一方的に処分を行う暴挙は、果して公労法の権威と民主主義のルールを尊重した行為ということができるであろうか。このことは国鉄労働組合は勿論、全日本の労働組合否全国民大衆に訴えてはばからないところであり、更に日本の労働運働史上にはじめて弾圧の先鞭を加えたものとして、われわれは断じて容認出来ないところである。

 われわれは速かにこの事実を四〇万組合員に訴え、その総意に基きあらゆる方法をもって、これが撤回闘争に立ちあがることを決意した。われわれが今展開しようとするこの闘争に対して全日本の労働者諸君並びに国民各位の真の協力を切に期待し、声明するものである。
 昭和二八年一月八日
                        国鉄労働組合

 こうした、撤回闘争は結局当局の硬化を招くこととなり、国鉄では処分の発令を厳しくすることとなり国労では解雇者の生活を守るための闘争生活資金の確保におわれることとなりました。

> この年の春闘行動に対し、国鉄当局は888名の大量処分を行った。幹部に留まらず、スト参加者レベルに及ぶ大量処分は初めてであったが、のちには年中行事化した。

下記で、機関車労の分裂そして、後の鉄労につながる国鉄職能別労働組合連合(職能別労連)の結成など、相次いで組合が分離する事態となりましたが、そのへんの状況は何が有ったのか見てみたいと思います。

大原社会問題研究所の日本労働年鑑 第26集 1954年版を参照しますと

争議の背景として、国鉄では戦時中に、施設並びに車輌を酷使してきたこと、更に戦災により全線にわたり老朽化と荒廃が生じているという事実。
終戦後は、日本経済の支柱となりし輸送業務に邁進したほか、占領軍と独占資本に奉仕する低運賃政策(これは労働者側の言い分として、政策運賃的に石炭・米などは低い運賃に据え置かれていました)と輸送能力以上の酷使により、施設、車輌は更に老朽化、資材の投入も不足し、そのため保修は困難をきわめたとあります。

しかし昭和24年(1949年)頃から国鉄復興ということが具体的な日程にのぼり、とくに外国軍隊の輸送に大きな実績を示した。
これにより企業活動は戦前の二・一倍、労働生産性も110%に回復したが、賃金はまだ戦前の6~70%にすぎなかった。

そこで組合では、「国鉄では企業の復興、資本の蓄積を主として労働者の犠牲によっておしすすめてきた」として賃金闘争を積極的に行ってきました。

以下は引用になりますが

「昭和26年度の鉄道貨物輸送量は1億6268万トンですが、昭和27年度の輸送要請は、1億7000万トンに達すると予期されるので、現有能力の最高度発揮をはかる」ことが明らかにされ、「科学的管理方式の推進、経営監査、技術の改善及び資材施設の活用等によって、経営の合理化と能率の向上を期する」と主張しているが、これによって労働強化は一層促進され、労働者の生活はますます貧困化する。ことに職階制によって、上下のひらきは拡大する一方であるから、下層労働者の生活困難ははげしさを加え、したがって闘争は下部からの強いもり上りを示した。

ということで、輸送力増強はわからなくいとは言えないが、その前に輸送量が増大している貨物に対して優遇しろというのが一般的な見解のようです。
特に最初に反旗を翻したのが、機関車労組(後の動労)でした。

> 53年以来、民同左派と革同の連合により比較的安定した中執の中で激しい論争が展開された。論議の結果は、戦術転換論が多数を占め、新潟闘争は打ち切られた。総評首脳部も、この方針を支持し、8月の総評大会で収拾が確認された。この新潟闘争を契機に、第二組合が結成された。機関車労組の結成は国労の最初の組織分裂であったが、その場合は一つだけの職能的要素が強かった。だが新潟闘争での第二組合結成を契機に、57年11月、国鉄職能別労働組合連合(職能別労連)が結成され、また後の鉄労系の地方総連が結成されていき、62年11月には、両者が合同して新国鉄労働組合連合を結成した。これは、のちに同盟系の鉄道労働組合(鉄労 68年10月)につながった。

 

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阪和線で運転を開始した70系電車

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外観 配置当時の塗装は、晩年のスカ色ではなく、クリームと緑の塗り分けになっていました。

以下、国労の資料になります。

┌────────────────────┐
├○ 春闘の展開と国労の参加 │
└────────────────────┘

56(昭和31)年春闘で、国労を中心とする公労協の実力闘争は、炭労など民間単産とともに、春闘の中心的位置を占めたが、57年春闘では、さらに国労など公労協・炭労の闘争が強化された。57年春闘では、公労協組合は2000円~3000円に賃上げ要求を掲げるとともに、民間組合との統一要求として一律8000円の最低賃金制確立の要求を掲げ、3月に高原闘争と呼ばれる強力な職場集会など実力行使を展開した。国労などが実施した半日職場大会は事実上の時限ストであった・3月16日には、仲裁裁定の完全実施を要求する公労協の統一職場大会が計画されていたが、その前日、岸信介首相と鈴木茂三郎社会党委員長とのトップ会談で、政府が仲裁裁定の完全実施を約束したため、中止された。以降、完全実施が慣行化した。続いて計画されていた最低賃金を目指す国労のスト計画に対して、国鉄当局は業績手当の支給を中止するという措置で対抗した。憤激した組合員は3月23日、自然発生的にストに入り、国労本部もこのストを公認した。いわゆる抜き打ちストであった。
 この年の春闘行動に対し、国鉄当局は888名の大量処分を行った。幹部に留まらず、スト参加者レベルに及ぶ大量処分は初めてであったが、のちには年中行事化した。この処分に対し、国労は職場大会を中心とする反対闘争を反復した。当局は、これに対してさらに処分を行い、処分ー処分反対闘争が繰り返された。6月の国労第16回大会(松山)では、賃上げや反「合理化」と結合して処分反対闘争を継続する方針を決めた。
 この直後、当局は処分反対闘争に関し、地方鉄道管理局レベルでの処分を発表した。これに対し、抗議の職場大会が各地で展開されたが最も強力な処分反対闘争を展開したのは新潟地本であった。一時は現地で処分者数の軽減など解決の兆しはあったが、国鉄本社は現地管理局に対し、一切の妥協をしてはならないと指示した。この動きとは別に、警察当局が地本幹部を逮捕したことから再び組合員の抗議行動が強化された。政府も、閣議で国鉄当局の強硬方針を支持することを決定した。この局面で、国労本部は、新潟闘争を全国化して全面的対決を強めるか、逆に実力闘争を中止するかの選択を迫られた。この選択は、新潟地本が革同系執行部の主導のもとにあったこともあり、53年以来、民同左派と革同の連合により比較的安定した中執の中で激しい論争が展開された。論議の結果は、戦術転換論が多数を占め、新潟闘争は打ち切られた。総評首脳部も、この方針を支持し、8月の総評大会で収拾が確認された。この新潟闘争を契機に、第二組合が結成された。機関車労組の結成は国労の最初の組織分裂であったが、その場合は一つだけの職能的要素が強かった。だが新潟闘争での第二組合結成を契機に、57年11月、国鉄職能別労働組合連合(職能別労連)が結成され、また後の鉄労系の地方総連が結成されていき、62年11月には、両者が合同して新国鉄労働組合連合を結成した。これは、のちに同盟系の鉄道労働組合(鉄労 68年10月)につながった。
 57年6月、国労は第16回定期大会(松山)を開き、解雇三役を再選した。7月初め、国鉄当局は国労に対し、被解雇者を組合三役に選出していることを理由に団交拒否を通告した。国労は、団交正常化などを要求して10月闘争に突入した。だが藤林敬三公労委会長が斡旋に乗り出し、団交については被解雇者以外の者を組合代表にすること、当面は中執の中から臨時代表者を選任するとの斡旋案が示され、国労はこれを受託した。58年1月の第17回臨時大会(静岡市)は、その後始末のために開かれたが、激論の末、収拾案を承認し、解雇されていない組合員から副委員長を選んだ。さらに、7月の第18回定期大会(宮崎)では、書記長を除き委員長も解雇されていない者を選んだ。
 なお58年、全逓が同様の団交拒否を通告されたが、解雇者を役員に選出し、長期に渡って闘いを続けた。また、ILOへも提訴し、(国労ものちに提訴)50年代末から60年代にかけて、ILO87号条約批准闘争が展開された。

続く

 

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