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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 24

国労の資料に基づき、合理化反対闘争を中心に述べさせていただきます。

67年に提案された五万人合理化攻撃とのたたかい=機関助士 廃止反対闘争は、国労動労を通して、60年代後半の最大規模の闘争に発展していった。動力車 職場では、助士廃止・機関士一人乗務が最大の焦点であったが、この攻撃は、当時の動労組織の2割、1万を占めた機関助士が職場を失うという組織の根幹にか かわる問題だったのである。これに、相次ぐ合理化・輸送力増強がのしかかり、職場の不満の声は高まった。

 

同年、新宿駅で起きた米軍ジェット燃料タンク車の 衝突・炎上事故等が重なり、運転保安の無視に対する怒りがたかまる。

以下、幣blog 

貨物輸送今昔 42|鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog 貨物輸送今昔 42
から引用させていただきました。

時 は昭和42年8月8日午前午前1時45分、新宿駅構内で山手貨物線から中央快速下り線への渡り線を進行中の浜川崎発立川行き第2471貨物列車 (EF10 38牽引、タンク車18両、米軍燃料輸送列車)の側面に、信号を無視した、氷川(現:奥多摩)発浜川崎行き第2470貨物列車(EF10 40牽引、ホッパ車20両)の上り貨物列車が停止信号無視して進入し、タンク車の3両目付近に接触、タンク車3-6両目の4両が脱線、転そのうち4,5両 目が転覆、衝撃でタンク車が破損し漏れた航空燃料に衝突時に発生した火花が引火爆発を起こして、タンク車4両と衝突した機関車(EF10 40)が炎上した事故で、当時はかなり大きく新聞に取り上げられました。

火災発生時には火柱が上がり真昼のように明るくなったと言われています。
なお、車両の引き離しなどで時間を要して、完全復旧に27時間以上かかったと言われています。

原 因は、衝突した機関士が停止信号を無視したことが原因でした。本来なら、大きな貨物事故で終わったのでしょうが、当時の米国はベトナム戦争を継続中であ り、運転士が所属していた国労では、機関士の信号無視とする問題をすり替えるために、運んでいたものは米軍横田基地向けの燃料輸送であり、日本がベトナム 戦争を間接的に支援していると言う論陣を張る事となりこれを受けて、学生運動や組合運動でのベトナム反戦運動のスローガンに付け加えられることとなりまし た。
これが翌年の新宿騒乱事件への伏線となったと言われています。

(更に石灰石を積載した貨車のブレーキの利きが悪かったといった情報もあります。 追記)

ちなみに、航空燃料(ジェット燃料とは、ケロシンと呼ばれるもので言わば灯油なのですが、あえて「ガソリン」と表現することで学生運動を煽ったとも言われています。

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画像wikipedia

米軍燃料輸送列車事故 - Wikipedia

しかし、5万人反合闘争、機関助士廃止反対闘争は敗北する。この敗北をめぐって路線的 には壁にぶちあたり、その当時反合理化闘争をいかに闘うかがテーマであった。動労東京地本に巣くう革マルは、反合闘争から召還し、78年貨物安定宣言に行 き着く。

この上記記事は、千葉動労からの引用であり、千葉動労としては動労から除名されるのですが、その背景には革マル中核派の戦いと言えましょう。

実際の行動パターンを見ていたら正直時代錯誤的な行動が多いですから。

 1967年(昭和42)年3月、国鉄当局は、組合に対し、第三次長期計画のための近代化・合理化案を提示した。そのなかには事実上、68年までに5万人 の要員削減案が含まれていたし、EL・DL一人乗務問題や仕事の外注などが含まれていた。国労動労はこれらの提案に対し、断固撤回を求めるとの声明を発 表した。この頃、国労動労は、「合理化」反対闘争については、ほぼ同一歩調をとっていた。これらの提案以後、「合理化」反対闘争は本格化した。

国鉄が、累積剰余金を取り崩して、借金支払いのために借金をする自転車操業に陥ったのが昭和43年の決算からで、本来であれば組合も気づくべきであったのですが、国労動労もそういったことには気づかず。

また、国鉄本社自体もそう大きな問題では無いと考えていたフシがあり国鉄としては5方面作戦になど輸送力の増強工事にまい進することとなりました。

特に、今では当たり前の一人乗務ですが、国鉄時代はながらく廃止闘争が続き、ブルートレインはかなり遅い時期まで機関助士が乗務することとなりましたが、明石事故に見られるように、機関助士が乗務していても機関士が絶対的権力をもっていると飲酒を止められないといったことがありましたから。
なお、夜間の二人乗務は安全もありますが緊張感の保持といった理由があったかもしれません。

 68年から69年にかけ、国労動労は10数回のストを初め、激しい「合理化」反対闘争を展開した。そのピークは、EL・DL助士廃止反対などを中心と した69年10月31日から11月1日の14時間のストであった。その前後、国労動労とでは、再三、方針の違いが生じたが、総評の仲介や支援を得て、 「合理化」反対闘争は継続された。その結果、不十分さは残したが、助士制度を存続させ、EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、 廃止助士については、機関士検査係へ逐次登用させる。時短や賃金での前進を勝ち取り、5万人「合理化」に一定の歯止めをかけるのに成功した。2年以上にわ たるEL・DL一人乗務などが決着をみた。この10月31日と11月1日の闘争に対し、解雇66名を含む4,923名の処分が通告された。(目)指す必要 条件がここにあった。

 

 国民との関係及び1,947年に結成された全日本交通運輸労働組合協議会(全交運)との関係では、65(昭和40)年から交通問題研究全国集会(交研集 会)が実施されるようになっていた。また、66年の運賃値上げに際しては、広範な反対署名運動なども展開された。国民党の結合を深め、交通運輸労働者との 連帯を強めつつ、「合理化」反対を初めとする国労の取り組みは注目に値した。だが、職場の組合運動強化を始め、まだ多くの課題を残していた。

全日本交通運輸産業労働組合協議会(公式ホームページ)

 

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 ************************************以下は再掲ではありますが、国労の資料になります。***************************************

 


第五節 国鉄経営・財政問題国鉄労働組合の闘い

二 「合理化」反対を中心とする国鉄労働組合のたたかい

┌────────────────────────────┐
├○ 2国労の「合理化」反対闘争と反「合理化」闘争指導指針│
└────────────────────────────┘

  この新「指導方針」は、まず「合理化によっておきる諸事象と労働条件の変化は、労働者に適応した労働条件の改善と表裏一体のものである」という原則を確認 し、労働組合が真に守っていかなければならないことは、「労働者の基本的権利であり労働諸条件であるが、これからの反『合理化』闘争においては、いかなる 場合においても、この労働基本権を堅持し拡大していくという方向でたたかいが組織されていかなければならない。」とした。そして、「これからの反『合理 化』闘争は、すべて労働者の権利確保をふくめた明確な協定にするしょよによって集約する闘争としてすすめて」いく一方、他方で、「国民の国鉄にする諸要求 を当局・政府。独占に対峙させていく」ことを基本にすえるとした。
 新「指導方針」では、このように「労働者の権利確保をふくめた明確な協定に よって集約すると闘争」こそが、スト権が剥奪されているもとでの、職場からの新たな反「合理化」闘争の基調をなすものと考えられた。それは同時に、中央- 地方-職場のパイプを一層、緊密なものとする努力を全機関と全組合員に要請していた。特に職場つまり分会・班組織が、当時の国労ではまだ未確立であり、そ の強化が課題であった。この新「指導方針」はその後、67年7月の第28回定期大会(伊東市)で、一層、整理・理論化し、これを新しく反「合理化」闘争方 針に基づいて、反「合理化」闘争が展開されていった。

┌────────────────────────────┐
├○ 五万人「合理化」反対、EL・DL一人乗務反対闘争  │
└────────────────────────────┘

  1967年(昭和42)年3月、国鉄当局は、組合に対し、第三次長期計画のための近代化・合理化案を提示した。そのなかには事実上、68年までに5万人の 要員削減案が含まれていたし、EL・DL一人乗務問題や仕事の外注などが含まれていた。国労動労はこれらの提案に対し、断固撤回を求めるとの声明を発表 した。この頃、国労動労は、「合理化」反対闘争については、ほぼ同一歩調をとっていた。これらの提案以後、「合理化」反対闘争は本格化した。
  国労は67年4月1日、当局提案の「合理化」案に対し、職場からの抵抗体制の確立を指令し、この年の春闘は事実上、賃上げと「合理化」反対の二つの闘争の 結合となった。その後67年末には三次の順法闘争を行ない、68年2月から3月にかけては五次にわたる順法闘争を実施した。並行して、2月から3月にか け、反「合理化」統一行動日として、計6日にわたり、集団交渉、職場集会、地域集会、街頭宣伝、乗客大会を行った。また、67年12月15日のスト、68 年3月1日、工場関係者などの「篭城」闘争、3月2日、時限スト、3月23日、東京電車区ほか全国36拠点で実質3時間のストを実施した。そして、すでに 勝ち取っていた現場協議制の活用と相まって、職場団交でかなりの「成果」を挙げていたのは注目される。この結果、当局が実施しようとしていたEL・DL一 人乗務、電修場廃止などかなりの事項が先送りとなった。
 68年から69年にかけ、国労動労は10数回のストを初め、激しい「合理化」反対闘争 を展開した。そのピークは、EL・DL助士廃止反対などを中心とした69年10月31日から11月1日の14時間のストであった。その前後、国労動労と では、再三、方針の違いが生じたが、総評の仲介や支援を得て、「合理化」反対闘争は継続された。その結果、不十分さは残したが、助士制度を存続させ、 EL・DL乗務助士9,000人中、約3,500人の存置の確認、廃止助士については、機関士検査係へ逐次登用させる。時短や賃金での前進を勝ち取り、5 万人「合理化」に一定の歯止めをかけるのに成功した。2年以上にわたるEL・DL一人乗務などが決着をみた。この10月31日と11月1日の闘争に対し、 解雇66名を含む4,923名の処分が通告された。(目)指す必要条件がここにあった。
 国民との関係及び1,947年に結成された全日本交通運 輸労働組合協議会(全交運)との関係では、65(昭和40)年から交通問題研究全国集会(交研集会)が実施されるようになっていた。また、66年の運賃値 上げに際しては、広範な反対署名運動なども展開された。国民党の結合を深め、交通運輸労働者との連帯を強めつつ、「合理化」反対を初めとする国労の取り組 みは注目に値した。だが、職場の組合運動強化を始め、まだ多くの課題を残していた。