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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説 25

国鉄労働史

みなさま、こんにちは、今回も国鉄労働組合史を底本に私なりの解説を加えさせていただきます。

現場協議を取り込むことで組織拡大を図った国労

国労左傾化していった背景には、総評を含め多くの共産党系による幹部が組合に入り込んだことが問題であるということで、志摩委員長(鉄労)の書かれた本があります、国鉄二つの大罪 国鉄国民会議編 第四章 職場を崩壊させた国鉄労使という章があり、
国労ダブルスタンダードで、当局との癒着を図りながらも、現場段階では職制と現場労働者を対立させる構図を描くことで、職場の「人民管理」「組合管理」状況を作り出していき、組織の拡大強化を図ろうとする意図が見えていました。

実際、国鉄は元々国鉄一家と言われるほどに家族主義的であり、GHQ民主化要求による組合結成は、いわば命令的なものでした。
共産党GHQを解放軍と位置づけていたこともあり、共産党が組合設立に対してかなり深い部分で浸透したと言われています。
総評という組織も元々は、右寄りの民主的労働運動を目指す組織でしたが、共産党の秘密党員とも言われた高野実が事務局長になると、社会党左派と組んで総評を左傾化(平和四原則(簡単に言えば自由主義国を戦争勢力、中ソ等社会主義国を平和勢力とする前提に立つ原則)を可決した)旧産別化を図ってしまいました。

この影響で、国労内部でも分裂が起こり、国労内部の「民主化同盟が右派と左派」に分裂、左派は共産党(革同)と手を結ぶこととなりました。
ここで当局は主流派であった左派と手を組むことで国鉄自体が自縄自縛に嵌っていくこととなります。

以下少し長いですが、「職場を崩壊させた国鉄労使」の章から引用させていただきますと。

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高野実 画像wikipedia

*1

階級闘争を全面に出して、現場における職制との対立を露骨に示した職場闘争始まる。

この職場闘争方式が国鉄の職場全体に拡がったのは、昭和四十年の国労大会において”職場に労働運動を”のスローガンが掲げられ、職場段階における団体交渉権の獲得を目指すことが運動の基調となってからであった。
 「集団交渉の場こそ階級対立の第一線ですから、団交を通じて敵階級、すなわち経営側の第一線である現場長の態度を通じて、敵の方針や姿勢を具体的に知ることができるのです。
 そして要求を妨げているものは敵階級であるということを労働者に体験を通じて理解させることが要求を前進させるとともに重要なことなのです」
 「職制に対して敵対対立の関係にあるという意識を明確にし――略――職制が敵階級の最前線要員であると割り切ることが階級意識の基本であるとするなら、この非協力闘争を成功させるために組合員を十分訓練する必要があります」(昭和四十二年国労発行の職場闘争の手引きによる)
とこの職場闘争方式を解説しているのであるが、憎しみをあおり、非協力戦術を背景として職場の「人民管理」「組合管理」状況を作り出し、組織の拡大強化を図ろうとするところにこの職場闘争方式の狙いがあったことは明らかであるといえる。

現場での職制との対立を煽った国労本部

いわば、現場の助役や区長が労働者の要求を拒否しているという思い込みを現場労働者に押し付けること、さらには組合管理の組織を作って自分たちにとって行動しやすい組織を作ることにあったと言えましょう。
そして、その最たるものがマル生運動以降の昭和50年頃の国鉄であったと言えましょう。
その辺は、後ほど詳細に解説させていただきます。

 66(昭和41)年11月、国労は当局に、「現場における団体交渉制度確立」の申し入れを行った。だが国鉄当局は、
 (1)国労分会は交渉単位ではない
 (2)国鉄の現場長には交渉、処分権限はない
 (3)組合要求には「管理運営事項」に抵触するものがあると反論した。
 国鉄当局がもっとも警戒し恐れていたことは、当局主導の職場秩序が崩壊し、職場闘争・・・集団交渉(つるしあげ)-職制マヒと言った事態になるのではないかといった点にあった。

まぁ、当局としても「国労分会は交渉単位ではない」というのは当然の認識でしょうね。
国鉄の現場長には交渉、処分権限はない」こちらも同様、権限を持つのが管理局長であることを考えれば当然の理由であると言えます。
「組合要求には「管理運営事項」に抵触するものがある」、ここで出てくる管理運営事項というのは、いわゆる経営側の合理化案であったり、人事評価で会ったりする部分も含まれるわけで、いわば「特定秘密」といったほうが昨今では解りやすいでしょうか。
私も郵政局にいた頃はこの言葉は頻繁に聞かされましたね。この関係は、管理運営事項なので組合には出さないとか・・・っていう感じで。
というのも、郵政局では本省からの指示並びに独自に施策を考えてそれを実行するのが仕事ですから現場とは全く違う仕事でした。
(すみません、余談が入ってしまいました。)

現場協議制を導入するためにあらゆる方法を模索

 当局は「信用しがたいと応酬し、平行線をたどり、実質的議論に入ることも困難であった。そこで国労は「自主的解決の望みは断たれたと判断し、紛争は第三者機関の場へ移行した。(中央労働委員会)に委ねることとしたわけで、この辺の戦術は国労がJRに対して調停を申し立てたのと同様であり闘争の長期化を目指していたフシがあります。

「現場でなければ解決できない事項」=いわゆる22項目要求をまとめた。また、国労は、戦術上の配慮から、全国9ヵ所の調停委員会所在地の地本をモデル地本と決めた。

 国鉄当局としても、これは正直困ったと思いますが、これを認めてしまったことはその後の国鉄における現場協議制を導入する結果となり、国鉄における生産性を大幅に阻害する結果となったことは皆様ご存知のとおりです。
キハ47などはその典型ですね。

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播但線をゆくキハ40

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************************************以下は国労の資料になります。*******************************

┌───────────────────┐
├○ 現場団体交渉制度の確立要求と闘い │
└───────────────────┘

 66(昭和41)年11月、国労は当局に、「現場における団体交渉制度確立」の申し入れを行った。だが国鉄当局は、
(1)国労分会は交渉単位ではない
(2)国鉄の現場長には交渉、処分権限はない
(3)組合要求には「管理運営事項」に抵触するものがあると反論した。
国鉄当局がもっとも警戒し恐れていたことは、当局主導の職場秩序が崩壊し、職場闘争・・・集団交渉(つるしあげ)-職制マヒと言った事態になるのではないかといった点にあった。国労は、「当局は現場交渉についていたずらに不安の念を持っているようであるが、ルールさえしっかり決めれば、心配はない」と応じたが、当局は「信用しがたいと応酬し、平行線をたどり、実質的議論に入ることも困難であった。そこで国労は「自主的解決の望みは断たれたと判断し、紛争は第三者機関の場へ移行した。
 国労本部は全国の組織の実体を調べ、「現場でなければ解決できない事項」=いわゆる22項目要求をまとめた。また、国労は、戦術上の配慮から、全国9ヵ所の調停委員会所在地の 地本をモデル地本と決めた。9地本を選んだ意図は、闘争が長期化し、労使による自主解決が困難となった時。再び地調委を活用せざるを得ない。とすれば、地本の力量だけでなく、各調停委の傾向も考慮して闘いの展望を見極めることが必要だったからである。
 67年3月頃から、下部機関に対し、
 ① 労働条件に関する事項について団交すること。
 ② 団交で了解点に達した事項は文書にし両当事者が署名調印することを力点に指導した。地調委に対する取り組み上、モデルとされた地本の中でも、特に三地本(門司・仙台・福島)が、67年6月、調停を申請した。67年7月の第28会大会(伊東市)で、国労は、この問題について総括し、今後の方針を決定した。
 ① 今後の問題の中心は職場団交権の確立にあること
 ② 当局は抵抗を止めないだろうが、モデル地本の闘いを強め、第三者機関を活用し、最終的に当局を拘束していくようにしたい
 ③ そのため、闘いの進展状況を職場まで徹底し、職場での交渉体制を組織的に定着させるため分会大会で交渉委員を指名するなど中央・地方の体制を強化し、第三動者機関の動きにも即応できるようにし、職場要求に基づく当局交渉を強化するというものであった。 

*1:高野 実(たかの みのる、男性、1901年1月27日 ~ 1974年9月13日)は、日本の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長。この人が総評に入ったことで、総評自体が左傾化してしまい、GHQ労働組合担当者から「chicken(臆病者)から lame duck(役立たずになった」と言われています