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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説 26

みなさまこんにちは、気が付くと2週間以上も放置状態になっていました。
申し訳ございません、取り急ぎ簡単ではございますが、アップさせていただこうと思います。

終戦20年本格的な高度経済成長で、日本は豊かに

昭和42年とはどんな時代だったのでしょうか、経済成長は著しく、公害問題を内包しながらも、そのスピードは加速していたようです。
世相をさらっとみてみますと、「立ち食いソバ」が全国に出現したのもこの頃であり、大阪梅田の阪急デパートで、阪急ブレーブス(現オリックス)の初優勝を記念してバーゲンセールを実施したそうで、これが優勝記念セールの始めらしいです。
また、「核家族」「昭和元禄」「中流意識」と言った言葉が流行語となり、もはや戦後ですらないというのが一般的な人々の中での意識と言えましょう。
さらに、クルマ好きな人ならば、東洋工業コスモスポーツ」(世界初のロータリエンジンを実用化)や、TYOTA2000GTが発売された年でもありました。

国全体は豊かになり、労働運動も、三池闘争にみられた労使対決は徐々にその姿を消し、労使協調の方針が民間会社を中心に起こっていきました。
働くことで、可処分所得が増えるという好循環が、いたずらに労使対立を煽ることを開ける傾向があり、総評系の構成員は減少し、労使協調路線の同盟系が伸びると行った現象も顕著になっており、求職よりも求人数が上回る「労働力の売りて手市場」になった時代でもありました。

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TOYOTA2000GT(画像 wikipedia

007は二度死ぬ」のボンドカーとしても使われましたね。

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MAZUDA Cosumo Sport  (画像 wikipedia

帰ってきたウルトラマンのマットビハイクル に使われましたね。

matome.naver.jp

それでも、既存路線を捨てられなかった国鉄

それでも、国鉄は既存の路線を捨てることができず、(革同)共産党を中心としたグループが強い職場を中心に、現場協議制を導入させようとする運動が行われました。

結果的には、労働の運動は実を結び、渋る国鉄当局に対して、現場協議制を導入すべきという勧告を受けるなどの是正措置を受けることになります。

それも、かなり強引な手法だったのですが、その辺は引き続き本編を読んでいただければと思います。

概要はこの程度とさせていただき、当時の労働白書を参照しますと。以下の様なことが書かれています。

労働白書に見る労使関係

 労使関係

  1.  概観

    労働組合の組合数,組合員数は42年にも引き続き増加したが,38年頃からみられる組合員数の増勢鈍化傾向は一層顕著になり,42年の増加組合員数は前年のそれを大幅に下回り,30年以降で最も少なくなっている。
 組織率も前年にくらべわずかではあるが低下した。
 一方,労働運動の面では春闘が折柄の好況を背景として展開されたため全般的に争議にまで発展するものは少なく,戦後最高といわれる妥結額をもって平穏裡に終熄した。また,秋季闘争においても,ベトナム反戦,沖縄,小笠原返還,公務員給与の大幅引上げ等をかかげて展開されたが,前年の秋季闘争ほどの盛り上りがみられず低調に推移した。そのため労働争議の件数,行為参加人員,労働損失日数とも前年より大幅に減少し,労働損失日数では戦後の最低,行為参加人員でも26年以降の最低となった。

 

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とあるように、民間ベースでは生活の向上を実感できる環境になりつつ有ったと言えましょう。

その反面、国鉄では革同(共産党系)と呼ばれる派閥が中心となって、職場内闘争という対立を煽る方式を協力に推進結果的には国民の国鉄離れ、最終的には国鉄分割民営化への道筋への遠因を作ったと言えます。

特に、職場闘争方式を最初に展開したのは共産党系の強い職場であると言われています。
この職場闘争での考え方は、志摩好達の国鉄労働運動史から引用させていただきますと。

   この反合理化の考え方は、資本主義社会における合理化は資本主義の延命に力を貸すものであり、結局は労働者には首切り等の犠牲だけが回されるとの認識に立っているのである。
 もとよりこうした、労使関係を資本主義社会における階級対立の場と捉え、現在の体制を否定するという教条主義的なイデオロギーが今日の社会の中で通用する訳もない。
 これがいわゆる国労の「タテマエ」諭である。

とあるように、階級闘争なるものが民間では企業では考えられない時期(求人が雇用を上回るほどの過剰求人状態であり、働けば給料が増える状況の中で階級闘争をする意味はなく、むしろ労使協調路線を進むことが有利であり、この時期多くの民間企業では労使協調路線に移りつつあり、労使紛争も過去最低を記録することとなりました。

そしてその真逆を行ったのが国労であり、各地方調停委員会に調停申請を行い、「分会組織代表者と現場の長との間において交渉が行えるようにすることが適当である」というとんでもない答申を獲得しています。
概ね、地方の調停委員の場合、労働者側有利に答申する場合が多いのですが、これはかなりダメージは大きかったと思われます。

  67年6月、門司、仙台、広島の三地本は、福岡、仙台、広島の各地方調停員会に調停申請を行った。10月、福岡で国労の申請を全面的に認め、「現行の、交渉ルールにくわえて、申請のあった分会組織代表者と現場の長との間において交渉が行えるようにすることが適当である」という画期的な調停案が出された。

  公労委では、国労が提出した「現場で解決すべき22項目」は、現場長の現実的処理事項を丹念に洗い出したものであり、仲裁委員会を説得するには大いに効果があった。仲裁委員会は、非公式に「この事実に直ちに仲裁裁定を出すことには問題があり、労使の紛争を解決するために、できれば勧告を出すことにしたい」旨、打診したうえで、67年12月19日、勧告が提示された。第一に、現場交渉制度に関する基本的な考え方として、「現場に発生する紛争はなるべくその現場に近い労使のレベルにおいて迅速かつ実情に祖臆した解決をはかることが望ましい」とし、第二に、勧告の具体的内容の一つとして、「駅・区及び自動車営業所における労使紛争の円滑かつ平和的な解決をはかるため、組合の分会に対応する労使の間に現場協議機関を設けること」なぢ、いくつかの具体的提案がなされた。勧告の受諾を迫る実力行使。

そして、難色を示す国鉄に対して全国規模の順法闘争を実施し、年末反「合理化」闘争と結合し、現場団交権確立要求した。

今から考えれば、当局の弱腰かとも取れるのですが、この時点で勧告の受諾を受けれてしまったのは、職場荒廃の第一歩となってしまったと考えてしまいます。
その背景を考えるときに、「旺盛な貨物輸送を止めることはできない。」という意識が働いたのではないかと思います。実際に、こうした事件の8年後に起こるスト権ストで、実際には国鉄のシェアが大きく下がっていることに気がつくのですが、其れはもう少し先の話になります。

  国鉄当局は打診の段階から難色を示し、勧告後も容易に受諾しなかった。国労は12月5日、勧告の内示後、全国規模の順法闘争を実施し、年末反「合理化」闘争と結合し、現場団交権確立要求した。この実力行使を背景とする徹夜交渉で、15日未明しぶる当局をして勧告の受諾を余儀なくさせた。「現場協議制度」という名称で新たな制度を発足させること、その時期は68年7月1日労使の合意が成立した。だがその制度の協約化への当局の姿勢は固く、68年に入ってもまだ消極的であった。国労は、5万人反「合理化」闘争の第二の山場の3月闘争を背景に、再び当局の抵抗を封じ、団交をつうじ協約化を図ることにした。3月23日、闘争はストを配置したヤマ場をむかえ、13地本傘下の数十拠点でストが実施された。徹夜交渉が行われ、「現場協議に関する協約」化の労使合意が成立した。

国労は、官公労階級闘争に基づく「戦闘的労働運動の旗を一層高く掲げて進むことになった」と書かれていますが、結果的にはこうした運動が国鉄を民営化に導き、大量の国労組合員から馘首を出すことになるのです。

歴史にIFはないですが、もしこの時点で労使協調路線にいち早く国鉄がかじを切っていたならば国鉄が民営化することもなく、また民営化していたとしても全国一体(場合によっては、JR東西に分割)となっていたかもしれませんが、今ほどの問題にはなならなかったと思われます。

> 民間の組合の多くが協調型労働運動に移行し、官公労にも迫っていたこの時期に、国労は職場を基礎に戦闘的労働運動の旗を一層高く掲げて進むことになった。

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************************************以下国労の本文となりす。**********************************

┌───────────────────┐
├○ 現場団体交渉制度の確立要求と闘い │
└───────────────────┘

 67年6月、門司、仙台、広島の三地本は、福岡、仙台、広島の各地方調停員会に調停申請を行った。10月、福岡で国労の申請を全面的に認め、「現行の、交渉ルールにくわえて、申請のあった分会組織代表者と現場の長との間において交渉が行えるようにすることが適当である」という画期的な調停案が出された。国労は若干の不満はあったが、これ以上のものを期待するのは困難だとして三調停安とも拒否したため、国労は仲裁に移行することにした。
 公労委では、国労が提出した「現場で解決すべき22項目」は、現場長の現実的処理事項を丹念に洗い出したものであり、仲裁委員会を説得するには大いに効果があった。仲裁委員会は、非公式に「この事実に直ちに仲裁裁定を出すことには問題があり、労使の紛争を解決するために、できれば勧告を出すことにしたい」旨、打診したうえで、67年12月19日、勧告が提示された。第一に、現場交渉制度に関する基本的な考え方として、「現場に発生する紛争はなるべくその現場に近い労使のレベルにおいて迅速かつ実情に祖臆した解決をはかることが望ましい」とし、第二に、勧告の具体的内容の一つとして、「駅・区及び自動車営業所における労使紛争の円滑かつ平和的な解決をはかるため、組合の分会に対応する労使の間に現場協議機関を設けること」なぢ、いくつかの具体的提案がなされた。勧告の受諾を迫る実力行使。
 国鉄当局は打診の段階から難色を示し、勧告後も容易に受諾しなかった。国労は12月5日、勧告の内示後、全国規模の順法闘争を実施し、年末反「合理化」闘争と結合し、現場団交権確立要求した。この実力行使を背景とする徹夜交渉で、15日未明しぶる当局をして勧告の受諾を余儀なくさせた。「現場協議制度」という名称で新たな制度を発足させること、その時期は68年7月1日労使の合意が成立した。だがその制度の協約化への当局の姿勢は固く、68年に入ってもまだ消極的であった。国労は、5万人反「合理化」闘争の第二の山場の3月闘争を背景に、再び当局の抵抗を封じ、団交をつうじ協約化を図ることにした。3月23日、闘争はストを配置したヤマ場をむかえ、13地本傘下の数十拠点でストが実施された。徹夜交渉が行われ、「現場協議に関する協約」化の労使合意が成立した。
 名称は現場協議制だが、内容は現場団体交渉制度であった。68年7月の第29回定期大会(大阪市)では、この闘争について詳しく総括した。すでに民間の組合の多くが協調型労働運動に移行し、官公労にも迫っていたこの時期に、国労は職場を基礎に戦闘的労働運動の旗を一層高く掲げて進むことになった。

続く