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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 27

みなさまこんばんは、本日は昭和40年代の労働争議ということで、書かせていただこうと思います。

この時期の国労ストライキは殆どが政治スト呼ばれるものが多く見られました。


景気の上向く中で、民間の組合は労働争議字体が沈静化というか、右傾化して労使協調路線に向かう中、国鉄を含む公労協では階級闘争と政治的ストライキが行われていました。

そんな中で、国労は、「反戦・平和と民主主義擁護」と位置づけベトナム戦争反対の運動を繰り広げました。この辺は動労も同じような足並みであったと思われます。

さて、ここで簡単にベトナム戦争とはどんな戦争だったのかを振り返ってみたいと思います。

第二次世界大戦ベトナムはフランスの植民地となっていましたが、戦後は多くのアジアの国による独立運動が起こったことでも判るように、ベトナムでも、独立運動が再び起こります。

太平洋戦争が終結した昭和20年(1945年)9月には北部にホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟がベトナム民主共和国を樹立し独立することを宣言します。

しかし、そうした独立国を認めたくないフランスは、南部に南ベトナム(1945年9月2日~1976年7月2日)を設立(国の名称はベトナム国他といくつか変遷があります。)

第一次インドシナ戦争と呼ばれるもので、8年間の戦いはフランスの敗北で終わり、親米政権の南ベトナムベトナム共和国)が誕生するのですが、汚職まみれの国情は決して褒められるものではなかったそうです。
この時点では、アメリカは、積極的な軍事介入を行なっていなかったのですが、北ベトナムソ連(現在のロシア)が援助していることに危機感を感じたアメリカは積極的に介入することになります。

そこで、アメリカは(トンキン湾事件)と呼ばれる、謀略を働き、北ベトナムの攻撃を受けたとして、積極的に北ベトナムに介入することとなりました。

アメリカは、1964年8月2日と8月4日にベトナム沖のトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃(トンキン湾事件)、実際は、「トンキン湾」事件自体はアメリカの捏造(1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、事件はアメリカ合衆国が仕組んだ物だったことを暴露)であったわけです。

その後積極的に、アメリカは北ベトナムを攻撃、太平洋戦争の実に10倍以上の砲弾が飛び交い、アメリカでも戦死者や重傷者が続発、アメリカ本土での反戦運動も広がり、当時アメリカが唯一負けた戦いと言われたものでした。

日本に目を向ければ、今の団塊の世代の人たちが大学生で青春を謳歌していた時期であり、反戦フォークと呼ばれるフォークソングが流行したのもこの時期でした。

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また、現在慰安婦問題などでもめている、「日韓条約」ですが、当時は実は保守派というよりも左翼が強硬に反対していましたし、韓国自体がこの条約の批准に反対していました。しかし、アメリカの意向もあって、批准が強行されたように見えます。

ところで、当時の交渉の様子をwikipediaから引用させていただきますと。
日本側代表の外務省久保田貫一郎参与と韓国との間で意見の相互の食い違いが見られ、その話を今また韓国の国は繰り返していることには失望を禁じえません。

 第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎によれば、10月6日の第3次会談以前までは、原則 的なことではなく、未払い給料、文化財、水産関係の事案などの事務的な交渉を行ったいたが、第一大邦丸事件や韓国の民兵による竹島上陸などの実力行使を背 景に、10月以降の会談では韓国側は既成事実の圧迫の前に全問題を一気に解決しようと図り、事務的なことから本質的な議題へと移ったところ、後に「久保田 発言」として知られる10月15日会談での韓国併合などの歴史認識問題にいたった。

 1953年10月13日の会談で久保田参与は、日本は戦争中、東南アジア諸国で掠奪や破壊をしその賠償をしようとしているが、韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない、万一あるなら賠償すると述べた。
 久保田発言

 1953年10月15日の会談で、韓国側が、日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり本来なら韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺、韓国人 の基本的人権の剥奪、食料の強制供出、労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っていると述べたところ、久保田貫一郎が日本は植林し、鉄道を敷設し、 水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろうと反論し、また米国による日本人資産の接収は国際 法に違反していないと考えるし、違反してたとしても米国への請求権は放棄したと回答した。この久保田の発言に対して、「植民地支配は韓国に害だけを与えた と考えている」韓国側からは、妄言として批判され、日韓会談は中断した。

久保田参与による説明(1953年10月27日参議院)久保田発言 韓国の主張 久保田貫一郎参与の主張

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 次に、

この辺りの国労側の言い分を見てみましょう。

引用元 3.公労法のもとでの戦い - 国鉄労働組合名古屋地方本部

日韓条約をめぐって、社会党共産党は、総評を間にした「ブリッジ」方式で共闘し、5次にわたる闘いを組織した
6月に日韓条約が締結され、11月7日に委員会で条約承認が強行され、これに抗議する9日の統一行動には、全国で延べ60万人、中央で18万人が集会・デモに参加した
12日にわずか2分で本会議で採決が強行され、この暴挙に12日から13日にかけ、国労は抗議ストライキで闘かった

とあるように、政治ストとして、違法ストライキを敢行しています。

特に北爆が開始された10月21日以降は米軍へのジェット燃料の輸送が増えたと言われており、これが昭和42年(1967年〉8月8日の「米軍燃料輸送列車事故 」で大きくその問題点がクローズアップされることになるのですが、この辺りはまた別の機会にさせていただきます。

国労動労はこうした政治ストに介入するようになっていくこととなりました。

翌年には、ベトナム戦争で北爆が開始された10月21日を総評は「国際反戦デー」と位置づけ、全国各地で「10・21国際反戦行動」が展開されたそうです。

国労も、国労は総評方針を全面的に支持し、10・21ストライキを決行、停職51人をはじめとする処分があったものの、解雇者はなくて、ベトナム反戦闘争の国民的ひろがりと共感を反映するものとなったと言われています。

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***********以下国労の資料になります。************************************************

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├○ 反戦・平和と民主主義擁護の闘い  │
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 60年代後半、国労は、反戦。平和・民主主義擁護の闘いにも力を注いだ。この時期、アメリカのベトナム侵略戦争は、ハノイ・ハイフォンなど北爆のほか、 ラオスカンボジアにも戦域を広げた。日本政府=佐藤内閣は、安保体制強化を鮮明にした。B52型戦略爆撃機の沖縄発進や原子力艦隊の日本寄港など、日本 の基地は、ベトナム戦争におけるカナメの役割を担った。また、日本と韓国の緊密な諸関係を一層強めようとする日韓条約批准が強行された。
 国内では高度成長の矛盾として、物価上昇、住宅、交通、保健衛生、教育、社会保障、構外や産業災害など様々な問題が噴出した。佐藤内閣は、「小選挙区 制」の導入、言論統制のねらいをもつ刑法改悪、健康保険法の改悪や紀元節復活の思想宣伝や教科書検定など教育の反動化を推進しようとした。
 労働者、国民は、不公平税制反対、運賃、諸物価値上げ反対、健保・共済制度・刑法改悪反対、教科書検定の強化反対、小選挙区制粉砕など諸要求を掲げ、統 一行動を展開した。国労は労働者、国民の闘いの一環として、日韓批判条約批准反対、ベトナム反対闘争と軍需輸送阻止闘争、70年安保などで奮闘した。

続く