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鉄道ジャーナリストblackcatこと加藤好啓の思索帳

鉄道ジャーナリストこと、blackcat、ちょっと硬めの内容を中心に時々書いてみようと思います。

国鉄労働組合史詳細解説 34-1

国鉄労働史

みなさま、こんにちは。

本来ならもう少し早く更新すべきだったのですが、遅くなってしまいました。
今回も、マル生運動について書いてみたいと思います。
マル生問題については著書も多く、その中から取捨選択してよりわかりやすい内容でお伝えしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

マル生運動の始まり 総裁交代と新しい国鉄をめざして

国鉄総裁が、石田禮介氏から磯崎叡氏に交代、新しい方策として、マル生運動が生産性本部の協力を得て導入されたことは前述のとおりです。

f:id:whitecat_kat:20150918094317j:plain磯崎叡 第6代日本国有鉄道国鉄)総裁

国鉄における職員局で当時「職員局能力開発課長」として国鉄の生産性運動の陣頭指揮された、大野光基氏の著書「国鉄を売った官僚たち」から何項目か引用させていただきます。

国鉄労働運動に関する私見

その前に、少しだけ私見を述べさせていただきます。

国鉄の場合、運賃も賃金も肝心の処は国に押さえられていたことから、組合としても当事者能力がないと言うか著しく制限されている国鉄総裁を軽く見る傾向があり、そこに国労などに「階級闘争」の考え方が反映されていたことから、国鉄労働者の中ではそれこそ、「働いたら負け」的な意識が蔓延していました。

すなわち、「賃金が経営状態と関係なく、民間企業の水準を参考にして他動的に定まる」ということは、非効率にする方が人が多くいることとなり組合員は増えます。
組合員が増えれば当然、組合費が潤沢になる。
 逆に国鉄は、経費が増える分を運賃値上げなどで補うことになるのですが、そこで今度は、組合は「運賃値上げ反対」と言ってストライキをする。

そんな悪循環でした。さらに問題なのは、国鉄改革の最も悪玉に挙げられたのがローカル線ではなくて実は鉄道貨物であったということです。

貨物輸送は、原油・石炭など第1次産品を輸送する「車扱貨物」*1と呼ばれるものが主流でこれはヤードを経由するために到着時期が不明確と言う問題をはらんでいました。

 

さらに、こうした運賃は政策運賃として比較的低廉に抑えられていたこともありました。(輸送費を出来るだけ安くすることで、物価の上昇を抑えようとする意図がありました。)
しかし、ここでも国労動労は石油や石炭などが安価な運賃で輸送されるのは、資本家階級を利することになると攻撃して貨物運賃の大幅値上げなどの闘争をすることになります。

結果的にこうした組合中心の考え方が結果的には、貨物輸送の衰退につながったことに注目する必要があると思います。。

 著者は、この二つが、職員に対する経営の威信を傷つけ、労働運動を一層先鋭化させたとする。経営が賃金を決められないなら、労働者側が、経営を軽く見るのは道理である。

 「賃金が経営状態と関係なく、民間企業の水準を参考にして他動的に定まる慣習が定着するにつれ、国労動労の運動は『賃金獲得』ではなく『勤務の 緩和』を成果とする方向に動いた。金がルーズになり、効率が悪ければ悪いほど組合員の数は増加し、組合費は潤沢となる。賃金は経営が良くてもそれを反映し て増えることはなく、悪化しても減少しない。国鉄が浮沈艦ならば非効率こそ組合の利益である。」(本書p.58)

 組合運動の先鋭化には、このような民間企業では考え難い労使関係に加えて、1969年以降のマル生運動の挫折という経緯が関係してくる。1969年、当時の磯崎叡総裁は赤字脱却を目指して「生産性向上運動」(マル生運動)という職員の意識改革運動を始めた。

www.nikkeibp.co.jp

マル生運動の概要

 国労の記述からの引用では

職場で「マル生」運動が公然と行われるようになったのは、1970年秋に入ってからである。この段階で、不当労働行為が全国的に行われるようになり、「国 鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などのインフォーマル組織が全国各地に広まった。「マル生」教育を受けた現場管理者が、「俺がやらねば誰がやる」と いう意気込みで運動を展開し、それに賛同する。「マル生」活動家たちが、全国の職場で一斉に推進運動を展開し始めた。

 

 

f:id:whitecat_kat:20150927110905j:plain

かって電車にはこのような落書きがされることも多く、特にマル生運動対策は、国労動労ともに一番の攻撃目標でした。

組合員が脱退していくと言う恐怖

マル生運動が始まると、元々現場の国鉄職員は新制中学を出てそのまま就職した人も多くいわば純粋でしたので、こうした運動により国労からの脱退者が後を絶ちませんでした。

そこで、国労としても脱退者対策を考えます。

「革同派」と「協会派」は組合員を直接動員して徹底的に対抗させるという方針を出しましたが、それでは、組合員の解雇を覚悟せねばならずあまりにも犠牲が大きい、そこで、民同左派は、マスコミ等を利用する方針を決定し、実行に移していきます。

そのあたりが下記の「国労側の焦り」に集約されていると思います。

有効な反撃手段が見つからない国労側の焦り

 71年1月の国労中央学校では、正月返上で、「マル生」対策討議が行われた。その後71年春闘前後から、組織の浮沈をかけた反撃が開始された。まず職場 からの告発闘争(「確認メモ」のとりかわし」)が行われたが、労務管理の実体は変わらなかった。71年春闘では、公労協の他の組合がストを中止した5月 20日、国労動労は共闘態勢を崩さず、19時間のストを決行し、当局と一定の確認が行われたが、「処分のための処分はしない」としながらも、政府の強い 働きかけもあって大量処分が行われたし、「マル生」グループによる全国生産性大会の企画も推進された。国労は「マル生」を中止させ、組織を維持し、当局の 攻撃を封じるキメ手を欠いていた。

 国労の対策

国労としては、マスコミ等を使って抵抗する方針を発表、しかしこれが思う以上に成功して、19時間スト以降は国鉄当局側でもかなり動揺することとなっていきました。

中川本部長は代議員からサイドの決意表明を求められた。委員長は 改めて、「座して手をこまねいていても現在の組織は守れず、くみしやすいと見たとき相手はますます攻撃を強化して、終局には全面的武装解除を迫ってくるこ とは必至である。したがって私たちは、抵抗こそ最大の防御であると言う原則に則り、マル生運動粉砕、特に不当労働行為、不当差別を即刻やめさせるためにた たかう、この方針を中央指導部は皆さんとたたかいの先頭に立って、最後までたたかい抜くことをお誓いいたします」との決意を明らかにした。この決意表明 は、満場の代議員の支持を得て承認された。

国労の反撃 マスコミ活用

この辺については、大野光基氏の著書「国鉄を売った官僚たち」から引用させていただきます。

そこで国労企画部長・富塚三夫の立てた対策は、社会主義協会の人たちとはまるで違っていた。
 「私は磯崎氏を中心とする官僚支配体制が一番弱いのは何かということを考えた。これはマスコミが一番弱い。
 ぼくはそういうふうに官僚の体質の弱さを見抜いて、新聞記者のところに駆け込んで、いろんな内容を全部社会的に告発し、暴露することをやったわけです。
 それが異常なほどに社会的関心を呼んで回りだしたなかで、相手に動揺のきざしがみえてきたことが一つあります」(『国鉄マル生闘争資料集』より)

 そこで、徹底的にある意味あることないことを新聞社に持ち込んだと言われています。

その経費だけで当時の金で5億とも6億ともいわれる巨額なものでした。

さらに続けます。

 富塚の狙いは見事に的中する。
 五月二十日の十九時問ストの闘争を契機に、早くも、副総裁・山田明吉が動揺を見せ始めたからである。
 副総裁はたった十九時間のストに驚いて、生産性教育が不当労働行為だという国・動労の言い分を認めるような微妙な発言を行っている。
 この頃すでに山田は国労社会党にとっては大変にありがたい人物になっていたようで、五月二十日前後には、かなり裏取り引きがあったようだ。

この証言はかなり重要ですね、副総裁が早々と「生産性教育が不当労働行為」ではないかと言い分を認めるような発言をしだした。

官僚特有の保身に走ったと言えそうです。

その後も、マスコミは徹底的に新聞等でマル生は国鉄の不当労働行為ではないかと運動を始めます。

再び同書から引用させていただくと。

 マスコミのキャンペーンは九月十七日の「国労、当局者のひ免要求、マル生運動」(『朝日』より)から始まった。
 少々長くなるが、その後のフィーバーぶりを『朝日』と『毎日』を中心に紹介してみたい。
 九月十八日 ごほうび千円、五・二〇スト不参加者に、国鉄労使また”紛争”のタネ?「報いるのは当然」当局。(毎日)
 九月十九日 「マル生」の不当労働行為、総評が大調査団、国会議員ら100人を派遣、国鉄当局”告発”へ。(朝日)
 九月二十日 今日の問題、千円の報賞金。(朝日)
 九月二十一日 マル生粉砕、突破口探る国労動労、”不当行為”74件やり玉、特捜班作り、反撃の構え。(朝日)
 九月二十二日 マル生運動の現地調査始まる。総評、大阪・天王寺で。(朝日)
 九月二十三日 悪質な組織破壊、国鉄当局の差別、不当労働行為明らか、近畿地方マル生調査団語る。(朝日)
 九月二十三日 ”アタマ”にきたマル生運動、「作業員はヘルメットかぶれ」「規律のしめつけがねらいサ」。昇給・昇格ストップも出る、いがみ合う国鉄の労使。(朝日)
 九月二十四日 ”マル生”で共闘態勢、国労動労、全通の三単産。年末闘争に波乱予想。(朝日)
 九月二十六日 マル生、乱闘騒ぎ、鹿児島の大会。参加者と労組側千八百人もみ合い。(朝日)
 九月二十九日 「国労脱退ハンを押せ」国鉄、”マル生”で新手、駅長ら事前に作成、ごちそうしてダメ押す、国労発表。(朝日)
 九月三十日 「マル生で自殺続出」国労発表、当局「組合の突上げが悪い」(朝日)
 十月一日 労相が乗出す用意。国鉄の不当労働行為、総評代表らに言明。(朝日)
 十月一日 国鉄労使の反省求める――生産性本部。(毎日)
 十月五日 マル生大会緊迫、大阪。(朝日)
 十月六日 マル生運動、ドロ沼の国鉄労使。(毎日)
 十月七日 マル生運動、不当労働行為と認定、国鉄に陳謝命令へ、公労委国労申立ての五件(六件のうち)。(朝日)
 十月七日 私は証言する――「昇職試験合格エサに国労脱退説得された」(毎日)
 十月七日 国労切りくずしの秘密文書。総評調査団国鉄道総局を追及。(朝日)
 十月八日 国労が損害賠償訴訟などきめる。吉井さんの自殺。(朝日)
 十月八日 肩落とす当局側「取消し訴訟も検討」マル生運動の公労委通告。(朝日)
 十月在日 マル生問題原点に返り反省。国鉄総裁、労相と会談。軌道修正はせぬ、磯崎総裁強気の会見。国鉄「マル生紛争」の行方、ほど運い収拾の道、労組、組織をかけて抵抗。(朝日)
 十月九日 追いつめられた労働者――国労と全通・2人の自殺。マル生万歳と遺書、古川さん。(朝日、夕)
 十月十日 不当労働行為はうまく……マル生で幹部訓示、水戸鉄道管理局国労が録音テープ。(朝日)
 心一月十{目 。ビル生”国鉄が折れる、「公労委命令に従い陳謝」(朝日)
 十月十二日 国鉄労使交渉を再開、副総裁と国労委員長。(朝日)

マスコミを上手く使ってマル生運動をつ塗すことに成功した国労でしたが、その10年後今度は同じマスコミに国労ヤミ手当不正受給などを暴かれて結果的に自分たちの首を絞めたのは歴史の皮肉と言えましょう。

なお、本編は長くなるので、後半部分は改めてアップしたいと思います。

 

*************************************以下、国労の資料になります。******************************

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第6節 国鉄マル生運動の展開と国鉄労働組合のマル生
   粉砕闘争

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 2 国鉄「マル生」運動の展開
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├○ 管理局から現場への「マル生」運動の浸透と鉄労の育成 │
└────────────────────────────┘

職場で「マル生」運動が公然と行われるようになったのは、1970年秋に入ってからである。この段階で、不当労働行為が全国的に行われるようになり、「国 鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などのインフォーマル組織が全国各地に広まった。「マル生」教育を受けた現場管理者が、「俺がやらねば誰がやる」と いう意気込みで運動を展開し、それに賛同する。「マル生」活動家たちが、全国の職場で一斉に推進運動を展開し始めた。また、管理局の指導で、現場段階では 業務の一環として「マル生」運動が実施された。その担い手は、区長・駅長・助役・運輸帳といった現場管理者が中心であった。彼らは、「国鉄における生産性 運動の意味・必要性」について語り、「創意と工夫、改善への不断の努力」を職員に要請した。それと不可分に、「生産性運動の展開と組合の階級闘争主義」批 判を加え、「組合依存度の高い職員」、すなわち、国労動労組合員に対する「接触の仕方」、「対応の仕方」なども語られた。さらに、スト規制対策の強化、 分会等の影響力の排除、そのための個別職員管理の強化、試験制度の恣意的選別的運用によって、昇格、昇給の差別を強めた。
 他方、「マル生」運動に全面的に賛成する鉄労は、現場で「マル生」グループの結成と育成に現場管理者と一体となって努めた。
 そして、当局…鉄労…「マル生」グループの一体化VS国労動労という対抗関係の中で、不当労働行為が蔓延した。69年10月の鉄労第二回大会以来、鉄 労は、「10万組織の達成(当面「8万組織の達成」)を課題に、「近代的・労使協調主義の確立」を叫び、国労動労を糾弾し、当局の意を体した脱退勧奨、 鉄労加盟要請を行った。71年10月の鉄労第4回大会では、「10万組織の達成を成し遂げた」とし、「国労を追いこせを合言葉に」、一層の組織活動の展開 を強調した。

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 3 国鉄労働組合の「マル生」粉砕闘争
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┌──────────────┐
├○ 国労の反撃と国労函館大会│
└──────────────┘

 国労は、70年秋頃までは、まだ「マル生」運動をそれほど深刻に受けとめず、闘いの力点は「反合闘争」と「スト権奪還闘争」に置かれた。だが、70年 11月から12月、国労本部にとってショッキングな自体がいくつかの地本で起こった。それは、全国規模で拡大する様相を示した。国労動労からの集団離 脱、鉄労への集団加盟と言う事態である。連日、現場から報告されるその実態は、従来の組織攻撃とは、規模、手段とも全く異質であった。
 71年1月の国労中央学校では、正月返上で、「マル生」対策討議が行われた。その後71年春闘前後から、組織の浮沈をかけた反撃が開始された。まず職場 からの告発闘争(「確認メモ」のとりかわし」)が行われたが、労務管理の実体は変わらなかった。71年春闘では、公労協の他の組合がストを中止した5月 20日、国労動労は共闘態勢を崩さず、19時間のストを決行し、当局と一定の確認が行われたが、「処分のための処分はしない」としながらも、政府の強い 働きかけもあって大量処分が行われたし、「マル生」グループによる全国生産性大会の企画も推進された。国労は「マル生」を中止させ、組織を維持し、当局の 攻撃を封じるキメ手を欠いていた。
 71(昭和46)年8月の国労第32回定期大会(函館市)は、「マル生」運動に反撃しうる組織力量の結集と意思統一、闘争体制の確立の大会となった。運 動方針案では、「マル生」運動とそれに対する国労の取り組み。71年春闘の総括が示されたが、そこでは、この闘いにおける指導部の自己批判と今後の闘いの 指針が提起された。方針討議の過程では、本部への批判や不満も多く出され、異例なことに、中川本部長は代議員からサイドの決意表明を求められた。委員長は 改めて、「座して手をこまねいていても現在の組織は守れず、くみしやすいと見たとき相手はますます攻撃を強化して、終局には全面的武装解除を迫ってくるこ とは必至である。したがって私たちは、抵抗こそ最大の防御であると言う原則に則り、マル生運動粉砕、特に不当労働行為、不当差別を即刻やめさせるためにた たかう、この方針を中央指導部は皆さんとたたかいの先頭に立って、最後までたたかい抜くことをお誓いいたします」との決意を明らかにした。この決意表明 は、満場の代議員の支持を得て承認された。
 大会終了後、国労は職場からの不当労働行為の全面摘発運動を展開し、労務管理の手引きや「生の録音テープ」などを入手し、その後の闘争に役立てることができた。

 

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*1:かつて車扱は、貨物輸送の主流であった。しかし、トラックから貨車に荷を積み替える手間がかかることや、情報化の遅れ、操車場で編成を組み替えながら 継送する輸送システムに起因する目的地までの到達時間の長さや到着時刻の不確定さなどの理由で、国鉄末期にはトラック輸送やコンテナ輸送に移っていった。 現在の車扱輸送は、石油や化学薬品、セメント、鉱石など、大量の荷物を一度に輸送するものに限られている。wikipediaから引用