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国鉄労働組合史詳細解説 36-2


34 - 国電乗客暴動 - 1973

すみません、2週間もまた空けてしまいました。

本日も書かせていただこうと思います。

今回は、上尾事件と首都圏国電事件ということでこの辺を少し掘り下げて述べてみたいと思います。

上尾事件とは?

最初に上尾事件とはどのような事件だったのか簡単に振り返ってみたいと思います。

上尾事件は、、1973年(昭和48年)3月13日に旧日本国有鉄道高崎線(現在の東日本旅客鉄道高崎線上尾駅(埼玉県上尾市)で旅客が起こした暴動事件で、連日の動労による順法闘争、(1)列車の安全運転に関する規程を厳格に守って列車を遅延させ、運行を混乱させる安全運転闘争でした。

 当時の国鉄の組合にはスト権は無かった

国鉄職員は準公務員であり、ストライキ自体は法令で禁止されていましたが、法令を過剰に解釈して順守する戦術により、ストライキではないので違法ではないという論理で行われたサポタージュでした。

動労国労の戦術として1950年半ば頃(昭和30年頃)から行われていましたたが、マル生運動勝利【組合側から見て】以後のこの時期は、さらに「スト権」を確立するための手段として取り入れられていました。

特に力を入れたのは、国労が発表した『危険白書』(1972年12月15日から1973年(昭和48年)1月14日に行われた人命尊重、運転保安確保、設備改善総点検第一次強化月間の調査結果)を基に、踏切の支障発見と長距離機関車を対象とした「超安全運転」の新戦術を行うこととしました。
例えば橋梁の枕木が老朽化していると言った場合すぐにそれが脱線等の影響はないにも関わらず危険であるから徐行するとか、踏切の見通しが悪ければ危険が潜むから徐行するなど、あらゆる形でいわゆる超安全運転・・・。
1車線の高速道で最低速度で走る自動車のようなものですよね。(^-^;

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順法闘争は2月から波状的に行われていた。

国労動労は、国労の示した『危険白書』に基づく運転を行うことで列車の遅れは慢性化していきます。

1973年(昭和48)年2月1日から始まった順法闘争は開始されました。
その時のスローガンは「国鉄運賃値上げと武蔵野線開業に伴う人員合理化反対」であり、こうした合理化反対闘争と呼ばれるものが国民の意向とは別に行われて行きました。
8日からは、強力順法闘争というものが行われ、首都圏無ダイヤ状況となりました。
この頃から列車の遅れは慢性的となり、乗客の憤懣は頂点に達しつつありました。

さらに、上尾事件が起こるのは、3月5日から始まった強力順法闘争であり、並行して労使の話し合いは行われていましたが、マル生闘争の勝利もあったのか、国労動労側も強い姿勢のままで取り組むことになりました。

動労は特に3月5日から17日まで「人命尊重・安全対策要求全国統一行動月間」として強力順法とストの断続という闘争方針を決定。
ますます混乱を招くこととなりました。

「順法闘争」とはどんなもの?

具体的にはどのような形で。「いわゆる順法闘争」は行われたのでしょうか。

例えば、信号が注意信号だから45km/h減速で通過するのが本則でありますが、これを過剰解釈して一旦停止してから安全を確認、そして運転再開と言った具合で。
いわば教習所で車を習う状態ににていますよね、そうしてあらゆる理由をつけて列車を遅らせたのです。

動労の要求事項とは?

この時の動労による要求は、国鉄過密ダイヤ区間、長大トンネル、深夜などの二人乗務務の復活や、無人踏切の立体交差化など9項目とされて入り、正直、簡単に応じられる内容ではありませんでした。
これに対して国鉄は要求を拒否するとともに、闘争による影響が大きく、社会的にも放置できないと判断したため、国鉄当局は公労委に斡旋申請を行うこととなりました。

その後も精力的に話し合いは行われましたが、10日頃、高崎線では線路の降りる人が発生したことなどから国労は戦術ダウンを行い、貨物中心の順法闘争を計画することにしましたが動労は戦術を堅持したのですが、2月からの断続的な順法闘争に嫌気がさしていた乗客の不満に気づくことなく、翌日に上尾事件に繋がることとなったのです。
マスコミなどでは、被害にあった車両は2ドア車の急行形(165系)があったことが原因と言っていますが、本当はそうしたことが原因ではなくそれまでの順法闘争に嫌気がさしていたという側面を忘れてはいけないと思います。

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なお、当時の記事などから引用しますと、国民はつくづく順法闘争に嫌気がさしていたことが伺えます。

以下、引き続き引用したいと思います。

(『朝日新聞』3月12日)

電車からおりようと思っても、混んで出口まで行けず、次の駅まで運ばれたのが三回。逆方向の電車がなかなか来ないので大幅遅刻。

府中市の中学一年 13才

肉体的な疲労が精神的なストレスを起こします。朝起きて、ああきょうも混むなと思ったとたん、もうイライラ。仕事の能率が上がりません。

調布市の会社員55才


毎日新聞』1973年3月7日

順法闘争はいつもだらだら行われてきており、公労委が斡旋などしてもムダだと思っていた。われわれ乗客としては、抗議方法を見つけて音頭をとれば、私自身も積極的に加わりたい気持ちだ。ただ、暴力などによる抗議はすべきでないと思うが、感情的になる人が出ても当たり前で、私はそんな場面に立ちあってもとても止める気にはなれない。

日野市の会社員 37才

今日も新宿駅で押されて、ハンドバッグをホームに落とし、踏まれて泥んこになりました。労組側は国鉄当局を相手に闘争しているのではなく、まるで国民に挑戦しているみたい。

東京・杉並区の女性会社員 19才

起こるべくして起こった上尾事件

なお、上尾事件は起こるべくしておこったという意味合いが強く、上尾駅では、今井助役に対してコンコースで十数人による吊し上げが行われていた。という表現もあるように連日の電車の遅れは乗客にとっても我慢の限界であったと言えましょう、特に国労が12日以降の強力順法闘争を中止する中で、動労は闘争を継続したため、「動労の目黒委員長を出せ」と詰め寄る乗客もいたと言われています。.この辺は注目すべきことかと思います。

そして当日、連日の順法闘争(動労)による通勤列車の遅れに怒った乗客など約6000人が、駅長室・線路に乱入し、施設を破壊、暴徒化した乗客の怒りは収まらず、夜まで高崎線が運休することとなりました(上尾事件)。

国労上尾事件での世論の反応を見て、反「合理化」闘争の決戦スト=3・20ストを延期したのですが、これはある意味賢明な判断であったと言えましょう。

 それでも、寝台列車などでは二人乗務が残されましたが、1974年(昭和59年)10月19日に発生した「寝台特急富士」の脱線事故のように運転士と助士 の連携が取れず(当時、機関助士が機関士に注意を喚起すると「余計なことをするな」と恫喝されることがあり、この機関助士はそれを恐れて何もしなかったと 証言 wikipediaから引用)とあるように、結果的には何の効果も生み出さなかった訳です。)

 

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 1 国民春闘への高揚
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├○ 上尾事件と首都圏国電事件と春闘 │
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73年3月13日の朝、連日の順法闘争(動労)による通勤列車の遅れに怒った乗客など約6000人が、駅長室・線路に乱入し、施設を破壊して暴動化し、夜まで高崎線が運休する事件が起きた(上尾事件)。国労上尾事件での世論の反応を見て、反「合理化」闘争の決戦スト=3・20ストを延期した。
 国労は、4・17年金ストの後、春闘の最後の追い込みと処分闘争、27日から全国主要幹線で72時間ストを決めていた。国労が順法闘争に入った24日夕 刻から26日の強力順法闘争、27日から全国主要幹線で72時間ストを決めていた。国労が順法闘争に入った24日夕刻から、東京山手線、京浜東北線の上野 駅を初め、大宮、川口、東京、渋谷、新宿、池袋など38駅で、帰宅中の通勤客が右翼の挑発も絡んで暴動化し、施設破壊や放火、現金略奪などが行われる事件 が起き、逮捕者も138人に及んだ、両事件には挑発グループが介在しているとマスコミも指摘したが、総評と国電事件調査委員会は、『3・13上尾、4・ 24首都圏国電事件調査報告書』をまとめた。
 国鉄労働者はこの困難を克服して、4・27交通ゼネストが決行された。新幹線も初めてストに入った。この結果、春闘共闘委と官房長官との「7項目合意事 項」。処分問題や不当労働行為をめぐる国鉄労使交渉が行われ、公労委調停委員長見解(国鉄は14,801円で、私鉄の14,700円を上回った)が出さ れ、収拾された。、
 
続く

34 - 国電乗客暴動 - 1973