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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 39-1

みなさまこんにちは、久々に更新させていただこうと思います、私自身もまだまだ勉強中の身であり内容を十分精査できていない部分は多々あるかと思いますが、その際はどしどし御指摘ください。

今回は、国鉄労働者というか、官公労働者の悲願であったスト権奪還スト(いわゆるスト権スト)と呼ばれた国鉄が全国で9日間止まったストライキについてその前段のお話をさせていただこうと思います。

 

昭和23年にGHQにより公務員のスト権は剝奪され、その後現業公務員を含めて公務員にスト権を与えることはありませんでした。

昭和23年のスト権剝奪の背景には、官公労によるストライキ、特に鉄道輸送が止まったときに経済の混乱などを危惧した部分が大きかったと言えます。

実際、道路も分断され海運も壊滅的な状況の中で辛うじて輸送力を確保していたのが鉄道であり、これにより首都圏にすむ住民の食料は運び込まれていました。
こんな状況の中でゼネストが行われたならば確実に都民の生活はストップすることとなる恐れがありました。
この点を一番恐れたのがGHQであり、仮りに暴動にでもなれば収拾がつかないことは自明の理でした。
日本共産党自身も、このゼネストが逆に自分たちの首を絞めるとまでは思っていなかった節があります。その辺はまた別の機会にでもお話しできればと思っています。

時は流れ、昭和50年のスト権ストでは、今までの労働運動で勝利してきた組合側としては、これでストライキ権を奪還できるのではないかという思いがありました。
ここで再び、国鉄ストライキを行えば国民生活に混乱を招き、政府は驚いてスト権を与えるだろうと踏んでいました。

当時は野党であった公明党もこの闘争に参加していて笑えるのですが、その辺はまた別の機会といたしましょう。

 

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しかし、実際にはそうなりませんでした。

政府は、混乱に備えトラック協会を通じてトラックの増便を確保したこともあり東京青果市場にはトラックがどんどん生鮮食料品を届けており、市場は閑古鳥どころか、いつも以上に活気を呈していたと言われています。

国鉄ストライキは、鉄道貨物がなくとも生鮮市場は混乱しないこと、言ってみれば国鉄のシェアが大きく低下したことを証明してしまいました。

結果的に、国労動労が描いた官公労働者のスト権奪還は幻に終わりましたが、実際のストライキを打つまでは、公務員がスト権を奪還でいる可能性があると信じていたのも事実です。

それは、前段として、最高裁が労働者寄りに出した画期的な判決があったからです。
昭和41年に出された全逓(東京)中郵事件で示した、最高裁の判決です。

それは、「公務員(及びそれに準じる者)も憲法28条(勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する)の保証を原則的に受けるべきものだとしました。その上で、この権利の保障と国民生活全体の利益とを比較衡量して両者を調整すべきであり、権利の制限は必要最小限度にとどめるべき」というものでした。

 「全逓(東京)中郵事件」とはどのような事件だったのでしょうか。
事件は昭和33(1958)年3月20日午前2時半に職場を離脱して職場集会を開いたことに対して、郵便法79条1項に問われたもので、最終的な最高裁の判断は無罪となったものでした

郵便法79条1項

(郵便物の取扱いをしない等の罪)
第79条 郵便の業務に従事する者が殊更に郵便の取扱いをせず、又はこれを遅延させたときは、これを1年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。

公務員であっても労働者としての権利(団結権等)は認められると判断したことに大きな意義がありました。

これにより、少なくとも国鉄労働者も時間中に集会を開いたりするのは労働者の権利であると認められたお墨付きをもらったようなものでした。

また、69年4月2日の 東京都教組事件では同じく地方公務員の労働基本権として、
東京都教職員組合の幹部が勤務評定闘争に反対する「一日の一斉休暇闘争」を行うにあたり、被告人らが組合の幹部としてした闘争指令の配布、趣旨伝達等、争議行為随伴する行為は、地方公務員法六一条四号所定の刑事罰をもつてのぞむことは許されないとした判決でした。

 これは、地方公務員が争議行為を行うことを禁止した、

 これらの判決を受けて、公務員であってもある一定の争議は可能であろうと判断がなされたと言われています。

また、当時の世界の流れは公務員であっても労働争議を認めるべきという考え方が一般的であったと言われています。

また、国労によるマル生運動が不当労働行為であるとした、主張が通ったことも国労にとっては有利に働くと判断されたようです。

第六十一条
左の各号の一に該当する者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
一 ~三、五 省略
四  何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者

であり、第三十七条第一項が、争議行為の禁止を謳ったものでした。

第三十七条 (争議行為等の禁止)職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる 怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

 

当時の世界の流れは公務員であっても労働争議を認めるべきという考え方が一般的でした。

国鉄「マル生」問題でILO提訴を行っていた国労動労は追加資料を提出し、公労協全組合と自治労日教組、国公共闘が、「政府当局のILO87号・98 号条約違反」をILOに提訴しました。第2次ILO闘争は、(1)ストに対する処分が過酷であり、(2)国労動労全逓などの「マル生」等不当労働行為が、 87号・98号条約に違反する団結権侵害であることをILOの場で認めさせ、日本政府に対し、直接「勧告」を求めていた。同年11月9日のILO理事会 で、結社の自由委員会133次報告が承認された。

その辺は、国労の本文から引用させていただきます。

73年春闘では、春闘共闘委と政府の間で「7項目確認」が行われたが、これを受けて、国鉄労使は「処分問題」について、一定の軽減措置ないし回復措置を行うことを確認した。例えば、係争中の解雇・免職事件の和解等については、年度の古いものから取り扱う。履歴書に記載する被処分の記入について、従来の「赤字」記入を「黒字」に変更し、処分抹消後は抹消する等である。74年、75年のストでも、処分政策の変更(処分の軽減、凍結、撤回)など、処分の「段落とし」などの軽減措置がとられた。

このように、マル生産運動中止以降の国鉄の労使関係は、組合が極端に強くなり、当時の公企労レポート等をまだ十分読み切れていないのですが、当局側がかなり弱腰になっている様子が窺えます。

 

 


日本国有鉄道(現在、JRグループ)スト権スト/1975年

 **********************以下、国労の記事からの引用です。*********************************

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 3 8日間のスト権スト
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├○ スト権ストまでの経過 │
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1975(昭和50)年11月26日からのスト権ストは、日本の労働運動史上、空前のストライキであった、このスト権ストに至るには、その前史がある。とくに50年代前半から、60年代に掛けてのILO批准条約闘争では、66(昭和41)年6月14日、ILO87号条約の批准発効により公労法第4条第3項が削除され、団交拒否問題は決着した。だが争議権については、何も解決していなかった。ただILO条件闘争の前進の中で、66年10月26日の1966年 全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策・司法反動、69年4月2日の憲法判例集(仮):地方公務員の労働基本権 東京都教組事件 最高裁昭和44年4月2日大法廷判決 - livedoor Blog(ブログ)判決で、最高裁として、一定の条件付きで官公労働者の通常のストライキについては、これを刑事罰から解放するという判決が出され、スト権奪還闘争にはずみを与えた。ただし、73年4月25日、全農林警職法事件判決で、最高裁刑事罰を課す逆転判決が、春闘の中で強化された。72年10月30日、すでに国鉄「マル生」問題でILO提訴を行っていた国労動労は追加資料を提出し、公労協全組合と自治労日教組、国公共闘が、「政府当局のILO87号・98号条約違反」をILOに提訴した。第2次ILO闘争は、①ストに対する処分が過酷であり、②国労動労全逓などでの「マル生」などう不当労働行為が、87号・9お8号条約に違反する団結権侵害であることをILOの場で認めさせ、日本政府に対し、直接「勧告」を求めていた。同年11月9日のILO理事会で、結社の自由委員会133次報告が承認された。そこでは、「不当労働行為が事実行われたこと」(134項)、懲戒処分については、「厳格にして峻厳な手数が緩和されるための措置をとったらどうか」をILO理事会が日本政府に重ねて指摘するよう勧告していた(141項)。この勧告は、ストへの懲戒処分(民事罰)からの解放を実現しようとする官公労働者を鼓舞した。この後ILOジェンクス事務局長は、総評と日本政府の直接協議を提案し、第1回協議が72年12月に開かれた。73年2月10日のスト権ストは、そうした背景のもとで決行された。
 73年春闘では、春闘共闘委と政府の間で「7項目確認」が行われたが、これを受けて、国鉄労使は「処分問題」について、一定の軽減措置ないし回復措置を行うことを確認した。例えば、係争中の解雇・免職事件の和解等については、年度の古いものから取り扱う。履歴書に記載する被処分の記入について、従来の「赤字」記入を「黒字」に変更し、処分抹消後は抹消する等である。74年、75年のストでも、処分政策の変更(処分の軽減、凍結、撤回)など、処分の「段落とし」などの軽減措置がとられた。また政府は、75年春闘では、「スト-処分-ストの悪循環は今回限りとしたい」と表明した。スト権奪還闘争は、着実に前進しているかに見えた。だが、司法反動化なども他方で進んでいた。
 しかし、スト権奪還は、73年から75年へ、かなり複雑な動向が錯綜した。73年春闘では、政府と総評との「政・労交渉」で「7項目合意」が成立した。それは、内容では具体性が欠けるが、公務員制度審議会公制審)答申やILO勧告への理解と慎重な対応を政府に約束させていた。だが、73年9月の公制審最終答申では、肝心のスト権については、三論併記のままであった。

続く