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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 40

こんばんは、また2週間近く開けてしまいました。

今回も国鉄のスト権ストについて述べていこうと思います。

前回も書きましたが、このスト権ストは労働組合にとっても、政府・国鉄当局にしても一つの分岐点であったことは変わりないと言えそうです。

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国労とともに公労協の先鋭と言われた全逓と闘争

国鉄労働組合のサイトですが、国労とともに公労協の労働運動をけん引してきたと言われる、全逓について少しだけ触れてみたいと思います。

国労に限らず、官公労働者は国鉄のスト権ストをかたずをのんで見守っていたと言われていますし、電電公社(現在のNTT)もその動向を見守り、当局側としてもスト権付与は止む無しということで電電公社総裁もその意向を固めていたと言われていましたが、結果は・・・国鉄に依存するであろうと思われていた肝心の貨物は殆どトラックで補えることが証明されました。

組合からすれば、昭和23年の官公労におけるスト権を剥奪されて以来28年ぶりに労働者の権利であるスト権を公務員労組も持てるか否かの瀬戸際であったわけです。

そこで、少しだけ本題から外れて、今回は同じく総評で国労以上に激しい運動を展開してきた、全逓信労働組合【通称・全逓】(現在の名称は、日本郵政グループ労働組合)について少しだけお話をさせていただこうと思います。

私が郵政に入った昭和58年頃、勢力は弱まったとはいえ、「権利の全逓」と呼ばれていた名残で、郵便職場特に集配では全逓組合員の力が強かったです。

国労とともに行動する組合として運動を進めてきた組合で、共産党系色の強い左派的組織ではありました。

本題から外れますが、全逓が1978年から79年にかけて行った年末闘争について、レイバーネットの記事から少し長いですが引用させていただきます。

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全逓バッチ 全逓組合員の団結の証として制服に着用している場合が多かった。

反マル生越年闘争

■「反マル生越年闘争とは何か」
約28年前に日本全土を揺るがせた「反マル生越年闘争」という大闘争があったのを知っていますか。1962年、郵政省は、「マル生運動」=「生産性向上運動」を導入し、全 |逓内の右翼的部分により、全郵政を結成させました。このマル生運動は、生産性向上運動に留まらず、全逓組織破壊攻撃としても熾烈を極めました。78年当時、全逓中央に寄せられた実例は4千件近くにのぼります。北海道の名寄郵便局では、役職者は全て全郵政か全逓脱退者で占められ、全逓組合員の適任者は除外されたと言います。宮崎の日南局では、 新規採用者が父親と共に郵便局に呼ばれ、「出世したいなら全逓に入るな」「全郵政に入ったほうがよい」と説教されたり。田舎の母親に「息子さんが全逓を脱退したら田舎の局に転勤させましょう」等と働きかけ、心ならずも全逓を脱退した労働者が多くいました。
生産性向上と称して、朝8時から9時まで管理者が労働者をメモ用紙を持って監視し、「足を組むな」「ヘラヘラするな」「額に汗して働け」などと暴言を吐いたと言います。
これらの改善を求め、全逓は78年12月から79年の1月にかけて約2ヶ月、本部指導により、年賀取扱拒否をはじめ、4億3千万通の滞留を築く物ダメ闘争=業務規制闘争を闘い抜いたのです。この闘争は「大衆的実力闘争」として闘われ、その影響力においてストライキに勝るとも劣らないもので、日本の労働運動史上の金字塔です。「北は礼文島から南は八重山群島まで組合員のいないところはない」と言われた当時19万5千人の全逓労働者が、約2ヶ月間に渡って闘ったことの意義はいくら強調してもしすぎる事はありません。

最近はインターネットの発達によりメールのやり取りが一般化し年賀状を出そうと言う風潮は年々減っているとも言われています。

実際にこうしてみると、2003年をピークに年々減っているのが判ります。

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参照 ガベージニュースから引用。

www.garbagenews.net

しかし、当時は現在のように機械化されておらずまして、配達に関しては全て手作業ですからその混乱は想像に余りあります。

当時の話を聞きますと、局長以下管理者、並びに郵政局からも応援で人海戦術で年賀並びに郵便物を処理したと言われています。

 

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国労の敗北感とストの中止

国労のスト権ストは結果的には、公共企業体等基本問題会議が「現時点では争議権を認めることは適当でない」とする意見書や、三公社五現業の経営形態変更のに関して今後考える必要があると言った意見を受けて一時期はスト権付与止むを得ずとしていた政府は、一転してスト権付与を拒否する方向に動くこととなりました。

実際、東京築地市場には生鮮食料品を積んだトラックが到着し東京都の消費者物価も上がることもなかったため政府としてもある意味開き直ってしまい、国労としてもストの終結を宣言、いわば完全に国労側というか官公労組側の負けとなりました。

国労は自主的と書いていますが、実質的には敗北です。

12月1日、政府は、専門懇意権書の尊重、経営の在り方や当事者能力の強化など、これまでの「五項目了解事項」以来の経緯を全く無視した内容の「声明」を 発表した。組合側は、一斉に抗議声明を発表した。だが事態はこれ以上の前進はもはや期待できないことも明らかとなった。スト権ストが8日目に入った。12 月3日、公労協は自らの判断で自主的にこのストの収拾を決めた。こうして、8日間、193時間にわたる歴史的なストは自主的に収拾された。

 この辺りは、国鉄スト権奪還スト8日間の攻防NHKスペシャル 戦後50年その時日本は第5巻 から少し長いですが引用させていただきます。

午後6時半、三木は、緊急記者会見に臨んだ。
 「スト突入以来、国民の皆さんの中には、総理である私に、スト解決のために、私の早期の決断を求める人々がありました。しかし、よく考えてみてくださ い。もし政府がその場かぎりの安易な妥協を求めて、違法ストに屈するようなことがあれば、(中略)わが国の議会制民主主義も法治主義も維持できるものでは ありません……」
 三木は、自民党の大勢に乗る選択をしたのであった。
 そして、党見解に沿った五項目の政府声明を読み上げた。「政府はスト権を与えるのかどうか方向を示してほしい」とする記者の質問には「スト権のように国会で議決するものに、今色よい返事をするのは、私にはできない」と答えた。

以下は、5項目

  1. 専門懇の意見書を尊重し、その内容を検討のうえ、具現化に努める。
  2. 公企体の公共性に対する自覚を高め、法秩序を厳守して、労使関係を正常化する。
  3. 特に(経営の)当事者能力を強化し、料金法定主義等、諸般の改正事項を検討し、実施する。
  4. 関係法令を全般的に検討し、必要な改正を行う。
  5. 上記のため、適当な機関を党及び内閣に設け、できるだけ早期に結論をまとめ、行政上の改革など法案の国会提出を行う。

  記者会見の模様は、テレビで中継された。公労協闘争本部でも、幹部たちがこの記者会見に釘付けになっていた。
 首相の発言は、公労協との妥協を拒否するものだった。
 〈一国の首相がそこまで言い切ってしまったら、朝令暮改で一日や二日の間でひっくり返るなんてことはありえない。ああ、もうだめだ〉
 公労協代表幹事の保坂尚郎は、スト権回復は99%ありえないと感じていた。

ということで、公労協側はストによる敗北を感じたと言われています。

結局、スト八日目の12月3日、水曜日。
 公労協は正午から拡大共闘委員会を開き、正式にスト中止を決定。このあと、公労協の幹部らは記者会見に臨み、市川総評議長が声明を読み上げることでストライキは終息に向かうことになります。

 「国民の皆さん、スト権回復の要求は満たされたわけではありませんが、私たちは国民の皆さんの切実な声が限界に達していることを考え、みずからの判断で 闘いをいったん中止します。この八日間、皆さんの生活に多大な支障を与えたことをおわびするとともに、多くの国民の皆さんが、私たちの闘いに対して、今ま でにないご理解とご支援をいただいたことに深く感謝します」

実質的には、公労協の敗北であり、この4年後には国鉄の抜本的解決として国鉄ローカル線問題などを検討する事態となっていくのでした。

 

国鉄当局による組合に対する損害賠償訴訟

 国鉄当局はさらに、国労動労に対して202億円損害賠償請求の訴訟を行うことになります。

 この損害賠償訴訟、後に動労労使協調路線に転換?転向したことで国鉄当局側は取り下げましたが、国労に対してはそのまま継続して裁判が行われることとなりました。

この辺のお話は後程させていただきます。

1976(昭和51)年2月14日、国鉄は、政府・自民党の強い圧力を受けて、東京地裁に、国労動労に対する202億円損害賠償請求の訴訟を行った。国労動労は、ただちに抗議声明を発表するとともに、順法闘争を実施した。

 この損害賠償請求は、きわめて時代遅れのものであり、欧米ではすでに19世紀半ばには、ストなどの刑事免責が当たり前となり、20世紀初めには、ストに対 する使用者からの損害賠償請求についても、粘り強い闘争をつうじ、民事免責を勝ち取っていた。この損害賠償請求は、権利の回復を求める労働者の要求には答 えず、反対に財政的側面からの組合つぶしも意図した不当なものであった。しかも司法の反動化は、下級審にまで及んでおり、この裁判の展開と帰すうは、ほと んど楽観を許さなかった。だが、70年代には決着がつくには至らず、80年代に持ち越された。(80年代の経過については、第2部を参照)。

 

 *******************以下は、国労の資料になります。******************************

 

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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚

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 3 8日間のスト権スト
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

┌────────┐
├○ スト権スト │
└────────┘

続き

 ストライキは続行された。ところが、12月1日、政府は、専門懇意権書の尊重、経営の在り方や当事者能力の強化など、これまでの「五項目了解事項」以来の経緯を全く無視した内容の「声明」を発表した。組合側は、一斉に抗議声明を発表した。だが事態はこれ以上の前進はもはや期待できないことも明らかとなった。スト権ストが8日目に入った。12月3日、公労協は自らの判断で自主的にこのストの収拾を決めた。こうして、8日間、193時間にわたる歴史的なストは自主的に収拾された。
 公労協は、12月6日、「スト権奪還中間総括」を提案した。そのうえで、76(昭和51)年1月20日、共闘委員会で、「スト権奪還闘争の総括」を行った。国労は12月10日、第115回臨時中央委員会で、公労協の「スト権奪還中間総括」を前提としつつ、76年春闘を最大にヤマ場としてスト権奪還を目指すことを意思統一した。さらに、76年2月の第37回臨時大会で、公労協の「総括」を基本的に承認しつつ国労の立場から、若干の補強をつけ加えて国労の総括とした。その内容は、同年7月の第38回定期大会(札幌市)で、「国鉄労働組合の総括」として決定されたが。基調は先の第115日臨時中央委員会の「中間総括」を骨子としていた。

┌─────────────────┐
├○ 202億円損害賠償訴訟の提起 │
└─────────────────┘

 1976(昭和51)年2月14日、国鉄は、政府・自民党の強い圧力を受けて、東京地裁に、国労動労に対する202億円損害賠償請求の訴訟を行った。国労動労は、ただちに抗議声明を発表するとともに、順法闘争を実施した。
 この損害賠償請求は、きわめて時代遅れのものであり、欧米ではすでに19世紀半ばには、ストなどの刑事免責が当たり前となり、20世紀初めには、ストに対する使用者からの損害賠償請求についても、粘り強い闘争をつうじ、民事免責を勝ち取っていた。この損害賠償請求は、権利の回復を求める労働者の要求には答えず、反対に財政的側面からの組合つぶしも意図した不当なものであった。しかも司法の反動化は、下級審にまで及んでおり、この裁判の展開と帰すうは、ほとんど楽観を許さなかった。だが、70年代には決着がつくには至らず、80年代に持ち越された。(80年代の経過については、第2部を参照)。

 

続く