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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 47

 

鈴木善幸内閣は、昭和55年、選挙中に亡くなった、大平正芳前首相の盟友であった田中角栄元首相の意向を受けて誕生した内閣で、本人も予測していなかった節があり、角福戦争のしこりもあって、党内にもこれ以上の混乱は避けたいと言った意向もあり、結果的に田中角栄が強く推薦する形で誕生したと言われています。

本人も、そうした事情と言いますか空気を読んでいて、「和の政治」をスローガンに掲げて就任しました。

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鈴木善幸首相 画像 wikipedia

 

また、石油ショック以降に財政収支が悪化していたこともあり、昭和50年(1975)から赤字国債の発行が平成5年(1993年)まで続けられることとなりました。

目標としては、国庫財政を立て直すため、1984年(昭和59年)までに赤字国債脱却を目標とし、増税を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示す「増税なき財政再建」を最重要課題として掲げていました。

その流れを汲んで、行財政改革に取組んでいきました。

それが、その後新自由主義の流れの中で中曽根行革へと続く道筋を作っていったと言えそうです。

 

ただ、和の政治家と言う印象の他にもう一つ、田中角栄元首相とも相通じるものがあり、東北新幹線の終点を盛岡にしたのも実は鈴木善幸氏の意向があったからと言われています。

 

昭和46年(1971年)鈴木善幸氏が鉄道建設審議会長で有ったときに、仙台までで止めておきたい国鉄・運輸。大蔵省に対して、盛岡延長を強く希望したからだと言われています。

なお、この時の「新全国総合開発計画」というのは、昭和60年までに全国に高速道・高速鉄道などを整備するというもので、当初は北海道まで一気に開通させるとしていましたが、財政的な問題もあり、当初案では仙台であったのを無理やり盛岡に延長したと言われています。

また、三陸鉄道を開通させたのもいわば鈴木善幸首相による意向でありそれ以外にも多数の施設の誘致など地元利益誘導型の古いタイプの政治家でもありました。

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 画像 Wikipediaから引用

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当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省・運輸省国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うのであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年 引用Wikipedia から

そこで、ここで打ち出された、

今までも、国鉄財政再建については色々と検討されてきましたが、ここに来て国鉄の抜本的改革を目指して、「国鉄再建特別措置法」が公布され、「輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項」・「運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項」ということで、輸送需要に適合した・・・要は採算の全く合わないローカル線は基本的に廃止ですよと謳っています。

なお、それを受け「第8条 日本国有鉄道は、鉄道の営業線(幹線鉄道網を形成する営業線として政令で定める基準に該当するものを除く。)のうち、その運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるものとして政令で定める基準に該当する営業線を選定し、運輸大臣の承認を受けなければならない。・・以下は省略」で地方交通線を選定する旨書かれています。

目玉政策も無かった鈴木善幸首相が始めた行財政改革はその後大きな流れとなり結果的にはそれまでくずぶっていた、国鉄民営化まで進んでいったと言えるかもしれませんが、ちょうどこの頃は新自由主義が世界的にも流行となっていた時期でもあり現在の低迷している時代に有って、新自由主義そのものが正しかったのかと言う懸念は有りますが、結果的に日本もその流れに組み込まれるように新自由主義の中に巻き込まれていくようになっていったように思われます。

(趣旨)

第1条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

(経営の再建の目標)

第2条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和60年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

(責務)

第3条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

(経営改善計画)

第4条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

1.経営の改善に関する基本方針

2.事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

3.輪送需要に適合した輪送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

4.業務の省力化その他の業務運営の能率化に関する事項

5.運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

6.組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 

 

7.収支の改善の目標

8.前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

 

 以下は、国労の本文になります。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 臨調”行革路線と国鉄「分割・民営化」 │
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鈴木内閣はその当初から「増税なき財政再建」を表看板とし、国家予算の歳出見直し、各種補助金のカット、福祉関係予算の圧縮など緊縮財政措置に取り組み、 翌81年3月16日には第二次臨時行政調査会(会長・土光敏夫前経済連会長)を発足させた。この第二臨調と前後して、「国鉄再建特別措置法」が公布・施行 された(3月11日)。
 さて82年10月、鈴木首相が自民党総裁選への不出馬を表明したことから自民党総裁予備選挙が行われ、その結果を受けて鈴木総裁の後継者には中曽根康弘 行政管理庁長官(行政改革担当大臣)が選ばれ、2月27日には中曽根内閣が誕生した。中曽根首相は就任後、「私は改憲論者」と国会で答弁し、その後も「戦 後政治の総決算」「日米は運命共同体」などと発言し、又鈴木内閣から引き継いだ行政改革の”断行”を強調し、いわゆる「民活論」を唱えながら臨調一行革路 線の具体的推進高った(ママ)。この中曽根内閣の登場は、イギリスにおける保守政党サッチャー政権の牽(1979年青)及びアメリカにける共和党レーガン 大統領の双 (1981年月)と並び称されるほどに”新自由王弄の流れに乗っているところに特徴があり、又従来の自民党的手法の政治とはいささか異なる側 面をもっていた。
 その流れは、対外的には「強いアメリカ」(レーガン)、「フォークグランド武力制圧」(サッチャー)・「日本列島不沈空母化」中曽根とを3張しつつ、国 内的にはいずれも「小さな政府」「規制緩和」「民営化」などを旗印とし、それらを目指した。「改革」が1980年代を特徴づけた。また中曽根内閣では、審 議会や懇談会、調査会といった諮問機関を多く設置して、その答申や報告を援用しながら政治をすすめるという手法が目立った。防衛費の1%わく問題を始め、 国鉄分割・民営化、教育改革、靖国神社公式参拝など、これら諮問機関に自分のブレーンである学者や文化人を送り込んで政策展開の地ならしを行い、マスコミ をとおして世論操作の道具ともした。
 1981年7月10日に出された第2臨調の第1次答申は、「行政改革の理念と課題」「緊急に取組むべき改革の方策」「今後の検針方針」の十二部から成 り、答申の骨子は「活力ある福祉社会の実現」「国際社会に対する貢献の増大」を基本理念におき、82年度予算編成に関連した「緊急に取組むべき改革方策」 として補助金等の削減給枠の設定、教科書無償制度の再検討、公共事業費の前年同額以下への抑制、国家公務員の削減計画の強化、公務員給与の抑制など支出削 減の個別的方策まであげた。「今後の検討方針」として「行政の役割の見直し」「官民の役割分担」などを柱に特殊法人の民営化、情報の公開やオンブズマン制 度の導入をかかげて、財政支出の削減、行政の効率化をテコに「国の歩み」
「行政のあり方」の転換をはかる。という行政改革の位置づけ、ないし方向性を示すものとなっていた。