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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 54

みなさま、こんばんは。

また1週間以上更新が出来ませんでした。

申し訳ありません、さて今回は昭和57年の11月の改正の話を中心に進めさせていただこうと思います。

国鉄のシェアは減少傾向に

国鉄のシェアは、度重なるストライキや運賃値上げ、更には高速道路の延伸と国民所得の増大による自家用車の普及が進むなど、輸送手段が多様化し旅客も昭和45年の32%をピークに徐々に減少し、昭和55年度では25%まで低下、貨物に至ってはトラック輸送の台頭により、56年度のシェアは8%となっており、昭和35年度の39%から見ると大幅な減少と言えます。

嘗て、吹田操車場では貨物で向こうが見えないとか、掃いても貨物がやってきて解消しないと言われた時期から比べるとその減少量は極端と言えましょう。

国鉄の旅客輸送量のシェアは35年度51%であったものが45年度32%,55年度25%へと低下した。また,貨物輸送については,国内貨物総輸送量が年々増加する中で,国鉄の輸送量は30年代後半に続いて40年代前半において500~600億トンキロで横ばい傾向となり,そのシェアも35年度39%から45年度18%へと半減するに至った。更に,40年代以降,ストライキによる荷主の信頼の低下等の影響も加わり,45年度624億トンキロをピークとして減少傾向へと転じ,56年度のシェアは8%となるに至っている

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国鉄改革法と国鉄労働組合

こうした状況に対して、国労

 「国鉄地方線廃止反対」のアピールを採択。また、「国民の足を守る中央会議」は、「地方交通線廃止阻止」をかかげて独自的に、国鉄本社要請、国会請願、傍聴、運輸省・知事・地方自治体への働きかけ、その他関係省庁機関への要請行動、市民との「対話集会」などを精力的に展開した。

と書かれており、組合を上げての反対運動が行われた様子が伺われます。

さらに、国労では下記のように、
 「運賃値上げ・特別運賃制度・地方交通線廃止反対」の署名・街頭宣伝、そして第2臨調答申への抗議行動を全国規模で実施し、また11月25日実施のストライキは、「配分の早期解決」などの要求も加わって、地区拠点方式により全国各地の対象職場で打ち抜かれ(荷物関係は0時から12時間)、総数約8000人が参加した。

と書かれており、国労としては、ストライキなどで乗り切れると思っていた節があるのかと思われます。

また、当時は容認ではないでしょうが、「リボン」(要求貫徹といったスローガンが書かれたリボンを制服に着用)等が行われていました。

実は、こうした行動は郵政でも全逓(現在は解散)が強い職場では、同じようなところがあったと記憶しています。

 しかし、この頃はその後にマスコミによる国労悪玉キャンペーンなどが出て来るとは夢にも思わず、国労の運動は受け入れられると思っていた節があります。

減量ダイヤの昭和57年11月ダイヤ改正

 国鉄は合理化を伴う、昭和57年11月のダイヤ改正を昭和56年(1981年)10月27日に発表

これは、国鉄としては初めての減量ダイヤであり、これにより大量の機関車等の余剰が発生しました。

国労の文章を下記に引用しますと次のようになります。

列車設定キロは旅客で2万5000キロ、貨物で4万キロの削減が行われることになり、これにともない車両検修基地の集約、機関車、電車、客車、貨車などの大幅な削減、工場・貨車職場などの大幅な削減、工場・貨車職場の統合、船舳の便数、隻数の削減などの「「合理化」が実施され、同時に作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用と効率化が企図されていた。これらはいずれも大幅な要員削減が前提となっており、「国鉄再建法」にもとづく「経営改善計画」のねらう35万人体制そのものであった。

その反面、画期的な部分もあったダイヤ改正

 昭和57年11月のダイヤ改正は、国鉄初の減量ダイヤでしたが、広島City電車が初めて試行され、地方都市における国電ダイヤが試行されることとなりました。

山陽本線広島~大野浦・岩国間が15分間隔で運転されることになりました。

これは、東京・大阪という大都市圏以外では初めての取り組みでした。

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画像 wikipedia 115系3000番台

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昭和57年11月ダイヤ改正時刻表から

その反面、貨物を中心に大量の余剰が発生

 昭和57年は、沿線住民の反対運動により遅れてはいたものの東北・上越新幹線が暫定開業(大宮~上野間はリレー号による運転)という華やかな陰で、貨物列車にとっては大幅にその本数を減らすと言う国鉄始まって以来の減量ダイヤ改正が行われました。

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画像 wikipedia 185系100番台 リレー号

国鉄としては、昭和57年の改正では車扱いを中心として貨物輸送を大幅に減少、それに伴い、ヤードの縮小、その後昭和59年にはヤード系輸送自体が廃止になるのですが、この時点では100ヤード体制ということで武蔵野や新鶴見などはヤードとして残す予定だったと言えます。

また、この改正で約13000両の貨車が余剰になったと言われており、この後もヤード系輸送の廃止などで2軸貨車を中心に大幅な余剰が発生、その処分が問題となりました。

 

その辺りは、国有鉄道昭和57年7月号から引用させていただこうと思います。

昭和55、56年度の2年度にわたり輸送量の減少がみられており、昭和54年度と比較すると約8割程度の規模になっている。今年度の見通しも、景気面で回復の気配も今のところみられず、今後、積極的に営業活動を展開することとしても、輸送量増加には著しい努力を必要とするといえよう。
このため、11月のダイヤ改正ではヤード系集結輸送の分野を中心に、輸送需要の動向に対応して輸送力の調整を行なうこととし、全体として、55 . 10ダイヤから約3万8000キロの輸送力を削ることとした。
第二に、今後、効率的な直行輸送体系の確立をめざす際に、基幹的な輸送方式となるコンテナ輸送について、質、量ともに充実をはかることとしたことである。すなわち、質の面では、本線上におけるスピードアップに加えて体制からの脱皮をはかり、荷物営業の一層の体質改善をはかつていくこととしたいドアップに加えて、発、着両ターミナルにおける締切時刻(コンテナの積み込み完了時刻〉から列車出発の時刻までおよび列車到着時刻から荷役線への入線時刻(コシテナの取卸可能時刻〕までの各時間(検査時間、入出線作業時間等〉を可能な限り短縮することとした。

 

現下の厳しい状況に鑑み,経営改善計画で,昭和60年度までに実施を予定していた800駅100ヤード体制を,ダイヤ改正時までに前倒しをはかることとしたこと,
貨車については,需要動向をふまえ,1万3000両の余剰貨車をとう汰することとしたことに代表されるように,徹底した効率化をはかろうとした ことである。

と言った記述に見られるように、機関車並びに貨車の余剰が大量に発生することとなりました。

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 ***********************************以下は、国労の資料となります。**************************

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 四 最後の「国鉄再建法」と国労の闘い │
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続き

こうした地方自治体の意見ないし動向に対応して、9月28日に開かれた全文運第38回定期大会は、「知事の意見を無視するような政府の一方的なやり方は許されないとの意見を集約し、9月30日からの第17回交研集会でも「国鉄地方線廃止反対」のアピールを採択した。また、「国民の足を守る中央会議」は、「地方交通線廃止阻止」をかかげて独自的に、国鉄本社要請、国会請願、傍聴、運輸省・知事・地方自治体への働きかけ、その他関係省庁機関への要請行動、市民との「対話集会」などを精力的に展開した。
 国労は、この年の秋、「運賃値上げ・特別運賃制度・地方交通線廃止反対」の署名・街頭宣伝、そして第2臨調答申への抗議行動を全国規模で実施し、また11月25日実施のストライキは、「配分の早期解決」などの要求も加わって、地区拠点方式により全国各地の対象職場で打ち抜かれ(荷物関係は0時から12時間)、総数約8000人が参加した。
 それに合わせた大衆行動として、リボン、ビラはり、横断幕掲出などの宣伝行動、決起集会、デモ、集団交渉などの示威行動を全国的に実施して「経営改善計画」に対する切迫した国労組合員の怒りを爆発させた。
 81年10月27日に国鉄当局が発表した57(82年11月)ダイヤ改正によれば、列車設定キロは旅客で2万5000キロ、貨物で4万キロの削減が行われることになり、これにともない車両検修基地の集約、機関車、電車、客車、貨車などの大幅な削減、工場・貨車職場などの大幅な削減、工場・貨車職場の統合、船舳の便数、隻数の削減などの「「合理化」が実施され、同時に作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用と効率化が企図されていた。これらはいずれも大幅な要員削減が前提となっており、「国鉄再建法」にもとづく「経営改善計画」のねらう35万人体制そのものであった。

続く