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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 74

皆様こんにちは、久々に更新させていただきます。本日は、昭和58年度の運輸白書を参照しながら、お話を綴らせて頂こうと思います。

 

減少する旅客及び貨物輸送

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運輸省 昭和58年度運輸白書から引用

上記の図を見ていただくとよくわかるのですが、国鉄の旅客輸送は昭和50年頃までは右肩上がりで増加しており、昭和51年から輸送キロは緩やかに増加しつつも旅客数が減り続けました。

昭和25年当時と比べると1/10シェアとなった貨物輸送

貨物についてはもっと顕著で、昭和45年をピークに減り続け、昭和50年には車扱い貨物に関しては昭和30年代よりも減少してしまっており、そのシェアは昭和25年の30%からわずか0.3%と1/10にまで減少してしまいました。

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特に車扱い貨物が嫌われた原因としては、ヤードでの入替作業が大きかったと言われています。

到着した貨物を改めて方向別に仕分けして新たな貨物列車を組成するのですが、平均して8時間程度足止めを受ける。
更に、連絡させるべき貨物列車に牽引定数の予備が無いと次の貨物列車に回されるので、更に到着が遅くなる。
当然のことながら、何時到着するかわからないという問題が生じてきます。
さらに、貨物列車の場合積み荷を積み替える必要があり、こちらもその多くが人力作業で行われていました。
そのような理由から、高速道路が開通した昭和40年以降は幹線であっても貨物輸送は大きく落ち込み、かってはヤードでは滞留貨車で向こうが見えないと言われた吹田操車場でも隙間が見えるようになって来たりしたと言われています。

値上げと旅客離れという悪循環

国鉄としては、昭和51年以降は利払いなどの利息の支払いも増えて値上げをせざるを得ず、値上げすると当然のことながらある一定数の顧客離れを起こしてしまう。

こうした悪循環に陥ってしまいました。

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昭和56年以降は、運賃値上げが恒例行事となってしまいました。
昭和57年にはわずか6年で初乗り運賃が倍の120円となっており、国鉄としても人員合理化を行うとともに列車キロを削減する縮小再生産に入らざるを得なかったことが何となく理解できると思います。

この時期に国労から出された、緊急基本要求

その辺が、国労が書いているような、国鉄当局の合理化攻撃であったというのですが、現状の輸送量などを考えるとやむを得なかったのではないかと思ってしまいます。

”第二臨調”行革路線が目指す国鉄のさらなる”減量経営”化を企画したもので、その後の数次のダイヤ改正を経て、人員削減から「余剰人員」創出へと連なる大きなステップであった。

 そんな中で、国労は下記のような緊急基本要求を8月26日付で当局に対して求めています。
当時は、国労労働組合の筆頭であり、当局としても国労の意見を無下には否定できないのでした、その内容を見ていきますと下記のようになっていました。

 (1)国鉄の分割・民営化に反対し、現行経営形態を維持すること。
 (2)「現協」協約改定案にあたっての「一夏20日までまとまらなければ再締結しないという態度を?空白(おそらく撤回)すること。
 (3)乗車券、割引証は長い歴史を持つ雇用条件・労働条件であり現行の諸条件を守ること。
 (4)兼職議員の諸条件は憲法の精神に則った職権である。従って現行の諸条件を守ること。
 (5)現場労使間の諸問題の解決に当たって現場労使間で十分協議し、意見の一致を期すこと。
 (6)運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。
 (7)不要不急の設備投資を抑制し、サービス向上、安全輸送の確保、都市通学・通勤輸送の充実を図るための投資
 (8)東北・上越新幹線の開業に伴う赤字は政府の責任とすること。
 (9)年金一元化の実態とそれにともなう国鉄共済の既得権を最大限維持し、国鉄職員の将来に対する不安を解消すること。

 

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何れも、(3)~(6)及び(9)は、既得権益であるからそのまま残せということになっているのですが、現状の車両キロの減少などを考えると正直不安を感じてしまうものです。
また、(6)運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。につきましては、一見何となく国民の方向を向いているように見えますが、実際にはこうした福祉・文教政策への割引が国鉄経営の大きな赤字を生む元凶であることを国労が知らないはずはなく、40年代には国労自体が、貨物運賃のうち「石炭・石油と言った車扱い輸送はおよそ収支相償う運賃を収受せず政策的に安く抑えており、資本家階級を利するものだと激しく反対」しているわけで、この(6)はいわば国労のポーズではないかと推測しています。

参考

plaza.rakuten.co.jp

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**********************以下は、国労の資料になります。****************************

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
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 1981年10月に一方、1982年に入ってからマスコミによる「国鉄問題:ないしは反国労キャンペ提起された57.11ダイヤ改正問題は、”第二臨調”行革路線が目指す国鉄のさらなる”減量経営”化を企画したもので、その後の数次のダイヤ改正を経て、人員削減から「余剰人員」創出へと連なる大きなステップであった。そして82年5月17日の第二臨調第四部会報告及び7月30日の臨調基本答申(第3次答申)に盛られた「緊急11項目」時はこの年の夏頃から具体的に職場にあらわれ始めた。8月26日付の国労の「緊急基本要求」(前述)は、それに対応する要求でもあった。
 すでに7月15日、ブルートレイン検査掛に支払われていた乗務旅費がいわゆる「ヤミ手当」だとして国鉄当局は国労動労組合員155人に対し返済請求の訴訟を提起し、同月19日の団体交渉で当局は「現場協議に関する協約」の改定案を提示し協約期限の11月30日までにまとまらなければこの協約を破棄すると通告していた。9月になると兼職議員の禁止、10月には無料乗車証の廃止などが提案された。これらは、長年の職場慣行の破棄もともないながら職場における国労潰し包囲網の展開に他ならなかった。
                                     
続く