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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 75

昭和57年時刻改正当時の国鉄当局

国鉄改革の問題が表面化する前、国鉄も少しづつ変わりつつありました。

特に昭和57年11月は東北新幹線開業もあり、新幹線シフトさせつつも大幅な旅客並びに貨物列車を減少させることとなり、運用の合理化、ヤードの集約と言った大規模な合理化が引き続き続けられることとなりました。

お客様本位を始めた国鉄当局

特に、57年11月の改正では、

貨物輸送課長 矢山恒夫氏の説明によりますと、「将来とも生き残るべき拠点間直行列車を一万一〇〇〇キロ増発する一方で、使命を終えたヤード系集結輸送列車を四万九〇〇〇キロを削減。
 さらに、拠点間直行列車の増発もさることながら、入出線時刻の改善をめざし、有効時間帯に列車をはめ込んでいくことを目玉としたことで、従来からの高速直行一二六本の列車の中で、荷役線から荷役線まで着く時間が三〇分以上縮めたものが半分以上。
 さらに、コンテナ列車一七本、車扱列車五本の計二二本を新設したのですが、これについても、荷主さん、通運さんのオーダーに応えるような「オーダーメイド」の列車を作ることに苦心いたしました。

と書かれています、

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国鉄線 昭和57年11月号から引用

以前は国鉄がこうしたダイヤを作ったから、それに合わせて出荷しろ…だったわけで、そうした意味ではかなり変わったなと言えましょう。

しかし、昭和55年のダイヤ改正時からでも0.6%貨物輸送は減少していたわけで、そうした意味では国鉄としても崖っぷちであったと言えます。

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運輸白書昭和58年版から引用

列車削減による機関車等の余剰発生

それでも、上記の例でもわかるように「ヤード系集結輸送列車を4万9,000キロを削減」していますので、

(増発 11.000)-(削減 49.000)=(削減 38.000)
貨物列車だけでも、38,000キロの列車が消えたことになります。さらに今回は旅客列車も減少させたうえで車両の効率的運用などに努めたことで、機関車等に多数の余剰が発生しました。

また、東北新幹線開業により、「ゆうづる」・「みちのく」等で使われていた583系電車は寝台列車に廃止に伴い、昼夜兼行で走れる区間が少なくなり大幅に余剰が発生することとなりました。

二条駅ヤードなどにも583系が多数留置されることとなりました。

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画像 Wikipedia

国鉄時代のダイヤ改正は概ね1年前から準備が始められ、ヨンサントウのような大規模な場合は数年前から準備が始めるのが恒例で、担当者が温泉宿に詰めてそれこそ缶詰め状態で検討会議をすることが一般的であったと言われています。

57.11ダイヤ改正の概要と国労動労の反応

1981年10月27日に、国鉄当局は57・11ダイヤ改正の概要を発表し、実際に組合と協議することになったのですが、東北新幹線開業という華やかな場面がある裏側で、35万人体制を目指すという合理化初年の計画でもありました。
  1. 旅客輸送については、東北・上越線新幹線開業を機会に在来線旅客関係で約2万5000キロの削減を図る。
  2. 貨物輸送関係については、輸送力と輸送量の大幅な乖離を解消するために地域間直行貨物輸送体制をめざし、貨物取扱駅251駅の削減(800駅体制)、ヤード41の削減による再編(100ヤード体制)、貨車1万3000両の削減、貨物関係約4万キロの削減をはかる。
  3. これらにともなう作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用効率化をはかる。
 
 と言ったものであり、乗務員並びにヤード職員を中心に大幅な合理化が計画されているわけですから組合としては看過できない問題でした。
そこで、国労は、『経営改善計画』は早くも破たんしているといわなければならない。にもかかわらず国鉄は35万人の要員規模にするという計画を強行しようとしており、収支改善のみを追求し、国鉄の公共性を放棄するものと言わざるを得ない。」
という抗議声明を発しています。
国労としてはこのダイヤ改正に反対することとして、11月16日に今回のダイヤ改正について具体的な要求を提出するとともに、12月14・15日の第133回中央委員会(国労会館)でも、この57・11ダイヤ改正に対する闘いは「国民の国鉄づくりを目指すたたかいと、国鉄労働者の労働条件を維持・改善する取り組みとを結合した闘い」として位置づけ事前協議に入ったとされています。
ただ、この交渉はなかなか進まなかったと言われていますが、国労は、当局側は「不当労働行為にならない程度で団体交渉に応じる」態度であり、従来のダイヤ改正問題では「確認事項」として問題の整理がなされてきたのに、ここにいたって当局は公労法8条(団交から管理運営事項を除外)をもち出して「覚書」扱いを主張したと主張しているのですが、・・・・

第八条 公共企業体の管理及び運営に関する事項は、団体交渉の対象とすることができない。

2 第四条の規定により組合に加入できない者以外の職員に関する左に掲げる事項は、団体交渉の対象とし、これに関し労働協約を締結することを妨げない。

 一 賃金、労働時間及び労働条件

 二 就業規則

 三 時間外割増賃金

 四 休日及び休暇

 五 懲戒規則並びに昇職、降職、転職、免職、休停職及び先任権の基準に関する規則

 六 苦情処理機関

 七 安全

 八 労働協約の終期、更新及び延長

本来、鉄道のダイヤ改正に関することは労働条件の変更に関する部分があるとはいえ、列車の増発削減等は、経営専管事項であり団体交渉に載せるべきものではないのです。
これは、郵政省でもそうでしたが、事業運営の事項に関しては管理運営事項として厳密に区分されていましたので、経営の根幹にかかわる部分まで組合に確認させていたのは正直不可解というのが個人的な見解です。
実際に、昭和50年7月には7月1日に予定されていたダイヤ改正が、組合との交渉遅れで7月18日に延期される事態となりました。
北海道内ダイヤ改正 7/18
本来7月1日に予定されていた北海道内のダイヤ改正が17日遅れで実施され〈いしかり〉登場

特急〈いしかり〉が札幌~旭川間にデビュー。7往復、エル特急に 写真は、高架前の札幌駅ホームに停車中のライラック(いしかり)をライラックに改称
 
 
 
そこで、国労は「国労との団体交渉の形骸化をねらう当局」に対して全国的な統一闘争を背景にねばり強く事前折衝をつづけながら団交を要求するともに、本社座り込み抗議行動などを実施した。しかし、国労の要求は、一歩も前進せず、協定化は難航をきわめた。 
これは、当時の太田知行職員局長が人事のトップに立ったことが大きかったと思われます。
少なくとも、個人的な見解では、本来のダイヤ改正にかかる項目などを、管理運営事項に戻した功績は大きいと言えましょう。
参考 幣サイトの宣伝で恐縮ですが

whitecat-kat.hatenablog.com

しかし、既に何度か書きましたが、動労はスト権ストの失敗以降、方向転換の道を探っていたようであり、実際に昭和55年の改正以降も減り続ける貨物輸送に不安を感じていたと思われるのです、11月10日には、最大労組である国労より先に、動労・鉄労・全施労は当局との間で「57.11ダイヤ改正の実施に伴う労働条件に関する協定」を妥結したのとされています。
本来は組合間で定めたコミュニティルールで、多数派と交渉して妥結してから他の組合とも妥結するのが今までの流れであっただけに、国労としてみれば想定外の出来事であったと思われます。

更に、その内容はその後の労使協調宣言を彷彿させるような内容であり、国労との温度差を感じさせるものでした。

57.11ダイヤ改正にあたっては、国鉄のおかれた状況を認識し、これまでの事前協議、団体交渉の経緯を尊重し、労使の信頼関係に立脚し、協定・協約等を遵守して、円満な実施をはかるものとする」と謳われていた。

ということであり、国労との温度差を感じさせるものでした。

 

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
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 57.11ダイヤ改正交渉と鉄労・動労・全施労の先行妥結

 1981年10月27日に当局が発表した五七・一一ダイヤ改正は、35万人体制を目指す「経営改善計画に基づく初めてのダイヤ改正であった。その概要は、
 ① 旅客輸送については、東北・上越線新幹線開業を機会に在来線旅客関係で約2万5000キロの削減を図る。
 ② 貨物輸送関係については、輸送力と輸送量の大幅な乖離を解消するために地域間直行貨物輸送体制をめざし、貨物取扱駅251駅の削減(800駅体制)、ヤード41の削減による再編(100ヤード体制)、貨車1万3000両の削減、貨物関係約4万キロの削減をはかる。
 ③ これらにともなう作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用効率化をはかる。

 という内容であった。
 この提案に対し国労動労は、「『経営改善計画』は早くも破たんしているといわなければならない。にもかかわらず国鉄は35万人の要員規模にするという計画を強行しようとしているが、今回のダイヤ改正提案もその一環であり収支改善のみを追求し、国鉄の公共性を放棄するものと言わざるを得ない。」との抗議声明を発表した。国労は、11月16日に今回のダイヤ改正について具体的な要求を提出し、12月14・15日の第133回中央委員会(国労会館)でも、この57・11ダイヤ改正に対する闘いは「国民の国鉄づくりを目指すたたかいと、国鉄労働者の労働条件を維持・改善する取り組みとを結合したたたかい」として位置づけ事前協議に入った。
 1982年に入ってダイヤ改正をめぐる交渉は本格化し、12月末のは労使間で一定の確認と整理が行われた。しかし、この時期は前述のように、自民党三塚委員会の「提言」(4月16日)、国鉄当局の「職場規律総点検報告」(4月23日)、臨調第4部会報告(5月17日)、ブルートレイン乗務旅費返還訴訟の提起(7月15日)、現場協議協約改定案提起(7月9日)、臨調基本答申(7月20日)などもあって、労使交渉がスムーズにはすすまなかった。当局側は「不当労働行為にならない程度で団体交渉に応じる」態度であり、従来のダイヤ改正問題では「確認事項」として問題の整理がなされてきたのに、ここにいたって当局は公労法8条(団交から管理運営事項を除外)をもち出して「覚書」扱いを主張した・国労は、国労攻撃のキャンペーンが猛威を振るっているなかで、国労との団体交渉の形骸化をねらう当局に対して全国的な統一闘争を背景にねばり強く事前折衝をつづけながら団交を要求するともに、本社座り込み抗議行動などを実施した。しかし、国労の要求は、一歩も前進せず、協定化は難航をきわめた。
 この事態を受けて国労は、10月15日以降は職場における26協定の破棄、非協力闘争に入り、10月末から11月初めにかけて一週間にわたる本社前抗議行動を展開した。
11月6日になって当局は「団交再開」を申し入れてきたが、国労は10日、全国委員長会議を開いて
 ① 14日までに決着し24日までに全国統一解決を目指す。
 ② 14日までに解決しない場合は15日始業時から全国拠点統一時限ストを実施する、との方針を固めた。
 ところが、この日(10日)、この57.11ダイヤ改正問題交渉でその後顕在化する特徴的な出来事があった。動労・鉄労・全施労は当局との間で「57.11ダイヤ改正の実施に伴う労働条件に関する協定」を多数組合の国労をだしぬいて妥結したのである。そこでは、「57.11ダイヤ改正にあたっては、国鉄のおかれた状況を認識し、これまでの事前協議、団体交渉の経緯を尊重し、労使の信頼関係に立脚し、協定・協約等を遵守して、円満な実施をはかるものとする」と謳われていた。
                                      
続く