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国鉄労働組合史 83

本当に久々の更新でございます、本日は、鈴木・中曽根両首相により進められた、臨時行財政改革【略称、第2臨調】に関するお話をさせていただこうと思います。

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鈴木首相の政策の目玉にしたかった臨時行政調査会

鈴木首相誕生の背景は、言葉は悪いが棚ぼた的なものであり、大平首相急逝に伴う自民党内の派閥の軋轢から生まれたと言ってもよく、目玉になる政策などもありませんでした。

最終的には、中曽根内閣が鈴木首相が取り組んだ臨調を受け継ぐ形で、国鉄電電公社の民営化を進めることになったのでした。
第二臨調と言われてますが、実は「第一臨調」と呼ばれるものも有ったのです。

昭和36年に実施された。臨時行政調査会【通称第一次臨調】

昭和36(1961)年~昭和39(1964)年にかけて実施された「臨時行政調査会」がそれで、後に鈴木首相が臨時行政調査会を設置したときに2回目と言うことで、第2次臨時行政調査会と呼ぶようになったそうです。
第一臨調は、紆余曲折がありましたが、昭和39(1964)年9月29日に発表されることになりますが、結果的にはその成果は十分反映されることはありませんでした。

元々非効率な官庁の仕事を合理化して民間並みにと言うのが主な目的でしたが、高度経済成長期でもあり税収の自然増が期待されたことから結果的には答申は出されたものの顧みられることなく忘れ去られていったのです。

第一次臨調の失敗を反省して計画された第二臨調

さて、国労の記事でも出てくる、中曽根内閣ですが、戦後政治の総決算というかけ声とともに、臨時行政調査会を発展させていきました。

 昭和561981)年に発足した臨調は、昭和58(1983)年3月14日に臨調最終答申をうけ、さらに同年5月13日には、国鉄再建監理委員会を発足させることとなりました。
実は第2臨調は、国鉄電電公社などの公社の民営化は進めましたものの、実は省庁の改革には一切行っていませんでした。
これが、国鉄改革を成功させた一つの要素ではないかと言われています。
と言いますのも、ここで面白い論文を見つけたので少し引用させていただこうと思います。

第二臨調は官僚組織に手を加えないことで成功した

中曽根政権の行政改革・教育改革・税制改革の成否を分けたもの
-改革における事務局掌握の重要性-
と言う論文の中で、

「大蔵省は鈴木政権で第二臨調が設立された当初から「抵抗」していたといわれます。その理由は、大蔵省は「予算編成権を横取りされるのではないかという強迫観念にとりつかれていた」からである

と書かれていました、実はこれは第一次臨調の当時、「大蔵省主計局を分離して内閣直属の「予算局」とすることを打ち出したことが、大蔵省の警戒感をまねいたといわれる」と言うことらしいです。
大蔵省の主計局といえば、予算の大元締めであり、私が郵政局にいた頃も経理部の主計課だけは独特の雰囲気がありました。(課長以下エリートという意識が強くて、私も経理部にも所属していましたが明らかに、他部署を見下している感はありました。)
そこで、中曽根首相は臨調に対して大蔵省主計局分離構想は「封印」することで官僚の抵抗を抑えたと言われています。
さらに、中曽根首相は臨調を成功させるために、

「臨調に対して行革対象を限定してほしいとの意向が伝えられ、臨調第四部会は3公社の改革、とくに国鉄改革に焦点を絞っていった」と言われています。

これは、官僚にとってもメリットがありました、自分たちの領域は守られると・・・。
特に運輸省(現在の国土交通省)は積極的に動くことになりました、

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運輸省国鉄の因縁

国鉄は、昭和24年に運輸省から分離した組織であり、当時の運輸省エリートがこぞって国鉄に移籍したといわれていました、実際昭和24年当時は国鉄が実質的な日本の輸送を司っていると言っても過言ではない時代であり、運輸省に対して常に優越意識を持つ独立的組織でした。
実際、運輸省国鉄の制定した規格を追認する形が昭和30年代には続いていました。
その極端な例が、ATS等に見ることが出来ます。
現在のJRで採用されているATS-SX形は元々は国鉄時代の車内警報装置を改良したものであり、ATSとしては不十分なものでした、その後追突事故の多発などを受けてATSが私鉄でも整備されることとなったさいは、運輸省が速度照査式のATSを設置するように通達を出していますが、国鉄はその適用を除外されています。

参考 鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話

blackcatk.exblog.jp他にも、国鉄が基準を独自に定めることは多々あり、郵政省もそうでしたが、時には国鉄運輸省電電公社郵政省というイメージがあったことは事実でした。
そうした意味では、運輸省にしてみれば、「運輸省国鉄の間に楔」を打ち込もうとした第二臨調の戦略は、運輸省にしてみれば、協力することが省益にかなう行為であったのです。
参考 中曽根政権の行政改革・教育改革・税制改革の成否を分けたもの
-改革における事務局掌握の重要性-

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180105000416.pdf?id=ART0009238998

 

今回は、国労に関連する記述は直接はありませんが、中曽根臨調が国鉄をターゲットにすることで官僚の協力を取り付けた点を注目していただければと思います。

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第1節 国鉄再建監理委員会の発足と「緊急提言」
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二 中曽根内閣による行革路線の推進

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├○ 臨調=行革路線の展開と中曽根内閣の反動性│
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 勤務時間中流身(入浴)など職場慣行を守る闘い

 1982年(昭和57)年11月、第2臨調=行政改革の”断行”をかかげて発足した中曽根内閣は、あけて、3年3月14日に臨調最終答申をうけ、さらに5月13日に国鉄再建監理委員会を発足させた。
 9月になると、臨調答申にそった関連法案を審議するため臨時国会を招集した。しかし、その会期さなかに東京地裁が、ロッキード事件丸紅ルート判決において、被告人の田中元首相に懲役4年追徴金5億円の判決を行った。野党は直ちに田中角栄議員辞職勧告決議の優先審議と早期解散を主張し、国会は1ヶ月あまり空転したが、衆参両院議長の斡旋もあって11月28日に国会は解散した。この年末総選挙は、当然のことながら政治倫理が主たる争点となり、3月18日に投票の結果は、自民党が126議席を失い単独過半数を割る大敗を喫した。12月17日発足の第2次中曽根内閣は、新自由クラブとの連立内閣となった。
 明けて1984年第2次中曽根内閣は行政改革を再重点施策にすると明言して、電電公社・専売公社の民営化など臨調答申に基づ基礎のごの行革関連法案を国会に提出した。さらに、教育「改革」をもくろんだ臨時教育審議会【臨教審】設置法案、医療費抑制【本人1割負担など】のための健康保険法改正法案なども提出され、それら行革関連法案はほとんど成立した。【電電公社民営化法案は84年12月成立】、翌85年4月1日、電電公社日本電信電話株式会社(NTT)専売公社は日本たばこ産業株式会社(JT)として、それぞれ民間会社としてスタートした。そして7月26日には、国鉄再建監理委員会最終答申「国鉄改革に関する意見」が出された。中曽根首相は、この答申を強引に実行する布石として、国鉄分割・民営化を推進することを期待して任命された仁杉総裁が弱腰を見せると更迭し、杉浦喬也前運輸事務次官国鉄新総裁に任命していた。【6月25日】
 他方、1983年11月、レーガン米大統領が来日して日本市場の開放と、より一層の防衛努力を要請した。これを受けて中曽根内閣は、”強いアメリカ”をとくレーガン大統領との協調を第一にする立場を鮮明にしながら、経済大国に見合う日本の政治・軍事大国化を目指して「国際責任を果たすための防衛力【軍備】増強路線を歩みだした。そのことは、毎年の予算編成における行革下のマイナス・シーリング方針の中で防衛費の伸び率だけが突出したり、防衛費がGDPの1%枠【三木内閣の閣議決定】を突破するのはやむをえないという姿勢に現れていた。そのうえ、靖国神社公式参拝に踏み切る【85年8月】とか、戦時中を思い出させるスパイ防止法案が議員立法の形で衆議院に上程される【同年6月】など、中曽根内閣の反動性はこの時期、さらにあらわになってきた。 

続く