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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 85

久々に更新させていただきます。

今回は、国労の記事と言うよりも、当局の話を中心にさせていただきます。

再建監理員会の発足と緊急提言に関するお話の続きとなります。

国鉄当局としても、臨調の答申は、当初予想していた以上に厳しいものでした。

国鉄に対する国民の評価が決め手

電電公社【現・NTT】が積極的に真藤総裁以下民営化に進んだのとは対照的であり、電電公社は積極的に民営化に動くことで実質的に分割を免れ組織温存出来たのに対し、国鉄は結局地域分割並びに労働者の解雇と新会社による再雇用という形で行われました。これにより、結果的に多くの国鉄職員が職場を去ることになりました。

私の父親は管理職をしていたのですが、国鉄民営化の職員振り分けの責任感から採用辞退して退職しました。

52歳でした。

その後は、民間会社に就職するという流れだったのですが、父親もそうした意味では国鉄改革の被害者であったかもしれません。

さて、その当時の内容に関しては、国鉄の部内誌、国有鉄道 昭和57年9月号の記事に

「竹内常務理事に聞く 国鉄に対する国民の評価が決め手」というタイトルの記事で、冒頭に述べられています。

少し長いのですが全文引用させていただきます。

竹内
今回の基本答申も5月17日の臨調第4部会の中間報告と内容としてはほとんど変わっておりません。国鉄にとってたいへん厳しいものになっております。そういうふうに厳しくなった背景をまず私どもとしては,よくわきまえてかからなければならない。要するに,答申はひとにぎりの委員の独断,偏見と考えると大きなまちがいで,国民の多くの方から支持をうけて出されたものであるということです。大筋は中間報告と変わりなし経営形態の変更が国鉄再建のためどうしても必要だとしています。

いってみれば公社制度そのものについての不信感が基本にあるわけでして,要はそれが中途半端な制度であり,当事者能力がないために経営姿勢や労使関係がよろしくない。
その上に,現在国鉄が進めている経営改善計画も手ぬるいということで,さらにこれを深度化し,その上緊急に処置すべき11項目というものをかかげて,直ちに改善しなければならないといっておられるわけです。しかし,そうしたもろもろの問題の中でもとくに過去債務の問題,年金処理の問題,青函トンネルや本四架橋といった国家的大プロジェクトにかかわる経費負担をどう考えたらいいのかというような問題は,どうしても国鉄だけでは解決できない。

国鉄にとって、経営形態の変更を含む内容は正直承服できなかったと思われますが、それまでにも、毎年のように繰り返される運賃値上げや、それ以前のスト権ストに見られるような国民無視のストライキは、いくら国労理論武装しても受け入れられることは無かったと言うことでした。

実際には、国鉄監査報告書を見ていただくと判りますが、

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 国内の鉱工業生産指数も国民総生産も増えているにも関わらず、国鉄の輸送量は減少を続け、国内輸送機関別に見ても国鉄だけが昭和45年以降一人負け続けていることが窺えます。

また、国鉄の貨物輸送に関しては、昭和45年からは車扱輸送は減り始め、順調な伸びを見せていたコンテナ輸送も昭和50年頃から横ばいもしくは減少するなど国鉄の輸送は昭和57年当時には昭和30年代と同程度の列車キロとなり、貨物輸送量の合計に至っては、昭和30年を下回る結果となっていました。

 

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 ただ、国鉄当局としても、公社制度そのものが中途半端な制度であり、当事者能力がないために経営姿勢や労使関係がよくない事を認めています。

国鉄だけに責任を押しつけるべき出ない問題も多く

しかし、その反面、「過去債務の問題,年金処理の問題,青函トンネルや本四架橋といった国家的大プロジェクトにかかわる経費負担をどう考えたらいいのかというような問題は,どうしても国鉄だけでは解決できない。」とある意味開き直りのようにも取れる発言をしています。
 実際に過去債務の問題を考えると、その多くは昭和30年代の輸送力増強や通勤通学輸送への投資が行われていたことや、9割近くの割引と言われた学生運賃の割引や、大幅な定期運賃割引に関する問題など、昭和30年代から問題視されていた事がここに来て一気に吹き出した訳であり、国鉄が悪いとか、組合が悪いと言う言葉だけで片付けられる問題ではありませんでした。

例えば、

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国有鉄道昭和57年9月から引用 特定退職手当及び年金の増加が目立ちます。
  • 年金処理の問題に関しては、戦後、満州鉄道や陸海軍工廠の技術者の受入たことによる年金受給の問題がありました。
    共済年金の中で一番最初にパンクしたのが国鉄共済であり、結局他の公務員共済が助ける形を取らざるを得なくなりました。
  • 青函トンネルや本四架橋といった国家的大プロジェクトにかかわる経費負担についても、開通前から議論がなされ、特に青函トンネルの維持費が問題となりました。核シェルターに活用するといった案や、果ては破壊して埋めてしまえと言った過激な発言もありました。

現在の青函トンネルは、鉄道建設・運輸施設整備支援機構がトンネルを所有していますし、備讃瀬戸大橋【瀬戸大橋線】に関しては、鉄道施設は日本高速道路保有・債務返済機構が所有となっていますが、国鉄が存続していた場合はこれらの施設に関しても国鉄に応分の負担【トンネルは全額負担】となっていた可能性があるわけで、その辺が不満が、上記のような発言に繋がったのではないかと推測されますが、臨調の答申は、国労だけで無く、現状維持したい国鉄当局にしても不満が残るものであったことが窺えます。

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国鉄労働組合史詳細解説 84

皆様長らく更新できませんでしたが、久々に更新させていただきます。

本日も国鉄改革について書かせていただきます。

強大な権限を持つ再建監理委員会

第九八国会で審議に入り、八三年五月一三日に可決・成立した。国鉄再建監理委員会(以下、監理委員会と略す)は、単なる研究報告的な委員会では無く、行政委員会という位置づけがなされ、再建のための諸政策の執行機関としての性格が打ち出されていました、
運輸省としては運輸省組織の改編にまで切り込まれるのでは無いかという危惧があったようです、それよりも衝撃を受けたのは当局であったと思われます。

臨調第4部会の中間報告に対して、国鉄の意見として、昭和57(1982)年6月掲載、国有鉄道の記事で、国鉄の見解を以下のように述べています。

長いですが、全文引用させていただきます。

概要としては、

  1. 国鉄の公共性という問題を無視していきなり分割民営化という考え方は容認できない。
  2. 現在も国鉄内部で、改善を行っているが、分割民営化ありきでは職員の士気にも影響する。ただし経営改善計画が実現しなかったら、民営分割を受け入れざるを得ないので改善には全力で取り組む
  3. 工場・病院・自動車などの関連部門の分離は行うべきでは無い。
  4. 長期債務、年金問題の処理等については、国鉄だけで処理できない問題であり、その点にメスが入ったことは歓迎する。年金問題も然り
  5. 監理委員会を総理府に行政委員会として設置されることは歓迎する。

と言った内容ではありました。

以下、長いですが引用させていただきます。

4 部会報告に対する国鉄の考え方

(1)分割民営化について
 ア 部会報告にある分割民営化については、理念として宣言されたものと理解できるが、次のような問題があり国鉄としては賛成することができない。
(ア)国鉄問題のすぺては公共性と採算性との調和を求めることに出発点をおくべきであると考えられるが、この点で今回の部会報告は、採算性の見地からの主張に片寄り遇ぎているため、公共性に対する視点が希薄であって、「何故国鉄公共企業体なのか」という基本的問題に対する考え方が不明確であること。
 (イ) 緊急措置の実施が新形態移行までの間とされていること。緊急措置については、経宮改善計画の達成に全力を挙げて邁進中の現在、大筋においてこの計画の延長線上にあり真摯に受け止めて取り組んでいかねばならないものと考えられるが、はじめから分割民営化を予定しておき、その目標へ向けての経営努力ということでは再建意欲は湧き上がってこないこと。
 (ウ)多くの人命と財産を預り、日々安全かつ正常な輸送業務を遂行しなければならない国鉄において、これに携わる職員にいたずらに不安感を抱かせることは好ましくないこと。
 イ しかし、逆に、緊急措置も含めて経営改善計画が達成されない場合には、経営再廸促進特別措置法提出の際の自由民主党の決議(55年2月19日)もあり、民営分割も避けられないとの覚悋が必要であり、再建の目標達成に向けて能う限りの経営努力を傾注しなければならないものである。
(2) 緊急措置について
  緊急措置については、細部では若干の異論もあるが、大筋において納得できるものであり前向きに受け止めて新形態への移行とは関係なく実施していかなけれぱならないと考えられる。経営改善計画策定時からみると、貨物輸送量の大幅な減、旅客輸送量の微減など経営を取りまく環境は大きく変化してきており、経営改善計画の目標としている60年度における幹線の収支均衡を達成するには経営改善計画の内容の見直し、深度化をはかる必要がある。したがって、緊急措置は、この経営改善計画の目標達成のための一環として受け止めて実施に移していく考えである。
 しかし、関連部門(自動車、工場、病院)の分離については、種々問題を孕んでおり、実施すぺきではない。国鉄が現在取り組んでいる経営改善計画は、能率向上をはかることが目的であって、単に人数を削減すれぱ事足れりとするものではない。関連部門については、すでに工場勘定など独立した経理を行ない,効率的運営につとめており、今後もなお一層可能な限りの徹底した合理化を実施することとしている。したがって、仮に分離しても人件費が物件費におきかわるに過ぎず収支改善の効果を多くは期待できない。
 また、組織の変更を強行した場合、職員の身分上の問題も発生し、これに従事している職員を他の分野で配転して吸収するとなれぱ全体としてかえって著しい効率低下を招来することにもなる。
 したがって、関達都門の分離は60年度を目ざした経営改善を推進する立場からはとるぺき方策ではない。
 また、給与の抑制についてもとるべきではない。従来から公共企桑体等職員の賃金については、その事業の性格上、個々の経営状況によって格差を設けることは適当でないものとして取り扱われてきた経緯もあり、総力をあげて経営の効率化と職場規律の確立に取り組んでいる現在、職員の士気に影響をおよぽすことのないよう、また、その生活の安定をはかる意味からも職員個々人の給与の抑制はとるべきではない。しかし、給与総額については、合理化による要員削減により、これまで極力圧縮の実をあげてきたところであり、今後ともこの努力を続けていく必要がある。
 (3)長期債務、年金問題の処理等について
長期債務について

一定の処理をするという考え方が打ち出されており、これは方向として は国鉄としてかねてより要望してきた線に沿ったものである。しかし、処理される長期債務の金額や処理する方法について不明確であること、さらに、この対策が新形態への移行を前提として考えられていることには問題がある。今後,経営改善計画を遂行する過程で債務が累積するととは避け得ない状況におかれており,したがって,新形態への
移行とは関係なし 緊急措置も含めた最大限の企業努力を行なうことを前提として累積赤字相当の債務の棚上げを希望するものである。
年金問題について
破局を迎えつつある共済年金制度に対する措置を講ずる必要があるとしとくに類似制度との統合,あるいは追加費用について国庫補助を行なうとしていることは,従来から国鉄としても要望してきたものでありその実現方を希望するものである。ただし,長期債務の処理と同様,新形態への移行-とは関係なく措置されることを希望するものである。
(4) 国鉄再建監理委員会の設置について
国鉄問題の解決のためには,各省庁に分散している権限を一元的に集めて横断的に処理する場が必要であり,この点から監理委員会を総理府に行政委員会として設置されることは意味があると考えられる。

国鉄にとっては、手のひら返しを受けたように感じた?

非常に長い引用になってしまいましたが、国鉄としては今まで散々「公共性の追求」と言って、赤字ローカル線の運営や、学生定期運賃の大幅割引など、本来は国鉄単体が負うべきものでない部分まで公共性の名の下負ってきたにもかかわらず、ここに来て「赤字」という部分だけがクローズアップされたことに対しての不満を述べています。

国鉄は縛られた巨人

実は、この点は国鉄が抱えていた構造的な欠陥であったと考えています。

鉄道省時代は鉄道輸送とそれに関連する部分も鉄道省の範疇(いわゆる省益)としての囲い込みができたので、観光地の開発なども行えたようです。

しかし、国有鉄道になってからは、輸送業務にのみ専念することとが義務づけられ、、関連事業なども民業圧迫大義名分の元、大幅に制限されていました。
民衆駅の最初の走りと言われる豊橋駅なども国鉄としてもらえるのはわずかの店子の借料であって自らも駅の中で営業するといったことは許可されていませんでした。

赤字ローカル線の建設なども・・・

その上、公共性という視点からローカル線の建設等が政府や時の代議士による我田引水ならぬ我田引鉄が行われていました。

鉄道建設公団(現在は、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が昭和39(1964)年に設立されるのも、国鉄がローカル線建設を拒否したことによるもので、十河総裁が再任されなかったことの原因は、新幹線建設費の増大で責任を負ったとされていますが、むしろ赤字ローカル線の建設拒否したことの方が大きな原因でなかったかと考えています。(十河総裁が退任後すぐに鉄道建設公団が、国鉄並びに政府の出資で誕生しています)

参考 鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 地方鉄道研究blog (URL変更しました。)

local-line.at.webry.info

さて、話が横道にそれてしまいましたので、再び元に戻したいと思います。

また、緊急措置項目についても、するべき必要を認めつつも、最初から民営化ありきでは、職員の士気に影響するのではないかということで、組織としての当然のことながら抵抗を試みています。

工場の統廃合や、病院の一般診療開始、診療所の廃止なども

また、緊急措置項目の中で工場や病院の分離が提言されておりますが、鉄道病院に関しては、専門病院から一般診療を行う付属病院に変更されるとともに、診療所などが閉鎖されました。

余談ですが、私の父親も国鉄でしたので、病院はもっぱら和歌山駅の美園商店街よりにあった鉄道病院の和歌山診療所でした。
一般診療を行っていないため、いつ行っても空いていたことを覚えています。

閑話休題

さらに、鉄道工場については、分離は行わなかったものの統廃合は行われ。高砂工場が閉鎖されて鷹取工場に統合されるなど全国で工場の統廃合が行われました。

また、自動車についても、分離が提言されていますが、国鉄バスは、鉄道路線の培養・短絡・代行を目的としており、不採算なローカル地域の輸送を担っている路線が殆どであり、分離独立はこの時点では実質的に不可能であったと考えられます。

ただし、国鉄時代からバス事業は独立採算制で行われていました。

余談ですが、自動車部門は国鉄改革時にはJR各社に引き継がれた後、JR四国を除き、翌年には地域ごとに分割されたバス会社がJRの子会社として発足しています。

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***************以下は、国労の資料になります。*****************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第1節 国鉄再建監理委員会の発足と「緊急提言」
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一 中曽根内閣による行革路線の推進

┌───────────────┐
├○ 反核軍縮運動の国際的高揚│
└───────────────┘

 1984年夏、ソ連は米ロサンゼルス・オリンピックをボイコットしたが、同年11月の米大統領選挙でレーガン再選のあと、翌85年1月に米ソ外相会談がもたれ、包括軍縮の合意がなされた。ついで3月には、ソ連のトップのゴルバチョフ書記長が登場し、その夏にすべての核実験中止を一方的に表明した。同年11月、ジュネーブで行われた6年半ぶりの米ソ首脳会談は、具体的成果はとぼしかったが新たなデタント【国際緊張緩和】への期待をいだかせた。ペレストロイカ【改革】とグラスチノス【情報公開】を唱えるソ連共産党書記長ゴルバチョフが、かってソ連を「悪の帝国」と呼んだアメリカ大統領レーガンと会談し、軍縮交渉を行うという事態は、新しい時代を予感させた。

二 中曽根内閣による行革路線の推進

┌──────────────┐
├○ 国鉄再建監理委員会の発足│
└──────────────┘

 国鉄再建監理員会設置法は、第98国会において1983年5月13日に可決・成立した。監理委員会【国鉄再建監理員会】の権限については、臨調【第2次臨時行政調査会】第4部会報告では、行政委員会【3条委員会)と位置づけ、国鉄再建のための諸政策の執行機関としての性格付けがなされていた。だが、運輸省などからあまりに強い監理委員会の権限について、関係官庁の業務を侵すものと反発が出されたため、臨調の基本答申ではやや後退した性格付けがなされた。そして監理委員会法では、通常の政府の審議会と同じ8条委員会ではあるが、「限りなく3条に近い8条」【中曽根康弘行政管理庁長官】という規定であった。つまり監理員会は通常の審議会以上の権限を付与され、首相は監理員会の意見を尊重しなければならない。また、監理委員会は関係行政機関の長及び国鉄総裁に対して資料の提出、説明その他必要な協力を求めることができる。としている。
 監理委員会は5人のメンバーで構成され、委員長には亀井政夫住友電工会長が就任し、委員には隅谷三喜男東大名誉教授、吉瀬維哉日本開発銀行総裁、加藤寛慶大教授、住田正二運輸省事務次官が任命され、83年6月10日に発足した。監理委員会設置法は第1条において臨調答申を尊重することを事業再建の基本方針にしているのであるから、監理員会の検討方向は当初から国鉄の分割・民営化をめざしたものとなった。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 83

本当に久々の更新でございます、本日は、鈴木・中曽根両首相により進められた、臨時行財政改革【略称、第2臨調】に関するお話をさせていただこうと思います。

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鈴木首相の政策の目玉にしたかった臨時行政調査会

鈴木首相誕生の背景は、言葉は悪いが棚ぼた的なものであり、大平首相急逝に伴う自民党内の派閥の軋轢から生まれたと言ってもよく、目玉になる政策などもありませんでした。

最終的には、中曽根内閣が鈴木首相が取り組んだ臨調を受け継ぐ形で、国鉄電電公社の民営化を進めることになったのでした。
第二臨調と言われてますが、実は「第一臨調」と呼ばれるものも有ったのです。

昭和36年に実施された。臨時行政調査会【通称第一次臨調】

昭和36(1961)年~昭和39(1964)年にかけて実施された「臨時行政調査会」がそれで、後に鈴木首相が臨時行政調査会を設置したときに2回目と言うことで、第2次臨時行政調査会と呼ぶようになったそうです。
第一臨調は、紆余曲折がありましたが、昭和39(1964)年9月29日に発表されることになりますが、結果的にはその成果は十分反映されることはありませんでした。

元々非効率な官庁の仕事を合理化して民間並みにと言うのが主な目的でしたが、高度経済成長期でもあり税収の自然増が期待されたことから結果的には答申は出されたものの顧みられることなく忘れ去られていったのです。

第一次臨調の失敗を反省して計画された第二臨調

さて、国労の記事でも出てくる、中曽根内閣ですが、戦後政治の総決算というかけ声とともに、臨時行政調査会を発展させていきました。

 昭和561981)年に発足した臨調は、昭和58(1983)年3月14日に臨調最終答申をうけ、さらに同年5月13日には、国鉄再建監理委員会を発足させることとなりました。
実は第2臨調は、国鉄電電公社などの公社の民営化は進めましたものの、実は省庁の改革には一切行っていませんでした。
これが、国鉄改革を成功させた一つの要素ではないかと言われています。
と言いますのも、ここで面白い論文を見つけたので少し引用させていただこうと思います。

第二臨調は官僚組織に手を加えないことで成功した

中曽根政権の行政改革・教育改革・税制改革の成否を分けたもの
-改革における事務局掌握の重要性-
と言う論文の中で、

「大蔵省は鈴木政権で第二臨調が設立された当初から「抵抗」していたといわれます。その理由は、大蔵省は「予算編成権を横取りされるのではないかという強迫観念にとりつかれていた」からである

と書かれていました、実はこれは第一次臨調の当時、「大蔵省主計局を分離して内閣直属の「予算局」とすることを打ち出したことが、大蔵省の警戒感をまねいたといわれる」と言うことらしいです。
大蔵省の主計局といえば、予算の大元締めであり、私が郵政局にいた頃も経理部の主計課だけは独特の雰囲気がありました。(課長以下エリートという意識が強くて、私も経理部にも所属していましたが明らかに、他部署を見下している感はありました。)
そこで、中曽根首相は臨調に対して大蔵省主計局分離構想は「封印」することで官僚の抵抗を抑えたと言われています。
さらに、中曽根首相は臨調を成功させるために、

「臨調に対して行革対象を限定してほしいとの意向が伝えられ、臨調第四部会は3公社の改革、とくに国鉄改革に焦点を絞っていった」と言われています。

これは、官僚にとってもメリットがありました、自分たちの領域は守られると・・・。
特に運輸省(現在の国土交通省)は積極的に動くことになりました、

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運輸省国鉄の因縁

国鉄は、昭和24年に運輸省から分離した組織であり、当時の運輸省エリートがこぞって国鉄に移籍したといわれていました、実際昭和24年当時は国鉄が実質的な日本の輸送を司っていると言っても過言ではない時代であり、運輸省に対して常に優越意識を持つ独立的組織でした。
実際、運輸省国鉄の制定した規格を追認する形が昭和30年代には続いていました。
その極端な例が、ATS等に見ることが出来ます。
現在のJRで採用されているATS-SX形は元々は国鉄時代の車内警報装置を改良したものであり、ATSとしては不十分なものでした、その後追突事故の多発などを受けてATSが私鉄でも整備されることとなったさいは、運輸省が速度照査式のATSを設置するように通達を出していますが、国鉄はその適用を除外されています。

参考 鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話

blackcatk.exblog.jp他にも、国鉄が基準を独自に定めることは多々あり、郵政省もそうでしたが、時には国鉄運輸省電電公社郵政省というイメージがあったことは事実でした。
そうした意味では、運輸省にしてみれば、「運輸省国鉄の間に楔」を打ち込もうとした第二臨調の戦略は、運輸省にしてみれば、協力することが省益にかなう行為であったのです。
参考 中曽根政権の行政改革・教育改革・税制改革の成否を分けたもの
-改革における事務局掌握の重要性-

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180105000416.pdf?id=ART0009238998

 

今回は、国労に関連する記述は直接はありませんが、中曽根臨調が国鉄をターゲットにすることで官僚の協力を取り付けた点を注目していただければと思います。

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**************************以下は、国労の資料になります。*********************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第1節 国鉄再建監理委員会の発足と「緊急提言」
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二 中曽根内閣による行革路線の推進

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├○ 臨調=行革路線の展開と中曽根内閣の反動性│
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 勤務時間中流身(入浴)など職場慣行を守る闘い

 1982年(昭和57)年11月、第2臨調=行政改革の”断行”をかかげて発足した中曽根内閣は、あけて、3年3月14日に臨調最終答申をうけ、さらに5月13日に国鉄再建監理委員会を発足させた。
 9月になると、臨調答申にそった関連法案を審議するため臨時国会を招集した。しかし、その会期さなかに東京地裁が、ロッキード事件丸紅ルート判決において、被告人の田中元首相に懲役4年追徴金5億円の判決を行った。野党は直ちに田中角栄議員辞職勧告決議の優先審議と早期解散を主張し、国会は1ヶ月あまり空転したが、衆参両院議長の斡旋もあって11月28日に国会は解散した。この年末総選挙は、当然のことながら政治倫理が主たる争点となり、3月18日に投票の結果は、自民党が126議席を失い単独過半数を割る大敗を喫した。12月17日発足の第2次中曽根内閣は、新自由クラブとの連立内閣となった。
 明けて1984年第2次中曽根内閣は行政改革を再重点施策にすると明言して、電電公社・専売公社の民営化など臨調答申に基づ基礎のごの行革関連法案を国会に提出した。さらに、教育「改革」をもくろんだ臨時教育審議会【臨教審】設置法案、医療費抑制【本人1割負担など】のための健康保険法改正法案なども提出され、それら行革関連法案はほとんど成立した。【電電公社民営化法案は84年12月成立】、翌85年4月1日、電電公社日本電信電話株式会社(NTT)専売公社は日本たばこ産業株式会社(JT)として、それぞれ民間会社としてスタートした。そして7月26日には、国鉄再建監理委員会最終答申「国鉄改革に関する意見」が出された。中曽根首相は、この答申を強引に実行する布石として、国鉄分割・民営化を推進することを期待して任命された仁杉総裁が弱腰を見せると更迭し、杉浦喬也前運輸事務次官国鉄新総裁に任命していた。【6月25日】
 他方、1983年11月、レーガン米大統領が来日して日本市場の開放と、より一層の防衛努力を要請した。これを受けて中曽根内閣は、”強いアメリカ”をとくレーガン大統領との協調を第一にする立場を鮮明にしながら、経済大国に見合う日本の政治・軍事大国化を目指して「国際責任を果たすための防衛力【軍備】増強路線を歩みだした。そのことは、毎年の予算編成における行革下のマイナス・シーリング方針の中で防衛費の伸び率だけが突出したり、防衛費がGDPの1%枠【三木内閣の閣議決定】を突破するのはやむをえないという姿勢に現れていた。そのうえ、靖国神社公式参拝に踏み切る【85年8月】とか、戦時中を思い出させるスパイ防止法案が議員立法の形で衆議院に上程される【同年6月】など、中曽根内閣の反動性はこの時期、さらにあらわになってきた。 

続く

国鉄労働組合史詳細解説 82

またしばらく間が空いてしまいましたが、更新させていただきます。

今回も、国鉄労働運動史を底本として、解説を加えさせていただきます。

入浴に関する国労の主張と当局の見解

昭和57年3月から始まったの職場総点検では、今までの慣行がいよいよ明らかにされたことは既に述べてきたことですが、是正は強力に進められ、昭和57年12月の総点検では、入浴問題は概ね是正され、3月の点検で時間内入浴が行われていた職場が1677か所、12月の点検では583か所に減少したとはいえ1/3の職場では依然時間内入浴が行われているとして、より強力な方策がとられたようです、これについては国労は、勤務時間内入浴は、既得権益であるとしてその権利を守るべきであると言う主張を行っていました。

 

 

 門司(保線区、運転区、機関区、客貨車区、信号通信区、電力区、建築区、機械区などの日勤職場)では、82年12月上旬に「勤務時間内入浴禁止」の通告文を風呂場に掲示するとともに、管理者を各風呂場に配置して現認体制を取るなどの措置をとった

勤務時間内入浴は、国鉄労働者の権利という主張

 こうした行為に対して、国労は「国鉄の就業時間内入浴は汚染・発汗作業、あるいは一昼夜交代等の勤務と無関係ではなく、国鉄有史以来の既得労働条件であり確立された慣行である」などの点を強調し、この立場にたって時間内洗身の取り組みを継続したので全国各地の分会段階において連日激しいトラブルが派生し、賃金カットなどが行われる等の問題を発生させていきました

国労としても、既得権益を主張する組合員との間で、組織を守るためにも、現実路線を取るべきではないかと苦悩したであろうことが伺えます。

それが、山崎俊一企画部長の「入浴については状況によって相応の戦術を検討せざるを得なかった。」という発言につながったと言えそうです。

世論から浮いてしまった国労

国労組合員の思惑と異なり世間は、時間内入浴についてはあまり良い意味合いは持っていなかったようで、新聞からの記事を引用した「昭和58年6月号の国有鉄道」を参照しますと、国労としては、時間内入浴は既得の権利であるからということで、下記に書かれているように、最も味方につけるべき世論を敵に回してしまったと言われても仕方がない行動をとっています。

国労の言い分からすれば、「「勤務時間内入浴禁止」の通告文を風呂場に掲示するとともに、管理者を各風呂場に配置して現認体制を取るなどの措置をとったのを手始めに。83年の2月に入るや東鉄三局管内の運転職場においては現認にとどまらず、風呂場に施錠するなどの強行手段が取られた。」ことに対する対抗措置とも言えますが、結果的には自分たちの組織を弱体化させるだけに終始したように思えてなりません。

以下は、本文をキャプチャーしましたので参照願います。

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また、こうした入浴に関する動きとして、国労は新たな戦術として、3月15日から17日まで、入浴に関する順法闘争が行われたのですが、これに関しては、新聞各社が不快の感を示しています。

特に、東京新聞が、「何とも奇妙な順法闘争」という話題で批判していた他、朝日新聞も、「不毛だった順法闘争」として、半ば呆れたと言う論調で書かれています。

こちらも、当時の国有鉄道の記事から引用させていただきます。

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 マスコミすら敵に回してしまった国労

少なくとも、マル生運動の時はマスコミを上手く味方につけた国労は、今度はあろうことかマスコミを全方位的に敵に回した感があると感じるのは私だけでしょうか。

国労としては、現場協議制の実質的な廃止以降の当局の動きに対してただ反発するだけの組織としてしか機能しなくなり、世論を完全に見誤ったと言えるのですが、さらに混迷は続くことになりました。

ただし、国労の組合員からすれば、時間内入浴が禁止されることには不満もあったようで、本部の方針が変わったことに対して不満の意見が述べられています。

この辺は、昭和58年10月国有鉄道 視点論点 「危機意識を根底の論議」と言う記事の中に、国労5組合の全国大会の様子を記録した記事からの引用ですが、そこで国労の代議員からの質問で、入浴(洗身闘争)に対して、本部の指導が不十分で、全国統一闘争を決めていたのに、戦術が変更されたことに対する質問が出ていました。

全文引用させていただきます。

・主な発言内容は,「洗身闘争には本部指導が不十分で、138回中央委員会で全国統一闘争を決めていたのにもかかわらず、そのあとの戦術委員長
会議で変更したのはなぜか」「全民労協路線に結果的に賛成している」「賃金要求は家族と共にナマの要求をぶつけていくべきだ」「57・11の団交拒否は誤りで,ダイヤ改正と労働条件は切り離して闘うことができなかったか」「車両改造の具体的計画で職場の不満が強い」、となっている。
 これに対し,山崎俊一企画部長は「入浴については状況によって相応の戦術を検討せざるを得なかった。この問題は労安法,労基法違反の摘発・
点検闘争を併用した。今後もあくまで要求していく。全民労協の危険性はさらに暴露していく。

ということで、国労の主流派であった山崎委員長はある意味苦しい答弁をせざるを得ない状況に置かれていたようです。

国労と距離を置き始めた動労

更に、元々は国鉄分割民営化には反対であった動労が昭和57年以降態度を軟化させ、国労・全施労・動労・全動労の4組合で国鉄分割民営化反対に共闘を結んでいましたがここに来て、動労と全施労はその歩調を合わせないようにしてきました。

その辺りは、動労の大会での答弁に見ることができます。

再び、動労の全国大会の意様子を、上記文章の中から引用したいと思います。

 国労動労の共闘は中身を割っていかなければならない。門司の例はある意味で挑発だ。未曽有の攻撃に耐え得るための共闘というよりは共倒れ
になってしまう。現実における事実経過,歴史的な過程などをよく考えていくべきだろう。総評三顧問による労研センターは総評新生の目的にかな
わない。

として、国労とは距離を置いていきたいとしたものであり、国鉄当局は9月以降から特に厳しく取り組んできたと言われています。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

┌───────────────────────┐
├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
└───────────────────────┘

 勤務時間中流身(入浴)など職場慣行を守る闘い

続き

 門司(保線区、運転区、機関区、客貨車区、信号通信区、電力区、建築区、機械区などの日勤職場)では、82年12月上旬に「勤務時間内入浴禁止」の通告文を風呂場に掲示するとともに、管理者を各風呂場に配置して現認体制を取るなどの措置をとったのを手始めに。83年の2月に入るや東鉄三局管内の運転職場においては現認にとどまらず、風呂場に施錠するなどの強行手段が取られた。5月には大鉄局管内において、前年9月期に大阪地本と管理局との「慣行是正」についての交渉の結果、「入浴・洗身時間として最低15分間を確保する。それ以上の時間にわたる慣行の是正については各職場の現場協議で決定する」旨の確認事項があったのを、一方的に無視し類似の措置を強行した。
 こうした措置に対し、国労側は、「国鉄の就業時間内入浴は汚染・発汗作業、あるいは一昼夜交代等の勤務と無関係ではなく、国鉄有史以来の既得労働条件であり確立された慣行である」などの点を強調し、この立場にたって時間内洗身の取り組みを継続したので全国各地の分会段階において連日激しいトラブルが派生した、当局は、洗身した者には賃金カット、抗議行動に参加したものには賃金カット、抗議行動に参加した者には戒告、それを指導した組合役員には減給ないし停職の処分を通告した。賃金カットにかけられた組合員だけでも、せんだい・新潟地本のそれと合わせると、延べ人数5,200人を超え、金額は1,500万円余りに及んだ。
 この事態を重く見た社会党共産党、総評、国労は「入浴問題中央調査団」を結成し、83年3月8日と9日、攻撃のもっとも激しい門司、直方、鳥栖3地区の職場(機関区・気動車区・客貨車区・保線区)の実態調査を実施した。他方、門司地本(2月4日)と東京地本(3月22日)はそれぞれ地方調停委員会に入浴問題に関する「団体交渉応諾義務確認」のあっせん申請を行った。
 そんななか、動労は「職員の入浴に関する解明要求」を当局に提出する。(3月24日)などして国労と共闘してきていたが、門司、東京などの職場では、両者の間で意見や行動の違いが表面化する事態が起こった。動労の一部役員・組合員が国労組合員の洗身を妨害したり、あるいは当局に入浴の現認を迫ったり、当局と一緒なって入浴の現認をする。などの行為が明るみになった。すでに、57・11ダイヤ改正問題や現場協議制協約締結問題でいわば先行妥結があったが、入浴慣行問題をめぐる動労のこうした動向は、国労にとってはにわかに理解しがたい行動といわざるをえなかった。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 81

本日も、国鉄労働組合運動史から抜粋した内容に解説を加えながらアップさせていただきます。

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法令から見る勤務時間内入浴についての可否について

今回は、昭和57年のブルトレヤミ手当事件を端緒とした、職場規律総点検(特別監査)により、多くの悪慣行が存在したとして、「勤務時間内入浴」が大きくクローズアップされることになりました。

国労の見解とに対する当局の行動とそれに対抗する国労の闘いが描かれています。

この点について何か根拠法令は無いかと探してみたところ、

下記の通り労働安全衛生規則 の中に、勤務時間中に身体や被服を汚染する恐れがある場合と規定しており、鉄道以外の職種では危険物(化学薬品等を扱う職種等が該当します)を扱う職種など該当することがわかりました。
もっとも、入浴設備に限らず、工場内コンビナート等ではすぐに使えるシャワー設備などが該当します。

これに照らしてみると、国鉄の場合は保線区・工場や・機関区等での修繕・整備の従業員が該当すると思われます。

労働安全衛生規則 第七章 清潔(第六百十九条-第六百二十八条)

(洗浄設備等) 第六百二十五条 事業者は、身体又は被服を汚染するおそれのある業務に労働者を従事させるときは、洗眼、洗身若しくはうがいの設備、更衣設備又は洗たくのための設備を設けなければならない。
2 事業者は、前項の設備には、それぞれ必要な用具を備えなければならない。

 ただし、勤務時間内の入浴は基本的には認められないとするのが一般的であり、就業規則等に明示はなくとも社会通念上から判断しても勤務時間と含めないのは妥当という判断をされています。

勤務時間内入浴については裁判でも争われた

なお、実際に勤務時間内入浴に対して、賃金がカットされたことに対して、「国鉄蒲田電車区事件」として裁判が起こされた事例がありますが、昭和59年(ワ)第5507号事件として裁判が起こされますが、昭和63年2月24日に判決が出て原告の申し出は却下されています。

その一部を引用します。

主 文
原告らの各請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事 実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告らに対し、それぞれ別紙債権目録(一)及び(二)中の「請求債権額」欄記載の各金員及びこれに対する昭和五九年五月二七日から各完済に至るまで、それぞれ年六分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 第一項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨

中略
(三) 本件労使慣行の合理性
(1) 洗身の必要性
原告ら車両検査、検修係員らの担当する交番検査や台車検査等の業務が身体の著しい汚染を伴うものであることは、前記(一)に述べたとおりであり、この様な原告らの身体汚染の実態からすれば、原告らは作業終了後は身体を洗浄しなければ、公衆に触れあるいは交通機関を利用して帰宅することは困難であり、また、身体汚染の洗浄は原告らの衛生保持上も必要不可欠であり、したがつて、原告らが作業終了後に洗身を行うことが必要であることは明白である。至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

上記の裁判では、業務の内容に照らして入浴は妥当であり、労働安全衛生規則から見ても被服等が著しく汚損する職場であると強調しています、しかし裁判の判決では、そうした慣行が。

被告の現業機関である駅、機関区、電車区及び保線区等は、列車の運行に直接関係のある職場であるところから、突発事故等の緊急事態が発生した場合には、早急に措置を求められることがあり、その場合は、関係職員は、直ちに事故の復旧及び列車の運行にかかるそれぞれの担当作業に従事しなければならないから、勤務時間内に洗身入浴することは、右緊急事態に直ちに対応することができないことになり、被告の業務の正常な運営に支障をきたす虞れがある。それゆえ、かかる違法な行為はたとえそれが事実上継続反覆されていたからといつて、慣行として成立する余地はない。

として、仮に過去からの慣行で時間内入浴が認められていたとしても、突発事故の対応が出来ないからそれは慣行と認めないと切り捨てています。

全文は下記をクリックしてください。

国鉄蒲田電車区等職員賃金カット - 昭和59年(ワ)第5507号 - 東京地方裁判所

国鉄当局としてみれば、炭鉱でも終業時間前入浴は認めていないと言うか、勤務時間と看做さないのが一般的ですので、国鉄もそうした例を参考に自民党のバックアップを受けながら職場総点検を行ったと思われます。

国労は入浴禁止に対して拒否行動を指令

国労はこれに対して、過去からの慣例であるとして、昭和57(1982)年9月22日「入浴規制反対闘争を強化」するよう指令を発しますが、これに対して当局は公然と対抗措置を講じてきた。とりわけ、門司、東京(三局)、大阪の各鉄道管理局管内において厳しい措置を一方的に行なってきた。

と書かれていますが、昭和57(1982)年の監査報告書には下記のように書かれています。

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
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 勤務時間中流身(入浴)など職場慣行を守る闘い

 当局の「職場規律総点検調査」結果(82年4月22日)にもとづいて、いわゆる「悪慣行是正」の措置が一方的に強化されるなか、国労および四組合共闘会議は、従来から国鉄職場において反復・継続され確立されてきた職場貫行について『正すべきは正すと述べてきたが、この年7月29日から第44回定期全国大会(東京・日比谷公会堂)でも、この問題に議論が集中した。。国労はすでに第39回定期全国大会(77年8月新潟)において、自主的規律の確立によって自覚的な団結を固めなければ圧倒的多数の勤労国民に支持されないことは明らかである。職場からの闘いを強めるために、要求と運動が『社会的妥当性』を持つことが必要であり、その内容は『労働者の尊厳と自由民主主義』の見地から、要求が当然であり、多くの労働者と進歩的勢力から理解と支持を得られるものということである。こうした見地に立つのが『正すべきは正す』という方針である。
 第二に、『職場規律を乱すことは悪である』といった自民党当局・マスコミの態度は悪意に満ちている。労使の団体交渉の結果、協定や慣行が成立し、この諸協定や慣行を守ることが”職場規律”である。現場協議で確認してきたものであっても、現場長の”権限と責任"をこえるものは無効であるとして、これを当局が一方的に破棄してきているが、これも地方や各職場で労使が遵守するのは当然のことである。
 さらに、日常の労働組合活動や就業時間内入浴に対する攻撃についても、同大会では『労働条件や労働組合活動などの諸権利は職場を基礎とした闘いによって向上・維持される。しかしそれらの諸権利獲得が一部の地域や職場、職能だけに限定されているのでは十分なものとはいえない。全国の職場を見ると諸権利の獲得状況にアンバランスがある。その点の克服が急務である』との認識を組合員に示した。」

この全国大会五、中央闘争委員会は直面している情勢について「最近起きている職制による横断幕の一方的撤去、リボン、ワッペンに対する過度の干渉、カベ新聞の撤去など日常組合活動に対する介入や入浴時間問題に見られる専制的な労務管理が増大している」と分析し、こうした「当局の労働組合無視、職場の労働組合運動圧殺の攻撃は一層強まるものとみなければならない」として抗議交渉を含めたねばり強い闘いを、あらためて呼びかけた。
 さて、この第44回定期全国大会後まもなくして、勤務時間内の洗身(入浴)慣行に対する攻撃が一段と強められた。
 国労は「勤務時間中(現行の入浴時間)の入浴禁止について業務命令が出された場合は拒否する」、業務命令への抗議として「時間外の抗議交渉」を行い、地方調停委員会の活用を含めて入浴規制反対闘争を強化するよう指令を発した。(82年9月22日)この指令を受けて入浴規制反対の取り組みが全国各地で開始されるや、当局は公然と対抗措置を講じてきた。とりわけ、門司、東京(三局)、大阪の各鉄道管理局管内において厳しい措置を一方的に行なってきた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 80

国鉄当局は「緊急11項目」の一環として「乗車証制度の改正」に着手する動きを見せていたが、82年10月15日に初めてその改定を明らかにし、理由を明示しないまま10月22日をタイムリミットに設定してきた。すでに国労は、当局のこうした動きに対し、臨調答申に屈して改悪すべき制度ではないとの立場から、乗車証制度は職責の重要な雇用・労働条件である点を重視して、「国鉄110年の中で確立された制度であり、就職の際に明示された雇用・労働条件である」こと、それゆえ「労使協議の上意見の一致を見て制度の改正は実施すべきである」こと、また、乗車制度の基本は「精勤乗車証・永年乗車証・家族割引である」こと、などを上げ改悪反対を主張した。動労。全施労・全動労もこれを重要課題と位置づけ、「改悪反対」で意思統一をはかり4組合共闘体制を組織してきた。
 こうした取り組みの中で国労本部、退職者組合、家族会は、45万名にのぼる、改悪反対署名を携えて再三にわたり本社衆参交渉を申し入れたが当局は「集団交渉には応じられない」とする姿勢を取り続けた。その他にも、ハガキ、電報による抗議、現場長・局長に対する抗議交渉などを組織した。

自民党国鉄基本問題調査会の提言

として、下記の15項目が提言されました。
今回は、乗車証に関するお話のため、直接関係ない部分に関しては提言内容は省略させていただきました。

出典・

法政大学大原社研 1981〜1982年国鉄労働者と労働組合にたいする攻撃〔日本労働年鑑 第53集 295〕

 

【提言の要旨】
 一、管理体制の強化

 労務指揮、施設管理等の管理権は殆んど行使されていない現状にある。今、労使関係の是正を考えるとき、原点に立ち返って、業務命令、時季変更権、施設管理権を適正に行使し、従わない者に対しては厳正な勤務認証、現認を行い、賃金カツト・昇給カット・処分などの措置をとることが必要である。

 従来ややもすれば、管理権の行使が列車の運行を阻害することを恐れて組合の不法な要求に屈した例が多いが、このため、多くのヤミ協定を残し、国鉄の存立を脅かす結果となっている。列車の正常運行は長期にわたって確保されるべきものであり、そのためには一時的な混乱を恐れないで筋を通す覚悟が必要である。
 二、現場協議

 現場協議は、国労の職制麻痺闘争の場を提供した結果となり、管理者の大きな負担と業務遂行の障害となっている。現協協定をまずいったん破棄し白紙に戻したうえで、現場における業務遂行上必要な現場長と職員の意思疎通をはかる制度を新たに検討、制定すること。
 三、ヤミ協定、悪慣行

 国鉄の職場には数多くのヤミ協定、悪慣行が存在するが、これらのほとんどは、現場長の責任と権限を超える事項についての確認、または社会常識を著しく逸脱したものであり、集団的な威嚇行動のもとにつくられたものであるから、そもそも無効であり、当局を拘束する力を持っていない。即刻無効であることを宣言し、正規の運用とすること。
 四、処分に関する問題(概要省略)


 五、違法ストに対する刑事罰

 (概要省略)
 六、職員に対する求償権の行使
 (概要省略)
 七、昇給・昇格

 (概要省略)
 八、紛争対策委員会の覚え書等

 (概要省略)
 九、合理化の促進

 (概要省略)
 一〇、配転

 (概要省略)
 一一、採用と採用時教育

 (概要省略)
 一二、便宜供与

 (概要省略)
 一三、兼職議員の禁止

 徹底した要員削減に取組むなかで、国鉄の要員事情もきわめて逼迫した状態にあり兼職議員の承認を与えることは到底許されないことである。緊急の措置として、政府より国鉄総裁に対し兼職議員の承認を与えないよう指示すること。
 一四、乗車制度の見直し
 国鉄のおかれている状況、世間の強い批判にかんがみ、乗車証等については誤解を招くことのないよう厳正に見直す。

 一五、(概要省略)

 また、これを受けて、国鉄は昭和57年7月に

「新形態移行までの間緊急にとるべき措置」

として11項目を明示しました。

これらの方針は、自民党を中心とした与党の国鉄基本問題調査会の提言を受けたものであり、いわゆる後ろ盾を得ての行動であったことが伺えます。

  1.   職場規律の確立を図るため、職場におけるヤミ協定および悪慣行(ヤミ休暇、休憩時間の増付与、労働実態のともなわない手当、ヤミ専従、管理職の下位職代務等)は全面的に是正し、現場協議制度は本来の趣旨にのっとった制度に改める。また、違法行為に対しての厳正な処分、昇給・昇格・昇職・管理の厳正な運用、職務専念義務の徹底等人事管理の強化を図る。

  2.  新規採用を原則として停止する。また、業務運営全般について、私鉄並の生産性をめざすこととし、そのため、作業方式、夜間勤務体制、業務の部外委託、職務分担のあり方等の抜本的な見直しを行い、実労働時間の改善を図るとともに、配置転換を促進し、各現場の要員数を徹底的に合理化する。

  3.   設備投資は、安全確保のための投資を除き原則として停止する。なお、整備新幹線計面は、当面見合わせる。

  4.   貨物営業は、鉄道特牲を発揮できる拠点間直行輸送を中心とし、業務のあり方を抜本的に再検討し、固有経費における収支の均等を図る。

  5.   地方交通線の整理を促進するため、遅延している特定地方交通線対策協議会の単期蘭催を図るとともに、残余の対象路線についても昭和60年度までに結異が得られるよう早急に選定を行う。なお、対策が進まない場含、たとえば特定地方交通線対策協議会開催目の義務付け、協議期間の短縮等の改正を行う。また、上記以外の特定地方交通線を含む地方交通線についても、私鉄への譲渡、第3セクター化、民営化等を積極的に行う。

  6.  分割会社との間係を配慮しつつ、自動車、工場および病院の分割等を推進する。

  7.  永年勤続乗車証、精勤乗車証および家族割引乗車証を廃止する。その他職員にかかわる乗車証については、たとえぱ勤務区間に限定するなど業務上の必要のためのみに使用されるよう改める。また、国鉄以外の者に対して発行されているすべての乗車証についても廃止する。なお、他の交通機関との間に行われている相互無料乗車の慣行を是正する。

  8.  期末手当、業務手当等の抑制について検討する。

  9.  国鉄運賃については、当該地域における私鉄運賃、線区別原価等をも十分配慮して定める。また、安易な運賃改定は行わない。なお、文教政策、社会福祉政策等の観点からの通学定期割引等の運賃の公共負担については、国として所要の措置を講ずる。

  10.  兼職議員については、今後、認めないこととする。

  11.  資産処分の一層の促進を図るとともに、関連事業についても営業料金等の見直しを行う等積極的な増収に努める。

参照 国鉄があった時代(企画・監修 加藤公共交通研究所)

兼職議員に禁止と同じく既得権益の廃止となるため、組合としても反対することとなりました。

国労の記録によれば、動労。全施労・全動労もこれを重要課題と位置づけ、「改悪反対」で意思統一をはかり4組合共闘体制を組織してきた。」

と書かれているように、この時点では動労も・全施労何れものちに労使協調宣言して、鉄労と歩調を合わせるのですが、この時点では反対している点は注目すべきだと思います。
ただ、鉄労が反対していないのは積極的にそうした当局の施策を容認したと言うよりも国労が反対しているから、反対しようと言った消極的な意味合いからの反発だと推測されます。(ただし、この辺はあくまで個人的な見解であることをあらかじめお断りしておきます。)

なお、乗車証廃止に対して、国労に限らず、退職者組合、家族会等による45万名にのぼる改悪反対署名を携えて再三にわたり本社衆参交渉を申し入れたが当局は「集団交渉には応じられない」とする姿勢を取り、交渉は最終的に決裂、昭和57年12月1日をもって実施されることになりました。

下記は、国鉄部内雑誌、国有鉄道昭和58年1月号からの抜粋になります。

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引用  交通協力会 電子図書館

なお、本件について当局が団体交渉に応じないことに対しては、国労の記録でも書かれていますが、

国労は翌83(昭和58年)年2月12日、当局の団体交渉応諾義務確認の訴えを東京地裁に提訴し、さらに10月27日には500万円の損害賠償請求を追加した。」

とされています、損害賠償については全額認められることになりますが、乗車証廃止については団体交渉で対応すべきものであり、団体交渉に応じなかった国鉄当局側に非があるが、廃止に基づく損害は認められないと言う立場でした。

なお、国労最高裁まで控訴しますが、東京高裁判決(昭和62・1・27)も地裁判決を維持し、最高裁第三小法廷判決(平成3・4・23)も高裁判決を維持したことで、乗車証を廃止したことに関しては確定しています。

裁判所のホームページから参照した、上記裁判の判決

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全文はこちらを参照。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
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 条制度の改訂(無料乗車証廃止)と団体交渉拒否

 国鉄当局は「緊急11項目」の一環として「乗車制度の改正」に着手する動きを見せていたが、82年10月15日に初めてその改定を明らかにし、理由を明示しないまま10月22日をタイムリミットに設定してきた。すでに国労は、当局のこうした動きに対し、臨調答申に屈して改悪すべき制度ではないとの立場から、乗車証制度は職責の重要な雇用・労働条件である点を重視して、「国鉄110年の中で確立された制度であり、就職の際に明示された雇用・労働条件である」こと、それゆえ「労使協議の上意見の一致を見て制度の改正は実施すべきである」こと、また、乗車制度の基本は「精勤乗車証・永年乗車証・家族割引である」こと、などを上げ改悪反対を主張した。動労。全施労・全動労もこれを重要課題と位置づけ、「改悪反対」で意思統一をはかり4組合共闘体制を組織してきた。
 こうした取り組みの中で国労本部、退職者組合、家族会は、45万名にのぼる改悪反対署名を携えて再三にわたり本社衆参交渉を申し入れたが当局は「集団交渉には応じられない」とする姿勢を取り続けた。その他にも、ハガキ、電報による抗議、現場長・局長に対する抗議交渉などを組織した。
 制度の改定が提示された直後の10月20日にもたれた対当局交渉において、国労は従来からの主張に合わせ、
 ① 理由を明示しないタイムリミットの設定は認められないこと、
 ② 意見の一致を期すために実施期日を延期すべきであること、などを要求したが当局は「22日がタイムリミットである」こと、乗車証は「労働条件ではなく恩恵的な便宜供与である」こと、制度の廃止は「閣議決定であり、世論の批判を十分受け止める必要がある」こと、などと従来の主張を繰返した。翌21日には常務理事との準トップ会談、つづく22日にも交渉がもたれたが、当局は同様な主張を繰り返す一方、12月1日実施を強行に主張して譲らなかったため交渉は決裂した。
 そうした状況の中で当局は、10月22日、① 無料乗車証については職務乗車証を除き全廃する。② 職務乗車証については全国通用のものは廃止し、職分などに応じて「管理局」通用、「地域ブロック」通用のものなどとする。③ 精勤乗車証、永年勤続乗車証は廃止し、割引制度を設ける。④ 家族割引については発行枚数の縮減を図る(年20枚)、などを内容とする「乗車制度改定」を発表し、82年12月1日、一方的に強行実施した。
 その後も国労は、乗車制度の根幹は維持すべきであり、重大な労働条件の変更であるから団交による問題解決をするよう主張したが、当局は”話し合い”には応じるがこの制度は「団体交渉の対象事項には含まれないとした。そこで国労は翌83年2月12日、当局の団体交渉応諾義務確認の訴えを東京地裁に提訴し、さらに10月27日には500万円の損害賠償請求を追加した。
 提訴から3年後の東京地裁判決(昭和61・2・27は、「労組法第7条の規定は、単に労働委員会にける不当労働行為救済命令を発するための要件を定めたものであるにとどまらず、労働組合と使用者の間でも私法上の効力を有し」、「労働組合が使用者に対して団体交渉を求める法律上の地位を有し、使用者はこれに応ずべき地位にある」から、その侵害に対して公労委に対する「救済申し立て権が発生する」とした。そして、乗車制度が労働条件にかかわり、団交の対象事項にあたるかについては、職務乗車証、精勤乗車証、永年勤続乗車証等の交付と使用の実態、さらに国鉄当局が職員の募集や採用に際して乗車証制度を待遇の一つとしてあげていたことから、「本健常者制度の改廃に関する事項は、公労法第8条4号にいう『労働条件に関する事項』に該当」することは明らかとした。ただし、損害賠償請求については「団体交渉事項であることが確認される」ことにより、「相当程度損害が回復され得るものとみることができる」として否定した。
 この判決について国鉄当局は控訴したが、東京高裁判決(昭和62・1・27)も地裁判決を維持し、最高裁第三小法廷判決(平成3・4・23)も高裁判決を維持した。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 79-2

 皆様こんにちは、再び議員兼職の問題について私なりに当時の資料などを調べたところからお話をさせていただこうと思います。

衆議院参議院で意見が分かれた兼職議員問題

地方議員の兼職は、昭和26年6月からですが、当時の議論の経緯を見てみますと、衆議院は町村議員まで認める、参議院は市会議員まで認めるべきという意見で双方で意見が分かれていたようです、原則は町村議会議員までしか認めないが、今回当選した市議会議員については、任期中に限り例外として認めるとしたもので、その後なし崩し的に改正されて、市会議員までは兼職が認められたと言う経緯があります。

なお、この時に県議会議員等に出馬した議員は兼職が認められず、国鉄を退職したものと看做すと明記されています。

日本国有鉄道法の一部を改正する法律法律第百八十九号(昭二六・六・一)日本国有鉄道法(昭和二十三年法律第二百五十六号)の一部を次のように改正する。

(中略)

附 則

4 第二十六条第二項の改正規定は、この法律施行の際日本国有鉄道の職員であつて、現に都道府県の議会の議員であるものについては、附則第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日から起算して十日間は、適用しない。この場合において、その者がその期間内に議員の職を辞さないときは、その期間を経過した日に日本国有鉄道の職員の職を辞したものとみなす。

参考 幣blog 国鉄労働組合史詳細解説 78 - 日本国有鉄道 労働運動史 参照

 こうした経緯があって誕生した市会議員までの兼職ですが、吹田市などのように国鉄職員の多くが住民であった地域にあっては、国鉄の職員が議員であることは国鉄の立場を代弁してもらうと言った場合に優位に働くこともあり、また無所属で立候補している議員も多かったので、国鉄当局にとってもメリットはあったと思われます。

昭和52年には兼職議員は原則として認めないことを示唆

昭和52年の2月13日に、国鉄総裁は、今後市町村の議員兼職は認めないと言う方向を示しています。少し見にくいのですが左上13日に、「国鉄総裁が「国鉄職員の市町村議員兼職は今後認めない」と語った。」と明記してあります。

少なくとも兼職議員の許認可は総裁の権限である以上、それを認めないと言うことを明言していますので、組合側が既得権益であると言い張っても、国鉄総裁自身の裁量権の範囲であるとこの時期に明言しているのは大きいと思われます。


交通年鑑、昭和52年版参照

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国有鉄道 昭和57年10月号の記事、自民党国鉄再建に関する小委員会の設置について」の記事によりますと、下記のように昭和57年3月9日の記録として、委員からも、議員兼職は不承認ということで、その方向性が決まったように思えます。

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こうしたことを受けて、当局は、経営の危機的状況をあげて、職員は「厳しい状況の認識を深め、職務に専念する」こと、議員兼職の維持・継続は「国鉄の再建意欲について国民に疑惑の念を抱かせ、再建を阻害することになりかねない」として、拒否するのですが、兼職議員に廃止自体は昭和52年に方針が示されていたこともあり、国鉄改革を受けて出てきたものばかりではないことが伺えます。

また、昭和57年5月17日の臨時行政調査会第4部会の報告でも、新形態移行に際して解決すべき諸問題として、

(10)兼職議員の禁止
兼職議員については,今後認めないこととする。

と言った意見や、自民党の小委員会などの委員の意見を等の援護も受けて、「兼職議員を禁止する」旨の総裁通達(666号)が発出されたと言えます。

これに対して、国労は裁判闘争を行いますが、前回書いた通り、総裁の兼職承認は、総裁の裁量権の範囲であり、権利ではないとした判断がなされました。

ただし、JR発足後は市町村議会の兼職が認められている場合もありJR東日本就業規則では、議員の兼職が認められている。(ただし、休暇は無給扱、職員が兼務が難しい場合は任期中は休職扱いが出来るとされており、兼職も可能という条件になっています。

東日本以外のJR各社の就業規則は確認できませんでしたので、JR東日本就業規則をアップさせていただきます。

ただし、就業規則は変更されていることもありますのであくまで参考としてご覧ください。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
└───────────────────────┘

 兼職議員の禁止を強行

続き

 これに対して当局は、経営の危機的状況をあげて、職員は「厳しい状況の認識を深め、職務に専念する」こと、議員兼職の維持・継続は「国鉄の再建意欲について国民に疑惑の念を抱かせ、再建を阻害することになりかねない』などと応じた。そして突如、82年9月22日に「兼職議員を禁止する」旨の総裁通達(666号)を発する、という強硬措置に出た。その後も労使交渉ではまったく前進せず、国労は原告19人にも及ぶ裁判を提起し、地位保全、損害賠償等を請求した。
 裁判で当局は、日鉄法(日本国有鉄道法)26条2項と公職選挙法103条1項を根拠に、日鉄法26条2項但し書き所定の総裁の兼職承認がない限り、当選告知の日に当事者はその国鉄職員としての地位を失うとの手続き論を主張した。これに対し国労は、日鉄法26条2項による「総裁の不承認」は使用者による労働者の選挙権・被選挙権への重大な宣言であり。これまでは実質的には『届けで制」と同様な運用がなされてきたこと、また「不承認」により当該当選者が国鉄職員の地位を失職することは民間労働者との不合理な差別であり、他の公社職員とも不合理な差別であり(電電公社も専売公社も兼職が認められている。、「不承認制」を採用したことの不当性を強く主張した。しかし、判決では国労の主張は認められなかった。
 なお、JR体制に移行してからは、就業規則31条1項(7)で「公職休職』制度を設け、議員兼職を認めている。

続く