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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 111

 皆様久々に更新させていただきます。

今回は、再び国労の労働運動史を底本にして説明を加えさせていただきます。

経済不況と春闘相場

昭和58年、国鉄の財政は厳しさをましていましたが、それ以上に経済の悪化は大きく、実質経済成長率は、当初見通しを大きく下回り、5.2%から3.1%に下方修正されたといわれています、当然のことながら、春闘における、相場も厳しいものとなりました。

労働四団体は統一要求として、7%の賃上げを要求

八三年春闘にあたって、82年12月3日、労働組合としては7%の要求基準が決められました。
これは、82年12月3日、労働四団体の事務局長・書記長会議決定されたものでした。
*1

国労の労働運動史から引用させていただきます。

超低額回答の八三春闘

 八三年国民春闘は、人事院勧告の凍結、臨調行革の推進、82年12月に全民労協の発足にみられる労働戦線の右より再編が進行するなかで闘われた。その結果は、春闘史上最低の4.5%の賃上げ率に終わった。各労働団体は、八三春闘を実質所得の増大をはかり、消費拡大による内需主導型の安定成長を実現する闘いと位置付け、減税と賃上げ(7%の統一要求基準)を柱として闘争に取り組んだ。八三春闘は政策要求闘争に加え、82年度の人事院勧告完全実施と仲裁裁定の完全実施および年度末手当闘争を春闘前段に据えて始まった。

 全体で4.5%という低い改定率で終わった春闘

 最終的には、国労の資料でも書かれていますが、全体では4.5%という低い賃上げ率に留まりました。

 鉄鋼、造船が3%台、自動車がホンダの5.39%を筆頭に、概ね5%前後で妥結、重電・家電とも4.90%で横並びになったほか、全民労協に加盟して、公労協から距離を置いていた、私鉄総連も、4.73%【金額ベースで行くと、唯一一万円超え】の10,300円+生活関連手当500円を獲得するなどしていました。

これは、前年と比べると、額で三〇七八円、率で二・〇〇ポイント下回った事になります。 

昭和58年度春闘、民間妥結状況

昭和58年度春闘、民間妥結状況

国鉄部内誌、国有鉄道 昭和58年7月号から引用

 突出した私鉄総連のベースアップ

なお、私鉄が10,300円(4.73%)という高額の回答を出した背景には、国鉄がストをしてくれれば私鉄が儲かると言う認識が労使双方にあったことも見逃してはなりません。

実際、ストライキを計画したものの、4月17日(当日は日曜日)を設定し、通勤通学輸送に影響を与えないことを暗に伝え、経営者側としてもその意図を汲んでそれに引き換え、高額のベースアップ回答を行いました。

私鉄総連はストライキを回避する意思を明確化

昭和58年4月17日

windows の機能で1983年4月のカレンダーを出力

国鉄では、ベースアップ以前に解決すべき問題も山積みに

国鉄では、昭和57年のブルトレヤミ手当以降、職場規律の改善に向けて取り組んでいましたが、賃金問題以上に解決すべき問題として、時間内入浴などの問題がありました。

その辺を、再び国鉄部内誌、国有鉄道 昭和58年6月号から引用してみたいと思います。

前段に発生した諸問題

 国鉄においては、昨年来の問題の解決に関連して、いろいろの事象が発生していた。職場規律問題のうち残された入浴問題2万2600人の合理化問題とこれに関連して発生した鹿児島局の営業近代化事案をめぐる問題、これら諸問題に関して国労が行った順法闘争がこれである。

 とうことで、入浴問題に関しては、当局側の阻止を無視して時間内入浴を行うもの、裸で区長や助役に詰め寄る姿などがテレビや新聞を通じて流され、国鉄職員=働かない職員というイメージを自ら作っているところがあったように思われます。

結果的に、国鉄の場合はベースアップ以前に正すべき事が正されていない事が問題であり、前述のように、私鉄が、労使協調路線で国労動労との共同戦線から離脱していった事は大きく、私鉄準拠を求めていく国労動労からすれば更に引き離されることとなりました。

なお、鹿児島局の営業近代化事案をめぐる問題について、簡単に記しておきます。

鹿児島局の営業近代化事案をめぐる問題は、鹿児島局管内の駅、鹿児島本線 川内駅肥薩線 栗野駅の荷物部門、指宿枕崎線 山川駅日豊本線 西都城駅南宮崎駅の出改札業務の合理化を目指したものの、3月1日からの実施を目指したが、組合が交渉に応じず、委託会社の社員を入れないように、ピケを張ったために、最終的には警察に出動を求めて排除したほか、西都城駅南宮崎駅に至っては、勝手にきっぷを販売し、売上金を駅長室に放置したり、職員名の預金口座に入金するなどの状況を呈してたもので、当局から国労に強く申し入れで、3月28日になって漸く正常化29日からは通常の業務となったが、組合管理の状態に置かれた無法地帯と化したとして、大きく報道されることとなりました。

 

 

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************************以下は、国労の資料から引用になります************************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節八〇年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

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├○ 二 八三、八四、八五春闘 │
└───────────────┘
 
 
 超低額回答の八三春闘

 八三年国民春闘は、人事院勧告の凍結、臨調行革の推進、82年12月に全民労協の発足にみられる労働戦線の右より再編が進行するなかで闘われた。その結果は、春闘史上最低の4.5%の賃上げ率に終わった。各労働団体は、八三春闘を実質所得の増大をはかり、消費拡大による内需主導型の安定成長を実現する闘いと位置付け、減税と賃上げ(7%の統一要求基準)を柱として闘争に取り組んだ。八三春闘は政策要求闘争に加え、82年度の人事院勧告完全実施と仲裁裁定の完全実施および年度末手当闘争を春闘前段に据えて始まった。
 国鉄では1月26日に82年仲裁裁定実施にともなう配分交渉がまとまり、これを受けて国労は2月10日に年度末手当についての申し入れを行い、交渉を進めてきた。だが、当局は終始「いつ、いくら支払えるのか回答できない」を繰り返すだけであった。国鉄・林野については政府・自民党が大幅削減の方針を決めていたのであった。当局は、年度末ぎりぎりの31日23時45分になって、予算措置のなされている0.3カ月をさらに割り込む0.24カ月の回答をしてきた。この回答にたいし国労は、林野より低い「三段階格差」であると抗議し、再回答を求めた。しかし、国鉄当局は「経営判断であり、最終回答だ」と強弁した。この妥結によって、公労協の春闘が本格的に始まった。
 公労協は八三春闘の目標を、民間準拠の原則の確認、企業体間の格差回答なし、仲裁裁定の完全実施におき、4月18日~21日を回答指定日として交渉を重ねてきたが、この間に有額回答はなされなかった。すでに、4月12日には金属労協の主要四単産に回答がだされ、16日には私鉄総連が賃上げ1万300円(4.7%)の回答で妥結していた。第二臨調の最終答申の賃金抑制提言につづいて、日経連による公共企業体等労働者の賃金の民間準拠批判、公共企業体等の企業業績を反映し、支払い能力を考慮した回答を求める提言を政府、公労協に提出しており、きびしい状況下におかれていた。

続く

 

 

*1:注:労働四団体 日本労働組合総評議会 (総評)、全日本労働総同盟 (同盟)、中立労働組合連絡会議 (中立労連) 、全国産業別労働組合連合 (新産別)の四つを指す

国鉄労働組合史詳細解説 110

今回も、オリジナルの記事として、前回に引き続き、昭和55年頃の、国鉄の事情等を、国鉄の部内誌、国有鉄道の1980年6月号(今次春闘を振り返って)を参照しながら、総括していこうと思います。

国鉄を含めた、現業公務員や公社職員は、経営側が自らの判断で賃金を決定できず、もちろん、運賃値上げなども国会の承認がいりますので、当局には実質的な当事者能力はありませんでした。

このストライキは、総括すると国労動労にとってはあまり実入りが無いストライキでした、労働側4委員が揃って辞表を提出、結果的に賃金問題は未解決のまま、ストライキは中止されることとなりました。

その当時の時系列を抜き出してみますと下記のようになります。

4月16日

  • 私鉄のべアは,5時ごろ1万2200円という予想を上回る回答
  • 6時に私鉄総連は妥結、6時10分にはスト中止を指令,事実上ストなしの解決
  • 公労委(公共企業体労働委員会)6時過ぎから調停委員長会議が開催
  • 公労委、公益委員(調停委員長)と労使各側委員との個別折衝が始まったが、そこで示された「解決案の骨格」に対して労働側委員が強硬に反対し、膠着状態

公益委員側からの解決案は、下記のとおり

民間賃金の動向を加重平均で約6.6%と推定し、公企体加重平均6.6%、国鉄は1万1800円台の上方で6.4%弱とする、というもの

  • これに対して、労働側委員は私鉄準拠を主張、使用者側委員も、財政事情等から難色を示し、双方の議論は完全に平行線に。
  • 公労協(公共企業体労働組合協議会)は14時過ぎから拡大共闘委員会を開き、私鉄準拠の慣行が無視されたことに抗議して労働側4委員が辞表を提出する旨を決定
  • 17時過ぎ、公労協は、「公労委は従来の経緯を無視して私鉄準拠を認めず、官民分断をはかる政治圧力に屈して第三者機関としての社会的責任を放棄した」との抗議声明を発表
  • 18時15分頃、総評・公労協推せんの労働側4委員が労働省に辞表を提出、事務次官が「一時保管しておく」として辞表をあずかりに。公労協は、賃上げ未決着のままストを中止
  • 19時45分、公労委の中西会長は、「これ以上調停作業を続行することは事実上不可能であるので、中断のやむなきに至った」とする調停委員長との共同談話を発表、この措置に対して、全官公(全日本官公職員労働組合連絡協議会)は、「公労協は違法ストを行なっておきながら、それによる賃上げが不可能となるや問題を審議する立場にある委員を辞任させた」として、公労協を厳しく非難する声明を発表
  • 公労協の中断を受けて、国労動労はスト中止を命令
16時 国労動労スト中止準備を指令
18時 国労、スト中止
19時 動労、スト中止
18時30分 全動労、スト中止
19時 千葉動労、スト中止
スト終了後の運転回復は、おおむね20時ごろから順次

今次の春闘では、当初は、早くに解決すると思われた調停が紛糾し、ストが16時間に及んだこともさることながら、これ以外にも下記のようにストライキを行っており

動労が時限スト 3/10

動労は、公共料金値上げやローカル線廃止に反対し全国12拠点で始発から6時まで時限スト旅客列車のストは54年4月25日以来

動労が京成半日ストを支援 3/21

民鉄協脱退に抗議する京成労組は正午まで半日スト、動労は首都圏の国電を中心に京成支援の減速闘争

国労動労、ローカル線廃止反対で時限スト 3/25

民鉄スト早期収終・国鉄は夕方 4/15~4/16

春闘支援ストに突入したが、大手民鉄(京成を除く)は6時10分、平均12、200円と予想以上の高額回答で解決。国労動労は公労委公益側委員の示した平均平均6.6%程度(国鉄6.4%程度)11,650円の調停案を不満としてストを続行、、公労協の労働側委員4人の辞表提出という異常な事態にでたため、調停作業は一時中断という形で中止。京成はひとり17日までストを継続。他社なみ回答でようやく妥結

といった具合で、ストライキを繰り返しており、上記のストライキで、延べ18,860本の列車が影響を受けたが、全体からすれば新幹線が拠点から外れるなど、大きな影響を受けることは少なかったと言える他、車両や駅へのビラ貼りや、落書きは全体には少なかったそうですが、一部では行われたとされています、スト権スト以降、公労協のストライキはその流れは変わりつつ有り、公労協のあり方、そして公労協事体の不協和音は、今後更に大きくなるのでは無いかと国鉄当局では分析しています。

参考:国有鉄道の1980年6月号

ストライキの年表に関しては、弊サイト「国鉄があった時代」から抜粋

 

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国鉄労働組合史詳細解説 109

今回は、オリジナルの記事としてアップさせていただきます。

昭和55年頃の、国鉄の事情等を再び、国鉄の部内誌、国有鉄道の1980年6月号(今次春闘を振り返って)を参照しながら総括して見たいと思います。

 不協和音が見られた公労協、独自路線を歩む全電通

昭和54年、公労協は、私鉄総連などと組んで公労協統一闘争を行っていましたが、ここに来て、全電通(現:NTT労組)が自主交渉、個別調停を行うことを提唱し、公労協の統一闘争から一足早く離脱するなど、全電通の独自性が見える春闘でした。

全電通自体が、全電通が、1970年代後半から、賃金闘争と物価闘争を重視する運動を進める独自性を発揮して、公労協からの距離を置き始めると共に、1980年の「全日本民間労働組合協議会(全民労協)への参加を果たすなど、公労協の中では異色の動きをして行くこととなりました。

公労協では全逓の弱腰が垣間見えた春闘

かつて、権利の全逓と言われるほどに強力な組合運動を展開してきた全逓ですが、全逓名古屋中郵事件(ストによる郵便不取扱いが刑事罰の対象になるとした判決)などの理由から、拠点局における、29分だけのストライキとなるなど、弱腰というか、あまり派手な運動は見られなかったようです。

参考:全逓名古屋中郵事件

persona-non-grata.hatenablog.com

私自身が、郵便局に就職したのが1983年7月、普通局に転属して全逓に加入したのが1987年4月であり、この頃は強力な闘争路線は姿を消していました。

最終的には仲裁裁定に頼るしかない、賃金決定

国鉄など公労協は、基本的には独自の賃金決定権を当事者が持っておらず、最終的な決定は、仲裁裁定によるしかないわけで、昭和55年の春闘では下記のような流れがありました。

  • 当局の回答前に組合側から調停を申請したグループ・・全林野、全印刷、全造幣、アルコール専売

  • 当局側から調停を申請したグループ・・・・・・・・・国鉄、郵政、専売公社
  • 調停委員長見解が出された後、当局側から申請したグループ・・・・・全電通

 

と言ったグループに分かれました。

ここに来て、全電通の組合としての方向が変わってきていること、そしてこれが民営化議論が起こった際にもスムーズに民営化に移行できたところなのかなぁと考えさせられるところがあります。

特に、全電通は、昭和25年に逓信省から分離する際に、独立した組合で有り、全逓から分離した組合であり、昭和30年代、40年代には郵政の全逓に劣らないほどの強力な闘争をしていたことを考えると、時代の流れに沿って上手く生き延びてきたのかなぁと思ってしまいます。

 

電電公社ロゴ

独自路線を歩み出した、電電公社の組合、全電通


続く

 

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国鉄労働組合史詳細解説 108

 久々に更新させていただきます。

今回も国労の労働運動誌を底本に、労働運動の変遷を別途調査した資料等を参照しながらアップしたいと思います。

過熱気味の公定歩合と賃上げ闘争

国労の資料によりますと、80年代春闘の話をここで行うとされていますので、こちらのページでも、春闘を中心に国労、そして他の組合の動きを80年~82年までを3回に分けてアップさせていただこうと思います。

1980年当時の公定歩合は、昭和55年2月19日に改訂され、年7.25%(1.0%引上げ)されています。

www.boj.or.jp

参考:日本銀行公表資料 昭和55年2月19日公定歩合改定

 今では考えられないくらいの好景気ですよね。

7%強ですから、お金を預けておけば10年で倍になって返ってくる計算になります。

実際、昭和55年の夏には、郵便局の定額貯金の金利が8%となり、定額貯金が集まりすぎて、10年後の90年にV90と言うタイトルで、貯金の再契約がそれこそ、郵政省を上げて施策を行うと言ったことが行われた時代でした。【当初のタイトルはV65(昭和63年当時)でしたが、その後V90に変更されました】

私も、当時郵政局に勤務しており、V90関係では色々と走り回ったものでした。

国労も強気の春闘額を要求

ちょっと、余談が過ぎましたが、80年代は、緩やかなインフレ状態でしたので、賃上げは生活改善と共に、目減りしない賃金という名目もありました。

この春闘では労働四団体の要求基準が八%に揃えられた点も注目された。4月9日に出された金属労協への回答では鉄鋼などで前年を上回ったが、電機は最低賃上げ目標額に達しなかった。このため電機労連は、4月10日にJC決戦参加以来初の12時間ストに突入したが、回答に上乗せできず、手当の改善にとどまった。4月16日未明には私鉄総連に対し、平均1万2200円の賃金引き上げ、年間臨時給13社平均5.3ヵ月の回答が出され私鉄総連は予定していたストを中止した。 
 国労は、2月27、28日に開いた第127回拡大中央委員会において、80春闘要求額として、2万3000円(12.5%)35歳・勤続17年19万円を基本とする、との方針を決め、3月11日に要求書を提出した。国鉄の賃金について4月16日からの公労委の調停作業が始まり、私鉄との完全連動をめぐって折衝が続けられたが、公益委員はこれに応じず、労働側委員の辞任する事態となった。5月14日、6.6%、1万1546円の調停委員長見解が示された。これを公労協が拒否して仲裁に移行し、6月10日に先の調停委員長見解と同一内容の仲裁裁定が出された。しかし、80年6月の衆・参同日選挙の結果自民党が大勝し、与野党伯仲の終わった選挙後の閣議で仲裁裁定が議決案件とされた。80春闘の結果は、労働省調べで、民間1万1679円、率は前年を上回る6.74%であった。

国鉄当局から見た労働組合の動き

国鉄の部内誌、主に総務関係で読まれていたと思われる冊子で、人事関係等が詳しいですから、引用してみたいと思います。

さて、「国有鉄道、昭和55年6月号  今次春闘をかえりみて」を参照しますと、

当局も当初は、4月16日早朝に私鉄のべアが決着を受けて、国鉄春闘も早めに終わると期待されたが、国労動労は公労委公益側委員の示した平均平均6.6%程度(国鉄6.4%程度)11、650円の調停案を不満としてストを続行、公労協の労働側委員4人の辞表提出という異常な事態にでたため、調停作業は一時中断という形で中止となった記録されています。

その後、5月6日には、労働側委員が辞任を撤回 5/6には辞任を撤回、5月13日、夕方から、公労委の調停作業が再開され、14日早朝調停委員長見解の提示で、約1ヵ月ぶりに決着をみることになりました。

この改訂では、3公社5現業加重平均6.625%・1万1546円、国鉄べ-スで6.396%・1万1897円」というもので、4月16日に公益委員が非公式に示した解決案の「骨格」をわずかに微調整した程度 となっています

詳細は是非、弊サイトをご覧ください。


jnrera3.webcrow.jp

 

公労協公労協から民間労組が春闘相場を決定

再び、国有鉄道の記事から引用してみたいと思います。

今次春闘(同盟等は賃闘という〉では、最近とみに昂まった労働戦線統ーへの動きを背景に、民間労組の結集が一段と進んだようである。
具体的には、J C (金属労協〉と化学エネルギー労協の共闘、私鉄総連・全日通・全国金属の3単産の民間賃闘対策連絡会議への参加(ブリッジ共闘〉等である。ここ数年来、春闘のあり方等をめぐって鉄鋼労連その他の民間労組と公労協との、聞に意見対立、乖離が目立ってきていたが、民間労組の結集が進んだことによって、賃金闘争を民間がリードするという様相が一層強まった感がある。
そのような状況の中で、いわば総評が同盟や民間労組に歩み寄る形で、統一要求基準8%が設定され、また、官民総がかりの短期集中決戦構想が打ち出された。短期決戦という点では、参議院選挙、国鉄運賃値上げ等との関係もあった。

さらに、記事は続くのですが、冒頭で「4月16日早朝に私鉄のべアが決着を受けて、国鉄春闘も早めに終わると期待されたが」、とある様に、今まで国鉄と歩調を合わせて交運共闘として、同じ時期にストを実施するなどしてきた私鉄労連が、ストライキを行って、賃上げを獲得する方式から、「交渉を詰めて回答を得たのち不満ならばストを組むという交渉重視路線〈事後対処方式〉への転換をめざしてきた。」と言われています。

私鉄は、国鉄との共闘から、徐々に軸足を動かすことに

これは、国鉄ストをすることで、その利用者が私鉄に流れる、結果的に私鉄利用者が増えれば、私鉄側としてみれば、賃上げ要求を行いやすいという流れに変わってきたことも大きいかと思われます。

実際、この時もスト戦術で抵抗したのは、京成のみでした。

当時の京成は、成田空港開業の遅れなどから累積債務が増大しており、経営状態はかなり無かったこともあり、社員のモラールも低かったとも言われています。

京成3000形初代

京成3000形初代

京成は、空港開港の遅れなどから、財務状況が悪化していたこともあり、その辺も会社全体に影響は有ったかと思われます。

再び、引用させていただこうと思います。

私鉄総連は、一応は従前どおり国労動労と交運共闘を組んで公労協と連携を保ったが、一方で民間賃闘対策連絡会議に参加して民間主要労組との強い連携のもとに行動した。いわば両方に片足ずつ乗せたわけであるが、どちらの足が軸足であったのか。また、私鉄総連はここ数年来、団体交渉も進まない内にスト計画を組むスケジューノレ闘争から、交渉を詰めて回答を得たのち不満ならばストを組むという交渉重視路線〈事後対処方式〉への転換をめざしてきた。

経営側もこれらの傾向を歓迎した。加えて、公企体等との連動を断ち切って独自に賃金を決めたいという意向は、もともと労使双方に根強くあったであろう。従前の形式的な第1次回答はなくなり、11日の回答は最終回答的なものであった。最後には大方の予想をくつがえす高額(大手8社平均6.72労・1万2200円)で妥結した。

 既に、この頃から、私鉄総連は、ストをしてお客様に迷惑を掛けるのではなく、ストをしないことで、むしろ利用者に喜ばれることで、更にその利益の再配分を目指すという方式に切り替わっていく流れを目指していると言うことであり、これは私鉄総連に限らず、民間賃闘対策連絡会議(同盟が主導)の流れに沿うものであると言えます。

公労協の、ストライキによるいわゆる、闘いによる労働者の権利確立は、民間労組では時代遅れという概念を持たれていく中、国鉄、郵政といった公労協の代表組織は、その舵を切れないまま進んでいくように見受けられます。

日本民営鉄道協会も、私鉄総連の動きを歓迎しており、労使双方共に新しい春闘(賃闘)方式を歓迎していますし、私鉄総連も一定の評価をしています。再び引用してみたいと思います。

山田労務委員長は、「毎年いるいろな外的要因で思うように交渉ができなかったが、今年は自主交渉の実をあげた。組合側の新しい動きは評価した。それに応えるべきだと判断した」と語っている。
私鉄総連の田村書記長は、「成果があったと評価している。民間共闘と全交運共闘の両方に軸足を置いた闘いを来年も続けていくが、民間賃闘対策会議とのブリッジ共闘は強化していくべきだ」と述べている。

ここに来て、私鉄総連は、従来の国鉄に歩調を合わせていく方式から、その軸足を更に、民間共闘にシフトさせていくと明言しているところは注目に値する点です。

私鉄総連は、従来の国鉄に歩調を合わせていく方式から、その軸足を更に、民間共闘にシフトさせていくと明言しているところは注目に値する点です。

私鉄の代表格として、南海電車をアップさせていただきます。

続く

なお、次回以降は、動労・鉄労などの動きも併せて参照してみたいと思います。

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************************以下は、国労の資料から引用になります************************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節八〇年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

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├○ 八〇、八一、八二春闘 │
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 80年代初頭の春闘については、第一章に記述していなかった
ので、ここで取り上げる。
 1979年10月の第35回総選挙は、一般消費税の導入を掲げた自民党に国民はノーの審判を下し、自民党の惨敗に終わった。
 それ以降、政府・財界による「行財政改革」が中心的テーマとなって、財政支出削減の方向が追及され始めた。と同時に、与野党伯仲と景気の一定の回復のもとでの80春闘であった。この春闘では労働四団体の要求基準が八%に揃えられた点も注目された。4月9日に出された金属労協への回答では鉄鋼などで前年を上回ったが、電機は最低賃上げ目標額に達しなかった。このため電機労連は、4月10日にJC決戦参加以来初の12時間ストに突入したが、回答に上乗せできず、手当の改善にとどまった。4月16日未明には私鉄総連に対し、平均1万2200円の賃金引き上げ、年間臨時給13社平均5.3ヵ月の回答が出され私鉄総連は予定していたストを中止した。
 国労は、2月27、28日に開いた第127回拡大中央委員会において、80春闘要求額として、2万3000円(12.5%)35歳・勤続17年19万円を基本とする、との方針を決め、3月11日に要求書を提出した。国鉄の賃金について4月16日からの公労委の調停作業が始まり、私鉄との完全連動をめぐって折衝が続けられたが、公益委員はこれに応じず、労働側委員の辞任する事態となった。5月14日、6.6%、1万1546円の調停委員長見解が示された。これを公労協が拒否して仲裁に移行し、6月10日に先の調停委員長見解と同一内容の仲裁裁定が出された。しかし、80年6月の衆・参同日選挙の結果自民党が大勝し、与野党伯仲の終わった選挙後の閣議で仲裁裁定が議決案件とされた。80春闘の結果は、労働省調べで、民間1万1679円、率は前年を上回る6.74%であった。
 81春闘は、労働戦線再編の動きが活発化するなかで、労働四団体の共闘が進められたことに特長があった。80春闘に続き、10%の統一要求と減税等の要求でも四団体の共同歩調が目立った。同時に、第二臨調が3月に発足し、これを受けて行革推進国民運動会議も3月に結成された。4月9日、金属労協への一斉回答では鉄鋼6.99%、電機8%であった。4月22日に私鉄の回答が出され、私鉄総連は、平均1万4700円の賃上げ、年間臨時給5.3ヵ月、生活関連分10月から1000円増額の回答を受託し、ストを中止した。
 国労は、3月4、5日に開いた第131回拡大中央委員会において、賃上げ2万5000円、扶養手当、都市手当の増額などの新賃金要求を決定した。3月11日、当局に新賃金要求を提出し、本格的な交渉に入った。交渉では、民間賃金との格差、長時間・不規則・夜勤手当など国鉄独特の労働実態への配慮などで、当局に迫ったが対立したままであった。4月3日、国民春闘勝利統一行動に参加した国労は、ローカル線廃止反対、運賃値上げ反対、物価・減税要求実現などの要求を揚げ全国主要400駅で早朝一時間出改札ストを行った。4月15日、国鉄当局は8155円、引き上げ率4.23%の回答をしてきた。この回答を不満とし、翌16日に国労動労、全印刷、全専売、全造船とともに公労委に調停申請した。
 公労委の調停作業は4月17日から始まり、23日に調停委員長による最終案(三公社五現業平均1万3996円7.64%)が提示されたが、労働者側委員、使用者側委員双方とも拒否したため、仲裁へ移行し、5月16日に先の調停委員長見解と同一の仲裁裁定がでた。この年も仲裁裁定が国会の議決案件とされ、10月30日に議決された。81春闘の結果は、労働省調べで、民間1万4037円、7.68%で前年を額・率ともに上回った。
 82春闘に先立って日経連は「労働問題研究委員会報告」で行革推進とあわせて、公労協労働者の賃金抑制の一層の強化を求めた。
貿易摩擦の激化、内需停滞という経済環境のもと、行革が展開され、国鉄労働者に対するマスコミの批判キャンペーンも加わり、厳しい状況での八二春闘であった。労働四団体は賃上げ要求基準を1万4000円、9%とした。4月8日に鉄鋼1万3100円6.36%などの金属四業種への一斉回答が行われたが、金属労協はこの回答を受け入れた。また、私鉄総連は4月12日に賃上げ1万4500円(八社平均7.0%)年間臨時給5.327ヵ月回答を受託し、これにより13日予定していたストが中止され、私鉄大手は1968年いらい14年ぶりにストなし春闘であった。
  国労は、2月19、20の両日、第134回拡大中央委員会を開き、2万5000円、12.3% の賃上げ要求を決定した。3月3日、国民春闘共闘会議は一兆円減税などの要求を掲げ、統一行動を実施した。国労は全国42拠点で地上勤務者による時限ストでこれに参加した。新賃金要求を提出して国鉄当局と交渉を重ねたが、4月13日、当局が有額回答の提示要求に応じなかったため、公労委に調停を申請した。
 公労委の調停委員長見解は4月18日、国鉄には定昇込みで1万3552円、6.71%であったが、使用者側委員の拒否で仲裁へ移行した。仲裁裁定は5月8日に、調停委員長見解と同内容のものであった。82春闘の結果は労働省調べで、民間1万3613円、7.01% と前年を下回った。

続く

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国鉄労働組合史詳細解説 107

本日も、国鉄労働運動史をご覧いただこうと思います。

今回は色々と資料を探してみたのですが、鉄労の資料を『国鉄民主化への道』を参考に書かせていただくのが一番詳しいようでしたので、この記事を参考に解説を加えさせていただきます。

国労とのパイプを絶つことに成功した、仁杉総裁の辞任

国鉄民営化に投書は賛成の意向であった、仁杉総裁は、本社内の民営化反対の勢力に押される形で、民営化を容認から、反対に転じることとなりましたが。
この辺は、もう少し複数の資料を探していく必要はありそうです。
6月21日に、仁杉総裁は辞表を提出、翌22日は土曜日でしたが緊急役員会が開催され、縄田国武副総裁と半谷哲夫技師長が辞表を提出、他の役員にも辞表を提出することを要請し、現状維持派の大半を含む役員の辞表のとりまとめを行ったと書かれています。

最後の最後で民営化に反対する常務理事を道連れに、辞任したのは歴史の皮肉とはいえ国鉄の改革には大きく前進したと言えそうです。

国鉄当局とのパイプを失った国労

そして、ここで一番打撃を被ったのは、国労でした。

それまで、国労とのパイプを持っていて、秋山機関と言われた、秋山資材局長と国労のパイプが切れてしまったことで、国労は迷走することとなります。

国労自体は、ある意味馴れ合いでこれた活動は出来なくなり、本社とのパイプがなくなってしまったため、結果的には〝三ない運動〝の中止にも見られるように、今までの勢いは何処へやらとなってしまいます。

雇用安定協約を再締結されなかった国労は更に窮地に

さらに、鉄労が早々と「雇用の安定に関する協約」を11月13日には調印したに対し、国労は上記のとおり、〝三ない運動〝中止を行うなど、国鉄当局への歩み寄りを示す姿勢を示すと共に、総評議長の黒川武が、国鉄総裁と組合の間に入り、雇用安定協約の締結に動きましたが、当局は、一部地本に非協力的なところがあるとして、これを拒否することとなり、雇用安定協約の再締結には至らず、国労は更に混迷の中に巻き込まれていくことになるのでした。

 

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************************以下は、国労の資料から引用になります************************

583系改造の419系、国鉄改革の象徴とも言えます


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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第3節 59・2ダイヤ改正後の余剰人員対策をめぐる交渉
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

┌──────────────────────────┐
├○ 第四七回臨時全国大会の方針と〝三ない運動〝の中止│
└──────────────────────────┘
 
 国労第四七回臨時全国大会が八五年五月二七、二八日の両日、札幌で開催された。この大会の中心議題は、「余剰人員調整三項目」
を中心とする闘いの総括と分割・民営化反対の闘争方針等を決めることであった。方針案は概略つぎのようなものである。
 ① 九カ月におよぶ闘いのなかで露呈した指導部に対する『統一闘争』の組織化をめぐる不信・批判などの内部矛盾を除去することに全力をあげ、すべての労働者の創意と行動を組織化する大衆闘争と組合民主主義の徹底をはかる。
 ② 過員づくりが、分割・民営化を推進する重要な施策であり、一体不可分であるだけに、反合理化闘争を再構築し、一人の首切りも許さない態勢をつく。
 ③ 過員の解消をめざし、安全・サービス。労働条件および権利の向上などを実現する闘いを組織する。 ④地方交渉の確立な未解決の要求の実現をはかる。
 ⑤ 用安定協定については今から再締結運動に取り組む。
 ⑥ すでに派遣に応じた仲間の派遣先での労働実態および悩み・不満などについて調査し、問題解決に取り組む。
 ⑦ 当局の一方的な「規定」の制定と業務命令の乱発にたいして、 すべての職場で就業規則の点検と意見書提出の闘いを継続して 闘う。
 また、「余剰人員対策三項目」の協定の前進面として①強制・強要はしないこと、応じないことをもって不利益にしないことを明確にさせた、②所属長が該当職員に文書で復帰・復職を保障することを協定上明確にした、③組合が、〝肩たたき?をしなければならないような協定にしなかったことなどが、書記長による協定締結の提案のなかで示された。
 「余剰人員対策三項目」に対する闘いの総括をめぐって論議がかわされ、「三項目」関係の諸協定は委員長の特別発言をうけて承認したが、闘争経過については、さらに職場討議をつづけ、七月下旬に名古屋で開く第四八回定期全国大会で最終総括をおこなうこととなった。
 七月二九日から五日間、開かれた全国大会では、「余剰人員対策三項目」の闘いの総括について次のような書記長集約意見で経過を承認した。「『三項目』問題では、妥協せざるをえなかった経緯と協定をよりどころとして職場の闘いを強化していくこととする。
臨調行革の攻撃として受け止め、これに反対する広範な統一した闘い、権利闘争としての闘いを職場と地域との結合した全国的な闘いへ発展させるうえで不十分さをもっていたこと、組合民主主義上の問題や指摘も含め、これらを教訓として闘いを展開していくこととしたい」。
 また、国鉄当局は85年11月30日に雇用安定協約の期限が切れるが、協約の延長締結を求める交渉において、国鉄当局は「国労の運動のなかに〝三ない運動?があるので雇用安定協約締結という心証形成には至らない」と主張し始めた。
 このような当局の姿勢に対し、11月19日からの第一四四回拡大中央委員会で山崎委員長は挨拶で、「三ない運動」中止し、その後の対応を「派遣労働者の組織対策を強化し、協約締結以降の今日の状況の変化に留意する。強制・強要を監視し、不利益扱いについては中央・地方での団交を強化し追及する」と述べた。中央委員会で委員長の真意を問いただす質問が集中したが、次のような書記長答弁で方針を決定した。
 「雇用安定協約が結べない場合、当局は、三項目協定と関連して組織分断の宣伝を強化するであろうし、他組合は、組合員の雇用安定を放棄したと攻撃を強めるだろう。さらに協約を結べなかったことを理由に、当局は『過員』に配転命令し、拒否には解雇のねらい打ちが考えられる。希望退職者数に達しないことを理由に、指名解雇などの事態を予測した場合、協約がないことのマイナスは大きい。いま協約を結ぶ必要性は非常に重くなっている。」

続く

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国鉄労働組合史詳細解説 106

ここ最近更新が出来ずに申し訳ありません、昭和60年の公企労レポートが手元にないのですが、出来るだけ資料を集めながら書かせていただこうと思います。

55歳以上の労働者脱退を阻止するための抗議行動を行う国労

年が明けて以降、多くの地方、職場で「五五歳以上の者は一人も残さない」と、人権無視の退職の強制・強要・差別など、目にあまる不当な行為が続けられていた。そうした状況にたいし、全組合員で五五歳以上の労働者を防衛しようと立ち上がった。3月25日から、国鉄の分割・民営化反対、緊急課題の要求の前進、職場での人権侵害抗議の全国統一行動が展開された。3月26、27、28の3日間、連日1,000人が国鉄本社前に集結し、抗議集会を開いた。
しかし、国鉄当局側からすれば、合理化は喫緊の課題でした、昭和59年8月に示された早期退職の条件は、下記のようなものでした。
  • 55歳以上の職員の昇給は行わない
  • 55歳で退職した場合は、特別昇給の他、4月1日退職、(これにより定期昇給が4号奉上がるため、年金などの受給で有利になる。)その反面56歳以上の職員の場合は3月31日退職扱いとなり、号奉のアップは行われず、その後の定期昇給も行われない
  • 56歳以上の場合は、こうした条件がすべてなく、定期昇給もありません。

現在の役職定年などの制度の基礎になった?

なお、最近では、55歳を役職定年として、それ以降は管理職から離れて専門職にしたり、出向させることが行われていますが、こうした国鉄労務政策が形を変えて発展したと言えるかもしれません。

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国鉄施策、希望退職者
 
 
また、出向も行われており、下記のように多くの職場に国鉄職員が派遣されているようです。

国鉄職員の出向先

出向先の例

国鉄時代は、自動車工場等への出向が多いのですが、ここには出ていませんが、スズキ自動車工業の販売店への出向もあったそうで、そこでは国鉄職員の出向期間満了後も残って欲しいと言った希望もあったそうです。

自動車工業関連への出向が意外と多いのを見ていただけると思います。

さらに、国鉄ではこうした出向以外にも直営店舗の開店などを進めていきます。
国鉄部内誌の国有鉄道1985年8月号によりますと、下記のように書かれています。
昭和59年8月6日に国鉄初の直営店舗が,東京駅はじめ12駅で開設されて以来ほぽ1年が経過した。それ以来,各鉄道管理局各駅において順次展開され、現在では年聞を通じて営業する店舗(通年型店舗〉は,別表のとおり29鉄道管理局93駅で140店舗までになった。一方,多客期やイベントのある時等に機動的に開設される店舗(臨時型店舗〉も、各地で随時積極的に展開されるようになった。
 
と書かれています。
以下、別表

国鉄直営店舗、1985年国有鉄道

国鉄直営店舗

この頃は、駅構内や余剰の客車などを改装して駅構内に設けた食堂など、数多くの直営店舗が誕生しました。
天王寺駅でも、8番線ホーム側に、釜飯屋、喫茶店、等の直営店舗が複数展開していた時期がありました。

天鉄局直営店舗 松阪駅うどん店 国有鉄道 1985年9月号

天鉄局直営店舗 松阪駅うどん店

年度末における退職者の取扱に関して仲裁裁定が出されることに

四月四日になって仲裁裁定が示された。その内容は、「年度末における退職者の取り扱いについて締結する協定中、年齢五五歳以上の者の在職条件のうちベースアップの扱いは、職員の申し出による休職の取り扱いと派遣の取り扱いに関する各協定が締結された場合には、八六年度以降も現行の協定によること」

この件に関しては、他の資料を参照したのですが、詳細な記事が載っていませんでしたので、国労の記事をそのまま書かせていただくだけとさせていただきます。
 
国労は、仲裁裁定を経たことで、年度末における退職者の取り扱いについて締結することで、八六年度以降も現行の協定によることとして、雇用安定協約が引き続き、有効期限がある協約となったと書かれています。
ただ、この辺は、個人的にはまだまだ不明な部分がありますので、今後更に調べていき判った時点で追記させていただくことをご承知おきください。
 

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第3節 59・2ダイヤ改正後の余剰人員対策をめぐる交渉
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

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├○ 余剰人員対策「三項目」の妥結と雇用安定協定の解約取り消し│
└──────────────────────────────┘
 
 国労第一四三回拡大中央委員会が3月5、6日の二日間にわたって開かれたが、「三項目」に論議が集中した。とくに経過報告にたいする質疑には、三・一スト延期や闘申五〇号は大会決定違反などの疑問が中央委員から出され、経過報告の承認は方針決定と同時に行うことになった。
 方針の討議では、「当局の姿勢は変わっていない。組合の方が右往左往している」
「政府や当局の動きに依存するのではなく、職場に依存せよ」
「本部は舞台裏の折衝にあけくれている」などの批判が相ついだ。
 討議後の書記長の答弁において、三項目問題では「一人の首切りもさせない」ことを基本態度とし、休職・派遣などについての要求の実現をめざす、「緊急課題の要求」で総団結し、その前進のために闘い、重要局面でのストライキを配置すると集約し、この方向で意思統一された。なお、これらの闘いの総括にたって臨時全国大会を開くことを決めた。
 年が明けて以降、多くの地方、職場で「五五歳以上の者は一人も残さない」と、人権無視の退職の強制・強要・差別など、目にあまる不当な行為が続けられていた。そうした状況にたいし、全組合員で五五歳以上の労働者を防衛しようと立ち上がった。3月25日から、国鉄の分割・民営化反対、緊急課題の要求の前進、職場での人権侵害抗議の全国統一行動が展開された。3月26、27、28の3日間、連日1,000人が国鉄本社前に集結し、抗議集会を開いた。
 こうした行動を背景に本社との交渉、国会での追及、公労委の活用などに取り組んだが、当局の不誠実な態度によって年度内解決ができなかった。三月七日に公労委に特退制度に関する仲裁裁定を申請していたが、四月四日になって仲裁裁定が示された。その内容は、「年度末における退職者の取り扱いについて締結する協定中、年齢五五歳以上の者の在職条件のうちベースアップの扱いは、職員の申し出による休職の取り扱いと派遣の取り扱いに関する各協定が締結された場合には、八六年度以降も現行の協定によること」というものであった。この仲裁裁定を受けて国労はその受諾を決めた。これにより「特退協定」「昇給協定」「休職・派遣」などをめぐる交渉は、四月八日までに大筋がまとまった。
この妥結により、当局が解約通告をしていた雇用安定協定については、85年11月30日までの有効期限のある協約として存続することとなった。

続く
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国鉄労働組合史詳細解説 105

国鉄当局の基本方策を監理委員会に提出

国鉄は、1985年(昭和60年)1月10日に、国鉄の経営形態のあり方について、下記のような経営改革のための基本方策として発表しました。

本文は非常に長文ですので、後ほど弊サイト【国鉄があった時代】で全文アップする予定ですが、一先ず新しい経営形態のあり方について言及した部分について書かせていただきます。

ポイントは以下のとおり

  • 公共企業体→民営化を行う
  • 民営化に際して徹底した分権化を前提としたに全国一体の特殊会社
  • 地方交通線については、全額出資の株式会社として分離運営  

下記のようなイメージになります。

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上の図でも出ていますが、北海道と四国も基本的には場合によっては分離しても良いとしています。
また、基本的には特定地方交通線は、転換した上で残る地方交通線は株式会社かすることとしています。
社会党案については、今後資料を集めてくる予定ですが、概ねこれに近いもので、70%の株式を国が保有する特殊会社で、ローカル線の分離などは考えられていませんでした。

以下は、国鉄が再建監理委員会に提出した、経営改革のための基本方策の抜粋になります。

「経営改革のための基本方策」

新しい経営形態(1)

経営形態の変更今回の計画は昭和65年度を目途に活力ある事業活動のもとに自助努力の限界に挑むことによって速やかに収支の均衡を図り、以後安定的な経営状態を維持することをめざしている。~中略~。
現行の国鉄は昭和24年に公共企業体として発足したが当初からその在り方が問われ国鉄自身も諸制約の緩和と事業範囲の拡大を望み続けてきた。しかし公共企業体の枠内での変更には自ら限度があり、かっそれは必ずしも適時適切に行われたわけではなかった。今後の輸送需要の見通しなどを考えると鉄道事業は極めて厳しい状況にあるととが予想されるが、刻々に変化し流動する社会経済の動きに的確かつ弾力的に対応し意欲的な経営が行えるよう現行の公共企業体という経営形態を変更し、民営化を行うこととする。

(2) 民営化の具体的あり方

現行国鉄経営の現状は特性を発揮できる分野と、特性を失い縮小ないしは撤退すべき分野、または特性を失ってはいるが何等かの方途で存続させざるを得ない分野が併存しているのが実態である。~中略~同時に行財政上の支援を受けつつ解決していく事柄も多い。~中略~
また当面の重要課題の一つである余剰人員対策についてもその発生は全国に及ぶが、雇用機会には地域差が強いこと等を考慮すると全国的な規模で調整策をとることが有効であると考えられる。一方、輸送の実態をみるとかなりの地域差がみられるものの、現状ではそれぞれの地域が独立して存立し得る経営基盤は必ずしも整っておらず、現に日々の輸送をあずかるものとしては全国的にこれを運営するととがより現実的であると考えられる。以上の諸点や全国的な輸送の実態及び経営形態の変更に伴う激変緩和の必要性等を総合的に勘案して、現時点においては民営化の手段として徹底した分権化を前提に全国一体の特殊会社方式を選択する。
 この特殊会社は幹線系線区を専ら運営するものであり、特定地方交通線以外の地方交通線については前述のとおり、全額出資の株式会社として分離運営する。
 なお、北海道及び四国については、輸送や運営面の独立性が比較的強いという事情もあるが、将来の見通しからみて民営による安定的運営は至難である。しかし国の政策判断により特別に運営基盤が確立されるならば別経営とすることも考えられる。特殊会社の具体的制度内容は別途検討するが、可能な限りの自主性を確保するとととし、労働基本権については当面現行どおりとする。なお新会社への移行は実効性を早期に実現するため昭和62年4月1日を目途とする。

(3) 新会社の運営方式

新会社はその内部管理に際しては分権管理を徹底することとする。要員規模が縮小するとはいえ依然として新会社は全国規模の大企業であり、情勢の変化に対応して経営施策を推進するためには機動性のある組織運営が行われる必要がある。今後は特殊会社という枠組みのもとで事業運営に適した画一的でない分権管理を導入する。実施にあたっては地域別、機能別事業本部制などの方式により経営責任を明確にし、意欲と創意に満ちた事業活動の展開をめざす。

 

国鉄特殊会社設定の前提条件

国鉄特殊会社設定の前提条件

収支試算、昭和65年で収支均衡を目指している

収支試算

地域別収支

地域別収支

国の負担が前提の株式会社案は国民に受け入れられたのか?

この監理委員会に提出した民営化案ですが、国労も指摘しているように監理委員会は言うに及ばず政府、マスコミ、各政党、労働組合などから、それぞれの立場にもとづいて徹底的に批判された。

と書かれています。

実際にこの当時は、国鉄部内は分割民営化反対派が主流でしたので当然と言えば当然でした。
ただ、助成金をください、ローカル線は子会社化して分離します。
北海道・四国も経営が厳しいのでこくが面倒見てくれるのであれば個別に別会社にしますとなっています。九州を分離しますとなっていないのは、新幹線が既に博多まで開業していたためでしょう。

昭和65年【平成2年】に収支均衡できること、また長期債務のうち15.6兆円は国が負担する、更に助成金として、ローカル線の赤字や年金の超過負担なども国から助成してくれとなっていますので、再建監理委員会からすれば、本気で提出した案なのかと言いたくなったと思います。

ここで違和感を感じることは、国鉄として責任を持つのは主要幹線だけであるといっている点です。
ローカル線として、残す路線も子会社化するとしており、70近くの子会社を作る案となっています。
当然そうなってくると、地域のローカル線毎に運賃が異なるといった問題も起こりえたわけで、国鉄ファンの人が国鉄がJRになったからローカル線が廃止になったとか、サービスが低下したという発言をされるのですが、仮に国鉄の案で再建されていたら、ローカル線は早々と別会社になって、運賃は別料金または、運賃が区間によってはべらぼうに高くなると言ったこともあったかもしれません。

労働大臣は、国労との対話を要望

労働大臣(増岡博之)と国労幹部が会ったと書かれていますが、この時点では国労が最大組織でも有りますから、当然のことながらむげには出来ないと言うことですね。

1月22日に「国鉄の労使問題を放置できないので、あって話し合いたい」という労働大臣の要望で、国労委員長と企画部長が会談した。このあと、労働大臣は仁杉国鉄総裁と会い、「労使が十分な話し合いをしてもらいたい」と要請した。

一先ず、交渉のテーブルに着いた国労ですが、主張として

  1.  雇用安定協定の解約通告を撤回し、今後とも維持存続すること。
  2. 退協定については公労委の斡旋で円満に解決をはかるため、当局提案の内容に固執しないこと。
  3. 本人の申し出による休職、派遣については合意がえられるまでの間、募集は 一時中断する。
  4. 過員の問題については調停の趣旨をふまえ、中央・地方交渉による合意にもとづき実施し、今後についても交渉による解決をはかる。

といった申し入れを行いましたが、当時の国鉄に置かれていた現状では、余剰人員対策【過員対策】は喫緊の課題ですので、国鉄当局としては、大臣の要請があったから開催しましたよと言うところで終わってしまったと言えそうですね。

それと、その後の団結を誇示するワッペン闘争はまだしも、ストライキは国民の信頼を得るべき時期に有って本当に有効だったのでしょうか?

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昭和62年3月和歌山駅にて

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第3節 59・2ダイヤ改正後の余剰人員対策をめぐる交渉
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

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├○ 労働大臣のあっせんによる団交再開│
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 1985年(昭和60年)1月10日、国鉄当局は「経営改革のための基本方策」を国鉄再建監理委員会に提出した。それは、87年度から国鉄を民営移管し、当面は全国一社制をとり、90年度【平成2年度】までに要員規模を18万8000人とする独自案であった。この案は、監理委員会は言うに及ばず政府、マスコミ、各政党、労働組合などから、それぞれの立場にもとづいて徹底的に批判された。このため国鉄当局をみる目が厳しくなったことは否めない。
 その後、1月22日に「国鉄の労使問題を放置できないので、あって話し合いたい」という労働大臣の要望で、国労委員長と企画部長が会談した。このあと、労働大臣は仁杉国鉄総裁と会い、「労使が十分な話し合いをしてもらいたい」と要請した。2月7日には運輸大臣との会談がもたれた。この会談において、トップ交渉で懸案事項を早急に処理するよう、大臣から求められた。この結果、2月8日国労は、国鉄当局とのトップ交渉を開き、 ①「経営改革の基本方策」については国労側の再建政策要求を含めて話し合っていく
 ②特退協定、雇用安定協約、昇給協定、過員問題などの懸案問題については円滑な解決へ向けて引き続き努力していく、などの合意が成った。
 こうして団体交渉が再開されることになったが、国労は交渉前日の二月一四日につぎのような「緊急課題の要求」を当局に申し入れた。

 ① 雇用安定協定の解約通告を撤回し、今後とも維持存続すること。
 ② 特退協定については公労委の斡旋で円満に解決をはかるため、当局提案の内容に固執しないこと。
 ③ 本人の申し出による休職、派遣については合意がえられるまでの間、募集は 一時中断する。
 ④ 過員の問題については調停の趣旨をふまえ、中央・地方交渉による合意にもとづき実施し、今後についても交渉による解決をはかる。活用に当たり差別扱い、強制的な業務等への就労はしないこと、○○センター等の職場は労安法上違法のないようにする。
 15日に「緊急課題の要求」にたいする当局の「回答または見解」がだされ、これをうけて一八、一九日に団体交渉が行われた。
当局は、八四年一〇月九日に一方的に団体交渉を打ち切った時点と変わらず、自らの施策や主張を頑強に固執し、一歩も譲ろうとしなかった。
 国労の「緊急課題の要求」の解決をめざした闘いは、3・1ストを背景に二月末決着をめざして進められた。中央闘争委員会は闘争指令七号を発し、全組合員の行動参加を呼びかけ、2月25日から全地本が主要駅頭や本社前、地方局前での集会や座り込み、街頭宣伝を実施した。ワッペン着用、ネームプレート着用拒否の闘い、労基法・労安法違反、人権無視の実態を監視、摘発の行動を展開した。二八日には三・一ストライキの指令が出された。
 こうした闘争を背景に進めた当局との交渉は、2月28日深夜から詰めの段階にはいった。この結果、3月1日早朝に「諸懸案事項については、円満に解決をはかるよう誠意をもって交渉する。
なお、その間、派遣・休職については強要にわたらないこととして自粛し、対処する」。この回答を受けて、中央闘争委員会は3月1日のストライキを延期した。

続く