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国鉄労働組合史詳細解説 121

久々に、国労運動史を底本にして解説を加えさせていただこうと思います。

国労が提案する、過員解消策

国労によれば、過員【国鉄当局的には余剰人員】の実態は、草むしり、文鎮づくり、今まで協力会社に回していた業務、自習という名の職場隔離であるとして、過員活用の要求として、下記のような活用方法を提案したとしています。

①『みどりの窓口』の時間規制廃止、現在閉鎖中の窓口の復活、
②縮小・時間閉鎖している全国主要駅の改札ラッチへの要員増配置、
③案内用電話の増設、要員配置、駅案内コーナーの充実・新設、
無人駅への職員配置、
⑤旅行センターの充実・強化、要員配置、
⑥自動券売機での混雑などの解消策として閉鎖窓口の復元、要員配置、
⑦十分なホーム要員の配置、
⑧列車乗務員の乗り込み基準を改正し、基本乗り込み数を増やすとともに、線区の特性、繁忙期などを勘案して増し乗務、特別改札要員の配置」。

こうした国労の体制は、正直今までの国労の対応を考えれば遅きに失したのではないだろうかと思える訳です。
この提案がなされたのは、昭和59年ですが、昭和57年のブルトレ闇手当問題に端を発する、国鉄の組織としての問題は、国鉄職員=働かない、とか国鉄職員=悪というイメージを作り上げており。

当時の職員局長であった、太田知行職員局長は、国労に対しては強気の対応を取ったことはすでに招致のことかと思います。

ここにきて、国労にはいささか強い態度で出る訳ですが、実際にこの時期の国鉄の余剰人員は当初の想定を上回るもので、国鉄としても職員の自然減で35万人体制に持って行けるとし、若干の採用はしていく予定で有ったと言われています。

しかし、実際には国鉄の輸送人員は数のとおり、旅客はともかく、貨物が壊滅的に減少しており、そうした意味でも何らかの措置は必要であったというのは言を待たないと思います。

国内旅客輸送人キロ 運輸白書昭和59年版から引用

国内旅客輸送人キロ

国内貨物輸送トンキロ 運輸白書昭和59年版から引用

国内貨物輸送トンキロ

元々は、ここまで落ち込むことはないと考えられていた貨物輸送ですが、高速道路の開通もありますが、国鉄の旅客輸送量のシェアは35年度51%であったものが,58年度24%へ、貨物のシェアに至っては、35年度39%であったものが58年度6%と激減しています。

こうした状況の中で、国鉄は昭和57年には大幅な減量ダイヤを発表、特に貨物列車を中心とした、大幅な減量ダイヤで多くの余剰機関車や車両が発生し、当時非電化であった山陰本線二条駅などに583系電車が用途不要で休車扱いとなり、貨車や機関車も余剰となってしまいました。

この後、昭和59年にはヤード系輸送の廃止などで更に機関車、貨車なども余剰となり、人員についても構造的に人が余ってしまうと言う悪循環になってしまいました。

合理化を拒否したことが窮状を生むことに

マル生運動終了後辺りから、合理化しても人が減らせないという矛盾(合理化をさせないと言った誤った方針が貫かれたことなど)が更に業績を悪化させて、合理化しやすい駅の無人化などを推進して結果的に町の賑わい自体を失わせることとなったと言えないでしょうか。

保線の合理化、近代的研修背坪の積極的な導入などを行なおうとしても要員が減らせないという誤った方策が、ここにきて矛盾として一気に吹き出したと言えましょう。

年に何度も行なわれたストライキ(処分撤回闘争というのあのストライキなど)で荷主の信頼を失ったことはすでに何度か書きました。

実際、上記の図でも自動車の輸送キロが大きく上るのが昭和50年頃から伸び出すのも、その辺を特に顕著に著しているかもしれません。

いずれにしても、鉄道貨物はそのシェアをどんどん減らすこととなるわけで、国鉄の余剰人員は構造的なものであったと認識されていました。

国労の提案は本当に評価出来るのか?

全否定する訳ではないのです概要を最初に書かせてもらえば、当局としては出来るだけ退職してもらうことを前提に考えている中で、国労が提案しているものは、もちろん人が余って居るからと言う理由ではそうでしょうが。

結果的に、そうした人を入れることで、要員の固定化となることを当局側としても嫌ったのではないかと考えるのです。

当時の国労は、引き続き分割民営化を容認できないことを前提に打ち出していますので、その線だけはなんとしても死守しなくてはならなかったのではないかと思われます。

実際には、国労の記事でも書いていますように、当時の国鉄当局からすれば、構造的に発生する余剰人員対策をどうするかは喫緊の課題であり、実際に貨物輸送の大幅な減少で追加の減量政策を導入せざるを得なかったと、国有鉄道 昭和58年1月号には下記のように書かれています。

貨物部門におげる輸送量激減、旅客部門Kおげる輸送量微減により、輸送量が計画と大きく食い違ったからです。このため「57・11ダイヤ改正」においては、当初の計画よりも貨物部門において減量化施策を強化せざるを得なかったわけです。効率の低下現象をこのまま放置すれば、ますます競争力は低下するわけですし、それは貨物の前途、経営改善計画の達成をも危うくするととにもなりかねないわげです。

ということで、国労の組合要求はどこまでも、「頑張りましたよ」的なポーズで納まってしまったように思えるのです。

 

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*************************以下、国労の記事から*********************************

 

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 一 職場規律の確立攻撃

五 過員センターの設置と作業の実態

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├○ 過員活用の要求 │
└──────────┘

 
 国労は、過員問題解決のために6月1日に「輸送サービス・安全確保に関する緊急要求」を当局に申し入れた。この要求の3番目に、過員の有効活用のための具体的方策を以下のようにまとめていた。
  「三、利用者へのサービスと安全確保を強化する体制を整備すること。
①『みどりの窓口』の時間規制廃止、現在閉鎖中の窓口の復活、
②縮小・時間閉鎖している全国主要駅の改札ラッチへの要員増配置、
③案内用電話の増設、要員配置、駅案内コーナーの充実・新設、
無人駅への職員配置、
⑤旅行センターの充実・強化、要員配置、
⑥自動券売機での混雑などの解消策として閉鎖窓口の復元、要員配置、
⑦十分なホーム要員の配置、
⑧列車乗務員の乗り込み基準を改正し、基本乗り込み数を増やすとともに、線区の特性、繁忙期などを勘案して増し乗務、特別改札要員の配置」。
 これに加えて、労働時間の短縮、年次有給休暇の完全消化や業務委託の拡大の中止、などの要求を掲げた。
 しかし、国鉄当局にとって人員削減こそが「国鉄再建」の最大の課題であるため、組合の要求は実現が困難であった。もちろん収入増につなる場合には、過員を積極的にそれに投入し、活用したものの、組合の要求は実現困難であった。
 こうした攻撃にもかかわらず国労組合員は必死に闘った。84年9月1日現在における国鉄内の労働組合の組織状況を掲げておくと、組合員有資格者、29万2031人中、国労が20万7784人(71.2%)、動労が3万8173人(13.1%)、鉄労が3万4766人(11.9%)、全動労が2797人(1.0%)、全施労が2219人(0.8%)その他組合が1213人(0.4%)、中立が5079人(1.7%)であった。国労の組合員数は前年同期に比べると1万5000人以上減少していたが、組織率に変化はなかった。国労組織に対する激しい攻撃にもかかわらず、この時期他の労組からの加入者が増えていた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 120

国鉄労働組合史詳細解説、今回も国労の記事ではなく他の記事などを参照しながら書かせていただきます。

 

今回は、国鉄部内紙、昭和60年1月号の記事から書かせていただこうと思います。

職場規律確立が叫ばれる中で再び起こった惨事

昭和59年10月19日

特急「富士」、西明石駅構内で客車がホームに激突と言う事故がありました。

当時は寝台列車などに関しては引き続き2人乗務が行われていました。
(これは、EL・DL一人乗務問題まで遡るのですが、蒸気機関車と異なり、機関助士の仕事を殆ど必要としないことから、機関助士を廃止する事を計画しますが、これに強く反発した動労などが、一人乗務反対の闘争を行い、妥協の産物として、寝台列車など一部の列車については二人乗務が残されていたのでした。

当時の組合の言い分は、二人の目の方が確実であるという主張でしたが、今回の例では二人乗務が必ずしも安全であると言うことを証明しているとは言えないことがはっきりすることとなりました。

 

明石事故の概要を簡記すると

概要を当時の国有鉄道の記事から引用してみようと思います。

西明石事故の反省と対策

 

たかはし高橋薫(運転局保安謀総括補佐)1 事故の概況さる10月19日の早朝,山陽本線西明石駅構内においてプルートレイン「富士」がホームに激突し,寝台客車13両が脱線,旅客32名が負傷するという重大な事故が発生した。その原因は,電気機関士が酒気を帯びて乗務し西明石駅構内の分岐器において制限速度をオーパーして運転したことによるものであり,極めて悪質であった。また,一緒に乗務していた機関助士もプレーキ手配等を行っておらず事故に至ってしまった。さらに,10月22日になって後続のブルートレイン「さくら」の電気機関士も,上記「富士」の電気機関士と出先地において一緒に飲酒をしていたことが判明した。

当日は、保線作業が行われており、工事による影響で、外側線【列車線】から、内側線【電車線】に変更されており、この変更は当然のことながら点呼では伝えられていたはずです。

ただ、この機関士は仮眠前に飲酒し、て運転していたわけで、ようで、ていたと言うことで、この乗務員に対して、対面点呼が行われておらず、電話による点呼であったことそうです。

この事故では、機関士は西明石駅を100km/h程度の速度で内側線に進入、重量のある機関車は脱線を免れたものの、客車は脱線したままホームに激突することとなりました。

西明石駅列車脱線事故

西明石駅列車脱線事故
画像 wikipediaから引用

何故機関助士は停止手配を取得なかったのか

また、同乗の機関助士も機関士とはそりが合わなかったという報道もありましたし、機関士に対して話せるような状況ではなかったという報道もあったかと記憶しています。

それゆえに、機関士が居眠りをしていたとしても、それを注意しがたい雰囲気であったとも言われています。

また、さくら号の運転士も、先輩の機関士(富士を運転していた機関士)の誘いを断り切れなかったとも書かれていますが、いずれにしても、当時のこうした状況は世論の非難を浴びることとなりました。

世論はさらに厳しい目を向けることに

世論は、国鉄改革が叫ばれ民営化か否かという問題が議論されている中で、世論は一気に国鉄に対して厳しい目が向けられることになりました。

当時の様子を国有鉄道2月号「新聞投書に見る世間の動向」を参照しますと

西明石事故では、1週間余りの聞に24件が集中して寄せられ、「酒を飲んで運転するとは言語道断であり強い怒りを覚える」(サンケイ10.24), 「いったい人命をなんと考えるのかJ(読売10.23 )ど、激しい調子で怒りを表わした投書ばかりで、中には「フルムーン旅行やめようかJ(東京10.26)、「後ろから2両目乗車をし、国鉄事故に自衛J(読売10.25)といった投書もあった。

とあるように、かなり厳しい目が向けられていたことが判ります。

国労などに対する労務政策が厳しくなったから、こうした行動に出たという考え方もあるかもしれませんが、結果的には世論としては、こうした動きには厳しい目を向けざるを得ないと言うことになりました。

当時は、機関区などの公開なども積極的に行われ、少しでも国鉄の評判を良くしようと努力している時期でしたので、こうした事故はそうした信頼を一気に失わせるものでした。

さすがに、国鉄もこの一件は大きな問題として捉えられ、次のように事故の翌日には総裁通達による事故防止の徹底が図られることとなりました。

国鉄当局としてもショックが大きかった事故、そして組合は沈黙

国鉄当局は下記のとおり、通達を発出することとなりました。

以下、「西明石事故の反省と対策」から再び引用してみたいと思います。

翌日の10月20日には総裁通達によりこの事故の重大性を認識させるとともにこの種の事故の絶滅を期すため、職員一人ひとりに職責の重大性を認識させること、乗務員管理を徹底しきめ細かい指導を行うこと、出先点呼のあり方を再検討し、乗務員の状態把握を強化すること、これまでの飲酒事故防止対策の実施状況をあらためて確認し徹底をはかること、の4点について指導した。

また、10月23日に緊急に全国の運転関係部長を召集し、問題点の議論を行い、具体的対策について意思統一し、全力をあげて再発防止に取り組むこととした。さらに、具体的指導として10月24日には運転局長名により、出先地におげる電話点呼は廃止し対面点呼に改めること、乗務員の出先地での時間帯、折返し間合いを見直すこと、深夜における要注仕業の添乗を強化すること、昭和57年度対策(名古屋事故対策〉の効果と定着度合いをトレースすること、を通達した。

この事故の持つ重要J性に鑑み、保安担当常務及び関係局長を班長とした異例の本社特別査察を大阪局をはじめ全国10管理局30現場(運転区所、車掌区所〉について10月23日から11月3日にかけて実施した。

 このように、矢継ぎ早に施策を打ち出していきますが、それでも未だ未だ十分に浸透しているとはいえなかった言われています。

実際、出勤点呼は、本来は助役の前での対面点呼が基本ですが、この当時でも、電話点呼による、点呼が行われており、この事故以後、電話点呼を全面的に対面点呼に切り替えた局もあるということで、逆に言えば、今まで電話点呼という簡略な方法がなされていたことに驚きを禁じ得ません。

実際の改善事項等については、別途別blogで記載したいと思います。

 

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国鉄労働組合史詳細解説 119

今回は、国労の資料を参照せずにオリジナルの内容をおとどけします。
国鉄が昭和59年2月の改正などを経て大幅な過員【余剰人員】を発生したわけですが、これは、既述のように今までの合理化が出来ていなかった分の反動とも言えるもので、新規採用を停止しても、それだけに過員【余剰人員】が発生していましたので、国鉄では分割民営化前には、多くの直売売店などが誕生しますが、この頃一番力を入れていたのが営業活動であり、過員解消のための勧奨退職【55歳以上の定期昇給の中止等】も併せて行われていました。
 
今回は、昭和59年当時の各組合の考え方について、国鉄部内紙国有鉄道を参考にしながら絞殺してみたいと思います。

国鉄の危機に際して、目覚める若手職員

国労は、国鉄当局の取り組みを批判するだけですが、それとは別に積極的に国鉄を憂い増収活動に参加している職員もいるわけです。

第一次廃止対象の小松島線の駅に勤務する若手職員は、「団体募集クラブというグループを結成し,団体募集に取り組んだ。ところ、増収に大きく貢献することができた。

として自らの経験を語っています。

愛する国鉄のために四国総局小松島駅宮業係****(25歳〉

第1次廃止対象線区である小松島駅に勤務し,毎日,閑散とした駅の様子を目のあたりにして,国鉄職員としての人生はこのままでいいのだろうかと考えるようになった。若者たちで,今何かをやらなければと団体募集クラブというグループを結成し,団体募集に取り組んだ。
その結果,増収に大きく貢献することができた。このような活動の輸をどんどん広げ,国鉄職員全員が一致団結して再建に取り組まなければならないと考える。

るほか、ヤード勤務の職員が、ヤード廃止を機に団体募集の営業活動を行って大きな成果を得たとして、下記のように発表しています。

赤錆びた線路に再生を嘗う盛岡局青森操車場運転係****(28歳)

北東北のヤードの王者として君臨してきた青森操車場が58年間の歴史を閉じた。かつては2,000両近い貨車を取り扱った操車場,今は作業もなく構内は閑散としている。多くの同僚,後輩が別れを惜しみながら,それぞれの新しい職場に転勤し終わった頃には,線路は赤茶色に錆びつき無残な姿となっていた。今こそ青操魂を発揮しようと,残った職員が一丸となって入換作業のかわりに団体募集のセーノレスに励み,400名のお客様の募集に成功した。この仕事のおかげで働くことの尊さと,やればできる自信を知った。

といった、取り組みが積極的に行われていました。

こうして、若手職員を中心に、もちろん生産性運動の時代は小学生であった、職員が国鉄のことを憂い積極的に取り組もうとすることが見えてきます。

惜しむらくは、結果的に中止してしまったことがさらなる国鉄の荒廃を招いたと言えますし、ここに来て、こうした若手職員による自発的な行動が、少しずつ国鉄を変えて行きつつあったということも知っていただければと思います。

しかし、残念ながらこの時期でも国労,動労は基本的には分割民営化反対の方向性は堅持しています。【最も、動労の場合は敏活民営化には反対ではあるが、国労のような絶対反対という意味合いではなく、雇用特に機関士の雇用を守れと言うことが中心であり,そのためには出向なども受け入れるという方向性を示しており、国労のような階級的対立とは見做せないというのが私の見解です。

以下の画像は、国有鉄道という雑誌に掲載された、記事の画像をキャプチャーしたものです。

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国有鉄道1984年12月号


 

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国鉄労働組合史詳細解説 118

国鉄の過員状態について、国労の実態が語られています。
この当時は、国鉄の余剰人員(国労的には過員)は、出向なども行われており、鉄労・動労は出向に応じていたのですが、国労の方針は、出向「しない・させない・(話を)きかない」と言う3ない運動を始めており、国労の見解をそのまま鵜呑みにするわけにも行かない部分があります。

59.2の合理化は不可避な合理化だったのか?

国労は、「59.2ダイヤ改正によって大量の過員がでた」として、その現状を書いていますが。

すでに、昭和57年の大幅なダイヤ改正で、貨物列車の大幅削減が行われており、この時点で、動労は大幅にその運動方針を転換。
それまで鬼の動労と言われるほどに過激に【時には国労以上に過激な運動】を行ってきた、動労は一転労使協調路線を打ち出していました。
動労が、貨物列車を中心とする機関士が多く所属する組織であったのに対し、国労は運転士も居れば、駅員も、車掌も・・・ということで、職能組合的要素の強い動労と異なる国労は、その対応はどこか他山の石のようなところがありました。

というか、どこまでも最大公約数的なところでの正解を求めてしまうので、低い次元で妥協してしまって、その対策は後手後手に回ってしまった感はあります。

動労は、松崎委員長の号令一下、出向などにも積極的に順応

実は、動労は昭和57年のダイヤ改正の際に当局と合理化に関しては受け入れる方向で動き出したとされています。

実は、この辺は千葉動労の機関紙が暴露してくれていますので、容易に確認することが出来ます。

以下は、日刊千葉動労の記事からの内容を抜粋したものです。

前略・・・
ところが、この国鉄労働者の壮大な決起が始まるやいなや、動労「本部」革マルは、11月4日の段階で早々と当局提案のダイ改ダイヤ改正)合理化を全面的に受け入れるという大裏切りに走ったのである。

と書かれています。

国労は、総評とも連携して、57年のダイヤ改正をボイコットしようとしていたとされています。

それに対して、今まで歩調を合わせて、進んできたもしくは、その先頭になって闘ってきた動労があっさりと反旗を翻したということで、この頃から千葉動労動労の亀裂は鮮明なものとなっていきました。

以下は画像の一部をキャプチャしたものです。

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千葉動労 日刊千葉の記事から

動労の裏切りの証拠としてアップされた、協定書の内容

動労の裏切りの証拠として、昭和55年と昭和57年の協定書のキャプチャ

昭和55年の協定書では、地方機関との交渉を含めて足並みを揃えた事に対し、昭和57年には早々と動労が当局と早々と決着したことをひどく非難している。

 記事の全文は下記にリンクを貼ってありますので参考にご覧ください。

参考:日刊千葉動労 11月23日号「57.11ダイ改闘争 動労革マル裏切りを暴露する 1」

国労は、いわゆる面子にこだわった?

国労のこうした、作業が行われたという事実は事実であったと言えましょう、実際に昭和61年に入ると、こうした単発で事業所ごとに置かれていたものは、「人材活用センター」という名称で一斉に設置されることとなりました。

業務の内容は、従前とさほど変わらず、架線や、古レール切って加工した文鎮などが主な作業であったようです。

他にも、それまで協力会社に委託をしていた業務を直営に戻すと言ったことが行われました。

廃車になった貨車などに残っているブレーキホースの部品などを外す、比較的単調な作業などに、ベテラン運転士などが充当されるといったこともありました。

もちろん、国労の記事で書かれているように

仙台鉄道管理局内5カ所の要員センターに〝営業開発グループ?を新設し、そこに郡山ターミナルの過員の一部を配属した。営業開発グループの仕事の内容は、渉外活動である。具体的には、チラシ、パンフレット類の配布、企画商品の取り次ぎと引き渡し、デパートなどでのPRコーナーでの取り次ぎと相談、各種調査資料の整備などが予定されていた。そのため、鉄道学園に特設営業開発科(セールス分科)が設置され、4泊5日の教育が実施され、職場でも4日間にわたって時間外に1~2時間の養成訓練が行われた。

こうした業務に就けた方は、ましな方であったと思われます。

最も、人と話すのが苦手と言った人の場合は、むしろ苦痛であったかも知れませんが、その辺の事情までは個々では見えてきません。

こうした中にあっても、国労と言う組織の中では、どこまでも当局との対決姿勢を崩さないという方向性を堅持しており、出向などにも応じている動労・鉄労と比べると、心情的にも「ごね得」ではない公正に努めようと言うことになれば、国労が書いているとおり、「公平に交番が回され、各種の要請なども行われているが、3カ月乗り組み4カ月予備の勤務となり、賃金上も減収となって生活不安が引きおこされている」となるのは仕方がないことではと考えてしまいます。

国鉄当局は余剰人員に関してどのような取り組みをしたか

国鉄当局は、余剰人員に関しては下記のような方策を10月から打ち出すとしてしていました。

  • 退職制度の拡充
  • 休職制度【退職前提・復職前提】
  • 派遣制度の拡充
  • 関連事業などの開発

特に、関連事業【日本テレコムなどはその典型的な例】の拡充などを図っていくとしています。ただし、関連事業に関しては、即効性が有るものではなく、時間をかけて育てていくものであることに変わりはありません。

こうした取り組みに対しても、国労組合員の雇用不安を与えるとして、積極的に受け入れることはせず、階級闘争の中で当局との対決姿勢を示すことになるのでした。

   

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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五 過員センターの設置と作業の実態

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├○ 過員センターでの作業実態 │
└───────────────┘

 すでに第三節で述べたように、59.2ダイヤ改正によって大量の過員がでた。貨物関係を中心に全国の職場で仕事がないまま「自習」をさせられている労働者、営業活動に活用される労働者、草むしり、ペンキ塗りなどの雑用に使われる労働者等など本来の職務を奪われ、慣れない作業に就かされ、国鉄労働者としての誇りを傷つけられた。過員の状況は地域により、系統によって様々であり、いくつかの事例をあげるに止めざるを得ない
 郡山貨物ターミナルはかつて東洋一のヤードといわれた。仕事がないため所定作業以外に「環境整備」といわれる根っこほり、除草、焼却炉の穴掘り、床や廊下みがきなどに使われ、あるいは「資料整備」といわれるメモ用紙作りのための紙きり作業もある。
このターミナルの過員は交渉の結果70人となった。過員は、仙台鉄道管理局内5カ所の要員センターに〝営業開発グループ?を新設し、そこに郡山ターミナルの過員の一部を配属した。営業開発グループの仕事の内容は、渉外活動である。具体的には、チラシ、パンフレット類の配布、企画商品の取り次ぎと引き渡し、デパートなどでのPRコーナーでの取り次ぎと相談、各種調査資料の整備などが予定されていた。そのため、鉄道学園に特設営業開発科(セールス分科)が設置され、4泊5日の教育が実施され、職場でも4日間にわたって時間外に1~2時間の養成訓練が行われた。
 長野鉄道管理局内の松本運転所では、研修関係の過員は91人の定員のうち54人である。過員は、定員とは別枠の機動グループにまとめられ、他系統からの転入者教育、技術力の深度化、登用試験合格者の実習見習い、雑作業などについているが、雑作業は当局側が1カ月分の作業量を確保できないため、大半の労働者が詰め所に入れられたまま仕事がない状態である。当局側の機動グループの労働者に対する態度は高圧的で、国労本部の調査を制止したり、その場でワッペン着用者の現認を行ったりした。
乗務員の場合、定員185人にたいし現在員256人いる。「公平に交番が回され、各種の要請なども行われているが、3カ月乗り組み4カ月予備の勤務となり、賃金上も減収となって生活不安が引きおこされている」状況であった。

続く


 

国鉄労働組合史詳細解説 117-2

今回も、国労の記事を底本として、解説を加えさせていただこうと思います。

生産性運動以降の国鉄では職場の荒廃が進む結果に

職場規律の確立とワッペン闘争について書かれていますが、昭和48年の動労新聞などを参照しますと、職場でワッペンをするのが民主化であるとする記述が見られます。
特に、学園でもワッペンを導入することで民主化が行われた・・・組合の意向が通る職場になったという意味だと思いますが。
利用者不在の考え方が、当たり前になってしまっている辺りに国鉄の病巣があったと言えそうです。
逆に言えば、そうした病巣を取り除こうとしたことに対し、国労は大きく反発したと言えそうです。

動力車新聞昭和48年7月4日号 関西学園民主化大きく前進

動力車新聞昭和48年7月4日号
上記の画像は、昭和48年7月4日発行の動力車新聞の記事からの抜粋ですが、この記事によりますと、関西鉄道学園でのワッペン着用を認めさせたと書かれおり、学園という教育機関にも労働運動が持ち込まれている異常な事態となっていたことが伺えます。
これを動労国労は学園の民主化として推進していたわけです。
そして、当局幹部は、生産性運動の中止以降は、国労に必要以上に権利を手渡すことで収拾を図る【いわゆる臭いものには蓋を】したことで、余計におかしな方向に流れることになりました。
国鉄の職場規律確立で、ワッペンの中止は喫緊の課題でした。
それが、国労が下記のように主張することにつながると思いますが、かなり強力にワッペン等に関しては厳しい処分などが行われています。
実は、JR発足後もこうした処分は行われていたようで、当初はJR東海が最初かと思ったのですが、以外とJR東日本が最初にワッペン着用者に対して、処分を発令しています。
こうした職場管理の具体的指示にもとづき全国の職場で、国労の下部組織と組合員の活動に対し多様な手法で介入がなされた。
 83年11月17日に長野鉄道学園で次のような事件が起きた。
学園当局は「学園内でのワッペンの着用は一切禁止している。10分間の猶予を与えるからワッペンをはずすことを考えろ。そうでないと職場に帰ってもらうことになる」と恫喝し、引き上げて行った。10分を数分過ぎて組合員が教務室へ行ったところ「入学式は終わった。帰って駅長の指示に従え」といい、帰る列車を指定するという、国労組合員への攻撃を仕掛けてきた。これは学園での例だが、職場では命令に従わない組合員に業務命令が乱発され、処分が強行されていた。
 
実際にこの時期、全国でフロント職員【出札・改札などの業務に就く駅員】を中心に、ワッペンの非着用、名札着用の指導が行われています。
マナーブックと呼ばれる小冊子が配布され、新入社員の研修で行われるようなことを、行わねばならないところに、国鉄のフロントサービスに対する病根がありました。
特に国鉄の分割民営化の方針は示されたとはいえ、法案が確定したわけではないので、まず国鉄自らが変わる姿勢をアピールしていこうというところが大きかったと言えます。

地方管理局では改善傾向が顕著だが、都市部などでは改善などが進まず

 
下記の資料は、「駅職員のフロントサービス教育についてから」という記事から引用したものです。
サンプルとしては48駅と少ないのと駅長による自己診断と言うことで、その判断基準が統一されていないきらいはありますが。当時を知るひとつの資料として価値はあると思います。
調査方法として、48駅を地域別に首都圏(千葉局、東京北局、東京南局、東京西局から20駅)、名古屋・関西圏として(名古屋局、大阪局、天王寺局から15駅)、地方中核都市として(札幌局、仙台局、新潟局、広島局、門司局から13駅)を選択しており、9月時点の着用率等を報告させたとなっています。
 
この記事で判断できることは、名札の着用率は上がったものの、ワッペンの非着用は改善は見込まれるものの、中々進んでいないと言ったところでしょうか。

国有鉄道 1984年6月号 駅職員のフロントサービス教育についてから、引用)

名札およびワッペン着用率 国有鉄道 昭和59年6月号

名札およびワッペン着用率

左 名札の着用率 右 ワッペンの着用率 1984年6月 国有鉄道記事から

左 名札の着用率  右 ワッペンの着用率
 これで見ますと名古屋・関西圏での名札の着用率が高く、かつワッペン非着用率も高くなっているのが確認できます。
ここで注目しているのは、ワッペンの非着用で、名古屋・関西圏でワッペン着用率100%の駅が2駅ほど有るわけですが、この時期に有ってワッペン着用率が100%と言う箇所も有り、組合の拠点が強いところではまだまだその辺が浸透してない部分もあると言えそうです。

ただ、確実に世間の目は更に厳しくなっていくのですが、国労自体がその辺をどこまで組合員レベルで危機感を共有できていたのかはいささか疑問です。

  

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

┌─────────────────┐
├○ 三 昇給差別問題への取り組み │
└─────────────────┘

続き
 
  リボン・ワッペンの着用状況の点検は第1回目の点検から項目に入っていた。84年4月の点検では新たに「氏名札の着用状況」「服装の整正状況」の項目が付け加えられ、当時の職員管理の手法を反映していた。国鉄当局は82年から83年にかけて運輸省の指導によって、マスコミの批判にさられていた「時間内入浴、ブラ日勤、突発休等の勤務の乱れ」の「是正」に取り組んだが、83年度の「是正課題」として「リボン、ワッペン、ビラ、看板、横断幕」の規制をあげ、「早急にその是正を期す」としていた。職場では、「外しなさい、外さないと処分ですよ」という業務命令が乱発されていた。
 A鉄道管理局のB駅では「昭和58年度重点実施項目」なる文書で、管理権確立のための実施項目を掲げていた。このB駅は、かつて千人を越える職員のいた国鉄内でも有数の大きな駅である。
この文書は次のような内容であった。
  「職場規律」
  (1)再点検項目
 ①ヤミ専従、?遅刻及び早退、
 ②異常時対応の適確な対応、
 ③組合との事前相談、
 ④昇職試験の組合関与、
 ⑤指定された場所以外に組合に漫然と使用されているような部屋の有無並びに組合掲示のチェック化、など17件。
  (2)管理権確立のために 
 ①勤務時間内の組合活動、
 ②パス等の不正使用(私鉄職員の国鉄利用黙認等)、
 ③差別(お茶、食事等)、管理権に対する介入排除、
 ④管理者及び上位職の下位職代務、
 ⑤管理者の意識改革、
 ⑥問題職員に対する管理強化、在来線教育担当助役の指定(転入者、新人教育対策)、
 ⑦総括助役の活動化、など16件。
  (3)今後の重点実施項目 
 ①部下職員との対話による建設的意見や要望等の対策(現協制度廃止に伴う職場管理の在り方等の関連において)、
 ②服装の整正(ネクタイ着用、サンダル禁止等)、
 ③ワッペン等の不要物の取り外し、
 ④氏名札の着用、
 ⑤部屋長制度の導入と職制に合った勤務体制の確立、など10件。
「収入の確保」および「合理化計画」は略(『国労闘争情報』14号)。

 こうした職場管理の具体的指示にもとづき全国の職場で、国労の下部組織と組合員の活動に対し多様な手法で介入がなされた。
 83年11月17日に長野鉄道学園で次のような事件が起きた。
学園当局は「学園内でのワッペンの着用は一切禁止している。10分間の猶予を与えるからワッペンをはずすことを考えろ。そうでないと職場に帰ってもらうことになる」と恫喝し、引き上げて行った。10分を数分過ぎて組合員が教務室へ行ったところ「入学式は終わった。帰って駅長の指示に従え」といい、帰る列車を指定するという、国労組合員への攻撃を仕掛けてきた。これは学園での例だが、職場では命令に従わない組合員に業務命令が乱発され、処分が強行されていた。
 国労は、ワッペン着用闘争を83年10月15日以降全国統一闘争として取り組み、85年5月31日まで続けた。一時中断後、「余剰人員調整策」の3項目に反対する7月闘争においてワッペン着用闘争を復活し、12月20日まで続けた。年があけて85年2月下旬からの「特退制度」の要求を実現する闘いにおいて、ワッペン着用、ネームプレート着用拒否が取り組まれ、5月27日に収拾した。
 ワッペン着用やネームプレート着用拒否をはじめとする職場闘争に対する処分の推移をみると、83年7月からの1年間に2926人、85年7月から85年6月までの1年間に3050人であった。ところが、85年5月以降実施したワッペン着用闘争のみの処分者は、戒告175人、訓告5万1103人、厳重注意7205人の合計5万8582人もの多数にのぼったのである。85年度の処分者の合計は15万8565人であり、スト権ストの時の処分者数に次ぐ大量処分がなされた。

続く

 

国鉄労働組合史詳細解説 117-1

今回も国労の労働運動史を底本として、国鉄当局の動きを見ていきたいと思います。

国労との労使協調路線と決別した当局

国労との労使協調と書くと違和感しか残りませんが、当時の国鉄当局は、国労幹部と職員局、動労と運転局が癒着と言えるような状況であり、車両に関しては動労の意見がかなり反映された車両が製造されていましたし、国労の幹部と職員局の幹部の癒着もありました。
この辺は、大野氏の国鉄を売った官僚たちにも出てきます。
そんな、国鉄の方向が大きく変わった潮目は、ブルトレ闇手当問題であり、昭和57年のブルトレ事故【いわゆる名古屋駅で、勤務前に飲酒し酩酊した状態の運転士がDD51形機関車を運転、客車に約20Km/hの速度で激突し、機関車客車双方を大破させたもので、この事故により寝台客車が廃車になっています。】でした。
 
と書かれているように、
当時の職員局長は、タカ派と言われた太田知行職員局長であり、名古屋駅事故を受けて国労に対して対決路線を明確化し、職員局の中で、国労に対して融和的な対応をしていた課長級(給与、職員、調査役)を更迭、更に労坦常務理事や、前職員局長の民鉄協会への出向など国労と近かった人間を片っ端から追い出していくこととなりました。
その流れの中で、兼職議院の廃止や、現場協議制の廃止などを打ち出していったのでした。
 

国労は「紛争対策委員会」でとりかわした労使確認を否定したと言うが

国労は、昇給の実施に関する協定の再締結に変えて、以下のような新しい条件を提案してきたことは既得権益の否定であると大きく反発しています。

国労は、期限切れとなる「昇給の実施に関する協定」の再締結を当局に申し入れていたが、83年6月16日に当局から新しい協定案を提示された。提案された内容は、マル生闘争収拾時に「紛争対策委員会」でとりかわした労使確認を否定したもので、〝信賞必罰?体制の構築による職場管理の強化をねらったものであった。

特に国労は下記の点を強調していますが

改変しようとしている点は、①地方交渉制度の廃止、②私傷病欠勤の特例として従来より5日間カットして「41日以上」としている、③協定3項8号(欠格条項)の適用基準について「勤務成績が特に良好でない者」の表現が「平素職員としての自覚に欠ける者、勤労意欲、勤務態度、知識、技能、適格性、協調性等、他に比して著しく遜色のある者をいう」と従来より表現を具体的にならべるように改めた。④4項(抜擢)の運用基準では、連続抜擢の歯止め表現を削除し、逆に不均衡是正資金は2%から1.5%に狭めようとしている、⑤回復昇給では、停職、減給7カ月以上の者を「4年間以上」、その他「3年間以上」とし、しかも経過期間中に欠格条項に該当した場合は、「経過期間を1年以上延長する」というものであった。

上記、は、国労が特に改悪であるとして挙げた内容となります。
ここで注目したいのは、マル生闘争収拾時に「紛争対策委員会」でとりかわした労使確認を否定、と言う点です。
元々国労が、労働運動の中で一番求めていたのは現場協議制でした。
国労は、昭和27年当時の下賜闘争(いわゆる休暇闘争)等を通じていく中で、現場での交渉権獲得が必要として、「職場に労働運動を」と言うスローガンを掲げてその実現に向けて運動していました。
そのきっかけを昭和42年12月の公労委の勧告でしんた。

最大限、既得権益を守りたい国労

国労としてはこの当時から、職場の既得権を守るためとしてこの運用を活用して行くとしていましたが、
その後生産性運動で、想定以上の果実を受け散ることとなり、これが上記の、①地方交渉制度の廃止、②私傷病欠勤の特例、③協定3項8号(欠格条項)の適用基準等の厳格化であり、鉄労からすれば当然の是正であると感じたであろうし、国労としてみればそれまでの既得権益が片っ端から外されていくという焦りがあったかと思います。
 
他にも国労
地方協定の廃止によって現場長の自由裁量権を拡大し、管理体制を強めることをねらっている。
と書かれていますが、これは国労が自らの労働運動の中で最も弱体化したいとしてきた部分であるから当然と言えば当然と言えるかも知れません。
 
実際、「国鉄労働組合の現場交渉権、その理論と闘い」には下記のように書かれています。

f:id:whitecat_kat:20200116233904j:plain

少し長いですが、引用してみたいと思います。
それぞれの現場に働く組合員の権利を守り利益を守るために必要な組織として作られた現場組織=分会は、その任務を果たすため、必然的に現場長等に対し団体交渉を求める。現場の組合員の不平、不満を解決し、固有の諸要求を実現し、使用者からする労働者の権利侵害をはねかえし、労働強化を排除して。労働者の権利と利益を守るためには、その現場組織とそれに対応する使用者--現場長との団体交渉が必要である。
としています。
現場単位で、労働者の権限を守れと言うことで、これ以外にも管理運営事項であっても労働者の権利に関わることであれば、交渉することができるという法理を導きだしており、こうしたことが現場での闇協定を結ぶ温床になったと思われます。
国労のこうした圧迫に対して、反発を試みますが、結果的には国労のこうした闘いは、徐々に狭められていくこととなりました。
 

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節八〇年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結

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├○ 三 昇給差別問題への取り組み │
└─────────────────┘
 
 国労は、期限切れとなる「昇給の実施に関する協定」の再締結を当局に申し入れていたが、83年6月16日に当局から新しい協定案を提示された。提案された内容は、マル生闘争収拾時に「紛争対策委員会」でとりかわした労使確認を否定したもので、〝信賞必罰?体制の構築による職場管理の強化をねらったものであった。
 改変しようとしている点は、①地方交渉制度の廃止、②私傷病欠勤の特例として従来より5日間カットして「41日以上」としている、③協定3項8号(欠格条項)の適用基準について「勤務成績が特に良好でない者」の表現が「平素職員としての自覚に欠ける者、勤労意欲、勤務態度、知識、技能、適格性、協調性等、他に比して著しく遜色のある者をいう」と従来より表現を具体的にならべるように改めた。④4項(抜擢)の運用基準では、連続抜擢の歯止め表現を削除し、逆に不均衡是正資金は2%から1.5%に狭めようとしている、⑤回復昇給では、停職、減給7カ月以上の者を「4年間以上」、その他「3年間以上」とし、しかも経過期間中に欠格条項に該当した場合は、「経過期間を1年以上延長する」というものであった。当局の提案を第二臨調第四部会報告にある緊急措置のなかに、職場規律の確立のための昇給昇格管理の厳正な運用、という指摘の具体化であった。
 国労は「昇給協定関係職場討議資料」を出して、当局案にたいする詳しい反論をおこなった。概略は次のとおり。
  「地方協定の廃止について、当局の廃止理由は「中央協定は昇給に関する基本的な考え方、細部事情についてもおりこんだものとなっており、とくに地方協定を結ぶ必要はない」というものだ。今日の国鉄労使関係の状況のもとであいまいな基準で「管理者の判断」による昇給が行われた場合、公正な昇給は絶対に保障されないだろう。当局は「昇給が企業に対する貢献度(勤務成績)にもとづく査定を柱としたものであることは、民間企業をみても当然のことである」という考え方である。これに対し国労は、年功賃金体系のもとで定期昇給制度はその基本をなすものであり、「勤続1年1歳分に見合う賃金水準の維持分である」と反論した。そして、「昇給はまぎれもなく賃金であり、公労法にいう団交事項であることは、いまさらいうまでもない。
 昇給の実際が地方でおこなわれている以上、地方協議のルールは不可欠なのである」と主張した。
 次の問題は3項8号(欠格条項)の改定である。当局提案のねらいが、昇給欠格条項の「基準」を拡大解釈の可能な表現に変え、適用枠を拡大しようとするものである。さらに3項8号の減号数を一号俸に限定せず、「一号俸以上」とし、必罰体制を強化しようというものである。第3に、地方協定の廃止によって現場長の自由裁量権を拡大し、管理体制を強めることをねらっている。
 抜擢昇給についての当局案は、連続抜擢の制限を削除したものである。つづく当局提案の問題点は、回復昇給ルールについてである。当局案は、いかなる基準で「勤務状況が良好でない者」の判断をするのかは不明にしたまま、管理者の一方的な判断よって決定される方式であり、回復の見込みのない者がでてくることは間違いない。これは国鉄の職場管理の強化手段にほかならない。」
 昇給協定の交渉は回を重ねたが難航を続け、8月10日の団体交渉で、国労は、公労委へ斡旋申請を行うことを通告し、斡旋事項を①地方交渉制度の存続、②回復昇給制度の2点にしぼって申請した。公労委の斡旋作業は、9月9日から10日にかけて続けられたが、当局側が自らの主張に固執した。このため公労委は「これ以上作業を進めることは困難。当事者間で改めて自主的解決のための努力を」との見解を労使双方に示し、作業を打ち切った。
国鉄当局は再交渉を進めるうち「11月6日中に当局案で妥結」を国労に迫ったが、合意に至らず継続協議となった。その一方で鉄労、動労、全施労とは先行妥結しており、そのため今後、差別昇給の実施も予測される事態となった。 
 その後も交渉が続けられたが、これ以上続けても事態の打開は困難とみて、国労は11月28日に公労委へ仲裁申請を行った。
その結果、12月10日、仲裁裁定が提示された。主文では「昇給協定における地方協定制度及び回復昇給に関しては、本年6月16日付け当局提案の協定案によること。なお、昇給の実施については、当局は地方対応機関において説明し、組合はこれについて意見を述べるなど、相互の理解に努めること」となっていた。
この裁定について国労は、国労の主張が不十分ながらも受けとめられた」と評価し、裁定提示後ただちに団体交渉を再開始し、昇給協定を締結した。
 この昇給協定にもとづいて実施された83年度昇給についての全分会対象の実態調査によると、国労組合員にたいする大量の差別昇給の実態が明らかとなった。加えて、84年度昇給の結果も、差別昇給の拡大されている報告が数多く寄せられていた。このため、こういった「不当差別に反対する闘いを継続的に進めなければならない。苦情処理機関の積極的活用による不当差別昇給の撤回、現場長に対する抗議交渉、団体交渉による当局の不当性の追及、あるいは必要により公労委の活用などを通して闘っていくことにする」(「1984年度運動方針」)との方針を決定したのである。 

続く

国鉄労働組合史詳細解説 116

今回も、国鉄労働組合の記事を底本に解説を加えていく形で進めさせていただきます。

国労の記述によりますと、国鉄再建監理委員会が昭和58年8月2日に、第一次緊急提言を行い、その提言では、職員管理の強化等が提言されたと書いています。

再建監理委員会の緊急提言と国労

そこで、第一次緊急提言の全容を知らないことには、どの様な内容であったのか検討のしようもないかと思いますので、少し調べて見たところ、幸い、国鉄の部内紙「国有鉄道の記事がありました。

提言の骨子は以下の通りでした。

  • 経営管理の適正化
  • 事業分野の整理
  • 営業収支の改善及び債務増大の抑制

であり、国労が注視したのは、経営管理の適正化と、これに関連する労務管理の強化であったわけで、

国労の本文を参照しますと、第一次の緊急提言では、職員管理の強化などが謳われているとして、下記のように指摘しています。

職員管理の強化が強調され、「企業性の欠如した体質からの脱却」のための国鉄当局の職員教育の充実と「職場規律の確立」について「現在行われている措置を着実に推進するとともに、幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである」と述べていた。

実際にどの様な内容であったのかを知るために、国有鉄道1983年9月号に記事を参照しますと下記のような内容が書かれていました。

職場規律の確立に関する章

3. 職場規律の確立職場規律は,およそ組織体が円滑に運営されていくための基盤であり,そとに乱れがあるという状態では,国鉄事業の再建は到底おぼつかない。よって,職場規律の確立については,現在行われている措置を着実に推進するとともに,幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである。

としています。

国労としては、昭和57年の太田労政から始まった、職場管理の強化に対しての反発心がありましたから、ここに来て監理委員会も職場規律の確立を謳ったことで、危機感を出したのではないかと考えられています。

 国労では、"恐怖政治の再現"としているが

国労の記述を参照しますと、下記のように、国労都当局はかってのような対立をせざるを得ないとしています。
逆説的に言えば、当局と国労の蜜月時代が終わりを迎えたと言うことを国労が認めているとも言えます。

実際、国鉄幹部が蜜月の終了を宣言したことに対して、国労幹部が土下座した(まぁ、多少の誇張はあるかと思いますが)なんて記述を見た記憶がありますが、少なくとも生産性運動中止以降の、国鉄当局と国労幹部のなれ合いの時代は終わったことが理解できます。

国鉄当局が国労敵視政策を強め、処分権の乱用が各地で起きていることが報告された。「昨年12月だけでねらい打ちに四人が解雇処分されていることや、分会機関を認めない局や現場管理者、団交経緯の全面白紙化などが各地で発生し、組合員が〝恐怖政治?下にある」との実態が明らかにされた。これについて「この現象は一部地方のものではない」と意思統一し、「これまで地方によっては柔軟な対応をしてきたことをやめ、『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と全地本が対決姿勢を強化する方針を固めた」

と記述していますが、ここで国労が言う30年以上前の対決というのは、どの様なものだったのでしょうか。

時期的には、昭和27年頃以降と言うことになりそうです。

この頃の労使関係を、弊サイトから再び拾ってみたいと思います。

以下、昭和27年の国労関連記事だけを抜粋

国鉄労組は、戦術会議で、座り込み、賜暇戦術等の実力行使を背景に強い交渉をはじめるよう全国に指令 5/30

国労、夏季手当てを要求し総裁室前で座り込み。東京地本は超過・休日勤務協定更新も拒否 6/4
国労革同派(国労内の共産党系組織)中心に新中央闘争本部成立 8/1→国労分割の伏線となる。
仲裁委員会 国鉄仲裁裁定提示 8/13

国鉄職員の賃金改訂問題を検討中の仲裁委員会は、基本給は8月以降平均月額を13,400円とすること、特別勤務手当、寒冷地手当.年末手当の3件はいずれも当事者間の団交により決めるべきことという裁定を提示した
これに関連しての記者会見でも、国鉄総裁は再び運賃問題をとりあげ、できるだけ運賃引上げはさけたいが、財源確保に他の方法がなけれぽ避けられないかも知れないと言う趣旨の発言を行い、国鉄の自主性を主張
国労は15日中闘委を間いて仲裁委員会の裁定を尊重することを決定 8/15


国労総選挙にそなえ「国鉄労働組合政治連盟」なる結社設置を決定 9/2
機労側委員欠席のまま開かれた中央交渉委員会で「地方交渉委員会には、機労側委員を加えない」と決定 9/


国鉄労組は仲裁裁定完全実施に向けた闘争のため、緊急指令を全国に通達、強力的な闘争を開始 11/7
国鉄労組、大蔵省に対して示威活動 11/8

補正予算の編成期に際会しているため、政府の予算編成を牽制すべく実施、これ以外にも国会その他関係箇所への陳情戦術展開し、団交開始に先だち予算を決定するのは、団交に一定の枠をはめるものであるとの主張をうったえた

 当時の国労は、それまでのGHQという重しがとれたことで、その活動は対立の構図を生みました。

更に注目すべきは、その際に共産党系都は距離を置きつつも、基本的な考え方には強調する共産党とは距離を置くが共闘は否定しないという国鉄労働組合革新同志会(革同)が誕生したことでした。

昭和30年代の労働運動は、階級闘争ということで、労働者の地位向上を目指すとしたものでした。

こうした、国労内での左派組織の増加は、国鉄当局との対立を生むこととなり、昭和32年の新潟闘争を招くこととなります。
新潟闘争の拠点となった新潟地本は、広島共々共産党が地本の幹部を占めていた拠点した。

この辺は、姉妹blog、日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】をご覧ください。

 

blackcat-kat.hateblo.jp

当時の国鉄労組の活動は、政治スト的なものよりも純粋に賃金闘争が中心となるのですが、国鉄本社(当時の名称では本庁)前への座り込みや、下賜休暇(いわゆる年休闘争)による業務の混乱などを招く戦術が行われていました。

その都度、そうした争議の責任者である幹部職員が解雇されるといった悪循環が起こっていました。

そこで、昭和57年当時の国鉄の話題から外れるのですが、国鉄当局と国労が激しく対立した時期の始まりは、昭和29年5月27日に国鉄当局が、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否したことから始まったと思われます。

 改めて昭和29年の国労対決の始まりを見ていただきます

大きく逸脱しますが、国労が『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と言う内容を知っていただこうと思います。

再び弊サイトから時系列でご覧いただこうと思います。

国労中央委員会を広島に開催、4月からの新貸金として17,000円要求を決定 1/20
賃銀増額要求に対し、国労側は、当事者間での相談による解決が困難であるとの判断により、中央調停委員会にその調停方を申請 3/27
国鉄労組、当局に対し。8千5百円の夏期手当の支給を申し入れ、翌日より団交に入る 5/13
国鉄当局、解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告 5/12
国労全国大会等開催 5/15~20

山形県上ノ山で、第十三回全国大会及び第三十六回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労では15日から山形県上の山で第13回定期大会を開催、処分三役の再選等を決定 5/20

国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告

夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた

国労、当局を非難 5/28

国鉄労組は声明を発し、解雇者が役員であるとして当局が団交拒否したことを受けて、国労が反発、通達取消を迫り、断乎闘うとして全国に闘争指令


国労、仲裁委員会に対し、団交開始命令の申請を行うかたわら、全国にわたり順法闘争による第一波攻撃を実施 6/1

国鉄当局は国労に対し組合が合法I的であることを前提として措置していた専従職員に対する賃金の支払等便宜供与の打切りを各地機関に通告すると同時に組合に対してその旨通告 6/6

国労、団交応諾を求めて3波にわたる実力行使 6/9~6/下旬

国労に仲裁委からの勧告 6/12
国労、波状的な攻撃を行うも効果無し 6/15

国労の申請に対して、地裁がそのあっせんに乗り出すにいたった 6/28

国労東京地裁に対し、国労交渉委員の地位保全の申請を行う 6/30

国労と当局ひとまず和解 7/7

東京地裁は、7/2、5,7,12日と五次にわたる和解あっせんに努め、7日の第四次あっせんでは、問題となっていた組合三役の取扱についての焦点をずらし、これをいちじるしく緩和した第三案を両当事者に提示し、当局側も納得して一先ずは和解の運びとなった

長崎国鉄総裁は「当面の労働関係について」という談話を発表。国鉄職員に対し暫定的な措置として国労との和解を受諾した経緯と夏期輸送に万全を期するよう要望 7/12
当局とのひとまず和解したことから、予備折衝が開始され、組合側はこの日から予定していた5割休暇戦術を一先ず延期、二七項目の要求を当局に要求 7/13
総裁談話として、組合側の猛省を促す予定であったが、一先ずは様子を見ることとし、談話発表は取りやめ 7/14

国労と当局、苦情処理、労働安全衛生委員会の了解事項調印 8/14

7月、東京地裁の和解あっ旋以来、暫定的に36条協定等の実質的なとりきめを行うなど、三役問題についての根本問題は一時棚上げという冷戦状態であるが、これまで活用停止のため至極不便となっていた、苦情処理と労働安全衛生両委員会の運用についての了解事項に調印し、業務執行上の実利をとることを選んだ

国労が解雇された専従職員を委員長に選んだことで国鉄当局の態度が硬化、国労を組合として認めないとして、24協定に基づく組合費の天引きなどを拒否するということが行われました。

国鉄があった時代、昭和29年から引用

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国鉄があった時代 JNR-era
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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 一 職場規律の確立攻撃

 1983年6月に発足した国鉄再建監理委員会は、発足後2カ月に満たない8月2日に第一次緊急提言を行った。そこにおいても職員管理の強化が強調され、「企業性の欠如した体質からの脱却」のための国鉄当局の職員教育の充実と「職場規律の確立」について「現在行われている措置を着実に推進するとともに、幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである」と述べていた。
 職場規律の確立攻撃が本格化したのは82年からであり、現場協議協定の改訂交渉が決裂し、無協約状態になったのは82年12月1日からであった。83年1月8日から3日間にわたって国労幹部学校が開かれたが、そのなかで国鉄当局が国労敵視政策を強め、処分権の乱用が各地で起きていることが報告された。「昨年12月だけでねらい打ちに四人が解雇処分されていることや、分会機関を認めない局や現場管理者、団交経緯の全面白紙化などが各地で発生し、組合員が〝恐怖政治?下にある」との実態が明らかにされた。これについて「この現象は一部地方のものではない」と意思統一し、「これまで地方によっては柔軟な対応をしてきたことをやめ、『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と全地本が対決姿勢を強化する方針を固めた」。

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├○ リボン、ワッペン着用禁止とネーム・プレート着用強制 │
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 前述したように、自民党国鉄再建小委員会(三塚委員会)が82年7月に「国鉄再建のための方策」を発表した。そこに示された方向は、管理経営権の回復と職場規律の確立なしには、いかなる施策も画餅に過ぎないことを強調すると同時に、三塚委員会の再建方向は、「経営改善計画」とあわせて具体化を実施し、原稿経営体制のままで再建が可能な場合に87年度を目途に国鉄の分割・民営化を図るという、いわゆる民営化「出口論」であり・国鉄首脳にとっての拠り所であった。このため国鉄首脳は合理化と職場規律の確立に邁進したのであった。
 国鉄当局は運輸大臣の指示により、職場規律の確立をはかるため1982年3月に第一次職場総点検を実施し、以後1985年12月の第8次職場総点検まで8回にわたって実施した。点検内容は、回を重ねるごとにその時々の国鉄職場の状況を反映した調査項目に変化していた。第1回目の点検のかなりの部分が現場協議制の実態把握におかれていたのに対し、84年4月の点検項目は「増収活動」「提案学習グループ」「職場内教育」など、職員管理がどの程度、どのように徹底されているかというような現場管理者の管理能力も測られる内容に変わった。

続く