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国鉄労働組合史詳細解説 125

 久々に更新させていただきます。
本日から久々に、国労の資料を底本として、解説を加えさせていただこうと思います。

はじめに

今回は、国労がローカル線廃止を唱える中で、国鉄当局は幹線鉄道以外のローカル線(輸送密度4000人未満の路線)を全て、国鉄が出資する株式会社に移管して地域毎の運営を図るとして、臨調に対する対案として示してきました。
特定地方交通線にみられた、第三セクターにより近いものになっていたかもしれませんが、各路線毎に運賃も異なる路線が生まれていたりしていたかもしれません、さすがにその案に対して、再建監理委員会も、極論すぎるとして拒否しています。
国鉄と言う組織を考えるとき、常に極端から極端に走るきらいが有り、その傾向は国鉄末期まで変わる事はなかったように思えます。
収支均衡を目指せというのなら、赤字が減らないローカル線は、さっさと切り離して、廃止などしやすいように子会社化してしまおうという発想であったと受け取れます。
生産性運動の時もそうですが、国会でそして、マスコミで追求されると、見直しではなく、中止したうえ、労働組合の良いなりに条件をのんでしまって、その結果職場の荒廃と貨物輸送の荷主を失うという、大きなミスを犯してしまうのですが、生産性運動の時も、「不当労働行為が一部の管理者で行われていたことは認めるが、是正すべき所は是正して、組合とも話し合い、正すべきところは正すと」として、生産性運動を続けていたならば、その後の国鉄の姿も変わっていたかと思われますが、結果的には、上層部は国労幹部と国鉄当局幹部の癒着、現場レベルでは、階級闘争による職制(助役など中間管理職を中心とした管理者)への吊し上げが常態的に行われるようになり、結果的にさらなる赤字の増大と税金の投入という結果を招いたわけで有り、そうした結果もあるので、当局が一斉にローカル線は「国鉄直営から切り離す」という発言に対して、牽制をかけたわけで。
それに対して、国労が一定の評価をしているのは皮肉と言えるでしょう。
 

臨調の基本答申に対案を提示する国鉄

国鉄では、臨調の分割民営化に対抗すべく、国鉄としては、幹線系は国鉄自らが運営することとし、特定地方交通線として選定した以外の路線にあっては、国鉄が全額出資する新会社を設立するとして、下記のように発言しています。

 

地方交通線問題については,第3次までの特定地交線については,61年末までに第3セクターなりバスなりに転換し,その他については,分離し株式会社にして効率を上げていこうと考えています。幹線プラス20線位の地交線は直営としますが,それ以外の70線位の地交線は国鉄の出資による株式会社にしたいと考えています。

国有鉄道 1985年2月号 「経営改革のための基本方策」 の表明にあたって、から引用

これによりますと、特定地方交通線の選定に当たっては、下記のような基準が設けられていました。

上記の条件に当てはまる路線は、バス転換等を中心に転換が進み廃止されていきましたが、これ以外の路線にあっては、国鉄は経営から分離して国鉄が全額出資による株式会社として運営したいとしていました。
それが、下記の一覧表になります。
下表では、岡多線(第3次特定地方交通線)、それとここでは出ていませんが、伊勢線(第2次特定地方交通線)が廃止対象となってしまい、国鉄第三セクター鉄道の設立を依頼したと言われています。

国鉄案で上がった、ローカル線分離案の路線一覧

国鉄が試算した特定地方交通線以外の路線の計画

85年1月10日に国鉄独自再建案として「経営改革のための基本方策
」が発表されたが、そこでの地方交通線対策として次のような新方針を打ち出したのである。すなわち、今後86年度末までに「すべての特定地方交通線の転換をめざして取り組むとともに特定地方交通線以外の存続地方交通線について、より効率化を図るため89年度末までに、個別に国鉄全額出資による株式会社を設立し、それぞれの経営理念のもと地域の実情に適合した運営を行うこととする。その際、線区の性格、輸送実績等を考慮して20線区は当面直営とし、残る70線区を株式会社とする」としたこの案を批判した監理委員会は、赤字地方交通線の一律切り捨ては知恵がない、と述べた。この見解はそれまでの監理委員会の提言内容とは異なり、何らかの形で地方交通線国鉄に残すことを示唆していた。

 

国労は、国鉄地方交通線の殆どを切り捨てるとしていたのに対して、再建監理委員会が、ローカル線を全て切り離すのは無理があるとして、国鉄に残すことを示唆したことを評価しています。
実際にJR西日本芸備線や、JR九州指宿枕崎線なども、当時から比べると大幅に旅客数が減少しているわけで、そうした意味ではJR各社は、路線網を維持していると言えます。
 

国鉄は、特定地方交通線以外の地方交通線を子会社化すると提案

国鉄は、特定地方交通線以外の地方交通線を子会社化すると提案

国労はローカル線廃止反対の運動を展開

国労は、ローカル線の廃止は当然のことながら組合員の減少を招くことから強く反対の立場を貫いており、地域の足を守れということで、組合は、下記のように「協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。」としています。

以下は、個人的な見解ですが、国労のこうした運動方針をみていますと、国民のためと言いながらも、どこまでも保身と言いますか、組織温存のための廃止反対運動というようにも取れます。

協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。・・・というのも、その合理性が説明できないと難しいと思うわけです。
協議会を設置しないとしても、最終的には、一方的廃止に追いやられることになると思うんですが。

 

第二次特定地方交通線の廃止は82年11月に運輸大臣へ承認申請を行ったが、第二次特定地方交通線の闘いについて、国労は83年度の運動方針で次のように決定した。
① 第二次廃止予定線の闘いは、第一次予定線での闘いの教を基礎にし、第一次と第二次の結合した闘いを組織する。
② 知事の意見書は第一次の場合軽視されたので、これを出させないよう全力をあげる。
③ 協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。
④ 地方線廃止反対の闘いは、臨調答申にその基本があることを確認し、組織活動、教宣活動を強化する。
⑤ 第二次廃止予定宣伝の関係自治体の反対意見書のとりつけを『分割・民営化』反対の意見書とセットにして進める。
⑥ 総評が提起している1万カ所対話集会との結合をはかるとともに、随時対話集会、セミナーなどの開催を積極的に進める。
⑦ 国会請願、抗議行動など闘いの節々で中央行動を展開する。

国労の運動は、地域にどのように映っていたのか?

実際、地域の反対運動を続けるグループからも、

「地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。」

国労の運動方針のなかで、国労の地域闘争の問題点として書かれていますが、実際国労の中でも、地域との共闘をと言いながらも、国鉄の中だけの闘争に小さくまとまってしまっているというか、国鉄という組織が、外部との接触を殆ど断ってもやっていける自前の組織だったことも、その辺の連携が上手くいかなかった原因ではないかと思われます。

以下、引用します。

85年度の国労の運動方針は、国労の地域闘争の問題点として、次のような指摘をしていた。
  「地域との共闘と国労の職場の闘いが正しく結合されていない 面がある。地域共闘依存型か企業内 だけの運動型か、いずれかに偏向し、地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。地域住民や利用者と国鉄労働者の要求の統一についての取り組みが不十分なことから、合理化反対闘争と国鉄の民主的再建闘争がかたく結びあってすすめられない。そこには、企業主義が根強く残っている」

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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第五節 国鉄の独自再建案と
     地方本部交通線廃止反対闘争一 国鉄の経営改善計画の修正
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┌─────────────────────────────┐
├○ 三 地方交通線の廃止計画と廃止反対闘争│
└─────────────────────────────┘
 
特定地方交通線の廃止 
  
全国各地の地方交通線国鉄経営から分離されていった時期は、第二臨調が発足し、国鉄改革の方向を定めていった時と重なっていた。第二臨調の基本答申の国鉄改革の方向は、国鉄が経営するのは鉄道特性の発揮できる分野に特化すべきだということであるから、地方交通線の廃止は促進する方針であった。さらに、国鉄再建監理委員会の第一次緊急提言(83年8月2日)および第二次緊急提言(84年8月10日)のいずれも、地方交通線国鉄経営から分離し、バス転換、第三セクター転換、私鉄への譲渡の早期実施を強調していた。国鉄の「経営改善計画の変更」についての監理委員会の意見も、予定どおりの地方交通線対策の実行を求めていた。
 こうしたなかで、特定地方交通線の廃止反対運動もあって、地元との協議は最初の1、2年はバス転換等がすすまなかったが、84年、85年になって急速に協議が整い、バス転換または第三セクター転換等が決定しいった。85年7月末現在で転換を完了した線は30線530.5キロであり、転換の方向づけを決定した線は7線137線キロとなった。
 ところが、85年1月10日に国鉄独自再建案として「経営改革のための基本方策
」が発表されたが、そこでの地方交通線対策として次のような新方針を打ち出したのである。すなわち、今後86年度末までに「すべての特定地方交通線の転換をめざして取り組むとともに特定地方交通線以外の存続地方交通線について、より効率化を図るため89年度末までに、個別に国鉄全額出資による株式会社を設立し、それぞれの経営理念のもと地域の実情に適合した運営を行うこととする。その際、線区の性格、輸送実績等を考慮して20線区は当面直営とし、残る70線区を株式会社とする」とした。この案を批判した監理委員会は、赤字地方交通線の一律切り捨ては知恵がない、と述べた。この見解はそれまでの監理委員会の提言内容とは異なり、何らかの形で地方交通線国鉄に残すことを示唆していた。
 第二次特定地方交通線の廃止は82年11月に運輸大臣へ承認申請を行ったが、第二次特定地方交通線の闘いについて、国労は83年度の運動方針で次のように決定した。
① 第二次廃止予定線の闘いは、第一次予定線での闘いの教を基礎にし、第一次と第二次の結合した闘いを組織する。
② 知事の意見書は第一次の場合軽視されたので、これを出させないよう全力をあげる。
③ 協議会設置を徹底的に返上させるよう自治体に要請する。
④ 地方線廃止反対の闘いは、臨調答申にその基本があることを確認し、組織活動、教宣活動を強化する。
⑤ 第二次廃止予定宣伝の関係自治体の反対意見書のとりつけを『分割・民営化』反対の意見書とセットにして進める。
⑥ 総評が提起している1万カ所対話集会との結合をはかるとともに、随時対話集会、セミナーなどの開催を積極的に進める。
⑦ 国会請願、抗議行動など闘いの節々で中央行動を展開する。
 国労は84年4月3日、「国民のための国鉄を再建する全国交流集会」を開いており、集会では運賃値上げ反対、地方交通線廃止反対、国鉄分割・民営化反対を掲げていた。集会には、特定地方交通線の第一次、第二次廃止対象線区で闘っている代表を中心に200人が参加した。交流会では、廃止線区に選定されて以来の闘いの経験が報告された。
 木原線の代表は、「乗車運動で地方協議会は三度目の協議中断に入っている。しかし当局は、第三セクター・バス転換への計画を進めており、楽観できない。幅広い参加で問題の本質をストレートに言えないこともあり、社・共など政党の独自宣伝が必要だ」と問題提起した。倉吉線の代表は、「乗車運動のできない線区もある。守る会会長に市長を置くなど自治体との連携が重要だ。白糠線など既成事実が作られると、あきらめも出てくる。二次線を遅らせるためにも一次線はがんばるべきだ」と強調した。あるいは、「地域の教育路線と位置付け運動を強化したい」と決意を述べる代表もいた。このほか、「バス転換を決められたが、これまでの運動は住民中心の訴えだったため国鉄・政府の本質を暴露しきれなかった」(高砂線)との反省も出された。
 すでに述べたように、国鉄当局は82年11月に「第二次特定地方交通線」の廃止申請を運輸省に提出した。運輸省は関係17道県知事に意見書の提出を求めていた。各道県は第一次の時に無視された経緯があるため、意見書の提出に反対の姿勢を堅持していた。しかし、政治的圧力によって5月27日の福岡県を最後に、全関係知事が意見書を提出するに至った。運輸省は意見書にもとづき現地調査と自治体等からのヒヤリングを6月上旬に終え、22日に承認保留の6線区(岩泉線名松線天北線、名寄線、池北線、標津線)を除き、廃止を承認した。
 また、第一次特定地方交通線のうち輸送密度が2000人を越えていた木原線、若桜線信楽線三線60.9キロは協議を中断していたが、86年7月末現在、この三線と角館線以外の第一次特定地方交通線はすべてバス、第三セクター、地方鉄道への転換が完了した(角館線は86年11月1日に第三セクターに転換した)。
 国労の84年度運動方針には真岡線などで実施された「費用・便益計算」の調査結果をもとに、廃止基準の見直し要求を進めるという新しい方針が盛り込まれていた。しかし、この時期は国労に対する攻撃が激しさを増し、地域での取り組みに十分な力を発揮できなかったことも確かである。第二次特定地方交通線の協議会開催について、頑強に開催反対を貫いてきた北海道も協議会発足を余儀なくされた線区が幾つか出た。
 85年度の国労の運動方針は、国労の地域闘争の問題点として、次のような指摘をしていた。
  「地域との共闘と国労の職場の闘いが正しく結合されていない 面がある。地域共闘依存型か企業内 だけの運動型か、いずれかに偏向し、地域共闘の仲間から〝国労は何をするのか、何をしてくれるのか?という疑問も出されている。地域住民や利用者と国鉄労働者の要求の統一についての取り組みが不十分なことから、合理化反対闘争と国鉄の民主的再建闘争がかたく結びあってすすめられない。そこには、企業主義が根強く残っている」。
 国鉄は、第三次特定地方交通線廃止については、12線338.9キロを選定し、86年4月7日運輸大臣に承認申請を行った。 

続く

国鉄労働組合史詳細解説 124-2

引き続き、職場規律の確立などに踏み込んだ、小委員会の第2部をアップしたいと思います。

当時の様子をご覧いただければと思います。

ここで注目すべきは、当時の自民党の考え方は、必ずしも分割民営化が答えだと思っていない点だと言えます。

「分割、民営論は出口論であるべき、最初に分割民営ありきという臨調側の議論は入口論だ。」

この発言は大いに注目すべきだといえますね。

国鉄再建に関する小委員会」の開催日とその内容

 

  • 第20回 4月13日(火)委員長から審議に基づく私案が提示され、若干の字句修正の上で承認。
  • 4月16日(金)「管理経営権及び職場規律確立に関する報告」との標題を冠し、交通部会・国鉄基本問題調査会合同会議および政調審議会の承認を経て同日総務会において自由民主党の党議として決定
    4月17日(土)田中竜男総務会長から運輸大臣国鉄総裁に手渡された。
  • 第21回4月20日(火)国鉄財政問題というテーマで
    1. 財政状況の推移
    2. 損失の分析
    3. 長期債務と累積赤字
    4. 地方交通線収支と島別収支
    5. 貨物赤字と貨物合理化
    6. 退職金・年金の推移
    7. 利子の推移、投資の推移
      等について審議
  • 第22回4月22日(木)国鉄自民党小委員会に対し、運賃改定の経緯、運賃制度の現状と今後の方向、資産処分の実績と今後の計画について説明。委員からは「毎年運賃値上げは問題だ、土地についても赤字だから売ればいいは困る、地域社会との調和も考えるべきだJ等の意見がある
  • 第23回4月27日(火)国鉄年金問題を審議。また、3月5日付通達に基づく総点検結果について国鉄から報告
  • 第24回4月28日(水)  国鉄の経営形態について自由討議
    大部分の委員の意見は「分割、民営論は出口論であるべき、最初に分割民営ありきという臨調側の議論は入口論だ。都市の立場からのアプローチでなく日本の国土の中での鉄道のあるべき姿の議論が前提にあるべきだ」という考えであった
  • 第25回5月7日(金)三塚委員長から5月1日に行なわれた臨調との意見交換の報告、続いて貨物問題および自動車、船舶問題について審議
  • 第26回5月11日(火)投資および過去債務について審議
  • 第27回5月13日(木)歴代運輸大臣国鉄基本問題調査会長会議とし、臨調から加藤寛第4部会長他を招き部会報告の骨子(項目〉を聴取、質疑の後、大臣、会長経験者のみによる討議を実施。
  • 第28回5月14日(金)鉄道病院および工場について審議。
    以後は、財政経営論の小委員会案作成ならびに、現場調査等をすることを表明
  • 第29回5月18日(火)前日の臨調各部会の報告発表を受け、臨調佐々木次長から部会報告の概要を聴取並びに質疑。
  • 5月20日(木)小委員会、中央鉄道病院および大宮工場視察
  • 6月1日(火)吹田操車場および京都自動車営業所大阪支所を視察
  • 第30回6月18日(金)前段として総点検結果報告以後の状況説明を国鉄から受ける。各委員から是正状況が十分でないとして、厳しい指摘が相次ぐ
  • 第31回6月25日(金)これまでの審議をふまえた「国鉄再建のための方策」が成文化、了承された事を受け、小委員会から交通部会・国鉄基本問題調査会合同会議に切りかえ、承認手続がとられた、小委員会は第2部ともいうべき財政、経営問題に討議を移すことに。

従来の再建論と一線を画す小委員会

今回の小委員会で注目されるべきところは、分割民営化ありきではないという点と、職場規律の確立を前面に打ち出した点が大きいと言えます。

その点が、従来の財政上の問題点だけに絞っていた今までの改革と大きく異なるところでした。
いわゆる、財政再建論ですと、収支均衡を図りますとそろばん勘定だけで、実際はダメでしたでずるずるときていたことであり、後の改革三人組と呼ばれた、井出・松田・葛西の国鉄幹部3名と三塚博議員とが、つながっていた点が大きいわけで、従来の再建はとかく一線を画すものであったことが理解していただけると思います。

 

次回は、他の政党の動きを見ていきたいと思います。

 

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国鉄労働組合史詳細解説 124

今回も、国労の資料ではなく、国有鉄道(国鉄の部内誌)から「自民党国鉄再建に関する小委員会」の設置について」昭和57年10月号から当時の国鉄並びに自民党の動きをご覧いただこうと思います。

臨調と国鉄の経営計画

国鉄の改善計画は、昭和56年5月に策定され10ヶ月ほどしか経ていないにもかかわらず、新たに「国鉄再建に関する小委員会」という小委員会を開催する事になったのでしょうか?その経緯は?ということで書かせていただきました。
それは、前年の大蔵省に対する助成金を減額する動きに対する牽制として、国鉄が本気で改革を進めていることを示さなくてはならないとして、設けられたもので、「国鉄の労使関係の改善は最大の課題である」として下記のように国鉄幹部に発言しています。

その辺を引用してみたいと思います。

予算編成もほぼ形がついた頃,交通関係議員と運輸省国鉄幹部との会議の席上,三塚交通部会長から国鉄幹部に対しとくに次のような発言があったことは,この間の事情を物語る。「56年度の経営改善は明確にやってもらいたい。これは大蔵省とのやりとりの最大の問題だった。大蔵省が助成の大幅切りこみを要求したのに対し『結果批判を受けるが計画を現在遂行中であり年度内には必ずやらせる』といってある。われわれも危機感をもって対応している。これは命運をかけたポイントである。56年1万2000人削減は必ずやってほしい。交通関係議員を代表してこれだけは強く要請しておきたい」このような情勢を背景に、国鉄の合理化を担保し、国鉄労使の態度が国民に受け入れられるようにするためには,その最大の障害と考えられる労使関係に徹底的にメスを入れ,実態に即した改善が必要と考えられた。

国有鉄道 昭和57年10月号

自民党の動き

この辺は当時の国鉄を取り巻く環境の厳しさを伝えているかと思います。

更に、こうした発言を受けて、自民党では、政権与党として臨調に単純に同調するのではなく、正すべきところは正すとして、翌昭和57年2月2日「国鉄再建に関する小委員会」を設置して、積極的な聞き取り調査などを実施して行きますが、国鉄改革三人組*1を擁した三塚博が中心にいた事も大きかったと言えます。

三塚博は、「管理経営権及び職場規律確立に関する提言を昭和57年4月16日に自民党に報告、同報告は自民党内の総務会の決定を経て、運輸大臣ならびに国鉄総裁に伝達されています。

これにより、マスコミ等を通じて、国鉄の現場の実態が徐々に明らかとなりました、当時の職員局長は、鷹派と言われた太田知行氏であり。

氏としても、自身の権力奪取の目的もあったのか、この時期は比較的積極的に協力していますが、最終的には国体護持派(現状維持派)として、批判されることになります。

この辺は、志摩好達氏の「国鉄二つの大罪」の中で書かれた、「ミイラ取りがミイラになった太田労政」と言う章立てに部分に出てくる記事を思い起こすことが出来ますが、この辺は、本編と直接関係がありませんので、割愛させていただきます。
一応関連記事をアップしておりますので下記リンクも参考にしてみてください。

whitecat-kat.hatenablog.com

国鉄再建に関する小委員会」の開催日とその内容

引き続き、開催日とその内容の概略を、国有鉄道 昭和57年10月号を参照しながら書き出してみたいと思います。

  • 第1回 2月5日(金)設置の目的、運営方法等につき説明があり、
    1. 臨調と対立するものではなく、党としての責任で、国鉄問題に明確な方向付けを行な宇事を目的とする。
    2. 国鉄の問題は・財政問題・組織・経営権の問・職場規律の問題があり、検討を深めるとともに現場実態調査を行なう事を明言
  • 第2回  2月9日(火)マル生当時職員局能力開発課長だった大野光基氏を招き、マル生以後の国鉄の職場管理、労使関係について氏の見解を聞き質疑

    日本国有鉄道 労働運動史(別館) も併せてごらんください。

  • 第3回 2月12日 (金)スト権スト損害賠償請求訴訟(昭和51年2月14日 国鉄、スト権ストに伴う202億円の損害賠償を要求、国労・動労相手に東京地裁へ提訴 )について、今日までの経過と今後の方針について国鉄から聴取。
  • 第4回 2月16日 (火)マル生直後の現場管理者の状況を国鉄OB等3名を招き、その経験談を聴取、質疑等。
  • 第5回 2月19日(金)現場協議制度について国鉄から説明を受ける。
    現場協議が当初の趣旨に反して団体交渉の下請に化しており職場規律の乱れの原因になっていること、現場協議などの場でヤミ協定が結ぼれている事などが明らかになる。委員からは、当局は明確に無効宣言を出し、その上で現場協議協定は破棄すべきだとの主張
  • 第6回 2月23日(火)第2回、第4回に続き3名の国鉄OB等による体験談を聴取。
    主として昭和50年代に入ってから今日の現場実態が報告された。
  • 第7回 2月26日(金)国鉄から昭和56年度重点職場の実態について、職場の一覧、管理上の問題点等を説明。
    委員からは「マル生当時と比較して良くなったというげれど上層幹部のそういう判断は甘いのではないか」「一般会計から予算が出ている以上、世間の批判を受けるととのないような管理レベルに引きあげる必要がある」等の指摘があった。
  • 第8回 3月2日(火)鉄道労働組合からのヒヤリング
    国鉄再建問題について鉄労組合長、書記長他が見解を述べる。
  • 3月3日(水)全国の重点職場の全管理職員3,257名に対し小委員会としてのアンケートをそれぞれの自宅あて発送。また、第8回までの審議状況が「中間報告」としてまとめられ、三塚委員長から自民党の正規の機関である政調審議会に4日、総務会には5日に報告された。
    マスコミ等で次々と明るみにされる職場規律の乱れに関し、4日運輸大臣から国鉄総裁に対し総点検の指示、これを受げ5日、国鉄は総裁名で「職場規律の総点検および是正についてJの通達を発出。
  • 第9回 3月5日(金)前回まで宿題となっていた勤務、昇職、昇給等について国鉄が説明。
    委員からは、「現場は本気になるのか」「本当にウミは出るのか」「今回が国鉄を救う二度とないチャンスだ、」と言った厳しい意見が出された。
  • 第10回 3月9日(火)前回に続き宿題となっていた回復昇給、管理者の意識調査、議員兼職、再雇用、処分等について国鉄から説明。
    委員から国鉄側の説明は信用はおけないとして、明快な説明を委員長から特に要請された。議員兼職問題 *2でも「不承認」との意見が大勢を占めることに。
    参考:国鉄労働組合史詳細解説 78 - 日本国有鉄道 労働運動史
  • 第11回 3月12日(金)国鉄監査委員会の意見聴取が行われ、安居喜造監査委員長他5監査委員が出席、それぞれ所見を述べ、小委員会側の各委員からそれに対する意見、要望等が表明された。
  • 第12回 3月16日(火)冒頭、前日発生した名古屋駅構内列車衝突事故の説明が行なわれ、次いで委員から要求のあった56年度昇給、営業関係昇職経路、労働処分関係訴訟、専従職員、運転検査旅費問題等について説明が行われた。
    名古屋駅事故は総点検中の不祥事だけに委員の聞から厳しい指摘が相次いぐことに。
  • 3月18日(木)第1回の現場視察が抜打ち的に行なわれ。三塚委員長他4名の国会議員、自民党関係者、井上東京西局長ら国鉄関係者一行14名が8時30分、甲府駅を訪問、直ちに現場の詰所をつぶさに巡った後、駅長以下管理者と懇談。職場規律の乱れに各委員も駕きの表情をかくせず。大月保線区にも移動し、区長以下管理者と懇談。
    第一回目に、甲府駅を選択したのは、社会主義協会系が強い職場であると言う理由からでした。
  • 第13回3月19日(金)国会議員の中でとりわげ国鉄問題に造詣の深い細田吉蔵 *3国鉄基本問題調査会顧問から公社制度にまつわる諸問題をの提言を受ける、細田顧問からは政治の責任をとくに強調されることになった。
  • 第14回3月24日(水〕国鉄から総点検の経過報告、名古屋駅構内列車衝突事故、浜川崎・高島両駅の運転事故、深川保線区の改善状況等を説明。
    委員から、名古屋駅事故の厳重な処分を速やかにすべきであるとの指摘がなされた。
  • 3月25日(木)第2回の現場視察。今回は予告の上、東京3局の5現場を13名の委員が3班に分かれて視察
  • 第15回 3月26日(金)前日の現場視察結果が各班長から報告され、国鉄からは総点検の途中経過報告、各組合の春闘方針、職員教育等について説明がなされた。
  • 第16回 3月30日(火)国鉄労動組合、国鉄動力車労働組合から個別に意見を聴取。
  • 第17回 4月2日(金)全国の管理職員に発送しておいたアンケート結果が紹介され、職場実態の深刻さと管理職員の苦労が明らかに。国鉄からは、関連事業全般および八王子地区の不正乗車問題*4を説明。
  • 第18回 4月6日(火)国鉄から合理化の計画と実績、団体交渉の仕組み、乗車証等について説明。三塚委員長から、「はじめて合理化を先に決定し、しかも手当は前年度より下まわる率で妥結したことは、画期的なことであり管理経営権が明確に示された」との発言があった他「乗車証についても大胆な見直しを行うべしと」指摘があった。
  • 第19回 4月9日(金)主な指摘事項12項目について国鉄の考え方を改めて表明
    その項目は以下の通り
    1. 202億損害賠償訴訟・・・スト権ストの次の損害賠償を国労動労に対して起こした訴訟
    2. 現場協議制・・・・・・・現場の問題は現場でと言う方針から設置された現場協議制が、現場管理者のつるし上げの場になっている事への問題是正
    3. 信賞必罰・・・・・・・・処分の段落としなどの是正
    4. 労働処分
    5. 紛対覚書
    6. 年休管理、突発休等
    7. 昇給管理
    8. ヤミ協定等・・・・・・・現場協議の中で出てきた、ヤミ協定など
    9. 管理職問題・・・・・・・下位職代行等、管理職が本来の業務を行えていない問題
    10. 施設管理権および組休・・組合管理になっている点への是正
    11. 兼職議員問題・・・・・・市町村議員の兼職問題(既得権となっていた事への是正(給料とは別に、歳入を受けとる事への問題)
    12. 乗車証問題・・・・・・・赤字にかかわらず、全国一律の職員無料パスや、家族割引などの問題
    今回をもって第1部の検討会は一応の区切りとなる。
  • 第20回 4月13日(火)委員長から審議に基づく私案が提示され、自由討議の後。若干の字句修正の上で承認され。「管理経営権及び職場規律確立に関する報告」との標題を冠し、16日交通部会・国鉄基本問題調査会合同会議および政調審議会の承認を経て同日総務会において自由民主党の党議として決定され、翌17日、田中竜男総務会長から運輸大臣(鹿野政務次官が代理)と国鉄総裁に手渡された。

あくまでも国鉄の自主再建を期待した自民党

ここまでの経緯を見ていますと、自民党のこの小委員会での位置づけとしては、民営化ありきの臨調に最初から乗っかると言うよりも、荒廃した職場規律の確立とそれによる管理運営体制の確立を最優先に考えていたと言えます。

また、既得権(兼職議員問題・乗車証問題)等や、悪慣行(ヤミ協定等)に踏み込んだ検討がなされたことは、従前の再建計画と異なるところでした。

なお、甲府駅の詳細などは、他の資料からも参照できると思われますので、今後機会があれば追記するなどしていければと考えております。

 

次回は、職場規律の確立などに踏み込んだ、小委員会の第2部をアップしたいと思います。

 

 

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*1:国鉄改革の実質的な実働部隊として、活躍した松田昌二、井手正敬葛西敬之、敬称略

*2:国鉄職員が市町村議会議員を兼職する事を許可したもの

*3:(元鉄道省職員、その後運輸省に残り昭和35年退官、衆議院出馬)

*4:国労職員によるヤミ無料パス 3/26発覚

国鉄労働組合史詳細解説 123

気がつけば1ヶ月以上も更新できていませんでした。

申し訳ありませんでした。

さて、今回は国労の記事からと言うよりも、国鉄部内誌の国有鉄道の記事から引用したいと思います。

国有鉄道は、国鉄の幹部クラスおよび管理局などの要員向けの雑誌で、国鉄線が営業中心の内容であるのに対して、経理とか総務的な内容が多くなります。

監理委員会の答申は、国鉄当局にとっても大きな課題となった

昭和57年5月17日、臨時行政調査会第4部会報告が出され、国鉄の分割民営化の方向が出されたわけで、国鉄当局としてはなんとしても分割は避けたいという事になるわけですが、最初に臨時行政調査会第4部会答申までの流れを今一度振り返ってみたいと思います。

臨調は、昭和55年の鈴木首相の目玉政策として取り上げられたもので、三公社・特殊法人等の在り方について検討していく、第四部会は、昭和56年9月からスタートしたようで、56年9月30日総裁他関係常務より意見聴取からスタートしています。

以下時系列的に並べてみます。

  • 56年9月30日  総裁他関係常務より意見聴取
  • 56年10月19日  総裁他関係常務より意見聴取
    経営改善計画の達成の可能性や、経営改善計画の深度化、労使関係の抜本的改善等について意見交換がなされた
  • 56年11月9日角本良平氏より意見聴取

    管理体制確立のため9分割特殊法人等のを提言を受ける

  • 56年12月9日 大谷健氏(朝日新聞編集委員〕より意見聴取
    国鉄整備公団」を設置し、累積債務の一切を処理すること、国鉄を9つの地域に分割し民営化すべきであるとの提言を受ける
  • 56年12月9日 細田吉蔵氏(衆院議員〉より意見聴取
    地方交通線を分離、国鉄退職者を採用し民営化する、貨物は安全保障的見地から廃止すべきでない等との提言を受ける
  • 56年12月16日  関係組合より意見聴取
  • 56年12月18日竹田弘太郎氏(名古屋鉄道社長〉より意見聴取
    管理単位を分割し分権化をはかるべきであるとの提言を受ける
  • 57年1月27日菊地圧次郎氏(経団連・輸送委員会委員長)より意見聴取
    経営責任体制を明確にするためにも民営分割すべきであると提言を受ける

臨調を巡る各政党の動き

自民党の動き

臨調に関して、一歩頭が抜けていたのは、国鉄改革三人組*1を擁した三塚博でした。

三塚博は、「国鉄再建に関する小委員会」を昭和57年2月2日に設置して、積極的な聞き取り調査などを実施、「管理経営権及び職場規律確立に関する提言を昭和57年4月16日に自民党に報告、同報告は自民党内の総務会の決定を経て、運輸大臣ならびに国鉄総裁に伝達されています。

社会党の動き

国鉄対策特別委員会(北山愛郎委員長)を設置、昭和57年4月に

「現経営形態の維持、当事者能力の付与、経営委員会の設置、総合交通施設整備特別会計の創設等」

を骨子とする国鉄再建対策を中間報告を実施

公明党の動き

国鉄再建特別委員会(浅井美幸委員長)設置

民社党の動き

国鉄問題等調査特別委員会(中村正雄委員長)設置

共産党の動き

国鉄'問題対策委員会(小笠原貞子委員長)

と言った具合で、各政党でも独自の検討案などを掲げることとなりました。

各政党の委員会資料などは順次判明次第アップさせていただきます。

 

 

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*1:国鉄改革の実質的な実働部隊として、活躍した松田昌二、井手正敬葛西敬之、敬称略

国鉄労働組合史詳細解説 122

久々に更新させていただきます。

最初から民営化ありきではなかった国鉄改革

国鉄では、昭和55年の「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」により、国鉄は最後の再建計画と言うべき再建計画を策定することとなりました。

それまでは、どちらかというと数字合せに終始していた再建計画ですが、ここに来て、国鉄にこれ以上は待てないからと言うことでいわゆる詰め腹を切らせる、そんな状況であったと言えそうです。
この法令により、特定地方交通線と呼ばれたローカル線についてもメスが入れられることとなりました。

組合運動の話に入る前に、法令の条文を一部抜粋しましたのでご覧いただこうと思います。

瀬野八のEF59 画像は直接本文と関係ありません。

瀬野八にて

日本国有鉄道経営再建促進特別措置法

法律第百十一号(昭五五・一二・二七)

 (趣旨)

第一条 この法律は、我が国の交通体系における基幹的交通機関である日本国有鉄道の経営の現状にかんがみ、その経営の再建を促進するため執るべき特別措置を定めるものとする。

 (経営の再建の目標)

第二条 日本国有鉄道の経営の再建の目標は、この法律に定めるその経営の再建を促進するための措置により、昭和六十年度までにその経営の健全性を確保するための基盤を確立し、引き続き、速やかにその事業の収支の均衡の回復を図ることに置くものとする。

 (責務)

第三条 日本国有鉄道は、その経営の再建が国民生活及び国民経済にとつて緊急の課題であることを深く認識し、その組織の全力を挙げて速やかにその経営の再建の目標を達成しなければならない。

2 国は、日本国有鉄道に我が国の交通体系における基幹的交通機関としての機能を維持させるため、地域における効率的な輸送の確保に配慮しつつ、日本国有鉄道の経営の再建を促進するための措置を講ずるものとする。

 (経営改善計画)

第四条 日本国有鉄道は、運輸省令で定めるところにより、その経営の改善に関する計画(以下「経営改善計画」という。)を定め、これを実施しなければならない。

2 経営改善計画は、次の事項について定めるものとする。

 一 経営の改善に関する基本方針

 二 事業量、職員数その他の経営規模に関する事項

 三 輸送需要に適合した輸送力の確保その他の輸送の近代化に関する事項

 四 業務の省力化その他の事業運営の能率化に関する事項

 五 運賃及び料金の適正化その他の収入の確保に関する事項

 六 組織運営の効率化その他の経営管理の適正化に関する事項

 七 収支の改善の目標

 八 前各号に掲げるもののほか、運輸省令で定める事項

3 日本国有鉄道は、毎事業年度、経営改善計画の実施状況について検討を加え、必要があると認めるときは、これを変更しなければならない。

4 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更するに当たつては、輸送の安全の確保及び環境の保全に十分配慮しなければならない。

5 日本国有鉄道は、経営改善計画を定め、又はこれを変更しようとするときは、運輸大臣の承認を受けなければならない。

この後、第8条~14条で、国鉄ローカル線の扱いについて法律が定められているのですが、いたずらに条文ばかりになるので省略させていただきます。

なお、下記に条文のリンクを貼っておきましたので、ご覧いただければ幸いです。

日本国有鉄道経営再建促進特別措置法

この措置により、国鉄は本格的な再建計画に立ち向かう事になるのですが、混同されている 方も多いのですが、「臨調答申」と、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が全く別物であり、臨調がなくとも、ローカル線の廃止は行なわれていました。

臨調の目的は、官僚組織の改革【改変】

臨調は、国鉄ローカル線の廃止や、国鉄の組織改革と言うよりも、官僚組織全体に切り込む事を目的とされたものでしたが、当然のことながら省庁からの警戒【特に大蔵省が一番気にしていたとも言われています】があったようで、最終的には中央省庁の改変はないことで、落ち着いたとも言われています。

国労も以下のように述べていることで理解していただけるかと思います。

もっとも、「労働慣行の否認、労働条件の切り下げ、労働者支配の確立を図ろうとした」と言う表現は組合らしい表現と言えば表現ですけどね。

先に述べたように、国鉄は、81年5月に「経営改善計画」を策定し、35万人体制を目標として、85年度に幹線の収支均衡と一般営業損益の黒字化を達成しようとした。ところが、臨調行革の開始によって変更を余儀なくされた。

臨調の基本答申にあった11項目の緊急措置は、82年9月に閣議決定され「緊急対策10項目」にまとめられた。国鉄当局は、この閣議決定にしたがい「経営改善計画」を前倒ししたり、見直すことで国鉄の減量化と労働慣行の否認、労働条件の切り下げ、労働者支配の確立を図ろうとした。

赤字の主たる原因は特定人件費とローカル線?

改めて整理してみますと、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」は国鉄を解体するものではなく、むしろ国鉄を温存させるためのものでした。

ただ、ローカル線の廃止はやむを得なかった部分がありました、それは、国鉄の赤字を大きくさせている原因の一つが、国鉄ローカル線からの赤字でした。

他にも、国鉄の赤字の主要な原因としては、戦後の混乱期に受け入れた復員兵や、満州鉄道の職員の受け入れ等で膨れ上がった職員の人件費でした。

その辺を、昭和56年の「監査報告書」から引用してみたいと思います。

 (1) 財政の状況ア収支の状況昭和56年度の収支状況は第2表のとおりである。その内訳をみると、幹線においては、貨物収入が前年度に対し減少したものの、旅客収入及び関連事業収入の増加、要員縮減等経費節減努力、並びに営業外損益の改善の結果、その収支は前年度に対し931億円の改善となった。したがって、幹線の収支は、昭和60年度の収支均衡に向かつて一定の前進が認められるが、その損失はなお3244億円の巨額に上っており、今後特段の経営努力が必要である。一方、地方交通線・地方パスの損失は2806億円となり、前年度に対し353億円増加した。
また、特定人件費(退職手当・共済年金負担金の異常支出分)が4809億円となり、前年度に対し1353億円増加した。この結果、両者の合計7615億円は損失の70%を占めるに至り、経営悪化の重大な要因となっている。

ここで、国鉄の赤字の70%が人件費とローカル線による損失が大きく、幹線系も3244億円と赤字額は大きいものの、前年度に対して931億円の改善と言うことで、着実に赤字が減少していることが窺えます。

ただ、それでも、未だ未だ貨物などが減少しているにも関わらず、業務委託などが進んでいないとして昭和57年の会計検査院の調査で指摘されるのですが、その辺はまた別の機会にさせていただこうと思います。

また、国労が指摘する、臨調に関する話は、次回にさせていただこうと思います。

国鉄監査報告書 昭和56年

国鉄監査報告書 昭和56年

 

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*************************以下、国労の記事から*********************************

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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第五節 国鉄の独自再建案と
     地方本部交通線廃止反対闘争一 国鉄の経営改善計画の修正
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 先に述べたように、国鉄は、81年5月に「経営改善計画」を策定し、35万人体制を目標として、85年度に幹線の収支均衡と一般営業損益の黒字化を達成しようとした。ところが、臨調行革の開始によって変更を余儀なくされた。臨調の基本答申にあっ
た11項目の緊急措置は、82年9月に閣議決定され「緊急対策10項目」にまとめられた。国鉄当局は、この閣議決定にしたがい「経営改善計画」を前倒ししたり、見直すことで国鉄の減量化と労働慣行の否認、労働条件の切り下げ、労働者支配の確立を図ろうとした。「経営改善計画」はもともと既存の労使関係を前提に、大量退職時代を条件に作成されていたが、第二臨調は国鉄の労使関係を破壊し、徹底した国鉄のスリム化から分割・民営化を展望していた。かくして、「計画」と「実情」がかけはなれ、「計画」を修正せざるを得なかった。84年5月17日に修正された「計画」が発表された。修正された「計画」の主な内容は次のとおりである。
①輸送量については、当初計画より旅客で141億人キロ、貨物で178億トンキロの縮小、
②貨物輸送については、ヤード系輸送を廃止して拠点間直行輸送に全面転換する、③要員合理化については、83年度以降の新規採用停止、これに伴い、85年度の要員規模を当初計画の35万人から32万人に改定する。

 この結果、85年度の収支の変更は、①幹線については、当初計画より営業損益で悪化するが、資産売却等を含む営業外損益で利益が増えるため幹線収支では200億円の利益を見込む、②一般営業損益では、当初計画を下回る200億円の利益を見込む、③全体の収支では、地方交通線・地方バスから生ずる損失が大きくなり、当初計画より悪化する見込みである。
86年度以降の経営構想として、①大都市圏や都市間輸送への重点化指向をより強化する、②私鉄並の生産性を目指して効率化を徹底する、

③地域性を重視した体制とする、

④事業の自由化を図る。
 
 この「経営改善計画」修正の最大のポイントは、貨物のヤード系輸送を全廃したことであった。この施策の実施により大量の余剰人員が生み出された。
 国労は、「経営改善計画」に対し「国民の願う再建策は全くとりいれられず、国民と国鉄労働者に犠牲をより強要する内容であり、賛同できない」と批判した。「計画の変更が監理委員会の緊急措置を実施したためということであれば、国鉄としての主体性がない。
さらに、計画内容も再建へ向けての積極的展望が全体を通じて欠けている」と批判した。
 国鉄は、運輸省に変更計画案の承認申請をしていたが、5月17日に承認された。承認にあたって監理委員会は、この計画案についての意見を求められており、17日に運輸相に意見書を提出した。意見書のなかで監理委員会は、83年の緊急提言に照らし
合わせると、今回の変更計画案は「今後格段の努力が必要」との不満を示した。監理委員会は意見書の最後に「国鉄事業の再建は、従来の施策の延長線上においてこれを実現することは極めて困難であり、経営形態の問題を含め抜本的な改革を行わなければ達成できない」と強調した。
 この監理委員会の意見書の内容は、運輸大臣から国鉄当局に伝えられた。全国一社制の維持を最大の目標においている国鉄首脳陣にとって、それを実現するシナリオを完成することがますます必要となったのであった。

続く

 

国鉄労働組合史詳細解説 121

久々に、国労運動史を底本にして解説を加えさせていただこうと思います。

国労が提案する、過員解消策

国労によれば、過員【国鉄当局的には余剰人員】の実態は、草むしり、文鎮づくり、今まで協力会社に回していた業務、自習という名の職場隔離であるとして、過員活用の要求として、下記のような活用方法を提案したとしています。

①『みどりの窓口』の時間規制廃止、現在閉鎖中の窓口の復活、
②縮小・時間閉鎖している全国主要駅の改札ラッチへの要員増配置、
③案内用電話の増設、要員配置、駅案内コーナーの充実・新設、
無人駅への職員配置、
⑤旅行センターの充実・強化、要員配置、
⑥自動券売機での混雑などの解消策として閉鎖窓口の復元、要員配置、
⑦十分なホーム要員の配置、
⑧列車乗務員の乗り込み基準を改正し、基本乗り込み数を増やすとともに、線区の特性、繁忙期などを勘案して増し乗務、特別改札要員の配置」。

こうした国労の体制は、正直今までの国労の対応を考えれば遅きに失したのではないだろうかと思える訳です。
この提案がなされたのは、昭和59年ですが、昭和57年のブルトレ闇手当問題に端を発する、国鉄の組織としての問題は、国鉄職員=働かない、とか国鉄職員=悪というイメージを作り上げており。

当時の職員局長であった、太田知行職員局長は、国労に対しては強気の対応を取ったことはすでに招致のことかと思います。

ここにきて、国労にはいささか強い態度で出る訳ですが、実際にこの時期の国鉄の余剰人員は当初の想定を上回るもので、国鉄としても職員の自然減で35万人体制に持って行けるとし、若干の採用はしていく予定で有ったと言われています。

しかし、実際には国鉄の輸送人員は数のとおり、旅客はともかく、貨物が壊滅的に減少しており、そうした意味でも何らかの措置は必要であったというのは言を待たないと思います。

国内旅客輸送人キロ 運輸白書昭和59年版から引用

国内旅客輸送人キロ

国内貨物輸送トンキロ 運輸白書昭和59年版から引用

国内貨物輸送トンキロ

元々は、ここまで落ち込むことはないと考えられていた貨物輸送ですが、高速道路の開通もありますが、国鉄の旅客輸送量のシェアは35年度51%であったものが,58年度24%へ、貨物のシェアに至っては、35年度39%であったものが58年度6%と激減しています。

こうした状況の中で、国鉄は昭和57年には大幅な減量ダイヤを発表、特に貨物列車を中心とした、大幅な減量ダイヤで多くの余剰機関車や車両が発生し、当時非電化であった山陰本線二条駅などに583系電車が用途不要で休車扱いとなり、貨車や機関車も余剰となってしまいました。

この後、昭和59年にはヤード系輸送の廃止などで更に機関車、貨車なども余剰となり、人員についても構造的に人が余ってしまうと言う悪循環になってしまいました。

合理化を拒否したことが窮状を生むことに

マル生運動終了後辺りから、合理化しても人が減らせないという矛盾(合理化をさせないと言った誤った方針が貫かれたことなど)が更に業績を悪化させて、合理化しやすい駅の無人化などを推進して結果的に町の賑わい自体を失わせることとなったと言えないでしょうか。

保線の合理化、近代的研修背坪の積極的な導入などを行なおうとしても要員が減らせないという誤った方策が、ここにきて矛盾として一気に吹き出したと言えましょう。

年に何度も行なわれたストライキ(処分撤回闘争というのあのストライキなど)で荷主の信頼を失ったことはすでに何度か書きました。

実際、上記の図でも自動車の輸送キロが大きく上るのが昭和50年頃から伸び出すのも、その辺を特に顕著に著しているかもしれません。

いずれにしても、鉄道貨物はそのシェアをどんどん減らすこととなるわけで、国鉄の余剰人員は構造的なものであったと認識されていました。

国労の提案は本当に評価出来るのか?

全否定する訳ではないのです概要を最初に書かせてもらえば、当局としては出来るだけ退職してもらうことを前提に考えている中で、国労が提案しているものは、もちろん人が余って居るからと言う理由ではそうでしょうが。

結果的に、そうした人を入れることで、要員の固定化となることを当局側としても嫌ったのではないかと考えるのです。

当時の国労は、引き続き分割民営化を容認できないことを前提に打ち出していますので、その線だけはなんとしても死守しなくてはならなかったのではないかと思われます。

実際には、国労の記事でも書いていますように、当時の国鉄当局からすれば、構造的に発生する余剰人員対策をどうするかは喫緊の課題であり、実際に貨物輸送の大幅な減少で追加の減量政策を導入せざるを得なかったと、国有鉄道 昭和58年1月号には下記のように書かれています。

貨物部門におげる輸送量激減、旅客部門Kおげる輸送量微減により、輸送量が計画と大きく食い違ったからです。このため「57・11ダイヤ改正」においては、当初の計画よりも貨物部門において減量化施策を強化せざるを得なかったわけです。効率の低下現象をこのまま放置すれば、ますます競争力は低下するわけですし、それは貨物の前途、経営改善計画の達成をも危うくするととにもなりかねないわげです。

ということで、国労の組合要求はどこまでも、「頑張りましたよ」的なポーズで納まってしまったように思えるのです。

 

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*************************以下、国労の記事から*********************************

 

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 一 職場規律の確立攻撃

五 過員センターの設置と作業の実態

┌──────────┐
├○ 過員活用の要求 │
└──────────┘

 
 国労は、過員問題解決のために6月1日に「輸送サービス・安全確保に関する緊急要求」を当局に申し入れた。この要求の3番目に、過員の有効活用のための具体的方策を以下のようにまとめていた。
  「三、利用者へのサービスと安全確保を強化する体制を整備すること。
①『みどりの窓口』の時間規制廃止、現在閉鎖中の窓口の復活、
②縮小・時間閉鎖している全国主要駅の改札ラッチへの要員増配置、
③案内用電話の増設、要員配置、駅案内コーナーの充実・新設、
無人駅への職員配置、
⑤旅行センターの充実・強化、要員配置、
⑥自動券売機での混雑などの解消策として閉鎖窓口の復元、要員配置、
⑦十分なホーム要員の配置、
⑧列車乗務員の乗り込み基準を改正し、基本乗り込み数を増やすとともに、線区の特性、繁忙期などを勘案して増し乗務、特別改札要員の配置」。
 これに加えて、労働時間の短縮、年次有給休暇の完全消化や業務委託の拡大の中止、などの要求を掲げた。
 しかし、国鉄当局にとって人員削減こそが「国鉄再建」の最大の課題であるため、組合の要求は実現が困難であった。もちろん収入増につなる場合には、過員を積極的にそれに投入し、活用したものの、組合の要求は実現困難であった。
 こうした攻撃にもかかわらず国労組合員は必死に闘った。84年9月1日現在における国鉄内の労働組合の組織状況を掲げておくと、組合員有資格者、29万2031人中、国労が20万7784人(71.2%)、動労が3万8173人(13.1%)、鉄労が3万4766人(11.9%)、全動労が2797人(1.0%)、全施労が2219人(0.8%)その他組合が1213人(0.4%)、中立が5079人(1.7%)であった。国労の組合員数は前年同期に比べると1万5000人以上減少していたが、組織率に変化はなかった。国労組織に対する激しい攻撃にもかかわらず、この時期他の労組からの加入者が増えていた。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 120

国鉄労働組合史詳細解説、今回も国労の記事ではなく他の記事などを参照しながら書かせていただきます。

 

今回は、国鉄部内紙、昭和60年1月号の記事から書かせていただこうと思います。

職場規律確立が叫ばれる中で再び起こった惨事

昭和59年10月19日

特急「富士」、西明石駅構内で客車がホームに激突と言う事故がありました。

当時は寝台列車などに関しては引き続き2人乗務が行われていました。
(これは、EL・DL一人乗務問題まで遡るのですが、蒸気機関車と異なり、機関助士の仕事を殆ど必要としないことから、機関助士を廃止する事を計画しますが、これに強く反発した動労などが、一人乗務反対の闘争を行い、妥協の産物として、寝台列車など一部の列車については二人乗務が残されていたのでした。

当時の組合の言い分は、二人の目の方が確実であるという主張でしたが、今回の例では二人乗務が必ずしも安全であると言うことを証明しているとは言えないことがはっきりすることとなりました。

 

明石事故の概要を簡記すると

概要を当時の国有鉄道の記事から引用してみようと思います。

西明石事故の反省と対策

 

たかはし高橋薫(運転局保安謀総括補佐)1 事故の概況さる10月19日の早朝,山陽本線西明石駅構内においてプルートレイン「富士」がホームに激突し,寝台客車13両が脱線,旅客32名が負傷するという重大な事故が発生した。その原因は,電気機関士が酒気を帯びて乗務し西明石駅構内の分岐器において制限速度をオーパーして運転したことによるものであり,極めて悪質であった。また,一緒に乗務していた機関助士もプレーキ手配等を行っておらず事故に至ってしまった。さらに,10月22日になって後続のブルートレイン「さくら」の電気機関士も,上記「富士」の電気機関士と出先地において一緒に飲酒をしていたことが判明した。

当日は、保線作業が行われており、工事による影響で、外側線【列車線】から、内側線【電車線】に変更されており、この変更は当然のことながら点呼では伝えられていたはずです。

ただ、この機関士は仮眠前に飲酒し、て運転していたわけで、ようで、ていたと言うことで、この乗務員に対して、対面点呼が行われておらず、電話による点呼であったことそうです。

この事故では、機関士は西明石駅を100km/h程度の速度で内側線に進入、重量のある機関車は脱線を免れたものの、客車は脱線したままホームに激突することとなりました。

西明石駅列車脱線事故

西明石駅列車脱線事故
画像 wikipediaから引用

何故機関助士は停止手配を取得なかったのか

また、同乗の機関助士も機関士とはそりが合わなかったという報道もありましたし、機関士に対して話せるような状況ではなかったという報道もあったかと記憶しています。

それゆえに、機関士が居眠りをしていたとしても、それを注意しがたい雰囲気であったとも言われています。

また、さくら号の運転士も、先輩の機関士(富士を運転していた機関士)の誘いを断り切れなかったとも書かれていますが、いずれにしても、当時のこうした状況は世論の非難を浴びることとなりました。

世論はさらに厳しい目を向けることに

世論は、国鉄改革が叫ばれ民営化か否かという問題が議論されている中で、世論は一気に国鉄に対して厳しい目が向けられることになりました。

当時の様子を国有鉄道2月号「新聞投書に見る世間の動向」を参照しますと

西明石事故では、1週間余りの聞に24件が集中して寄せられ、「酒を飲んで運転するとは言語道断であり強い怒りを覚える」(サンケイ10.24), 「いったい人命をなんと考えるのかJ(読売10.23 )ど、激しい調子で怒りを表わした投書ばかりで、中には「フルムーン旅行やめようかJ(東京10.26)、「後ろから2両目乗車をし、国鉄事故に自衛J(読売10.25)といった投書もあった。

とあるように、かなり厳しい目が向けられていたことが判ります。

国労などに対する労務政策が厳しくなったから、こうした行動に出たという考え方もあるかもしれませんが、結果的には世論としては、こうした動きには厳しい目を向けざるを得ないと言うことになりました。

当時は、機関区などの公開なども積極的に行われ、少しでも国鉄の評判を良くしようと努力している時期でしたので、こうした事故はそうした信頼を一気に失わせるものでした。

さすがに、国鉄もこの一件は大きな問題として捉えられ、次のように事故の翌日には総裁通達による事故防止の徹底が図られることとなりました。

国鉄当局としてもショックが大きかった事故、そして組合は沈黙

国鉄当局は下記のとおり、通達を発出することとなりました。

以下、「西明石事故の反省と対策」から再び引用してみたいと思います。

翌日の10月20日には総裁通達によりこの事故の重大性を認識させるとともにこの種の事故の絶滅を期すため、職員一人ひとりに職責の重大性を認識させること、乗務員管理を徹底しきめ細かい指導を行うこと、出先点呼のあり方を再検討し、乗務員の状態把握を強化すること、これまでの飲酒事故防止対策の実施状況をあらためて確認し徹底をはかること、の4点について指導した。

また、10月23日に緊急に全国の運転関係部長を召集し、問題点の議論を行い、具体的対策について意思統一し、全力をあげて再発防止に取り組むこととした。さらに、具体的指導として10月24日には運転局長名により、出先地におげる電話点呼は廃止し対面点呼に改めること、乗務員の出先地での時間帯、折返し間合いを見直すこと、深夜における要注仕業の添乗を強化すること、昭和57年度対策(名古屋事故対策〉の効果と定着度合いをトレースすること、を通達した。

この事故の持つ重要J性に鑑み、保安担当常務及び関係局長を班長とした異例の本社特別査察を大阪局をはじめ全国10管理局30現場(運転区所、車掌区所〉について10月23日から11月3日にかけて実施した。

 このように、矢継ぎ早に施策を打ち出していきますが、それでも未だ未だ十分に浸透しているとはいえなかった言われています。

実際、出勤点呼は、本来は助役の前での対面点呼が基本ですが、この当時でも、電話点呼による、点呼が行われており、この事故以後、電話点呼を全面的に対面点呼に切り替えた局もあるということで、逆に言えば、今まで電話点呼という簡略な方法がなされていたことに驚きを禁じ得ません。

実際の改善事項等については、別途別blogで記載したいと思います。

 

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