監査委員会が提出した最終答申と国鉄
昭和60年7月26日、国鉄再建監理委員会は、最終答申を総理大臣に提出、国鉄の分割民営化への方向性がきまることとなりましたが、以下に書かれているようにその大方針としては、旅客会社の6分割と貨物会社の単独分離、更に新幹線に関しては旅客会社の保有ではなく、保有機構が持つと言う点が注目される点でした、1~3は、組織のあり方であり、4番は人の流れと言うことで、労働運動的には、当然のことながら余剰人員対策に注目するわけですが、再建監理委員会「国鉄改革に関する意見」を総理大臣に提出 7/26この件に関しては、監査報告書に以下の通り記述されていましたので、抜粋したいと思います。 余剰人員対策に関してはどのように記述されていたのか
旅客6分割 貨物分離で1社 新幹線は一括保有機構が旅客会社に貸付 余剰人員対策
昭和60年監査報告書
2 . 余剰人員対策
要員の合理化により生じる余剰人員問題については、日本国有鉄道及び第4の日本国有鉄道の清算等のための組識においてその解決のため最大限の努力を行うことを前提 として 、「意見」の趣旨に沿って、強力な支援措置を講じる 。( 1 ) 国 (特殊法人を含む。) においては 、その採用数の一定割合を雇用の場として提供することとし、昭和61年度の採用から実施に移す。
また、地方公共団体等に対し、国が講じる措置に準じ積極的に採用を進めるよう要請するとともに、一般産業界に対しでも、全国的規模での雇用の場の確保に協力するこ とを要する 。
(2) 新経営形態移行前に日本国有鉄道が実施する希望退職募集の実効を挙げるため 、 退職時の給付の臨時の特例について立法措置を講じるとともに、 新経営形態移行後 の余剰人員の円滑な職業転換の促進を図るための基本計画の策定等について所要の立法措置を講じる 。
(3) 以上の措置の具体的な内容及び仕組みについては国鉄余剰人員雇用対策本部を中 心に引き続き検討を進める 。
*1第4の日本国有鉄道の清算等のための組識とは、
国鉄当局に設置された再建実施推進本部
1 設置の目的既存の
「緊急対策実施推進本部 ・ 経営改善推進委員会J (昭和57年9月設置)及び総裁室のプロジェクトチーム(経営改革推進チーム)を発展的に解消し、この推進本部を設置した。その目的は、国鉄再建監理委員会並びに政府と密接な連携を取りつつ 、 国鉄再建の実施案を策定し、さらにその案の決定後、その円滑な実施をはかることである。
2 所掌事項推進本部においては、次の業務を行う。
さらに、組織については下記のように記述されていますが、とりあえず入れ物だけを作ったという感じで、内容的には具体的なものは見えいません。
3 組織推進本部は、本部長及び副本部長及び本部員で組織する。各構成員は、次のとおりである。
本部長 総裁
副本部長 副総裁、技師長
本部員 本社常務理事、本社内各長
また、推進本部の下に本社内各総務担当課長で構成する幹事会を置いている。4 事務局
推進本部に事務局を置き、経営計画室がこれにあたることとなった。
また、専任の事務局長を設置した。事務局長は、事務局業務の総括、幹事会の招集及び部内調整業務を行うとともに 、推進本部に係る事項についての窓口と し て 、政府 、監理委員会との連絡調整にあたることとなっている。
以上のように、随時その内容を変更させるといったものであるが、入れ物だけを作ったという感が強く感じてしまいます。
続く
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国鉄があった時代 JNR-era
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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争
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第一節国鉄再建監理委員会最終答申
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├○ 一 日本の「円高不況」と東西緊張緩和の流れ│
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円高不況下で2度目の衆参同日選挙
1985( 昭和60) 年7月の国鉄再建監理委員会最終答申は、第2臨調=行政改革の二〇三高地といわれた国鉄改革=分割・民営化への具体的な見取り図であった。以降、87年4月1日のJR体制発足へむけて、そのすべての過程が国労っぶしをねらった国家的不当労働行為と断じられたように、中曽根内閣によるファッショ的ともいえる政局運営であった。それは、中曽根首相らが「大統領型総理大臣」と呼んだように、歴代自民党内閣とはいささか異なっていた。審議会や懇談会・調査会といった各種の諮問機関を多く設置して、その答申や報告を援用しながら政治をすすめるという手法が目立った。防衛費の1% 枠突破問題をはじめ、国鉄の分割・民営化、教育改革、靖国神社公式参拝など、公的・私的諮問機関が利用され、これら諮問機関に自己のブレーンである学者や文化人を送り込んで政策展開の地ならしを行い、マスコミを通じて世論操作の道具にした。
1986年7月の衆参同日選挙は、?仕組まれた選挙?ともいえた。83年12月の総選挙で大敗を喫していた自民党は、6年前の初の衆参同日選挙での大勝再現を策略し、全野党の反対を押し切って臨時国会を召集した( 6月2日) 。しかし、野党側がこれをボイコットしたので国会は開かれず、衆議院議長が議長応接室で解散詔書を読み上げるという異常事態のなかでの解散であった。選挙運動さなかの6月14日、中曽根首相は国民に評判の悪い大型間接税について「やる考えはない」とまで明言した。選挙結果は、自民党のもくろんだとおりの結果となり、自民党は衆参両院とも結党以来最高の議席数を獲得した。中曽根首相は、この政局を「86年体制」の成立と誇った。
一方、1985年9月、アメリカで開かれた先進5ヵ国蔵相会議(G5) は、異常なドル高を是正するために国際為替市場への協調介入と各国金利の協調利下げで合意をみた( プラザ合意) 。
その背景には、減税( 金持ち優遇) と軍事費増大( 強いアメリカ)を柱とするいわばレーガノミックスのもとで財政赤字と国際収支の「双子の赤字」に悩むアメリカ経済、そして80年代前半の日本の集中豪雨的な世界市場進出( 輸出) があった。翌86年にアメリカは対外純債務国となるが、とくに貿易赤字全体の3割近くを占める日本への風当たりは一段と強まり、日本に金融市場・資本市場の開放を強く求めていた。プラザ合意以降、円高ドル安傾向が加速的にすすみ、日本経済は「円高不況」に当面することになった。そこで政府は、86年1月から一年余りの間に5衣にわたって公定歩合を引き下げ、86年2月以降は史上最低の2・50%の時代がつづくが、こうした強力な景気テコ入れをすすめるとともに、他方では軍拡予算を優先しつつ( 防衛費突出) 、行政改革の名において社会保障をはじめ教育、中小企業対策、地方補助金、民生関連公共事業など国民生活のための切実な財政支出は削減した。また、円高によって輸出にブレーキのかかった大企業はさらに新たな合理化をすすめ、賃金の抑制、下請け価格の切り下げをはかった。その結果、86年と87年の春闘賃上げ、人事院勧告、公労委仲裁裁定はいずれも前年の実績を下回り、失業率も85年の2・62% 、86年の2・77% 、87年の2・84% へと悪化した。しかし、円高不況も86年11月に底をつき、これ以降はいわばバブル経済の時代に入る。国鉄分割・民営化によるJR体制の発足は、バブル経済の始まりと軌を一にしていた。
さて、86年7月の衆参同日選挙で圧勝した中曽根内閣は、同年11月に国鉄改革11 分割・民営化法案を成立させたが、先の選挙前に明言した舌の根も乾かない87年2月に「売上税」導入( 国会上程) を図った。中曽根内閣への国民の反発は強く、その12月8日投票の参議院岩手補欠選挙で売上税反対を訴えた社会党候補が自民党候補をやぶり( 岩手ショック) 、この年の統一地方選挙でも自民党が大敗したこともあって売上税関連法案は廃案となった( 4月) 。
5月になると4年半にもおよんだ中曽根内閣の後継者レースが始まり、最大派閥を誇った田中派の分裂をへて10月、自民党総裁選挙に立候補した安部・竹下・宮沢の三人のなかから中曽根首相が竹下幹事長を自民党総裁に指名し、11月6日、竹下登内閣が発足した。
続く