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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 41

 

みなさまこんにちは、久々に更新させていただきます。

今回は、スト権ストその後という視点から見ていきたいと思います。

少し時間は戻りますが、第一次石油ショックが起こったのが、昭和48年10月、それまでの経済成長に対して一気にブレーキをかけることとなったことは言うまでもありませんでした。

石油ショックと景気後退

これにより、一時期流行った、列島改造ブームも一気に冷めやってしまいました。

その不況は、75年(昭和50年2月)の第1次景気対策決定、並びに4月の公定歩合引下げに伴い、景気は50年1~3月期頃を底に上昇に転じたることとなりましたが、この年は春闘も低めに推移したそうで、75年春闘では15%以下ガイドラインを提起した。
 これには、JC(金属労協)の有力組合である鉄鋼労連委員長らが、賃上げ自粛論を打ち出すなど、労働運動内部からも呼応する動きが出た。75年春闘は、労働省調べで13.1%アップに終わり、日経ガイドラインの中に収まったそうです。

そうした少しづつ景気が上向いてきた昭和50年に国労を中心としてスト権奪還ストがおこわなわれたわけです。(スト権ストは国鉄労働者のみならず、官公労働者(当時であれば国鉄電電公社(NTT)・日本専売公社JT)・郵政省(JP)などにも波及するわけで、その影響力はかなり大きなもので、当時の政府はスト権付与もやむなしということで、電電公社などにも伝えていたと言われています。

実際には、すでに記述のとおり国鉄ストは空振りに終わり、生鮮食料品などの主要物資はトラックで運び込まれており、結局は大口荷主の信頼を失うこととなって結果的には貨物輸送のシェアを更に下げる結果となりました。

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改めて国鉄に目を転じてみますと、75年のスト権ストのあと様々な課題が山積することとなりました。

 国労が抱えていた課題

  • スト権ストの失敗から、この点を総括したうえで76年春闘をどうするかという課題が残った。
  • 国鉄再建問題が、スト権ストと不可分な形で課題として存在したこと、(実際にこのストライキが契機となり国鉄分割民営化へと進んでいくことになりました。)
  • 国鉄当局による合理化が進んでいった。
    この辺は、国労側の見解としては以下のように表現しています。

    当局の国鉄再建はつねに、相次ぐ「合理化」を伴い、「国民のための国鉄」とますます離れる方向で進められていた。これに対して、「民主的規制」=「民主 化・政策闘争」を対置して闘うことが必要化していったが、その克服もまた重要であった

  •  マスコミによる国鉄職員のタルミ・キャンペーンが行われた。
    なお、ここで書かれている、タルミ・キャンペーンは後のブルトレ闇手当問題とは別の問題提起が行われていました。

国労が気にしていた、労働者の自主的規律とは・・・

特に国労としても4番目の問題に関しては、労働者の自主的規律を確立することを必要としていたと書かれています。

今では盗撮ではないかと言う批判もありそうですが、当時の電車は運転士が昼間でも遮光カーテンをすべて下していたため、運転士が何をしているのか全く分からない状況におかれていました。

さらに、車掌は本来は遮光カーテンを下す必要がないにも関わらず、同じく昼間から遮光カーテンを下ろしており、運転士以上に何をしているかわからないと言う状況でした。

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いただき物の画像から・・・。天王寺駅に到着する70系電車当時は、運転台の遮光幕が昼間から下がっているのが当たり前の時代でした。

そこで、新聞社のカメラマンが超望遠レンズで走行中の電車を撮影して運転士なり車掌の動向を探る?みたいなことが行われました。

今なら、肖像権ガー・・・と言われそうな話ですが、当時はそれを容認すると言うか仕方がないと言う風潮がありました。

実際には、目線が入れた有ったので個人の特定は無かったかと思いますが・・・見る人が見ればわかるでしょう。

実例をあげますと

  • 運転士が、運転中に両手を離して運転していた
  • 車掌が、漫画週刊誌を読んでいた
  • 車掌が、腹が減ったのかパンを食べていた…等々

実際に、車掌がパンを食べていたとかは、ちょっとお行儀が悪いけど・・・といえても、週刊誌を読み漁っていたというのは問題ですよね。

さすがに漫画週刊誌を勤務中に読むのは憚らるのではと個人的には思っています。

実際に当時は碌に案内放送もしないというのが当たり前のようになっていましたから・・・、

多分、国労当局もそうした実態をある程度把握していたのであろうと推測されます。

 

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さて、再び話題を昭和51年の世相と景気に戻してみたいと思います。

鉄道の話題としては、急行銀河が旧形客車から「特急つるぎ」を24系25形化したことにより捻出された20系客車を使ってグレードアップするとともに全車寝台化が完成しました。

一部当時の鉄道の様子を抜粋してみました。

国鉄、役員会で財政再建策として1月分から総裁など幹部150人の給与を5~10%返上と決定 1/13
愛媛県青果連、国労動労に対しスト権ストによる損害賠償請求 1/14

国鉄労組(村上義光委員長)、「国鉄再建についての緊急提案」発表 2/5

運賃値上げなしの再建案を発表。内容は、
(1)設備投資の抑制
(2)地方交通線の補助拡大
(3)大企業貨物運賃の割引中止など14項目

国鉄自民党政調審議会に5年間で1万5000人の要員削減などを内容とする「経営合理化に関する基本見解」提出 2/6
国鉄、特急など3280本におよぶ春の臨時列車ダイヤ発表 2/7
動労四国地本、愛媛県青果農協連の「スト権スト」損害賠償請求に対し、みかん輸送拒否の方針を決定 2/7

国鉄、スト権ストに伴う202億円の損害賠償を要求、国労動労相手に東京地裁へ提訴 2/14
大阪市営地下鉄御堂筋線 10系試作車が谷町線から転入 2/16
国労動労、貨物列車を中心に、”順法闘争”に入る 2/18

木村運輸相、藤井国鉄総裁の辞任を正式受理。2/19
鉄道労働組合国鉄再建で緊急提案。2/20
20系初の急行転用 2/20

寝台特急「つるぎ」20系から24系25型に置換えこれにより捻出された20系は銀河に転用、テールサインは付けられず。急行の表示が入ることに。(転用当初は全くの空白)
20系の急行への転用は銀河が最初

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急行銀河が20系で運用開始

157系引退 3/1

特急「あまぎ」〈踊り子の前身)に使用中の157系電車が老朽化したため183系電車に置換え
157系は17年で引退

伊豆急行 特急「あまぎ」183系で運転開始

指定券制度大幅改正 3/1

指定券変更の制度が一部改正され、変更は1回限りと改められた。
(従来は、使用開始前であれば変更は何回でもできた。)

イラン新幹線(イラン~メシェッド間)建設計画の実務担当のナセル・ハデミ運輸大臣顧間ら国鉄を訪問 3/1
国鉄蒸気機関車全廃 3/2

室蘭本線追分機関区に残っていた最後の現役蒸気機関車9600形3両が、構内入換作業もDLにバトンタッチして引退、国鉄の営業用蒸気機関車は完全に消える。

新幹線は、車両検査の遅れで6/30まで「ひかり」8本、3/22から6/1まで「こだま」二本運休を発表 3/2
日豊本線電化起工式 3/3

南宮崎~鹿児島間120.1kmの交流電化起工式を五十市駅構内で挙行。九州一周電化は’79年度完成の見込み

総武本線八日市市場~干潟間(2770m)でレール交換 3/4
運輸省、3年計画で新幹線沿線1万8000戸の防音工事・移転を行う等の新幹線騒音対策要綱を決定 3/4
国鉄総裁に高木文雄氏 3/5

政府は8代目国鉄総裁にもと大蔵事務次官高木文雄氏を発令・東大卒,1943年大蔵省入り、75年7月事務次官を最後に退任・56歳
副総裁には国鉄常務理事だった天坂菖同氏が昇格・天坂氏は東大卒,1947年運輸省入り∴50年から国鉄へ移り、職員局職員課長、総裁室文書課長、経理局長を歴任・55歳

豊橋鉄道 柳生橋支線 新川~柳生橋間を廃止 3/7
南武線 101系電車投入 3/8

京浜東北線から101系が転入、南武線の半数が101系となる(1978年に101系へ統一)

片町線101系電車が京浜東北根岸線から転入。片町線初の新性能電車となる 3/8
運輸省蒲原鉄道など4社の値上げ認可、17日実施 3/9
「大雪丸LO消費減少対策プロジェクトチーム」に局長褒賞 3/10
新幹線が工事で運休始発から 3/10

10時30分ごろまで、2回目になるレール交換等を実施、東京~新大阪間の全列車、新大阪一博多間の一部列車を運休

新幹線鉄道の騒音振動対策について、環境庁【当時】から運輸省【当時】に下記の勧告が出される 3/12

環境保全上緊急を要する新幹線鉄道振動対策について(勧告) →全文を見る(環境省ホームページとリンクしています)

山陰本線 【高架化】京都~二条間 3/16

山陰本線京都~二条間(3.72km)の高架化完成、使用開始、またこれを記念して、同区間にSL列車を運転(C56が充当?)
貨物支線 梅小路京都市場間 (2.8km) が開業。(貨)京都市場駅が開業。貨物支線 梅小路丹波口間改キロ (+0.5km)

国労動労24時間スト 3/17

春闘第一波スト。国電・新幹線を除く主要幹線がストッブ

春闘第2波国・動労24時間スト 3/30

国電・新幹線を含め,ほぼ全面ストップ。私鉄総連翼下の民鉄も大部分

京都市電の今出川線、丸太町線、白川線廃止 3/31

春闘第3波交通スト 4/14

大手私鉄10社は,「平均8,000円,6.02%ァッブ」の経営者側ペア同答を不満として半日スト。
首都圏の国電動労が早朝ストを行なった。
15・16日も国労動労は,ローカル幹線などで拠点スト

参照 国鉄があった時代

 http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_51.html

この頃になると、JCと電機労連(現在は電機連合)がその相場をけん引するといった時代で、この辺を電機連合のwebサイトから少し長いですが、全文引用させていただきます。

  一けた春闘

76年春闘は不況下の春闘であった。春闘共闘委員会は、参加単産数100、参加組合員数約873万人で、その基調として「国民春闘の再構築」 を掲げ、賃上げについては「20 %、3万円前後」と前年要求より引き下げた。IMF-JC(全日本金属産業労働組合協議会と改称)は生涯生活ビジョンにもとづく、MWS(高福祉社会)活 動推進の具体的内容として、「13%程度の引き上げ基準」 を、同盟も「13%基準」の要求方針をきめた。

一方、日経連は賃金問題研究委員会報告で、「労使協力して雇用の安定に努力すべきで、賃上げはゼロもしくは一ケタにとどめるべきだ」とするガイドゾーンを示した。

労働4団体共闘は、国労・勤労のスト実施などをめぐって1974年3月以降断絶していた。雇用情勢が悪化する中で、共闘の再開を不可欠とする中立労連竪山議長は新産別委員長とともに働きかけをおこない、雇用保障に限定した労働4団体共闘の復活が決まった。

金属労協は、三役会議で集中決戦、集中決着方式をもって闘いをすすめることを確認した。前年スクラムトライに参加しなかった電機労連は、中央委員会の論議を経て春闘の闘い方を転換し、いわゆる「一発回答」を含めて集中決戦方式に参加することを決めた。

金属労協の集中回答日である4月14日に回答提示があり、鉄鋼大手は標準労働者で定昇込み1万2,000円(8.52%)の回答、電機は総合 が9.5% 、家電が10.5% の賃上げで、自動車は平均では1万1,573円(率は8.4~10.27%)、造船重機は鉄鋼同額に300円の積み上げを含め妥結していった。

76年賃上げ闘争の結果は、平均賃上げ額は11,596円、率では8.8%となり、54年以降続いた二ケタ賃上げ率は一ケタに転じ、その後ずっと一ケタがつづく分水嶺の年となった。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

国労としても、春闘自体が形骸化していると書いていますが、この年の76年春闘と前後した時期に、元首相の田中角栄を中心としたロッキード事件が起こり、政界と財界の癒着や政府・自民党の根深い腐敗が世論で沸騰していきました。

その年の、3月17日と30日の春闘統一行動には、

  1.  76年春闘勝利
  2.  不当処分反対
  3.  運賃値上げ反対
  4.  ロッキード汚職追放

を掲げ、それぞれ拠点24時間ストを闘う方針を確認し、ストを決行した。

と記録されています。

ロッキード事件等にも機会があれば次回にでも触れてみたいと思います。

******************************以下は、国労の本分になります。******************************

 

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第8節 国鉄民主化要求闘争

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 1 春闘の低迷と「管理春闘」の強まりに抗して
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┌────────────────────────────────────────────┐
├○ 日経連の大幅賃上げの行方研究委員会と「管理春闘」の強まり │
└────────────────────────────────────────────┘

 スト権ストを経た国労の70年代後半の闘いは、多くの困難と諸課題が存在した。第一に、75年のスト権ストのあと、これを76年春闘へ向けて継続することが課題となった。第二に、同時に、国鉄再建問題が、スト権ストと不可分な形で課題として存在した。
  当局の国鉄再建はつねに、相次ぐ「合理化」を伴い、「国民のための国鉄」とますます離れる方向で進められていた。これに対して、「民主的規制」=「民主 化・政策闘争」を対置して闘うことが必要化していったが、その克服もまた重要であった。第4に、マスコミによる国鉄職員のタルミ・キャンペーンに対処し て、労働者の自主的規律を確立することを必要としていた。
 国労は、70年代後半の春闘に取り組みつつ、スト権の追求(含む立法構想)、労働者の自主的規律の確立、反「合理化」と国鉄再建の闘い、「国民のための国鉄」を目指す。「民主化・政策闘争」を展開した。

 74(昭和49)年春闘が、春闘史上、空前の高揚を見せ、国民春闘的様相を示したあと、経営者側は春闘=労働運動の高揚と政治的統一戦線との結合を恐れ、本格的な春闘対策に乗り出した。
 日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を設置し、11月、『報告書』を出した。インフレと不況の共存のもとで、大幅賃上げを認めれば、インフレ、物価上昇を招き、日本経済の将来は危なくなるとし、75年春闘では15%以下ガイドラインを提起した。
 これには、JC(金属労協)の有力組合である鉄鋼労連委員長らが、賃上げ自粛論を打ち出すなど、労働運動内部からも呼応する動きが出た。75年春闘は、労働省調べで13.1%アップに終わり、日経ガイドラインの中に収まった。
 76年春闘の場合は、日経連はゼロを含む一桁のガイドゾーンを提起し、結果は労働省調べで8.8%に収まった。この春闘でも、JCなど金属大単産と民間大企業が相場形成に有力な役割を果たした。77年以降も同様である。つまり、春闘相場は、有力民間大企業労使の主導で相場が確定するという「管理春闘」的性格が強まった。それは同時に国民春闘の形骸化を意味していた。
 76年春闘に前後してロッキード事件が起こり、政界と財界の癒着や政府・自民党の根深い腐敗を如実に示した。景気は回復基調に入ったと言われながらも、前年以上に厳しい状況にあった。組合の賃上げ要求水準も、前年に比べ、大幅に下回った。国労は、3万9186円の賃上げ要求を決め、3月10日の中執、全国戦術委員会で、3月17日と30日の春闘統一行動には、

  1.  76年春闘勝利
  2.  不当処分反対
  3.  運賃値上げ反対
  4.  ロッキード汚職追放

を掲げ、それぞれ拠点24時間ストを闘う方針を確認し、ストを決行した。
 4月14日、JC傘下4単産への一発回答(定昇込み1万2000円、8.5%など)が出されたが、交運・公労協に結集する各組合は、それを乗り越えて4月中旬以降の決戦段階に入った。21日公労委は、定昇込み1万2184円、8.78%という調停委員長見解を示したが、公労協は不満だとして22日朝7時までストを続行した。結局、仲裁に5月22日、調停委員長見解と同じ仲裁裁定が出された。だが、政府は、国鉄とは電電公社は、「賃金上、賃金の支払は不可能」であるとして、公労法第16条を持ち出し、5月28日、次の国会に議決条件として提出した。政府の対応は、国鉄運賃と田豊電話料金の値上げ法案が通常国会で成立しなかったことを口実にしていた。公労協は激しく抗議した。政府の対応は、国鉄運賃と電報電話料金の値上げ法案が通常国会で成立しなかったことを口実にしていた。公労協は激しく抗議した。9月27日、公労協と政府との交渉で、政府は、「裁定実施に最大限努力」、「完全実施を期す」などを約束し、事実上、決着した。
 公労協は、76年春闘を総括するにあたって、「春闘方式の再検討」を提起した。その骨子は、ストで闘わないJCの賃上げ額がベースとなる民間相場への準拠方式では十分な成果を期待できない、したがって真の産業別統一闘争の組織化に力を注ぐということにあった。国労も、公労協の問題提起を基本的に承認し、7月の第38回定期大会(札幌市)で春闘総括を行った。
 77(昭和52)年春闘では、春闘共闘会議は、「国民春闘共闘会議」へと名称変更し、1000万人春闘を目指した。国労は、2月の第118回拡大中央委員会で、賃上げ要求を3万2000円、19.82%とし、これを「掛け値なしのギリギリの正札要求」とした。この年、私鉄総連は”事後対処法式”すなわち、「団体交渉重視、回答提示後にスト権確立投票」という賃金闘争方式を決めた。その意図は、従来のスケジュール方式では、JC相場を超えられないこと。自ら力をつけた産別自決にあったが、回答提示後にスト権確立投票という事後対処法式では、全交運の他の組合や公労協との戦術調整に大きな問題が生じることが危惧された。事後方式を採用した私鉄は、4月5日の1万1500円回答を不満として、4月16日、20日のスト権を確立した。ただ、15日の大手集団交渉で、1万3300円、9.2%、解決一時金一人3万円の回答を得て、自主交渉で決着した。その内容は、13日の鉄鋼回答1万3000円、8.5%を上回った。公労協関係は、20日、平均1万3,606円、9.12%、国鉄は1万4,243円、8.72%の調停委員長見解で仲裁に移行した。私鉄、公労協、国労とも、鉄鋼相場を上回った。

続く