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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 49

 

皆様こんにちは、気が付けば2週間以上放置状態になってしまいました、申し訳ありません。
今回は、「政策推進労組会議」について少し私なりに調べたことを述べてみたいと思います。

昭和50年に景気は落ち込んだものの、昭和51年には景気は持ち直しを見せ始めていきました。

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「政策推進労組会議」の背景について考える

政策推進会議が出来た背景には、電機労連とJC(全日本金属産業労働組合・現JCM)の統一組合運動にあったと言われています。
その辺りを、電機連合のサイトから少し長いですが、引用させていただこうと思います。

1976年(50年のあゆみ):電機連合

前年の75春闘に続いて攻勢を強めつつある政府・財界に対して、労働側はいかなる闘争体制の構築を図るか、とりわけ電機労連の動向が注目された。と いうのは、電機労連は75春闘で、JCの集中決戦・スクラムトライへの参加を見送り、春闘共闘会議の中核として5月路線・無期限の重点部門ストで挑んだも のの、結果は10%の壁を破れず、9%プラス解決金という結果に終わったという経緯があった。

したがって、76春闘に電機はどのような春闘方針を決めるのか、1976年2月、千葉県館山市で開かれた電機労連の第60回中央委員会が注目 された。この冒頭では、竪山利文委員長が「76春闘は長期・強靭な闘争体制で…」とあいさつして、従来路線かと思わせたが、論議が進み、各大手組合の意見 表明の最後に発言した日立の鮎沢保親委員長が「もう去年のような闘いは組合員に申し訳ない。金属労協で交渉重視を」と訴え、総括答弁に立った竪山委員長も 金属労協を重視するとまとめた。電機労連がストライキ春闘から決別して、JC路線に大転換した日であった

全日本金属産業労働組合IMF-JC)略してJC、以下は全て、JCと記述させていただくのですが、JCの戦術が基本的には労使協調路線でした。

無駄な労使対立は行わず徹底的に話し合う労使協調を提唱しました。

労働者はストライキをしない代わりに使用者は「従業員の雇用を守る」「成果配分は、労働者・経営者・消費者で均等に配分するなど、株主優先の欧米型の経営とは大きく異なる「日本型資本主義」といいますか、高度な日本型社会主義とも言える状況がその背景にありました。
電機労連も、重厚長大産業が中心であった1970年代は、電機連合とJCがという二つの組合が春闘相場を決めたものでした。

そんな中、1975年は電機労連はJCとの合流を見送って単独で春闘ストライキを中心とする戦術)にでたが、十分な賃上げ回答額を得られなかった反省から、1976年には電機連合もJCと合流したことで、民間を中心に成果配分型の組合運動が起こってきます。

「政策推進労組会議」はどのように政策実現を目指したのか。

さて、ここで「政策推進労組会議」(政権会議)と呼ばれるものが民間の組合を中心に発達してきた背景について改めて考えてみたいと思います、それまでは組合がその政策実現に頼るのは、社会党【現・社民党】であり民社党民進党の前身である「新進党」に吸収される形で1993年に消滅)でしたが、それでは十分に政策を反映させることは難しく、むしろ政権党である「自民党」の直接言うほうが政策実現をしてもらえる可能性が高かったと言われています。

それが流れとなって、JCは電機労連との合同を積極的に考えていくとしたそうです。

大原社会問題研究所法政大学大原社研 1976年労働戦線統一への新たな抬頭、政策推進労組会議の結成〔日本労働年鑑 第52集 058〕から引用させていただきます。

七六春闘で「JC集中決戦」に電機労連が参加したことなどから急速に流動化の方向をたどった。同年五月の鉄鋼労連春闘総括中央討論集会で宮田委員長 は「共同行動会議は電機労連の参加を得られるなら発展的に改組する」と提唱。一方、電機労連は六月の第二四回定期大会で「民間労組と共通する課題や国民的 課題についての情報交換や共同行動強化のため、主要単産労組組織による共同行動組織の結成に本格的行動を起こす。民間労組共同行動会議については、新規参 加単産による新たな共同行動組織として発足させる」との方針を決定した。

 これを契機に共同行動会議は、同会議の改組および政策課題について検討する一方、電機労連や全機金とも調整をかさねた。共同行動会議の拡大なのか、新しい民間組織の結成なのか、この間の問題はこの点にしぼられた。

 そうしたなかで、76年10月7日には 「政策推進労組会議」(政権会議)が新たに発足し総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったと言われています。

ただ、こうした組合運動の変節に対して、私鉄総連が「総評、春闘共闘、全交運をとび越えての運動はありえない。民間労組共同行動会議は真の革新とはいいがたく警戒が必要だ」とのきびしい見方をしたことなどが指摘できよう。

と言う評価をしているのは注目される部分と言えましょう。

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第1節 80年代初頭の情勢と国鉄労働組合
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├○ 民間先行の労戦統一の動きと国鉄労働組合
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 戦後労働運動路線の変換は労働組運動の側からすすめられた。
1966年末、全逓宝樹委員長の論文をきっかけに始められた労働戦線再編・統一運動が挫折した後、この運動を推進してきたグループは、76年10月7日 「政策推進労組会議」(政権会議)を発足させた。この会議は、総評、同盟、中立労連、新産別に所属する13単産など17組織で結成された制作・制度要求の ためのカンパニア組織であったが、その後の労働戦線再編・統一の流れに大きくかかわっていった。すなわち、この政権会議参加組合は、国民春闘共闘会議とは 別に77年春闘から毎年設置された賃闘対策民間労組会議のメンバーとして運動をすすめ、80年春闘地にはこの賃聞会議代表の四単産鉄鋼労連・電機労連・ 電力労連・自動車総連)と総評加盟の民間三単産私鉄総連・全日通・全国金属)によるブリッジ共闘連絡会議が発足し、賃金闘争を媒介に”民間結集”が再浮 上した。
 その間、同盟は78年1月の定期大会で、国際自由労連指向・官公労働運動の民主化推進とともに「当面、民間労組を中心に再編・統一をめざす」方針を決め、翌79年2月には中立労連と新産別が総連合を結成して「民間先行結集」を進める方針を決めた。

続く