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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 56

みなさま、10日ぶりに更新させていただきます。

本日も、国労史を底本に、自分なりの解釈を加え解説させていただきます。

国鉄財政の状況は危機的と呼ばれる状況となりました。

国鉄問題を語るとき、ローカル線の廃止問題であるとか、特定人件費問題(戦後、出征中の職員が復員したことや満州鉄道の職員を受入れたり、戦時中に買収した私鉄の職員も国鉄職員としてそのまま編入された)等が問題にされますが、他にも新幹線等の建設に関しては引き続き国鉄自らが資金を調達して行う直営方式が取られており、民業圧迫の観点から関連事業に対しても大きな制限を加えられる中で、中々合理化も進められない状況となっていました。

そんな中で、最初に口火を切ったのが読売新聞で、1981(昭和56)年12月12日の『読売新聞』が「国鉄労使、悪慣行の実態」「”突発休”多く支障」などの見出しで、国鉄の「職場管理監査報告」を紹介したのが始まりで、この頃から、マスコミによる国鉄に対する風当たりと言うか国鉄労働者に対する批判が大きくなっていたと言われています。

事の発端となった、ブルトレ手当問題

部内誌、国有鉄道昭和58年12月から、その当時の世論はどのようなものであったか引用してみようと思います。

下記の表は、昭和58年1月から3月末までに現場規律に関して報道された全国紙の記事を一覧にしたものですが、これによると、1月11日、大阪駅でヤミ休憩ダイヤとして、読売新聞の朝刊3面に出たのが最初のようです。この時は、3面記事と言うことでさほど大きな話題にもならなかったのでしょうが、1月23日に朝日新聞が、東京機関区でのブルートレインの検査係の添乗手当の支給問題を「赤字国鉄闇手当ヤミ手当」として朝刊1面で報道、その後各紙が夕刊で後追いしたことから一気に問題は浮上していきました。

ここで少し、ブルートレインの検査係の添乗手当について解説させていただきます。

この手当は、元々ブルーレインと呼ばれた20系客車電源車の運転要員に端を発します。

当時は20系客車を含めすべての寝台列車はエンジンの始動から電源負荷まで、検査係により自動運転が実現していました、20系客車が誕生した当時は、機関の運転や負荷の切り分けなどは運転要員による手動制御が行われており、そのための乗務手当として支給されてきました。

 昭和45年に最後の20系客車が製造され、電源車は自動運転が可能な100番台となったのちも既得権益であるとして、実態は乗務していないにもかかわらず、手当だけは支払われた形になっていたというものです。

 

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語りつぐ労働運動史には当時の向日町運転所での話が出てきますので、少し長いですが引用させていただこうと思います。

◆◇◆国労つぶしを狙った大キャンペーンが続く◆◇◆

 1月23日、朝日新聞(朝刊)に「赤字国鉄ヤミ手当ブルートレイン検査係に手当支給、年に千数百万円カラ出張で山分け、過去十年間」という記事が報道された。それから連日、商業各紙が競うようにして「国鉄ヤミ休暇、花見や潮干狩り、成田参り」「国鉄脱線職場、ポカ休は当たり前」「値上げ申請の朝、国鉄ミス続出、運転士がいない」「国鉄にブラ勤、仕事はゼロ、合理化合意しても配転できず」「国労組合証を使ってケロリ~家族たち」などと報道。

 自民党に81年4月設置された「国鉄再建小委員会(委員長・元運輸大臣三塚博)」いわゆる三塚委員会。2月3日、三塚本人を先頭にした「調査団」が抜き打ち的に甲府駅にあらわれ、それから以降、各地の現場に「調査」と称して入り、現場管理者を「組合に負けるな」と激励し、労働実態や職場慣行などを聞いて、職場がいかに「荒廃」しているかとマスコミに情報を流し、大々的に報道させた。

 さらに、4月20日から6.8%の運賃値上げが国会で決まると、「国鉄運賃なぜ5年連続アップ?すべて官・民の生産性の差から」「国鉄踏切番、大あくび、37本3人がかり、私鉄なら2人で700本」などと書きたてた。

 3月9日、向日町運転所での現場協議の席上、当局側の発言「悪慣行とかヤミ協定などマスコミ用語であり、労使で協議して結論を得て実施しているもので、もし変更の必要があるとすれば協議していきたい。」

 マスコミが連日報道する『ヤミ』『カラ』『ポカ』という国鉄労働者への批判的キャンペーンの内容なのです。

ヤミ手当は何故起こったのか?

ヤミ手当なるものは、本来的に言えばおかしな話であり、私が郵政に居た頃にも必要ないのではないのかと思わせる手当が有ったことを思い出します。

さすがに私が郵便局に入った頃には無かったと思いますが、薪炭手当なるものもあったように記憶しています。読んで字のごとく、炭を買うための手当てということで生活給の一部として支給されていたそうです。

さて、本題に戻って考えてみましょう。

こうしたヤミ手当が生まれた背景には、マル生運動の後遺症が有ったのではないかとお言われています。

国鉄二つの大罪 国鉄国民会議編 第四章 職場を崩壊させた国鉄労使 志摩好達氏(元鉄労委員長)の記述から引用させていただきます。少し長いのですが、ご容赦願います。

四 当局のマル生からの撤退が職場の悪慣行をつくり出した

 しかし、マル生が事実上の当局の敗北によって、人事権はおろか職場管理権までも国労に自らが与えたのであるから、国労の要求は一二〇%実現し、要求しないものまで与えることによって職場の主人公の御機嫌を取り続けなければ、職場の管理者は務まらなかったのである。
 しかし、国労は労働者の要求は闘いによってのみ獲得できると指導してきた建前から、今度は
 「敵はいま、国労の要求を全て認めているが、それは労働者の階級意識を除去するためのしかけた巧妙な『ワナ』である。
 したがって、当局が認められないような要求を出し、現場長に解決を迫ることが必要である」
と指導したのである。
 それが「賃金」「勤務」「人事」に関する国労の要求となり、いねば、解決しにくい要求の解決を権限のない現場長に求めたのであるから職場は混乱し、管理局の無策からその対策に苦慮した現場長の殆どが組合の要求に屈したのである。
 これが「ヤミ協定」を産み出し、「ヤミ手当」を支給させた背景である。

マル生運動は、当時の国鉄総裁磯崎叡氏が、生産性本部と一緒に取組んだ国鉄再建の運動であり、生産性を高めることで国鉄を再生させようとと言う取り組みであり、運動としては決して悪くなかったのですが、生産性運動を国労組合員を辞めさせて鉄労に加盟させるのが趣旨と思った一部の現場助役などの行動が引き金となり、磯崎総裁自らが謝罪する羽目となったもので、1971年10月11日に衆議院で行き過ぎが有ったことを認め陳謝することとなった一連の運動であり、このことから現場では助役が下位職代行(トイレ掃除などの雑用までも助役に仕事などになったりしたところもあったと言われています。)を行うことで、現場は混乱、そうした妥協の産物として出てきたのがこれらヤミ手当と言われる内容のものであったと言われています。

世論は、さらに国鉄に厳しくなっていくことに

 さらに追い打ちをかけたのは、名古屋駅で発生した、寝台特急紀伊」追突事件でした。

飲酒して酩酊状態であった運転士が居眠りをして、特急紀伊と衝突したものです。

幣ページ国鉄があった時代から引用させていただきますと。

機関士は仮眠中前に飲酒して乗務したということであり、助役もそれに対して何も言えなかったのかと言う疑問が残りますが、当時の現場はそのようなことに対してあまり何も言えない状態であったのかもしれません。

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2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅10番ホームでに停車中の東京発紀伊勝浦寝台特急紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51ディーゼル機関車DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。乗客と機関士(52)の計14人が重軽傷。
機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒して寝すごし、運転中も、もうろう状態だったらしい(16日夕。中村署に業務上過失致傷などの疑いで逮捕された。

この事故は、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。
余談ですが、スハネフ14 102はオハネフ24-17から改造された車両で、改造後5年で事故廃車となってしまいました。

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国鉄があった時代 JNR-era

 

 ************************以下は、国労資料本文になります。******************************

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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├○ 一 マスコミの「国鉄問題」キャンペーン│
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 「国鉄問題」キャンペーンと国労

1981(昭和56)年12月12日の『読売新聞』が「国鉄労使、悪慣行の実態」「”突発休”多く支障」などの見出しで第2臨調に提出された国鉄の「職場管理監査報告」を紹介したが、これはそれ以降半年近くに及ぶ半国鉄労働者キャンペーンの先駆けであった。明けて82年になると、1月23日の『朝日新聞』が「赤字国鉄闇手当ヤミ手当」の見出しでブルートレインの検査係の添乗手当の支給問題を報道したことを契機に、マスコミによって大々的に「ヤミ手当」「職場慣行」などの問題が恣意的に報道され、国鉄労使関係問題が世の注目を集めた。つづいて、『サンケイ新聞』が3月から4月にかけて「国鉄はほんとうに必要なのか」のシリーズものを連載し、国鉄の「破産・現場・赤字」問題をテーマに国鉄労働者の誹謗の記事を特集した。新聞ばかりでなく週刊誌も、「新聞が書けない『国鉄労働組合』」【『週刊新潮』2月11日号】、「国鉄一家の『ぐうたら体質』を衝く-もはや民活移行で喝をいれるしかない」【『週刊ポスト』2月19日号】、「スクープ国鉄運転士の”集団二重就職”を暴露する!」【『週刊サンケイ』4月29日号】)といった調子であった。また、テレビもいわば眼に見える形で国鉄労働者の”働かない”姿を追い続けた。
 折から国会では「行革」に関連して「国鉄の労使関係」が取り上げられ、民社党の塚本書記長塚本三郎は総括質問の中で「国鉄がこんなに悪くなったのはマル生反対の国労動労の恫喝に管理者が屈し、人民管理的な運営になったからだ」「諸悪の根源は現場協議制にあり、国鉄職員にも真面目な者がおり、国労動労にもナラズ者でない者もいる」などと発言し、労使関係の再検討を要求した(2月2日)ことが、マスコミに報じられた。
 また、国鉄問題を論議している第二臨調の関係者も、論文発表というかたちで表舞台に立った。第四部会長の加藤寛慶大教授は雑誌『現代』【82年4月号】に「行革爆弾提言国鉄解体すべし」を同部会の屋山太郎参与は『文藝春秋』【82年4月号】に「国鉄労使国賊論」をそれぞれ発表し、国鉄批判キャンペーンに少なからぬ影響を与えた。
 こうしたマスコミ報道は、国鉄改革論議が盛んな時期だけに、分割・民営化やむなしとする世論形成に寄与したことは間違いない。後に臨調の参謀と言われた瀬島龍三は、「私どもは会談の内容を意識的一無意識的に外へ漏らしていくという行き方をとった。
・・・・意識的、無意識的にできるだけ外へ出していくことによって、マスコミがこれを取り上げて書いてくれる。それがまた国民に問題意識を与え、そして一つの流れができていくと判断した」【83年12月23日、国策研究会】と述べて、作戦が功を奏したことを明らかにした。

続く