今回も、国労の記事を底本として、解説を加えさせていただこうと思います。
生産性運動以降の国鉄では職場の荒廃が進む結果に
特に、学園でもワッペンを導入することで民主化が行われた・・・組合の意向が通る職場になったという意味だと思いますが。
利用者不在の考え方が、当たり前になってしまっている辺りに国鉄の病巣があったと言えそうです。
逆に言えば、そうした病巣を取り除こうとしたことに対し、国労は大きく反発したと言えそうです。
上記の画像は、昭和48年7月4日発行の動力車新聞の記事からの抜粋ですが、この記事によりますと、関西鉄道学園でのワッペン着用を認めさせたと書かれおり、学園という教育機関にも労働運動が持ち込まれている異常な事態となっていたことが伺えます。
そして、当局幹部は、生産性運動の中止以降は、国労に必要以上に権利を手渡すことで収拾を図る【いわゆる臭いものには蓋を】したことで、余計におかしな方向に流れることになりました。
国鉄の職場規律確立で、ワッペンの中止は喫緊の課題でした。
それが、国労が下記のように主張することにつながると思いますが、かなり強力にワッペン等に関しては厳しい処分などが行われています。
実は、JR発足後もこうした処分は行われていたようで、当初はJR東海が最初かと思ったのですが、以外とJR東日本が最初にワッペン着用者に対して、処分を発令しています。
実は、JR発足後もこうした処分は行われていたようで、当初はJR東海が最初かと思ったのですが、以外とJR東日本が最初にワッペン着用者に対して、処分を発令しています。
こうした職場管理の具体的指示にもとづき全国の職場で、国労の下部組織と組合員の活動に対し多様な手法で介入がなされた。
83年11月17日に長野鉄道学園で次のような事件が起きた。
学園当局は「学園内でのワッペンの着用は一切禁止している。10分間の猶予を与えるからワッペンをはずすことを考えろ。そうでないと職場に帰ってもらうことになる」と恫喝し、引き上げて行った。10分を数分過ぎて組合員が教務室へ行ったところ「入学式は終わった。帰って駅長の指示に従え」といい、帰る列車を指定するという、国労組合員への攻撃を仕掛けてきた。これは学園での例だが、職場では命令に従わない組合員に業務命令が乱発され、処分が強行されていた。
実際にこの時期、全国でフロント職員【出札・改札などの業務に就く駅員】を中心に、ワッペンの非着用、名札着用の指導が行われています。
マナーブックと呼ばれる小冊子が配布され、新入社員の研修で行われるようなことを、行わねばならないところに、国鉄のフロントサービスに対する病根がありました。
地方管理局では改善傾向が顕著だが、都市部などでは改善などが進まず
下記の資料は、「駅職員のフロントサービス教育についてから」という記事から引用したものです。
サンプルとしては48駅と少ないのと駅長による自己診断と言うことで、その判断基準が統一されていないきらいはありますが。当時を知るひとつの資料として価値はあると思います。
調査方法として、48駅を地域別に首都圏(千葉局、東京北局、東京南局、東京西局から20駅)、名古屋・関西圏として(名古屋局、大阪局、天王寺局から15駅)、地方中核都市として(札幌局、仙台局、新潟局、広島局、門司局から13駅)を選択しており、9月時点の着用率等を報告させたとなっています。
この記事で判断できることは、名札の着用率は上がったものの、ワッペンの非着用は改善は見込まれるものの、中々進んでいないと言ったところでしょうか。
(国有鉄道 1984年6月号 駅職員のフロントサービス教育についてから、引用)
これで見ますと名古屋・関西圏での名札の着用率が高く、かつワッペン非着用率も高くなっているのが確認できます。
ここで注目しているのは、ワッペンの非着用で、名古屋・関西圏でワッペン着用率100%の駅が2駅ほど有るわけですが、この時期に有ってワッペン着用率が100%と言う箇所も有り、組合の拠点が強いところではまだまだその辺が浸透してない部分もあると言えそうです。 ただ、確実に世間の目は更に厳しくなっていくのですが、国労自体がその辺をどこまで組合員レベルで危機感を共有できていたのかはいささか疑問です。
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国鉄があった時代 JNR-era
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_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃
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第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を
めぐる闘いと専制的労務管理への反撃
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四 団体交渉再開と雇用安定協約の締結
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├○ 三 昇給差別問題への取り組み │
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続き
リボン・ワッペンの着用状況の点検は第1回目の点検から項目に入っていた。84年4月の点検では新たに「氏名札の着用状況」「服装の整正状況」の項目が付け加えられ、当時の職員管理の手法を反映していた。国鉄当局は82年から83年にかけて運輸省の指導によって、マスコミの批判にさられていた「時間内入浴、ブラ日勤、突発休等の勤務の乱れ」の「是正」に取り組んだが、83年度の「是正課題」として「リボン、ワッペン、ビラ、看板、横断幕」の規制をあげ、「早急にその是正を期す」としていた。職場では、「外しなさい、外さないと処分ですよ」という業務命令が乱発されていた。
A鉄道管理局のB駅では「昭和58年度重点実施項目」なる文書で、管理権確立のための実施項目を掲げていた。このB駅は、かつて千人を越える職員のいた国鉄内でも有数の大きな駅である。
この文書は次のような内容であった。
「職場規律」
(1)再点検項目
①ヤミ専従、?遅刻及び早退、
②異常時対応の適確な対応、
③組合との事前相談、
④昇職試験の組合関与、
⑤指定された場所以外に組合に漫然と使用されているような部屋の有無並びに組合掲示のチェック化、など17件。
(2)管理権確立のために
①勤務時間内の組合活動、
②パス等の不正使用(私鉄職員の国鉄利用黙認等)、
③差別(お茶、食事等)、管理権に対する介入排除、
④管理者及び上位職の下位職代務、
⑤管理者の意識改革、
⑥問題職員に対する管理強化、在来線教育担当助役の指定(転入者、新人教育対策)、
⑦総括助役の活動化、など16件。
(3)今後の重点実施項目
①部下職員との対話による建設的意見や要望等の対策(現協制度廃止に伴う職場管理の在り方等の関連において)、
②服装の整正(ネクタイ着用、サンダル禁止等)、
③ワッペン等の不要物の取り外し、
④氏名札の着用、
⑤部屋長制度の導入と職制に合った勤務体制の確立、など10件。
「収入の確保」および「合理化計画」は略(『国労闘争情報』14号)。
こうした職場管理の具体的指示にもとづき全国の職場で、国労の下部組織と組合員の活動に対し多様な手法で介入がなされた。
83年11月17日に長野鉄道学園で次のような事件が起きた。
学園当局は「学園内でのワッペンの着用は一切禁止している。10分間の猶予を与えるからワッペンをはずすことを考えろ。そうでないと職場に帰ってもらうことになる」と恫喝し、引き上げて行った。10分を数分過ぎて組合員が教務室へ行ったところ「入学式は終わった。帰って駅長の指示に従え」といい、帰る列車を指定するという、国労組合員への攻撃を仕掛けてきた。これは学園での例だが、職場では命令に従わない組合員に業務命令が乱発され、処分が強行されていた。
国労は、ワッペン着用闘争を83年10月15日以降全国統一闘争として取り組み、85年5月31日まで続けた。一時中断後、「余剰人員調整策」の3項目に反対する7月闘争においてワッペン着用闘争を復活し、12月20日まで続けた。年があけて85年2月下旬からの「特退制度」の要求を実現する闘いにおいて、ワッペン着用、ネームプレート着用拒否が取り組まれ、5月27日に収拾した。
ワッペン着用やネームプレート着用拒否をはじめとする職場闘争に対する処分の推移をみると、83年7月からの1年間に2926人、85年7月から85年6月までの1年間に3050人であった。ところが、85年5月以降実施したワッペン着用闘争のみの処分者は、戒告175人、訓告5万1103人、厳重注意7205人の合計5万8582人もの多数にのぼったのである。85年度の処分者の合計は15万8565人であり、スト権ストの時の処分者数に次ぐ大量処分がなされた。
続く