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国鉄労働組合史詳細解説 120

国鉄労働組合史詳細解説、今回も国労の記事ではなく他の記事などを参照しながら書かせていただきます。

 

今回は、国鉄部内紙、昭和60年1月号の記事から書かせていただこうと思います。

職場規律確立が叫ばれる中で再び起こった惨事

昭和59年10月19日

特急「富士」、西明石駅構内で客車がホームに激突と言う事故がありました。

当時は寝台列車などに関しては引き続き2人乗務が行われていました。
(これは、EL・DL一人乗務問題まで遡るのですが、蒸気機関車と異なり、機関助士の仕事を殆ど必要としないことから、機関助士を廃止する事を計画しますが、これに強く反発した動労などが、一人乗務反対の闘争を行い、妥協の産物として、寝台列車など一部の列車については二人乗務が残されていたのでした。

当時の組合の言い分は、二人の目の方が確実であるという主張でしたが、今回の例では二人乗務が必ずしも安全であると言うことを証明しているとは言えないことがはっきりすることとなりました。

 

明石事故の概要を簡記すると

概要を当時の国有鉄道の記事から引用してみようと思います。

西明石事故の反省と対策

 

たかはし高橋薫(運転局保安謀総括補佐)1 事故の概況さる10月19日の早朝,山陽本線西明石駅構内においてプルートレイン「富士」がホームに激突し,寝台客車13両が脱線,旅客32名が負傷するという重大な事故が発生した。その原因は,電気機関士が酒気を帯びて乗務し西明石駅構内の分岐器において制限速度をオーパーして運転したことによるものであり,極めて悪質であった。また,一緒に乗務していた機関助士もプレーキ手配等を行っておらず事故に至ってしまった。さらに,10月22日になって後続のブルートレイン「さくら」の電気機関士も,上記「富士」の電気機関士と出先地において一緒に飲酒をしていたことが判明した。

当日は、保線作業が行われており、工事による影響で、外側線【列車線】から、内側線【電車線】に変更されており、この変更は当然のことながら点呼では伝えられていたはずです。

ただ、この機関士は仮眠前に飲酒し、て運転していたわけで、ようで、ていたと言うことで、この乗務員に対して、対面点呼が行われておらず、電話による点呼であったことそうです。

この事故では、機関士は西明石駅を100km/h程度の速度で内側線に進入、重量のある機関車は脱線を免れたものの、客車は脱線したままホームに激突することとなりました。

西明石駅列車脱線事故

西明石駅列車脱線事故
画像 wikipediaから引用

何故機関助士は停止手配を取得なかったのか

また、同乗の機関助士も機関士とはそりが合わなかったという報道もありましたし、機関士に対して話せるような状況ではなかったという報道もあったかと記憶しています。

それゆえに、機関士が居眠りをしていたとしても、それを注意しがたい雰囲気であったとも言われています。

また、さくら号の運転士も、先輩の機関士(富士を運転していた機関士)の誘いを断り切れなかったとも書かれていますが、いずれにしても、当時のこうした状況は世論の非難を浴びることとなりました。

世論はさらに厳しい目を向けることに

世論は、国鉄改革が叫ばれ民営化か否かという問題が議論されている中で、世論は一気に国鉄に対して厳しい目が向けられることになりました。

当時の様子を国有鉄道2月号「新聞投書に見る世間の動向」を参照しますと

西明石事故では、1週間余りの聞に24件が集中して寄せられ、「酒を飲んで運転するとは言語道断であり強い怒りを覚える」(サンケイ10.24), 「いったい人命をなんと考えるのかJ(読売10.23 )ど、激しい調子で怒りを表わした投書ばかりで、中には「フルムーン旅行やめようかJ(東京10.26)、「後ろから2両目乗車をし、国鉄事故に自衛J(読売10.25)といった投書もあった。

とあるように、かなり厳しい目が向けられていたことが判ります。

国労などに対する労務政策が厳しくなったから、こうした行動に出たという考え方もあるかもしれませんが、結果的には世論としては、こうした動きには厳しい目を向けざるを得ないと言うことになりました。

当時は、機関区などの公開なども積極的に行われ、少しでも国鉄の評判を良くしようと努力している時期でしたので、こうした事故はそうした信頼を一気に失わせるものでした。

さすがに、国鉄もこの一件は大きな問題として捉えられ、次のように事故の翌日には総裁通達による事故防止の徹底が図られることとなりました。

国鉄当局としてもショックが大きかった事故、そして組合は沈黙

国鉄当局は下記のとおり、通達を発出することとなりました。

以下、「西明石事故の反省と対策」から再び引用してみたいと思います。

翌日の10月20日には総裁通達によりこの事故の重大性を認識させるとともにこの種の事故の絶滅を期すため、職員一人ひとりに職責の重大性を認識させること、乗務員管理を徹底しきめ細かい指導を行うこと、出先点呼のあり方を再検討し、乗務員の状態把握を強化すること、これまでの飲酒事故防止対策の実施状況をあらためて確認し徹底をはかること、の4点について指導した。

また、10月23日に緊急に全国の運転関係部長を召集し、問題点の議論を行い、具体的対策について意思統一し、全力をあげて再発防止に取り組むこととした。さらに、具体的指導として10月24日には運転局長名により、出先地におげる電話点呼は廃止し対面点呼に改めること、乗務員の出先地での時間帯、折返し間合いを見直すこと、深夜における要注仕業の添乗を強化すること、昭和57年度対策(名古屋事故対策〉の効果と定着度合いをトレースすること、を通達した。

この事故の持つ重要J性に鑑み、保安担当常務及び関係局長を班長とした異例の本社特別査察を大阪局をはじめ全国10管理局30現場(運転区所、車掌区所〉について10月23日から11月3日にかけて実施した。

 このように、矢継ぎ早に施策を打ち出していきますが、それでも未だ未だ十分に浸透しているとはいえなかった言われています。

実際、出勤点呼は、本来は助役の前での対面点呼が基本ですが、この当時でも、電話点呼による、点呼が行われており、この事故以後、電話点呼を全面的に対面点呼に切り替えた局もあるということで、逆に言えば、今まで電話点呼という簡略な方法がなされていたことに驚きを禁じ得ません。

実際の改善事項等については、別途別blogで記載したいと思います。

 

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