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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 139

久々に、更新させていただきます。

今回は、国労が臨調による分割民営化最終答申に反対して、分割民営化反対の運動を行って頃の話を中心に書かせていただきます。

世論はNTTの民営化の成功で官業の民営化は正しいという判断

今回は、国鉄分割民営化が既定事項として進められていた、昭和60年の8月の話となります。

国労は全動労などとともに最後の抵抗として、ストライキを試みることになります。
しかし、全面ストライキを打てる状況ではなく、地上勤務者(駅員など)を中心としての時限ストであり、その影響は軽微なものでした。

ただ、当時の世論は現在と真逆で、世論は分割民営化を容認する言う雰囲気があったのも事実でした。

少なくとも、当時の世論はストばかりする国鉄(そのようなイメージができあがっていたのも事実)であり、それに対して、先行して民営かされたNTTは民営化したことで、電話機の自由化(それまでは、電話機は電電公社からのレンタル品)であり、自由なデザインの電話機を設置できるようになるなど、概ね公益事業の民営化は利用者にもメリットを与えうると言う世論が醸成されていたように見えます。

それまでの電話は電電公社からのレンタル品であり、自由に電話を買うことはできず

それまでの電話は電電公社からのレンタル品であり、自由に電話を買うことはできず

そのような中、新生NTTは電話機の自由化や長距離を中心に値下げなどによる方策で公共事業の民営化は、善であるという印象をあたえることになりました。

NTTには、通信基幹会社として株式の国による保有が義務づけられJRはそうした縛りがない点が問題

電電公社からNTTに変更の場合、国家による位置づけが異なっていたことが原因と言える

国労は、「分割・民営化反対阻止の闘い」に邁進するが

分割・民営化反対阻止の闘い  大会直後の8月4日、監理委員会の分割・民営化答申に抗議し、全国一社制による国鉄の再生をめざす集会が全国360カ所で開かれ、約70万人が参加した。中央集会は、明治公園で1万2000人の労働者と都民が結集し開かれた。  

8月5日、国労は監理委員会の最終答申に抗議し、国鉄の分割・民営化阻止を目標とした全国統一ストライキを決行した。この日始業時から、地上勤務者を対象に、全国1585分会・職場、6万7702人が1時間のストを決行した。

国労が時限スト 8/5

分割・民営化に反対する国労は再建監理委員会の最終答申に抗議して始業時から全国1、500カ所で1時間の時限スト。乗務員関係を除いたためダイヤに影響はなかった。国労のストは昨年8月以来1年ぶり

引用・国鉄があった時代 昭和60年後半から引用

NTTとJRで一番大きな違いは、将来的に国がどうするかと言う点

ただし、ここで注目しなくてはいけないのは、電電公社は当時は完全に国内にあっては独占状態、(郵政省の場合、信書は郵便独占ですが、小包の分野は当時は郵便局が6kgまでと制限されていましたが実際にはヤマト運輸による4kg程度の荷物に関してもかなり迫っており、郵政省も引き受け重量の引き上げ・・・最終的に30kgまでということで、競争状態になります。しかし、通信に関しては電電公社が民営化されるまでは、独自の電話網を構築していたJRや警察電話(ただし専用の回線をNTTと契約しているため、独自の回線網を持っていたのは電電公社を除けば国鉄のみ)のみであり、実質的な競争者はいなかったのに対して、国鉄は高速道路や、飛行機という他の交通機関との競争にされされていたことは注目しなくてはなりません。

本来であれば、そうした点も注視されるべきところではありますが、世間からすればストライキばかりしている、窓口の対応は最悪・・・当時の新聞の投書欄等では、釣り銭を投げつけられたとか、横柄な駅員がいたと言った苦情めいた話が多くあったのも事実で、実際にはそうした職員は一部であったとしても悪目立ちしてしまうのは仕方のないことでした。

実際、昭和57年には、寝台特急紀伊」が名古屋駅で、20Km/hの速度で客車に衝突、最後尾の寝台車と機関車を破壊した事故や、昭和59年にも西明石駅で速度を超過して分岐線を通過、寝台車が脱線してホームに激突、通路側を破壊しながら停車した事件(機関車は脱線しなかったが、ホームに機関車が衝撃したショックで連結器が破損して緊急停止)など、国鉄を取り巻く世間の目は厳しいものとなっていたもの事実であり、国労が分割民営化反対を声だかに叫び、また、国鉄電電公社では最初の段階から条件が大きく異なる中で、一律に「官業の民営化=善」であるという発想は問題であったわけですが、その辺がスルーされていたわけです。

名古屋駅特急紀伊衝突事故 詳細

名古屋駅構内で機関車激突名古屋駅プルトレに被害 3/15
名古屋駅構内で機関車激突名古屋駅でプルトレに被害 3/15
画像は、事故と直接関係ございません。黒木氏画像提供

2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅10番ホームでに停車中の東京発紀伊勝浦寝台特急紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51ディーゼル機関車DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。乗客と機関士(52)の計14人が重軽傷
機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒して寝すごし、運転中も、もうろう状態だったらしい(16日夕。中村署に業務上過失致傷などの疑いで逮捕された

http://jnrera.starfree.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_57.html

特急「富士」西明石駅構内で客車がホームに激突32名けが 10/19

以下詳細
1:48頃、山陽本線西明石駅構内を運転中の上り寝台特急「富士」の先頭車両がホームに激突大破した
当時の新聞記事等から再現すると、西明石駅では当日保線作業が行われており、列車線(外側線)から電車線(内側線)への進路変更が行われており、この点は点呼時伝達されていたが、飲酒をしていた機関士はそのまま乗務、同乗していた機関助士も同乗していたがこれを止めることはできなかった模様
(ここで注意していただきたいのは、機関士が飲酒していたという事実と、これを止め得なかったと言うこと。なお当時は夜間については二人乗務とされていた。)
進路が変更されていることから、構内通過速度は制限されていたにもかかわらず、直進速度(約100キロ)で分岐器に進入したため、重い機関車は脱線を免れたが、次位の客車は軽い寝台客車であったため連結器が外れそのままホーム端に激突
1両目は車体の片側をえぐりとる状態、2両目以降も脱線、計13両が脱線、幸い転覆は免れた
また、ホームに激突した側が通路側であったので負傷者のみであったがこれが逆(寝台側)であったら死傷者が多数に上ったのではないかと思われる。)なお、寝台車は製造まもないオハネフ25-104であった
この事故で東加古川~須磨間が不通となり、12:43分に下り線が開通、16:34分から西明石から大久保間の下り線が開通、翌20日13:33分から上り線が開通所定の運転に戻った

http://jnrera.starfree.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_59_5.html

国労も、こうした点を指摘すれば良かったのかもしれませんが。

国労としても感情論に走りすぎて、

以下の運動方針にもありますが、

  1. 今年度の運動の最重点は「分割・民営化」阻止であり、中央執行委員会が一丸となってこの闘いに取り組む。

  2. 闘いにあたっては中央・地方の意思統一が重要であり、そのため機関中心の組織運営とし、重要な政策や戦略の策定にあたっては、全国委員長・書記長会議にはかり協議する。戦術については従来どおり全国戦術委員長会議で協議する。

と言うことで、柔軟な発想ができず最後はイデオローギに拘ってしまったように思えてなりません。

ただ、それ以上に「官業の民営化=善」という風潮、いわゆる新自由主義に乗せられてしまった国民もそこにいたことを時代の潮目が変わりつつあるなか、十分見極める必要があるのではないでしょうか。

 

今後この辺は、労働運動史と言うよりも社会学的な視点から検討すべきことかもしれませんので、ひとまず筆を置かせていただきます。

 

参考:上記のイラストの文字を以下に記しておきます。

上段

電電公社は、公社時代から独占事業と言うこともあり収益は常に黒字であり、アメリカからの市場開放勢力などの外圧的要因があった。国鉄の場合と最初からそのスタートが異なる点には注意すべきである。

       ⇒ 

下段

NTTとJRの一番大きな違いは、電電公社は民営化することで競争を促すために参入を果たすとしていますが、基幹的通信機関として完全民営化とせず、国が一定以上の株式を保有する特殊会社とすることが法令で明記されているのに対し、JRの場合は赤字国鉄という状態をどうするかという観点からスタートしており、分割も会社間の競争を促すためというもっともらしい理由がつけられていますが、既に国鉄の時点で中長距離は高速道路などとの競合状態にあり、ローカル線などでは高速道路に蚕食されおり、超長距離にあっては飛行機という存在にそのシェアを奪われている点に注視すべきです。さらに、国鉄の場合国による株式の保有義務を持たせなかったことが更に現在の問題を大きくしています。

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********************************以下は、国労の資料になります。************************

分割・民営化反対阻止の闘い  大会直後の8月4日、監理委員会の分割・民営化答申に抗議し、全国一社制による国鉄の再生をめざす集会が全国360カ所で開かれ、約70万人が参加した。中央集会は、明治公園で1万2000人の労働者と都民が結集し開かれた。  

8月5日、国労は監理委員会の最終答申に抗議し、国鉄の分割・民営化阻止を目標とした全国統一ストライキを決行した。この日始業時から、地上勤務者を対象に、全国1585分会・職場、6万7702人が1時間のストを決行した。

 全動労も全国九地方労組10拠点支部で29分ストを行った。国労東京駅分会では、相次ぐ合理化と狙い打ち的な活動家の大量配転のあとに迎えた8・5ストであった。スト参加対象者は198人。当局は1人1人に手紙を出したり、管理者を総動員し、さまざまな形で切り崩し工作をつづけた。そのうえ「99%がスト脱落」とのデマ情報を流した。当日は、鉄道公安員30人、白腕部隊30人を動員し、組合側が1人の組合員を説得しているところに押しかけ、強引にその組合員を連れ出していった。スト参加者は近くの国労会館に結集しており、ギリギリの攻防の末、スト参加率は52%であった。 このように、全国各地の職場で当局の脅迫じみた切り崩しが進められたなかでのストライキの成功に、国労本部は反撃への橋頭堡を築いたものと総括した。

 国労本部は8月12日、第1回中央執行委員会を開催し、中執の任務配置をきめ、大会決定にもとづいて前年度に引き続き中央闘争委員会を設置し、指令一号を発した。  指令一号  

① 今年度の運動の最重点は「分割・民営化」阻止であり、中央執行委員会が一丸となってこの闘いに取り組む。

② 闘いにあたっては中央・地方の意思統一が重要であり、そのため機関中心の組織運営とし、重要な政策や戦略の策定にあたっては、全国委員長・書記長会議にはかり協議する。戦術については従来どおり全国戦術委員長会議で協議する。

 総評は8月28日、単産・県評代表者会議を開き、秋期闘争方針を確認するとともに、国鉄分割・民営化反対闘争を政府に対決するものと位置づけ、国民多数派の形成にむけた5000万人署名活動を柱とする「国鉄再建闘争活動計画」を決めた。この活動計画の要旨は次のとおりである。(署名活動の詳細は後述)

 ① 内閣総理大臣と衆参両院議長に対する請願署名とする。

 ② 署名を求める柱は「分割・民営化」答申に反対を基本としながら、「国鉄のネットワークを21世紀へ存続させる請願書」の趣旨に立ち、地方では地域の特殊性を踏まえて柔軟に対処することとし、国民的多数派形成の運動にふさわしい内容として幅を持たせる。

 ③ 目的=中曽根政権による国民無視の国鉄分割・民営化に反対し、国民の足と生活を守り、国鉄および関連に働く仲間の雇用を守るために国民的多数派形成をめざし、壮大な国民運動を展開する。

 ④ 目標と対象者=獲得目標数有権者過半数とし、対象は有権者はもちろん利用者すべてとする。(以下、略)。

 国労は、総評の取り組む5000万署名運動の成功のため、当面の闘いについて以下の闘争指令一号を発し、全組合員の総決起を訴えた。

 ① 監理委員会の答申について各級機関および全組合員が学習し、その内在している矛盾、弱点を把握すること。

 ② 答申の矛盾と弱点を徹底的に暴露し、分割・民営が国鉄改革・再建でないことを明らかにして、国民的「力」に点火するオルグと宣伝を強める。

 ③ 8・5ストの総括運動と結合して、当局の不法不当な労務管理を点検・摘発する組織的行動を強め、分断・差別を許さない団結を強化する。(中略)

 ④ ワッペン着用に対する不当処分の通告が準備されている模様である。この処分通告は露骨な団結破壊の攻撃であり、労働者の権利と団結を守る立場から抵抗し反撃しなければならない。(以下、略)。

 国鉄の分割・民営化阻止の闘いを本格的に開始した矢先、国鉄当局は9月13~19日にかけて労組指令によるワッペン着用、ネームプレート着用拒否の闘いに参加した労働者5万8482人に対し、戒告、訓告、厳重注意などの処分を行った。続いて10月5日には、監理委員会最終答申に抗議する8・5ストその他の闘争参加者6万4387人という大量処分を通告した。そのうち国労は6万4126人、全動労205人、動労27人、千葉動労29人であった。国鉄当局はこうした攻撃に加え、「国労は『三項目』の推進に協力的でない」との「心証」から、「雇用安定協約」の継続について難色を示した。その一方で、動労、鉄労、全施労の三組合には「87年3月31日までの間、現行の雇用安定協約を継続する」との態度を決め、協約を締結した。国労は、前述したように85年11月19、20日の中央委員会で「三ない運動」の中止を決定したが、当局は協約の締結を拒否した。このように当局側の攻撃が一段と激しさを増していった。