以上のように技術者としての道を歩んできたわけで、高木総裁の後を受けて再び国鉄出身の総裁誕生となりました。大正4年5月7日 生誕
昭和13年3月 東京帝国大工学学部土木工学科卒業
昭和13.4 鉄道省入省 任鉄道技手、建設局
昭和27. 2 運輸総局施設局土木課
昭和28. 6 大阪工事事務 所次長
昭和30.11 技師長室
昭和33. 2 施設局土木課長
昭和34. 7 同 管理課長
昭和34.12 名古屋幹線工事局長
昭和37.10 東京幹線工事局長
昭和39. 6 建設局長
昭和40. 2 臨時 工事積算室長兼務
昭和40. 4 日本国有 鉄道理事(常務理事)
昭和43. 4 同 退任(任期満了〕
昭和43. 4 極東鋼弦コンクリ ー ト振興(株)取締役
昭和46.11 西武鉄道側専務取締役
昭和48.11 同 副社長
昭和49. 5 西武建設側社 長( 兼任)
昭和54.10 日本鉄道建設公団総裁
昭和58.12.2 日本国有鉄道総裁
仁杉総裁が民営化を容認した背景には、西武鉄道時代の経験が
「厳正な規律のなかにも職員の間 での相互信頼 温かい交流が大切なことだと思う。私は皆さんに、
- 親方日の丸意識の払拭
- ルール・規律の遵守
- 職員間の連携を深め再建に向けて心を一つにする
- 各現場において勉強を重ね技能の研鑽につとめる
の4 点をとくに お願いしたい。幸い関係各方面の国鉄問題への関心は高まっており、今こそ再建への絶好の機会であると思うので、これらのことについて努力していただきたい国有鉄道 昭和59年1月
就任時の挨拶と言うことで、国有鉄道P2に書かれていました。
実際、この当時の国鉄職員の接客はお世辞にも優れているとは言えず、昭和59年2月号の国有鉄道では、新聞の投書からという記事が掲載されていて、国鉄職員に対する接客の苦情などが数多く掲載されていたものでした。そうした国鉄職員に対して、親方日の丸的な意識止めようと意発言しているわけで、西武鉄道時代の経験が大きいと本人も認めています。
仁杉総裁の民営化容認発言で、国労は動労などと一緒に抗議声明発表
ただ、下記の通り国労が批判しているように、
「昭和59(1984)年6月21日の日本記者クラブにおける講演で、「分割も民営も基本的には賛成だ」との発言は、労働組合からの猛反発をうける事になります。
「国労、動労、全動労、全地労の四組合は共同で抗議声明を出したとありますが、昭和57(1982)年頃から、国労と動労はその基本方針でその運動方向の違いなどから互いに批判しあう(国労は、出向反対派であったが、動労は鉄労同様に、出向には積極的に応じるなど、動労の変節が目立っていた時期でした。
国鉄は非分割民営化案を発表
さて、再建監理委員会が昭和59(1984)年8月10日に分割民営化の方向性を打ち出し、その具体案を打ち出していた時期、国鉄は唐突とも言えるように、昭和60(1985)年1月10日に国鉄としての独自再建案を発表しますが、これはローカル線の経営は地方がして欲しい、その反面、幹線部分は国鉄が運営するものであった事は既に記した事ですが、この案はマスコミからも相手にされることは無かったわけですが、このような国鉄独自の再建案が発表された背景には、国鉄だけが審議から外されていたこともあり、また1987年までに分割民営化は出来ないのでは・・・と言う思惑もあったと言われています。この辺は、日本労働年鑑1987年 特集 国鉄分割・民営化問題 II 分割・民営化路線と国鉄当局の対応 に詳しいので、引用させていただきます。
監理委員会がすでに国鉄分割・民営化の具体案づくりを本格的に進めている時期に、国鉄当局がこれに反対する独自案を出した理由は、つぎのように考えられる。
一つは、監理委員会が答申作成にあたって国鉄をほとんど無視して進めてきたことにたいする国鉄の側からの、とくに分割反対派から国鉄の意思をアピールしておくべきだと考えたこと、それにいたる判断は、国鉄民営化は八七年四月一日に可能だが、分割は無理と見なしたことがあった。国鉄内では、この案にもとづいて「分割抜きの民営化」に向けて具体的な体制づくりをはじめ、二月初めには総裁直属の「経営改革推進チーム」が非公式に発足し、全国一社制について、各方面に国鉄の考え方を広げるキャンペーンをはじめ、また、国鉄内の分割・民営化容認の改革派にたいする締めつけをきびしくしていった。
更に追い打ちをかけることとなった、総裁の脇の甘さ
改革3人組と後に言われた(井手・松田・葛西)を本社から転出させるなどの体制で分割容認派を排除していく中で、徐々に世論は分割容認の方向に流れていくこととなりました。
そんな折、仁杉総裁の家族[仁杉総裁の娘の夫が経営する会社]が総裁就任後も国鉄の協力会社として多額の発注を受けていたことが発覚し。
それを国会でも追及されることとなりました。側にも非があった点としては、総裁の家族が経営する会社がいわば利益供与を受けているのでは無いかと社会党の代議士から指摘を受けることとなり、国労の下記資料でも書かれているように、亀井監理委員会委員長からは、「5月16日の記者会見で仁杉総裁について「分割に反対する国鉄自身の再建案が1月に出たが、その考えを変えてもらわなければ、総裁を代わってもらわなければならない」と発言した。」とあるように、当初は分割民営化の推進役として期待された仁杉総裁は、ますます進退窮まることとなりました。
結果的には、以下のように6月21日辞意表明
24日には、反対派全員の辞表をとりまとめ、一斉に退任、翌25日からは、国鉄最後の総裁として元運輸事務次官の杉浦喬也氏が就任することとなりました。
仁杉国鉄総裁辞意表明 6/21
仁杉国鉄総裁は中曾根首相に辞意を表明、首相は後任に杉浦喬也前運輸事務次官を内定仁杉総裁辞表提出 6/24
仁杉同鉄総裁は山下運輸大臣に中曾根首相宛の辞表を提出、運輸相はこれを受埋、縄田副総裁、半谷技師長も退任杉浦国鉄総裁誕生 6/25
政府は仁杉国鉄総裁の任を免し、同時に杉浦喬也氏を国鉄総裁に任命。また国鉄は役員13人のうち6人を交替させる大幅人事異動を発令、副総裁に檎元雅司氏、技師長に坂田浩一氏就任
以上 国鉄があった時代 から引用
なお、仁杉総裁が、変節していく背景には縄田副総裁及び太田職員局長の動きにも注目しないと行けないのですが、この辺は長いので次回お話をさせていただく予定としております。
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国鉄があった時代 JNR-era
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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争
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第二節 分割・民営化推進体制の確立
―内閣. 運輸省. 国鉄―
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├○ 一 仁杉総裁の更迭と杉浦新体制の発足 │
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監理委員会答申の一ヵ月前、国鉄の分割・民営化をめぐる事態が緊迫化するなかで、1985年6月25日、仁杉国鉄総裁が辞任した。仁杉総裁は、国鉄のなかで「分割・民常化」を率先して推進していく役割をにない、83年11月29日に高木総裁の後任として任命されたのであった。しかし、当時の国鉄内には「分割. 民営化」を受け入れる状況はなかった。のちに改革派と呼ばれた国鉄官僚の共通点は、労働組合に対するタカ派的立場で、職場管理権を確立することにあり、まだ分割・民営化を唱えていなかった。
したがって、仁杉国鉄総裁は就任後すぐには中曽根政権と監理委員会の期待する分割・民営化には動けなかった。
しかし、84年6月21日の日本記者クラブにおける講演で、「分割も民営も基本的には賛成だ」との発言をし、この総裁発言は、前述したように労働組合の猛反発をうけ、国労、動労、全動労、全地労の四組合は共同で抗議声明を出した。
そして、85年1月の国鉄独自再建案( 前述) の発表後、仁杉総裁と国鉄首脳陣との間に食い違いが目立っていった。山下徳天運輸大臣は、1月12日に仁杉総裁を運輸省に呼び、「運輸省としては、基本的には、再建監理委員会と同じように、分割・民営化の方向で検討を進めるべきだと考えている」と述べ、「分割. 民営化に向けた再建監理委員会の審議に国鉄も積極的に協力すべきだ」と強く要請した。この要請に対し、仁杉総裁は「国鉄としても頭から分割を否定しているわけではない。審議促進のため協力する」と答えた。しかし・国鉄内部では先に述べたように「民営化」に向けた法改正の準備作業を開始しており、縄田副総裁は「分割については検討しない」と明言するなど、運輸大臣への総裁の回答とは違いが生まれていた。このことからも明らかなように仁杉総裁の指導力は低下していた。監理委員会に対する国鉄首脳の反抗的態度に、中曽根首相は2月6日の衆議院予算委員会で「臨調答申に反するような考えの人がいれば、けじめをつけなければならない」と強い姿勢を明らかにするほどであった。
とりわけ、仁杉総裁の指導力を一段と低下させたのが、3月6日の衆議院予算委員会で社会党が追及した、総裁の家族の経営する会社が国鉄指定業者の下請けを続けていた事実であった。亀井監理委員会委員長は、5月16日の記者会見で仁杉総裁について「分割に反対する国鉄自身の再建案が1月に出たが、その考えを変えてもらわなければ、総裁を代わってもらわなければならない」と発言した。こうした一連の動きからみて、仁杉総裁の辞任は時間の問題となっていた。
監理委員会の最終答申のでる一カ月前国会も会期末となった6月21日に仁杉総裁は中曽根首相に会い、辞意を表明し、首相もこれを了承した。形は仁杉総裁の辞意表明であったが、実際は監理委員会の分割. 民営化答申を実行に移す場合、現状の国鉄経営陣のままでは事が運ばないとして中曽根首相の意向で辞任を迫ったものであった。中曽根首相は、仁杉総裁の指導力を危ぶみ、国鉄の動きを観察していたが・縄田副総裁を中心とする反分割の動きを押さえ切れなかったことも、首相の懸念を大きくした、と報道された(『朝日新聞』1985年6月22日付) 。仁杉総裁は役員全員の進退一任をとりつけ、分割反対の首脳陣を国鉄から一掃する仕事を行い、総裁としての仕事を終え、6月25日には、総裁、副総裁、技師長のほか4人の常務理事計7人が同時に退任するという、国鉄史上最大規模の首脳陣入れ替え人事が実行された。
後継者には杉浦喬也・前運輸事務次官が任命された。国鉄総裁就任を受諾した同氏は、2日の記者会見で「答申が出たら、政府をあげて実行ということになるわけで、国鉄としてもその線に沿って具体的に検討の必要がある」「( 人事については) 私の考えに賛成の人はがんばってもらい、賛成いただけない人とはご一緒に仕事ができない」と語った。こうして国鉄内の分割・民営化反対派は一掃され、政府・監理委員会の方針がストレートにとおる体制が確立された。国鉄当局は新体制のもとで、7月4日に「再建推進本部」を設置し、分割・民営化へ向けての準備をすすめていった。
国労は、国鉄総裁の更迭について、「本日の総裁辞任は、国鉄の再建について広く国民に問うこともなく『分割・民営化』を強行しようとする中曽根首相の意思を反映したものだ。われわれは、こうした政治的暴力にまきこまれることなく、引き続き『分割・民営化』反対の闘いをすすめる」との委員長談話を発表した。
*1:傍線・赤文字は筆者追記