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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 142

完成したのに消えてしまったので、改めてアップさせていただき

下書きのサムネイルがおかしかったので、それを避けようと思い消したところ下書きまで消えてしまいかなり落ち込んでいます。

再建監理委員会による臨調答申前後の国鉄の現場では

再建監理委員会による国鉄改革は、分割民営化の方向で進むこととなり、民営化を容認していた仁杉総裁は副総裁及び太田職員局長などの説得もあり、徐々にトーンダウンしていくとともに、身内の会社が国鉄から業務を請け負っているとしてマスコミにたたかれるなどして詰め腹を切られされる形で辞任、1985年6月24日には辞任、その際に反対派の幹部の辞表をとりまとめて一緒に退任することで、国鉄本社内には分割民営化反対派は一掃されることとなります。

後任には、元運輸事務次官であった杉浦喬也(すぎうら たかや)氏が総裁として就任、国鉄は一気に分割民営化一色に染まっていきます。

当時の国鉄は、改革と言うことで欧風客車と言われた、「サロンカーなにわ」や「サロンエクスプレス東京」と言ったジョイフルトレインに刺激されて各管理局でも工夫を凝らした車両が誕生するなど生き残りをかけて積極的な動きが見らたものでした。

機関区等の一般公開も積極的に行われたもので、私もカメラ片手によく出かけたものでした。

もっとも、国鉄分割民営化に関して興味を持っていた私にしてみればそれ以上に、職場の組合掲示板などに興味を持ってしまい。国労の「分割民営化絶対阻止」と言った抗議文の横で、鉄労による「分割民営化推進」と書かれた真逆のスローガンを見るに付け、複雑な事情が国鉄を覆っていることを認識させられました。
また、詰め所の名札には、出向者の一覧がまとめられているなど、国鉄の厳しい現場の状況を垣間見る思いでした。

動労の変節と乗り越えの理論

一番大きく変わったのは動労でしょうか。

かつては鬼の動労と言われるほど、過激な運動を繰り返してきた訳ですが、昭和30年代からの新左翼が台頭してきた中で、革マルと近しかった「政研派」と呼ばれる非主流派が反戦青年委員会に所属する組合員などを排除ではなくむしろ育てていった結果、動労は穏便な職能組合から、過激な組合へと変節していったわけです。

こうして政研派率いる動労は過激な運動を繰り返しつつ時には、国労を激しく非難しつつ、闘争では共同行動を取るなどしてその存在感を高めていきました。

こうした、動労は昭和57(1982)年以降大きく変節します。

とりわけ、昭和57年の貨物列車削減のダイヤ改正は、貨物列車を牽引する機関車が多い職場を直撃、仕事がないという状態を生み出してしまいました。

このまま行けば合理化で職場が消滅するのではという観点から、動労では新たに新しい活動を開始します。

それは、革マルの理論の一つ、「乗り越えの理論」を採用することでした。

乗り越えの理論とは

  • 他党派の戦術やイデオロギーを批判する(理論上ののりこえ)

  • 派党闘争に勝ち抜き、他党派を革命的に解体する(組織上ののりこえ)

  • 既存の価値観に囚われない新しい労働運動や大衆運動を展開する(運動上ののりこえ)

を指していると言われており、動労は最後の再建計画と言われた国鉄再建による当局の本気度と言いますか、本格的な合理化闘争に対して、3番目の

  • 既存の価値観に囚われない新しい労働運動や大衆運動を展開する(運動上ののりこえ)

を目指して行動する事となりました。

その一つが、貨物輸送安全宣言であり。
積極的な出向や休職の推進などでした。

当然のことながらこうした転向を千葉労働としては、革マル派の策謀であるとして厳しく批判することとなります。

そこで、歴史的な動労と鉄労による合同がなされるわけで、これに一番驚いたのは総評であり、国労でもありました。

一番の双璧である国労動労のうち、動労が総評から抜けるわけで、慰撫工作を行いますが、動労はその方針を貫き、総評はその勢いを減じていくこととなります。

動労の乗り越えの理論

こうした動労の動きに反発するのは、動労から離脱した千葉動労でした。

千葉動労は、中核派のグループで結成されており、革マル派とは相いれない組織として本部である動労に対して厳しい反応を示します。

よく言えば純粋、悪く言えば融通が利かないのが中核派と言えましょう。

革マル派が目的のためには手段を択ばない・・・乗り越え理論による運動は最たるもので、組織の中核に入り込んでいくということを目標としており、改革3人組の一人と言われた、松田昌士(まつだまさたけ)【後にJR東日本社長・会長】と組むことも厭いませんでした。

鉄道労連分裂の失敗と、松田昌士の失脚

JR発足後は動労と手を切って追い出そうとして、鉄道労連の初代会長志摩好達初代委員長が、JR発足直後の7月に鉄道労連から離脱しようとする動きがあったが、これは松田昌士が裏で手を引いていたともいわれ、生産性運動(マル生運動)以後の嫌がらせなどで動労から散々なことをされてきた鉄労組合員からすれば動労との提携は心情的に受け入れられるものではなかったであろうし、この分裂は当然と思われたが、政府の思惑もあり。(政府側は1企業1組合の創設に拘っていた)この計画はとん挫することとなった。この背景には松田昌士氏が主導したということで、結果的に弱みを握られることとなったとされています。

この辺は、wikiでは以下のように記述されています。

 西岡研介によれば、鉄道労連の初代会長である志摩好達(鉄労出身)が、JR発足の3か月後である1987年7月にその脱退を表明した事件があり、背後には松田が糸を引いていたという。ところが、当時の政府筋から「スタートしたばかりのJRで労働組合が分裂すれば、行革の成果に傷がつく」とブレーキが掛かったため松田は手を引き、孤立した志摩は脱退を断念したという。

 つまり、松田は松崎明と、その背後にいるとされた革マル派を、分割民営化に利用した上で使い捨てにしようとしたが失敗、その弱みから松崎に屈服したというのである。また、この事件のおかげで、JR連合の分裂が遅れたということにもなる。 

結果的に、JR連合の分裂が遅れたことは事実であったし、JR発足の昭和62(1987)には、突出して事故等が東日本で多かった背景にはこうした問題も内包していたのか否か、その辺の関連性も含めて今後さらに検証していく必要があるかと思われます。

以下は、千葉動労動労本部の大会に対して以下のように動労の様子を伝えています。

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第二節 分割・民営化推進体制の確立
           ―内閣. 運輸省. 国鉄
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├○ 二 政府の分割・民営化推進体制 │
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 「国鉄改革のための基本的方針」の閣議決定監理委員会の最終答申をうけた政府は、85年7月30日の閣議で答申を「最大限尊重する」と決定し、「国鉄改革に関する関係閣僚会議」を設置した。8月7日、政府は「国鉄余剰人員雇用対策木部」の設置を閣議決定し、労働省にこれを置き、国鉄当局は、「雇用対策室」を新設した( 前述) 。10月11日、政府は国鉄改革関係閣僚会議と閣議で、最終答申をひきうつした国鉄を六分割・民営化する「国鉄改革のための基本的方針」を決定した。そして、答申どおり分割・民営化の時期を87年4月1日とし、そのための所要の法案を次期国会に提出する方針を打ち出した。

┌─────────────────┐
├○ 三 政府の分割・民営化推進体制 │
└─────────────────┘

 「国鉄改革のための基本的方針」の閣議決定 監理委員会の最終答申をうけた政府は、85年7月30日の閣議で答申を「最大限尊重する」と決定し、「国鉄改革に関する関係閣僚会議」を設置した。8月7日、政府は「国鉄余剰人員雇用対策本部」の設置を閣議決定し、労働省にこれを置き、国鉄当局は、「雇用対策室」を新設した。10月11日、政府は国鉄改革関係閣僚会議と閣議で、最終答申をひきうつした国鉄を六分割・民営化する「国鉄改革のための基本的方針」を決定した。そして、答申どおり分割・民営化の時期を87年4月1日とし、そのための所要の法案を次期国会に提出する方針を打ち出した。
 中曽根総理大臣は国鉄改革関係閣僚会議の席上、「国鉄再建は、行政改革に残された最も重要かつ緊急な課題だ。この方針に基づいて通常国会に改革法案が提出できるよう、運輸大臣を中心に担当省庁で努力してもらいたい。私も全力を挙げてこの改革の実現に取り組む」と決意を述べた。

 《基本方針の骨子》
  ① 旅客鉄道部門を北海道、四国、九州と本州(東日本、東海、西日本)の六つに分割する、
  ② いずれも国鉄出資の特殊会社として87年4月1日に発足するが、経営基盤が整いしだい株式を  放出し、早期に純民間会社とする、
  ③ 貨物部門は単一会社とし、国鉄バスは分割し、それぞれ独立させる。
  ④ 新幹線はその資産をリース会社が一括保有し、本州の三社が借りて運営する。
  ⑤ 長期債務など37兆円の負債は6兆円を国鉄用地売却で処理、14兆円を新事業体が引き継ぎ、残りの17兆円を国民負担で処理する。
  ⑥ 特定地方交通線は切り捨て、他の地方交通線も「地域の実情に即した運営」「徹底した合理化」に努める。
  ⑦ 新事業体の要員規模は合理化によって18万3000人とし、これによって生じる9万3000人の余剰人員は、新事業体と旧国鉄に振り分け、旧国鉄に所属する余剰人員の転職は、特別立法などにより政府が強力に支援する。
 この決定によって関連法案の準備にはいるが、その前に長期債務を処理する新たな財源対策及び余剰人員の再雇用対策などを具体的に示す必要があるため、そのあと政府は、国鉄運輸省、大蔵省、労働省などを中心に、基本的方針に沿って詰めを急がせた。
関連法案の次期通常国会への提出は、86年2月ごろをめどとした。
 国労は、政府が「国鉄改革のための基本的方針」を決定したことに対し、同日要旨次のような声明を発表した。
  「政府の閣議決定は、答申直後の「対処方針」に引き続くものだが、「基本的方針」は最終答申の「趣旨に沿って」政府の態度として決定したものにすぎない。答申については、専門家をはじめ各界から批判や疑問が相次いでいる。世論調査でも大部分の国民が疑問を持っている。こうした批判や疑問にこたえることなく、分割・民営化を強行しようとする閣議決定は、きわめて遺憾だ。「基本的方針」は分割・民営化に対する基本的な論点、 技術上の諸問題、新事業体の収支見通しなど、政府がどのような検討を加えたかは不明のままであり、また長期債務の財源、余剰人員問題についても対処策は明らかにされていない。われわれは答申以降、5000万署名をはじめとする分割・民営化反対の闘いをくりひろげてきたが、分割・民営化の内容が明らかになるに従って反対運動は盛り上がりつつある。われわれは社会党を中心とする野党と連携を密にし、次期国会で徹底した論戦をくりひろげるとともに、引き続き総評に結集する仲間とともに、利用者・国民の支援・協力のもとに強力に闘いを推し進める。」
 社会党の小柳勇国鉄再建対策委員長は、政府の「基本的方針」の決定に対し、「密室審議の中でまとめた分割・民営化を柱とした内容に沿ったものだ。国鉄を危機に追い込んだ政府自身の反省がなく、地方交通線を切り捨て、後始末を国民と国鉄関係労働者の犠牲で行おうというもので、許し難い」との抗議談話を発表した。
 共産党もこの閣議決定に対し、「国鉄解体を実施する基本方針を閣議決定したことは、国民と国鉄労働者の批判を無視した暴挙であり、断じて許すことができない。この決定は国鉄の経営危機を作り出した政府・自民党、財界の責任を免罪したうえ、膨大な債務の解決方針を示すことなく、国民と国鉄労働者に犠牲を転嫁するものであり、ローカル線廃止、運賃値上げ、国鉄労働者の大量首切りなど百害あって一利なしだ。」との談話を発表した。
 
続く