久々に更新させていただこうと思います。国鉄分割民営化の答申が決定、鉄労は分割民営化を賛成の立場を明確にしていきますが、この時期の動労は多少迷走とも言える状況になります。
仁杉総裁の辞任と国鉄改革
国鉄改革は、高木総裁は全く反対という立場を貫いたことから、任期を残して仁杉総裁と交代することとなりました。
仁杉氏も国鉄出身とは言え、国鉄民営化は止むなしとして最初に発言したことから、国鉄本社の幹部からは、改革派として警戒されることとなり、徐々に発言はトーンダウンしていくことに。
この辺は、仁杉氏の変節と言うよりも守旧派の幹部による情報操作的な意味合いが強かったように見受けられます。そして、この頃の組合の動きを見ていますと、三種三用の動きを見ることが出来ます。
総評が国鉄改革に熱心になるのは、自らの組織を守るため
昭和26年に分裂した動労【当時の名称は機関車労組】は、元々は職人意識の強い職能組合形組合でしたが、その後次第に主流派であった機関車同志会(後に労運研)と、政研派と呼ばれるグループに分裂、次第に政研派が主力となり、「鬼の動労」と言われるほどに過激な運動と、国労を批判する運語気が加速することとなりますが、いずれも総評に属してるという点は同じで、総評にしてみればいずれも大事な構成員であったことに変わりはありません。
動労は、生産性運動反対などで国労と共同戦線を張ることは多いもののそれ以外では、国労を決定できない組合として、強く非難することが多く、独自路線による無茶な順法闘争などで鬼の動労と揶揄されることも多々ありました。
そんな動労も、昭和57年の大幅な貨物削減による乗務員に過員が発生した頃からは、貨物増送運動なる、「働こう運動」を展開するなど当局のすり寄るとも言える状況を作り出し、表面上は国労の絶対分割民営化反対と比べると、そうした批判を行わないように見えるのですが、総裁が交代して、国鉄幹部の守旧派がほぼ全員が辞任という。状況に追い込まれることとなり、組合運動にも多少なりとも影響が出ることとなりました。
其れが後述の6月25日から28日かけて開催された、動労大会でしたが、その辺は後ほど詳述します。
改めて、当時の総評と国労・動労の動きを時系列で参照したいと思います。
弊サイト「国鉄があった時代」から引用させていただきます。
昭和60年前半・後半
国労中闘委、第9次全国統一闘争の具体的とりくみについて方針決定。8月5日時限ストなど 6/25
動労第41回定期大会 6/25-28
運輸省は、国鉄再建関連で組織を強化、国鉄再建総括審議官のもとに国鉄再建担当審議官を新設 6/26
当時の総評にしてみれば、全逓と国労は総評の双璧で有り。
NTTが一足先に移行したこともあり、全電通も総評から離れていったわけで、この時点で総評の存在意義は、国鉄問題を日本社会党ととも二度のように着地させるかが大きな問題となっていたと言えましょう。
ここで注目すべきは、動労の動きであったと言われています。動労は、昭和57年の貨物大幅削減以降から、積極的に出向に応じたり、「『鬼の動労』の緊急提言―国鉄を国民の手で守るために」という本を出版したりと、一貫して分割民営化反対の運動を続けてきた国労に対して、独自の運動をしていたのですが、この当時は動労も分割民営化には基本的には反対の意見を持っていました。
動労の変質?と思わせるような緊急提言ですが、以下のようなことが書かれています。
山陽新幹線の6両運転や、フルムーンパスは動労が提案して実現させたと言ったことが書かれています。
特に、この本を読むと判るのですが明確に分割民営化には反対であることをうったえており、国労との距離を取りつつも、総評とは足並みを揃えていたと言えます。その背景には、当局とのパイプが無くなったからではないかという観測を動労はしています。この辺を、国鉄民主化の道から引用してみます。
動労は、6月25日~28日に神奈川県・箱根町で開いた60年度の定期大会で、国鉄の分割民営化反対運動で総評内に設置される、「国鉄再建闘争本部」に。「一定の闘争指令権を委譲する」という、前代未聞の方針を決定した。ねらいは「分割・民営化反対の多数派結成」だそう。・・・・中略・・・・再び国労との共闘路線を打ち出した背景には。今回の国鉄当局の人事異動で、当局の労務担当重役が更迭され、そのことによって【動労として頼りにしてきた)。労政そのものが転換するのではないかとの懸念を持ったためと思われる」と観測している。
と有るように、動労も国労同様に、後ろ盾を失ったという観測がなされていますが、当時の動労は分割民営化反対を組合運動の中心として置いていたわけです。
世論は必ずしも分割・民営化は良いと思っていなかった。
ここで、国有鉄道の昭和60年12月号、世論あらかるとという記事を参照してみますと、世間では1/4は分割民営化を容認するとしていますが、民営化は良いが分割に関してはもう少し考えるべきではないかという意見も多々あり、国民は必ずしも分割民営化を望んでいた訳ではないことが判ります。
実際、この頃はかなりマスコミでも積極的に分割民営化が言っていたにもかかわらず、民営化は容認するものの分割は慎重にと言うのが国民の本音で有ったのだろうと思われます。
国鉄の大幅な赤字に際して、必ずしも分割民営化は最良の機会ではないと、世間では考えていたことだけは間違いないようです。
続く
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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争
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第三節 5000万署名運動
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├○ 一 総評、国労5000万署名運動の決定 │
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以上見てきたように、政府、自民党の分割・民営化攻撃が国鉄労使関係の改変ではなく、国労の解体とそれを突破口として闘う労働運動の消滅を意図するものである以上、闘いは国鉄内部での限定された反撃の域を超えて展開される必要があった。そこで、以下においては、総評第73回定期大会で5000万署名運動が提起され、これ以降、分割・民営化攻撃に反対する国民運動の中心をになっていった。
5000万署名運動の発端となったのは、1985年7月に開催された総評第73回定期大会(7・15~18日)であった。
この大会総評は国鉄の分割・民営化を阻止する運動の柱として、国民の多数派形成を目標とする署名運動を行うことを提起したのである。そして、この総評大会の運動方針に呼応するかたちで、国労は7月29日から5日間、第48回定期大会(名古屋)を開催した。そして、この大会では2年後に国鉄の分割・民営化をめざす監理委員会の答申に真正面から対決する運動方針が決定されることとなった。すなわち、大会では、「分割・民営化」阻止の闘いはいかにして国民的多数派を結集するかにあるという立場から、総評が決定した有権者過半数の賛同を獲得するための5000万署名運動に全力をあげた取り組みを行なうことを再確認し、雇用を守るために重要段階ではストライキで闘うことを全会一致で決定した。この意味で、国労第48回大会は多数派結集のために国労内部の意思統一を固め、分割・民営化に反対する国民的運動を展開していくための総決起の場となった。
そして、これ以降、8月4日には、総評国鉄再建闘争本部、国鉄再建闘争・東京共闘会議の共催で実施された中央集会(明治公園)でも、その闘争宣言において5000万署名運動への取り組みが集会参加者に呼びかけられていった。
次いで、8月28日に開催された総評の単産・県評代表者会議では、国鉄再建闘争活動計画の柱として、5000万署名運動の具体的行動方針が提起された。それによれば、総評、地・県評の各組織が署名に賛同する個人や団体に呼びかけ、署名運動を推進する実行組織を中央、地方で組織する、署名の獲得目標は有権者の過半数とする、活動の期間は9月~12月とし、県単位で計画、集約するという内容を骨子とした行動方針であった。そして、この具体的行動方針を前提として、前日の8月27日、国労第三回中央委員会では、各地城での署名活動を国労組織が中心となって担うとともに、分割・民営化に反対する対当局交渉、国会での追及、地方自治体への働きかけ、国民諸階層への宣伝活動を強化するという意思統一を行った。
続く