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鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 10

国鉄3大ミステリー事件と労働運動

みなさん、おはようございます。
3月4日に更新予定でしたが、行えませんでしたので今回改めて投稿させていただきます。
国鉄は昭和24年6月に運輸省現業部門から切離されて行くのですが、先ず定員法というものはどんな法律だったのでしょうか?

簡単に言えば、復員などでにより膨れ上がった公務員の定員を適正な人数に戻しましょうというもので省庁ごとの定員を

衆議院のホームページから確認させていただきますと下記のようになります。

その定義として

法律第百二十六号(昭二四・五・三一)
◎行政機関職員定員法
 (定義)
第一条 この法律において「行政機関」とは、総理府、法務府、各省、経 済安定本部及びこれらの外局をいい、「職員」とは、附則第四項及び第六項から第十項までに規定する場合を除き、行政機関に常時勤務する国家公務員で一般職 に属する者(二箇月以内の期間を定めて雇傭される者を除く。)をいう。

(各行政機関の職員の定員)
第二条 各行政機関の職員の定員は、左に掲げる通りとする。

行政機関の区分

定員

備考

総理府

本府

二、二六〇人

 

統計委員会

六三人

 

公正取引委員会

三二三人

 

全国選挙管理委員会

四八人

 

国家公安委員会

   

国家地方警察

四七、〇〇一人

うち三〇、〇〇〇人は、警察官とする。

国家消防庁

一二二人

 

公職資格訴願審査委員会

六〇人

 

外国為替管理委員会

四四人

 

宮内庁

九二八人

 

特別調達庁

六、九四一人

 

賠償庁

一七二人

 

行政管理庁

六六人

 

地方自治庁

一〇五人

 

五八、一三三人

 

法務府

本府

四〇、八七六人

うち一一、四七六人は、検察庁の職員とする。

中央更生保護委員会

一、〇二九人

 

司法試験管理委員会

―人

 

四一、九〇五人

 

外務省

本省

一、五五六人

 

大蔵省

本省

一三、三二一人

 

証券取引委員会

一四五人

国税庁

六〇、四九五人

造幣庁

二、〇二三人

印刷庁

九、〇三〇人

八五、〇一四人

 

文部省

本省

六三、〇九〇人

うち六〇、九四〇人は、国立学校の職員とする。

厚生省

本省

四〇、二九七人

 

引揚援護庁

五、〇六六人

四五、三六三人

 

農林省

本省

三二、六三四人

 

食糧庁

二九、二〇二人

林野庁

二五、二七二人

水産庁

一、八五二人

八八、九六〇人

 

通商産業省

本省

一三、八八二人

うち一八三人は、鉱務監督官とする。

資源庁

二、三七三人

工業技術庁

四、三六五人

 

特許庁

五四五人

中小企業庁

九四人

二一、二五九人

 

運輸省

本省

一八、四三五人

 

船員労働委員会

五九人

海上保安庁

八、一三七人

海難審判庁

七三人

二六、七〇四人

 

郵政省

本省

二六〇、六五五人

 

電気通信省

本省

一三八、八三五人

 

電波庁

三、八〇二人

航空保安庁

一、〇九六人

一四三、七三三人

 

労働省

本省

一九、八八一人

 

中央労働委員会

九九人

公共企業体仲裁委員会

一九人

国有鉄道中央調停委員会

一五人

専売公社中央調停委員会

一一人

国有鉄道地方調停委員会

六三人

専売公社地方調停委員会

四五人

二〇、一三三人

 

建設省

本省

一〇、九〇七人

 

経済安定本部

本部

一、二四八人

 

物価庁

八五八人

経済調査庁

三、七一九人

外資委員会

―人

五、八二五人

 

合計

八七三、二三七人

 

余談ですが、当時は警察は国警と市警という区別があり、その後都道府県警に統一されることになります。【警視庁は本来の意味で行けば「東京都警察」になるのですが、首都の警察ということで別格ですね。笑】

終戦後の日本ではインフレはとどまるところを知らずその均衡を図ること、これは日本の経済を安定させるとともに占領政策の早期収束を考えていたGHQにとっても必要な政策だったようで、このドッジプランの実施では、定員法の他にも新規設備投資の中止なども強力に行われました。

 奥羽本線については、終戦後から板谷峠付近の電化工事が進められていましたが、これらもGHQの計画では中止、そのご撤回されるのですが、その時期が未定だったこともあり、ここに昭和23年には、国鉄最後の新製蒸気機関車「E10」が誕生することとなりました。
元々、板谷峠で使っていた4110形と呼ばれる蒸気機関車の老朽置換用であったことと、電化までのつなぎという理由だったのですが、皮肉にも投入して1年を経づした、昭和24年年4月29日、福島駅~米沢駅間が直流電化されてE10の働き場所が無くなってしまいました。

ちょっと労働運動と離れてしまいましたね、少し進路を戻します。

> 直接には国の公務員を対象としていたが、準公務員である国鉄職員や地方公務員にも準用された。国鉄の職員数は、現状より約9万5000人少ない約50万人とされた。公企体に移行した国鉄下山定則初代総裁)では、まず7月4日、第一次人員整理として3万7000人、7月13日には、第二次案として6万3000人の職員に解雇が通告された。

これは、行政機関職員定員法の附則に下記のように示されていました。

附 則

一部省略

7 日本国有鉄道の職員は、その数が昭和二十四年十月一日において、五十万六千七百三十四人をこえないように、同年九月三十日までの間に、逐次整理されるものとする。
8 日本専売公社及び日本国有鉄道の総裁は、前二項の規定による整理を実施する場合においては、その職員をその意に反して降職し、又は免職することができる。

中略

12 未帰還職員に関する取扱については、なお従前の例による。日本専売公社及び日本国有鉄道の未帰還職員に関する取扱も、これに準ずるものとする。

 人民電車

なお、この定員法による解雇は、新交番制度(いわゆる合理化で車掌自体の人数を減らそうとした)のよる定員削減を目指すものであると噛み付いたものであり、多くは戦時中に採用した女子車掌等の解雇だったと思われるが、それでもそれ以外の職員も解雇対象になったりしていることが、引き金になったと言われています。

東神奈川車掌区では片道2時間近くかけて通勤するものが多く、週に3日から6日も外泊を余儀なくされることを嫌ったと言われています。【通常の勤務時間自体は週45時間程度なのですが、待機時間のうち、勤務時間に算入する時間を減らしたことで実質的には拘束時間が長くなってしまうことへの反発があり、それが人民電車事件につながっていったと言われています。

 

この当時は多くの組合に共産党がその主導権を握っており、
> 中央委員会では、共産・革同連合が多数を占めた。また、公企体移行に際する新交番制に対する東神奈川電車区などの闘い(人民電車事件)(組合管理による電車で、赤旗を掲揚し、電車に大きく「人民電車」と書かれていた)で、中闘の方針は混乱した。

人民電車とは、簡単にいえば革命電車とでも言うべきもので、当局の指示に従わずに運行される電車ということになると思われます。

当時の記録を見ると、当局の意向を無視して勝手に電車を運行する、当局はそれに対して電源断という措置をとることで対抗した・・・云々ということが書かれており、人民のための革命電車という位置づけであったようです。

この辺は更に調べた上でまた後日発表させていただきます。

そんな中で、国鉄の3大疑惑事件といえる大きな事故が立て続けに発生します。

最初が、下山事件

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下山事件 画像wikipediaから

言わずと知れた、初代下山総裁が人員整理の方向を発表した後、常磐線の線路上でバラバラ死体として発見された事件で、自殺か他殺かで争われた事件であり、松本清張氏は昭和史発掘の中でGHQによる謀略説を主張しています。
いわゆる、GHQ共産党にその罪を着せるために行ったと言う説です。

さらに、それからしばらくして今度は、三鷹事件が発生します。

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画像 wikipedia 三鷹事件

こちらは、何者かが留置中の電車のマスコンを操作してと言われていますが、こちらもかなり不可解な部分が多く、駅ホームを60km/hで車止めを突破したと言った内容が残されていることから、かなり大掛かりなこちらも謀略ではないかと思われるが、この事件で駅前商店街を歩いていた通行人6名死亡、他20人が負傷する犠牲者を出しています。

最後は、松川事件ですが、こちらも松本清張GHQによる謀略説を取っています。
いずれも、アメリカにおける反共の度合いが高くなってきていた時期だけにあながちこれが真実なのかななんて思いますが、こちらもやはり真相は闇の中となっていますね。

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画像 wikipedia 松川事件

以下、国労資料から・・・

┌─────────────────────┐
├○ 大量行政整理と下山・三鷹松川事件     │
└─────────────────────┘

 国鉄の公企体化に相前後して、定員法による大量行政整理が強行された。49年1月の総選挙で、吉田内閣与党の民主自由党過半数を占め、力を得るとともに、GHQは経済9原則=ドッジプランの実施を要請し、吉田内閣も強力に推進した。その政策の中心は、超均衡予算と徴税強化によるインフレの終息、1ドル=360円の単一為替レート設定により、ドル=アメリカにリンクした国際経済への復帰などであったが、特に超均衡予算の実現の一環として、大量行政整理が予定されていた。5月31日、行政機関職員定員法(定員法)が公布された。この法律は、直接には国の公務員を対象としていたが、準公務員である国鉄職員や地方公務員にも準用された。国鉄の職員数は、現状より約9万5000人少ない約50万人とされた。公企体に移行した国鉄下山定則初代総裁)では、まず7月4日、第一次人員整理として3万7000人、7月13日には、第二次案として6万3000人の職員に解雇が通告された。
 国労は、49年4月の第6回定期大会(琴平)で「首切り行政整理反対」など闘争目標を決定していた。中執の体制は、マ書簡後の中央委員会では民同派中心であったが、この大会と同時に開かれた中央委員会では、共産・革同連合が多数を占めた。また、公企体移行に際する新交番制に対する東神奈川電車区などの闘い(人民電車事件)(組合管理による電車で、赤旗を掲揚し、電車に大きく「人民電車」と書かれていた)で、中闘の方針は混乱したが、6月の中央委員会で、行政整理に対しては、最悪の場合はストを含む実力行使を行うことを決めた。
 49年7月4日の整理案が発表後、中闘は強力な闘争を展開しようとした。その矢先の6日、下山国鉄総裁が行方不明になり、常磐線の線路上でバラバラ死体となって発見された。警視庁は他殺と断定し、田端機関区の組合員の犯行とみて捜査を行ない、マスコミは共産党員あるいは国労組合員が暗殺したと思わせるニュースを流した。国労の闘争はそがれ、第一次人員整理が実行された。ついで、国労が闘争宣言を発した7月15日の夜、三鷹事件が発生した。