長らく更新が出来ませんでしたが、久々に更新させていただきます。
今回は、国労 の分裂という視点から書かせていただきました。国労 は合理化で組合員の減少があったとは言え、1984 年時点では20万人強を擁する国鉄 最大の労働組合 であり、力で押し切れると思っていたものの、その包囲網は狭められることとなり、国労 内でも雇用に対する不安から分裂が生じることとなりました。
特に、国労 内の革マル派 閥は「真国労 」という名称で動労 と同じく、協調路線を取ることで雇用の安定をめざすとして分裂する事となりました。
その後も主流派を占めていた民同左派は、社会党 の協力を得ながら着地の方向を辿りますが、徐々に狭められていったのは既に皆様もよくご存じの通りです。
雇用安定協約未締結までの出来事
国労 の記述では、85年11月30日に国鉄 は雇用安定協約の再締結を拒否された、その後は雇用安定協約がない状況に置かれました。
ここに来て国労 の中には、本当に大丈夫だろうかという不安が続くこととなります。
当時の時系列を弊サイトの国鉄 があった時代から引用してみます。
国当局鉄、勤労、鉄労、全施労の3組合と「履用安定協約」を再締結することで合意 11/13国労 に対しては「再締結の用意あるが、入り口問題での整 理が先決」と締結拒否 11/13
昭和60年度第1237回日本国有鉄道 監査委員会 11/15
国鉄 改革のための基本的方針について国労 、第144回拡大中央委員会(国労 会館)で三ない運動(やめない。休まない、出向ない)の中止 11/19国労 。中心議題は国鉄 の分割・民営反対、雇用安定協約の継続締結など。5000万署名、雇用安定協約の締結へのとりくみは、特別決議とあわせ本部提案を承認。論議 を呼んだ〝三ない運動"は特別決議とあわせ、本部提案を了承 11/19千葉動労 24時間の違法ストに突入 11/28千葉動労 は国鉄 分割民営化反対を謳い、12:00から24時間ストライキ に突入 中核派 とみられる過激派による信号、通信ケーブルの切断により、首都圏、大阪地区の 21線が列車運行不能 に。国労 ・動労 、共同記者会見で、"怒り禁じえない〟と見解表明 11/28動労 、鉄労、全施労の3組合と雇用安定協約を再締結 11/30国労 、国鉄 との雇用安定協約拒否 11/30
国鉄 最大の労組国労 (18万6000人)に対し、「余剰人員対策に対する姿勢が非協力的」として,この日に期限切れとなる雇用安定協約を再締結しないと通告 この協約では「合理化に際し,本人の意思に反した免職、降格は行わないと規定しているものである国労 は、拡大中央委員会の運動方針として「3無い運動(行かない(出向)、休まない(退職前提休職)、辞めない(希望退職)」中止を決めたが、主要地本に協力体制が見られないと断じたもの。当局は当日,動労 (3万4000人)・鉄労(3万1000人)・全施労(1950人)とは再締結の調印をした
とあるように、国鉄 当局は、約二週間前の11月13日に雇用安定協約を締結しないことを通告することとなります。
雇用安定協約は、労働者にとっては切実
雇用安定協約は、言わば本人の意思のよらず不利益処分を受けないと言うことを意味するものですが、再建監理委員会更にはそれ以前にスタートした再建計画に基づく合理化の推進で、当局は強力に合理化を推進していくこととなり、出向や勧奨退職などを全面的に打ち出してきました。
千葉動労 の記事に、その辺の事情が記されていましたので、引用してみたいと思います。
こうした攻撃の集約として84年7月に打ちだされたのが、いわゆる「首切り三本柱」(余剰人員対策3項目)であった。それは、①勧奨退職、②一時帰休 、③出向、によって95年度首までに3万人の余剰人員を吸収するというもので、しかもこの三本柱への協力を、各組合との雇用安定協約再締結の前提条件としたのである。 この理不尽な攻撃に、国労 も当初は強く反発し、いわゆる「三ない運動」(辞めない、休まない、出向しない)を提起する。
出典:DC通信 No.
とあるように、それまではどちらかと言えば馴れ合い的な所があった国労 都当局の関係は、昭和57年に就任した太田職員局長の頃から流れは変わり、国労 とは強く反発することとなり、太田職員局長自身は、国鉄 改革に積極的であったと言うよりも、己の権力を集中させたいだけという見解もあり、実際にその後の動きを見ていくと、そう見るのが非常に妥当と思われます。
しかし、この時期以降国労 に対しては、風当たりがきつくなったように思えます。
国労 は三無い運動を実践するも、当局との関係はあまり良くなく。
国労 は、数の力で押し返せると意気込んだが
合理化を進めていく中で、国労 はそれでも20万人移住の組合員を擁する組合でしたので、未だ未だ数の力で押し切れると思っていた所がありました。
それ故に、三ない運動(辞めない、休まない、出向しない)を実践し、組合員もそれを実践していくことで国労 と言う組合への安心感を持っていたわけです。
それ故に、動労 が早々と分割民営化には反対と言いながらも、「職場と仕事を守るために、働き度を2~3割高める」という悪名高い「働こう運動」を打ちだし、貨物安定輸送宣言をするなど、職場を守るためとしてそれまでの鬼の動労 と言われた過激な運動はその姿を潜め、千葉動労 からは、裏切り者として下記のように罵られることとなりました。
動労 革マル はその最初から、極めて自覚的に、権力・当局との密通関係を結び、国鉄 労働運動破壊の尖兵となることによって自己の延命をはかるという道を選択したのである。
とあるように、動労 は積極的に事故の組織温存のため動いていたわけで、この流れは国労 内の「革マル派 閥」にも影響して、「真国労 (真国鉄労働組合 )が結成されるきっかけとなりました。
革マル という組織は時には、権力に取り入り内部から崩壊させることを得意としているとされ、
中核派 が純粋に革命をめざすという点から考えると、若干色合いが違うと言えるかもしれません。
余談ですが、「新」ではなく「真」となったかは、ご存じの方も多いかもしれませんが、鉄労の前身が「新
国労 」であったことから、「真」になったと言われています。
さて、それまでは強き一辺倒で進んできた
国労 ですが、雇用安定協約が再締結されない以上、指名解雇や本人の意思によらない降格などが行われる可能性があるとして、非常に
国労 組合員の中でも動揺が起こることとなり、主流派であった民同左派のグループもその対応に苦慮することとなり、それが先ほどの
革マル 系派閥の「真
国労 」の結成であり、他の組合への転出などが行われるのでした。
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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と
国労 闘争
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第五節 労使共同宣言と
国鉄 内労組の再編
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├○ 二
国労 組織の亀裂 │
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国労 は85年11月30日に当局から雇用安定協約の再締結を拒否され、12月1日から無協約になったが、こうした状況をとらえ
動労 、鉄労、全施労などによる
国労 に対する組織攻撃が激しくなった。85年11月中旬頃から、東京、大阪を中心に俗にいう〝
動労 系・活動家と組合員のなかに、
国労 を脱退して
動労 へ加入しようとする動きが出始めた。この動きが組織分裂行動として、具体的に職場のレベルで現れてきたのは、86年2月中旬以降からであった。反
国労 の分裂策動の大きな特徴は、その先頭に立つ者いずれもが「
国労 内〝
革マル派 ?の中心メンバーであり、そのうえ
国労 東京地本管内の
支部 、地区協、分会および青年部の役員、もしくはその経験者である」という点である。このグループは、「本籍=
動労 、現住所=
国労 」などと職場でささやかれているほど、「これまで常時、
動労 の間接的な指導をうけて行動してきた。そして、
動労 の主張とほぼ同様に『出向・派遣に積極的に応じることが〝新事業体?への切符を手にすることだ』といちはやく『派遣』や『直営
売店 の販売員』に応じ、さらに
国労 の方針を批判、中傷する言動をつづけてきた」(
国鉄労働組合 『
国鉄労働組合 の歩み』1985年度年報)。
こういったグループのメンバーとその同調者が、東京地本の上野
支部 を中心に下十条
電車区 をはじめ
電車区 、運転区、客貨車区などで
国労 脱退を行い、
動労 に加入した。上野
支部 以外でも、新橋、八王子、
国府津 、宇都宮の各
支部 でも少数の者が脱退した。この時点での脱退者の数は合計で298人であった。
国労 東京地本では、「
革マル 分裂主義者による
国労 破壊策動を許すな」と糾弾し、この策動が分割・民営化反対闘争の高まりを恐れた「当局の意をうけた組織攻撃」であると指摘し、「『労使共同宣言』では労働者の雇用は守れない」「
国労 の旗のもとに総団結しよう」と呼びかけた。なお、分会三役、執行委員多数が脱退した下十条
電車区 では、脱退後10日間の内に
国労 再建大会を開き、新たな執行体制を確立した。
こうした反
国労 の組織分裂行動は、4月に入って運転だけでなく、駅、車掌などの営業や施設職場にも現れてきた。この策動も中心は上野
支部 管内であり、上野、田端などの地区に集中しており、首謀者は運転関係と同様に
国労 内〝
革マル派 ?の中心メンバーであった。4月7日、脱退者の代表が記者会見し、「このままでは自分たちの雇用を守れない」として、新たに「真
国鉄労働組合 」を結成することを明らかにした。この時の発表では1208人の脱退者が集まったので、4月13日に東京で結成大会を開き、将来は3万人程度の全国組織を目指すと語った。記者会見のあと、「真
国労 」結成準備委員会のメンバー(代表・古川哲朗)は
国鉄 本社に出向き、「真
国労 」結成を通告した。その席上、準備委員会側は、当局に対し「雇用安定協約と配転協約を締結したい。労使共同宣言を締結したい。労使協議会を設置したい」意向を伝えたところ、当局側からは、「労組としての法的資格が整備されれば交渉し、締結する用意はある」との回答を得た。そして、4月28日に真
国労 は当局との間で労使共同宣言と雇用安定協約を締結した。
「真
国鉄労働組合 」の結成大会が4月13日に開かれ、大会には鉄労、
動労 、全施労の三書記長が来賓として出席した。雇用の確保や正常な労使関係づくりを目指し、当局に雇用安定協約や労使共同宣言の締結などを求めていく活動方針と規約等を決め、執行部を選出した。〝委員長に古川哲朗(前・田端地区協議長)、書記長に水沢隆(前・上野
支部 組
織部 長)が選出されたが、他の執行部の顔触れも
革マル派 ?の中心メンバーであった。
さらに、86年4月以降、全国的に非
現業 部門で
国労 組合員の脱退が相次いだ。この部門では日増しに管理体制の強化が行われ、関係労働者の雇用不安が増大していった。この時期、
国労 に所属していること自体が、直接・間接を問わず「締めつけ」の対象とされていた。
7月15日、
国鉄 の東京北、西、南鉄道管理局などの事務部門の労働者を中心に、
国鉄 の分割・民営推進を求める新しい
労働組合 として「東京鉄道協議会」が結成された。15日夜、都内で開かれた結成大会には約100人が参加し、「労使一体となって
国鉄 改革を目指すことをうたった労使共同宣言を当局と締結する」などの活動方針を決定し、委員長に水野力氏(東京南鉄道管理局事業課運用係長)を選出し、組合員は事務職中心で約780人を組織したと発表した。