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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 145

久々に更新させていただきます。

 

余剰人員対策として、国鉄では直営店舗などの開設が行われ、関連事業収入のそうかと言うことでの多角化経営が行われることに

国鉄では、仁杉総裁が更迭され、杉浦総裁が中曽根首相の意向を汲んで最後の国鉄総裁として分割民営化を進めることを目的として送り込まれたわけですが、国鉄当局としては強力な合理化により、過員を生み出し(国鉄当局の表現では余剰人員)、多くの人材を直営店などの関連事業に振り分けることとなりました。 当時の国有鉄道という雑誌〈国鉄現業機関向けの雑誌〉などを参照しますと見返しページなどで、直営店の様子などが掲載されていました。

  国有鉄道 1985年12月号 から引用

直営店などの関連事業 国有鉄道 1985年12月号 から引用

こうした関連事業以上に、発生する過員にあっては一時帰休や退職前提の休職、出向などの施策がとられました。

この辺の事情を、大原社会問題研究所の日本労働年鑑 第56集 1986年版 

第一部 労働者状態

 II 産業合理化と経営・労務

から引用させていただきます。

さらに、国鉄当局は八五年三月のダイヤ改正で、駅の無人化(全国の駅の六〇%を上回る)、ホーム要員の削減、窓口廃止、貨物車の緩急車廃止、車検周期の大幅延長などを実施したうえ、機関士や運転士の効率運用を目的として、従来の一日六時間四〇分、週四〇時間勤務を、週四三時間以上に延長したり、手持ち時間の圧縮、食事休憩の短縮、休憩時間の長さと回数の縮減などの合理化を実施した。
こうしてつくりだされた「過員」は「過員センター」(要員センター、職員センター、業務開発センターなど)に集められ、教育訓練をうけ、臨時的作業に駆り出されたり、ホームの掃除や草むしりなどの雑務、無人駅の特別改札、団体客募集のためのチラシ配布、戸別訪問、切符のセールス、駅構内でのジュース販売などに従事させられている。

こうして、駅構内などの用地を活用した直営店や、特別改札の実施なども行われました。特に、貨物輸送の大幅な削減による機関車乗務員の減員は大きく、こうした煽りを受けて、機関士が乗務できないと言う事例も多々発生することとなりました。
こうした当局側の動き(政府からの強い意向)も有ったわけですが、国労としては積極的な宣伝活動で世間を味方に付けられると読んでいたわけで、それが5000万署名の実行であり、全国キャラバンなどの実施であったわけです。

当時の世論は国鉄改革をどのように見ていたのか

国鉄の分割民営化に関しては、昭和60年に実施した世論〈義ラフの形を変えて再掲)してあるように、分割には再検討を要するという意見が約4割有ったのですが、国鉄当局も政府も更には、組合もこの点を見誤ったというか、この点を国労が国民運動としていたらまた違った展開になっていたかも知れません。すなわち、国鉄の分割民営化6分割を積極的に認める世論は実は1/4なのですが、分割には検討を要するという人も賛成派と見做せば、実に2/3以上が分割民営化に賛成であるという理屈も成り立つわけです。

そこで、分割民営化のために送り込まれた杉浦総裁とすれば世論は、国鉄分割民営化を認めたとし、鉄労は分割民営化を容認して推進方向に大きく舵を切ることとなる。

更に、動労も当初は分割・民営化は反対のスタンスではあったものの、過去の傷(機関助士反対闘争で松崎が中心となって行った闘争で、動労は解体寸前まで行ったことの反省から、雇用と組織を守ることを大前提に方針を大転換することとなり、この辺が国労組合員から見れば、鉄労や動労の裏切りと写ったのであろうと言えます。

長期債務の返済に関しての国民の関心はどうだったのか

同じく、上記の世論調査による結果は以下の通りであった。

国民負担に関しては反対という意見が半数を超えており、特に国鉄の努力が不十分で今後も期待できない、もしくは国の責任で国民負担には反対という意見が、6割近く有るわけで、国鉄を見る世間の目はかなり厳しいと言わざるを得ないと。国鉄本社でも認識しています。

前述の通り、鉄労・動労は組合員を守ると言うことから、分割民営化の方向に大きく舵を切ることとなり、特に「鬼の動労」と言われた動労は一気に急転回して総評からの離脱、更には鉄労と共に労使協調宣言へということで国鉄改革労働組合協議会を結成(JR発足後は、全日本鉄道労働組合総連合会として、発足)して雇用を守ると言うことに全力を尽くすこととなりますが。

昭和60年当時は、まだまだ国労は最大の組合員数を擁しており、国民に訴えかけることでまだまだ逆転劇は可能だと考えていたようです。

実際に、国労の中には多くの派閥もあり、一筋縄ではいかないという点も有ったわけですが、それでも国労の中にはまだまだ20万人近くの久美委員がいるのだからと言う驕りもあったかも知れません。

しかし、当時の世間は国鉄の赤字に対する処方箋としての分割民営化に関しては、民営化は容認するが、分割は慎重に行くべきだという意見が4割有ったわけですから、民営化は容認しても分割だけは阻止すべきだという運動をしていたら、歴史にIFはないもののまた異なった形になっていたかもしれません。

もっとも、当時の世論は、長期債務返済のために土地を売却することに関しては8割以上の人が民間もしくは、公共機関への売却をするべきであるとして、当事者である国鉄・及び新たに設立される新会社為に使うべきと言う意見は1割ほどであったことが覗えます。

国鉄が土地を売却する場合は、その売却先はどこにすべきか

参考:国有鉄道1985年12月号の記事を元にグラフ作成

 

歴史にIFはないのですが、国労が民営化を認めるものの、分割は容認しない、土地の売却に関しては国民の財産として還元するといった形で世論に訴えていたらまた違った結果であったかも知れません。

最もこうした後知恵は、今だからこそ言えるわけで当時の考え方では、国鉄が路線を建設するのも本来であれば広い意味での公共財産である訳ですが、その辺の議論は殆どなされず、国鉄の経営は毎年大きな赤字を出しているという論調に終始したこと。

それ以前のストばかりする国鉄という印象を世論が持っていたことも、国鉄には風当たりが強くなる結果となったと言えそうです。

続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第三節 5000万署名運動
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├○ 二 5000万署名運動の展開 │
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 国労本部は、5月10日には、全国戦術委員長会議での意思統一にもとずき、闘争指令一号を発し、5000万署名につき「答申の矛盾と弱点を徹底的に暴露し、『分割・民営化』が国鉄改革・再建でないことを明らかにして、国民的力に転化するオルグと宣伝を強めること」を指令した。こうして具体的な取り組みがはじまった。
 まず、北海道では、5月13日に北海道労協・国鉄再建闘争本部の発足総会が開催され、地域集会や議会対策の活動も含めた署名運動がスタートした。また同時に、四国、九州地方でも運動も開始された。5000万署名運動の最初のスタートを切った北海道では、5月13日の発足総会には、国労を中心に、労働組合、政党、民主団体の代表者100人が出席した。この総会では、 特別専従体制で道民総ぐるみの運動展開をめざす  署名運動、議会対策、道内キャラバン、地域集会などの行動を推進することが決定された。また、その翌日の5月14日には、国労東京地本と国鉄労働者支援共闘会議が開催した。
 10月3~5日に熱海市で開かれた国労の全国委員長・書記長会議では、分割・民営化と地方交通線廃止を阻止する運動を強めると同時に、すでに全国的に運動が始まっている「分割・民営化」反対5000万署名運動を中心として、国労は運動成功のために?
地をはってでも?1人100人の署名を獲得する方針が提起された。なお10月4日に開催された国関労の第13回定期評議員会でも「分割・民営化」に反対し、5000万署名運動の先頭に立って取り組み、国民世論の多数派をめざす運動方針が決定された。
10月13日東京では、全国キャラバンに出発するワゴン車が釧路(北海道) と宮崎に向かった。また、この日には文化人による「人間鉄道フォーラム」が開催され、国鉄再建問題をめぐって熱心な討論が行われ、総評の闘いへの支援が表明された。
 こうして5000万署名運動はスタートした。スタートから約1カ月後の11月初旬の段階での進展状況は次のようなものであった。すなわち、北海道、栃木、石川、島根、鳥取、徳島、香川などの1三道県から報告された署名数は約360万人で、これは13道県の目標数約520万人の約38・5%の達成率であった。達成率の高かったのは大分県の56・5%、福岡県の76・3%、石川県の52%となっている。地区別にみると、福岡県では直方地区、門司地区で10月末には100%を達成し、次いで筑紫地区が100%、若松56・4%、小倉57%であった。他方、北海道では長万部地区、留萌地区、羽幌地区が100%を超えていた。また、国鉄の存在しない沖縄でも20万人署名を目標に県労協や地区労を母体とした国鉄再建闘争実行委員会が結成された。つまり、この時点における署名運動の動向の特徴は、北海道や福岡県のようにローカル線廃止計画にたいする住民の不安や反発の強い地域において署名活動が前進しているのに対して、大都市やその周辺地域での運動の立ち遅れがめだっていた。
 5000万署名運動の前半戦の約1カ月が経過した11月7日の時点で、総評は県代表者会議を、国労は地本代表・県評担当者会議を開催し、この間の運動の総括を行うとともに、これ以降の活動方針や闘争スケジュールを明確にしていった。まず、総評の代表者会議では、署名速報の発行、中央とブロックごとでの答申批判行動と集会の開催、全交運・公労協などの団体を中心とした統1署名行動日の設定を方針化した。これにたいして、国労の地本代表・県評担当者会議では、国労組合員1人100人の目標を12月10日までに達成する、5万人以上の自治体における駅頭での宣伝行動と署名活動、答申批判集会、シンポジウムの開催、地方紙を活用した意見広告運動を全国的に広げるなどの方針を確認した。
 この総評と国労の署名運動の中間総括と行動方針の提起から20日後の11月27日には、総評国鉄再建闘争本部の集計結果では、全国の署名人数は約1300万人を突破した。1月の上旬から下旬の時期以降、署名運動は全国的にも急速に拡大し発展していったのである。ちなみに、11月27日の時点における署名実績の内容をみると、闘争本部に報告された47都道府県の合計が、1327万5245人であり、この人数は最終目標にたいして26・8%の達成率となっている。また、目標の100%を超える成果を達成したのは大分県の124・5%、福岡県の105・5%、宮崎県の107・8%であり、これに続いて、北海道の63・3%、鳥取県の68%、山形県の75・6%、栃木県の64・7%であった。さらに石川県、香川県新潟県島根県が50%を超え、鹿児島県、3重県、滋賀県が50%に迫っているという状況であった。
( なお、この時点では、国労動労の独自の取り組みとして展開されていた署名目標である2150万人分は集計されていない) こうした署名運動の急速な進展はその後も継続していったが、それから約25日後の12月15日における5000万署名のいちおうの集約時には、東京・日比谷野外音楽堂で集約集会が開催された。ちなみに、この12月15日の時点では、全体で約3320万の署名が集められたが、この数字は最終的な目標にたいして77・3%の達成率となった。また、100%を突破した府県は鳥取県の135・6%を最高として、大分、北海道、群馬、福岡、宮崎、長野、山形、山口、栃木、秋田、静岡、和歌山、熊本の1四道県に及んだ。さらに、北海道、東京、福岡が200万人台に達し、大阪、神奈川、静岡、愛知、兵庫では100万人台を突破した。また、これらのなかで各県評や地区労での取り組みと一体となって活動した国労組合員も全体で約1318万人に達していた。先の5000万署名集約の集会のなかでも、これまでの5000万署名運動の到達点を「過去のあらゆる署名運動を上回る」、「多数派形勢への偉大な1歩」と評価したのであった。このような成果をふまえて翌12月21日には「国鉄再建5000万人署名全国交流集会」が東京・千代田区の社会文化会館で開催され、47都道府県から約400人の代表が参加し、全国レベルでの経験が交流された。
 このように、5000万署名運動はその総目標は達成できなかったものの、85年5月上旬から12月下旬という約3カ月の短期間内に、総評・国労を中心とした運動として、分割・民営化反対の国民世論を作り上げていくうえで大きな役割を果たした。例えば、1586年1月14日、総評は東京・全電通会館で拡大評議員会を開き、1586年春闘方針、国鉄再建闘争への取り組みなどについて協議した。この評議員会であいさつした黒川議長は、国鉄再建闘争に関して、(5000万署名運動の集約結果は)「亀井答申にたいする国民大衆の不安、不満、反対の意思表示であり、この世論を最大の武器として闘いに全力をあげる」との決意を表明した。そして、1月25日には、総評の国鉄再建闘争本部は、署名運動の成果としての3400万余名の署名の約半数の要求署名を政府に提出するとともに、この成果を国民にアピールするためのデモ行進を行った。
 その後、3月10日には、国鉄再建闘争本部は5000万署名運動の最終的な集約を行った。それによると、署名総数は闘争本部扱い、新産別の協力を含めて3500万人を突破し、総目標にたいして8・ 8%の達成率となった。47都道府県のうち、100%を超えたのは、前述した鳥取県の137・5%を筆頭に、17道県(北海道123・7%、秋田10四・5%、山形108・1%、群馬123・8%、石川103・0%、長野112・5%、静岡105・7%、和歌山102・7%、島根105・8%、山口105・3%、福岡132・3%、佐賀100・2%、長崎102・8%、熊本108・8%、大分126・8%、宮崎120・7%)であった。さらに、青森、岩手、福島、滋賀、岡山の6県が目標の5割を超え、100万人以上の署名を達成したのは300万人にあと1歩と迫った東京、200万人を突破した北海道と福岡を含め、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫など8都道府県、鉄道のない沖縄でも7万人以上の署名を獲得した。

続く

国鉄労働組合史詳細解説 144

久々に更新させていただこうと思います。国鉄分割民営化の答申が決定、鉄労は分割民営化を賛成の立場を明確にしていきますが、この時期の動労は多少迷走とも言える状況になります。

仁杉総裁の辞任と国鉄改革

国鉄改革は、高木総裁は全く反対という立場を貫いたことから、任期を残して仁杉総裁と交代することとなりました。

仁杉氏も国鉄出身とは言え、国鉄民営化は止むなしとして最初に発言したことから、国鉄本社の幹部からは、改革派として警戒されることとなり、徐々に発言はトーンダウンしていくことに。

この辺は、仁杉氏の変節と言うよりも守旧派の幹部による情報操作的な意味合いが強かったように見受けられます。そして、この頃の組合の動きを見ていますと、三種三用の動きを見ることが出来ます。

総評が国鉄改革に熱心になるのは、自らの組織を守るため

昭和26年に分裂した動労【当時の名称は機関車労組】は、元々は職人意識の強い職能組合形組合でしたが、その後次第に主流派であった機関車同志会(後に労運研)と、政研派と呼ばれるグループに分裂、次第に政研派が主力となり、「鬼の動労」と言われるほどに過激な運動と、国労を批判する運語気が加速することとなりますが、いずれも総評に属してるという点は同じで、総評にしてみればいずれも大事な構成員であったことに変わりはありません。

動労は、生産性運動反対などで国労と共同戦線を張ることは多いもののそれ以外では、国労を決定できない組合として、強く非難することが多く、独自路線による無茶な順法闘争などで鬼の動労と揶揄されることも多々ありました。

そんな動労も、昭和57年の大幅な貨物削減による乗務員に過員が発生した頃からは、貨物増送運動なる、「働こう運動」を展開するなど当局のすり寄るとも言える状況を作り出し、表面上は国労の絶対分割民営化反対と比べると、そうした批判を行わないように見えるのですが、総裁が交代して、国鉄幹部の守旧派がほぼ全員が辞任という。状況に追い込まれることとなり、組合運動にも多少なりとも影響が出ることとなりました。

其れが後述の6月25日から28日かけて開催された、動労大会でしたが、その辺は後ほど詳述します。

 

改めて、当時の総評と国労動労の動きを時系列で参照したいと思います。

弊サイト「国鉄があった時代」から引用させていただきます。

 昭和60年前半・後半

国労中闘委、第9次全国統一闘争の具体的とりくみについて方針決定。8月5日時限ストなど 6/25
動労第41回定期大会 6/25-28
運輸省は、国鉄再建関連で組織を強化、国鉄再建総括審議官のもとに国鉄再建担当審議官を新設 6/26
総評国鉄再建闘争本部、答申前後のとりくみで各単産、県評に、15000万署名、2答申前日の緊急行動、38・4 集会など指示 6/28
日本消費者連盟国鉄再建監理委員会に分割・民営反対の申し入れ 6/28
姫路市において「国鉄問題を考えるシンポジウム」の開催 6/28
総評第七三回大会開催 7/15
昭和60年度最大の課題として、国鉄問題をあげ。運動方針とは別個に独立議案として「国鉄再建闘争方針」を提起。活動方針は
  1. 国鉄の「分割・民営化」を阻止し、真に国民のための国鉄再建をかちとるために国民の多数派形成をめざし、有権者過半数を目標とした署名運動を展開する
  2. ローカル線廃止をやめさせる運動を進める
  3. 国鉄労働者の首切りを許さないために、総評傘下全組合員が団結してたたかう
  4. 総評国鉄再建闘争本部を設置する、などが柱となっている

当時の総評にしてみれば、全逓国労は総評の双璧で有り。
NTTが一足先に移行したこともあり、全電通も総評から離れていったわけで、この時点で総評の存在意義は、国鉄問題を日本社会党ととも二度のように着地させるかが大きな問題となっていたと言えましょう。

ここで注目すべきは、動労の動きであったと言われています。動労は、昭和57年の貨物大幅削減以降から、積極的に出向に応じたり、「『鬼の動労』の緊急提言―国鉄を国民の手で守るために」という本を出版したりと、一貫して分割民営化反対の運動を続けてきた国労に対して、独自の運動をしていたのですが、この当時は動労も分割民営化には基本的には反対の意見を持っていました。

鬼の動労の緊急宣言

動労の変質?と思わせるような緊急提言ですが、以下のようなことが書かれています。

 

山陽新幹線の6両運転や、フルムーンパスは動労が提案して実現させたと言ったことが書かれています。

特に、この本を読むと判るのですが明確に分割民営化には反対であることをうったえており、国労との距離を取りつつも、総評とは足並みを揃えていたと言えます。その背景には、当局とのパイプが無くなったからではないかという観測を動労はしています。この辺を、国鉄民主化の道から引用してみます。

動労は、6月25日~28日に神奈川県・箱根町で開いた60年度の定期大会で、国鉄の分割民営化反対運動で総評内に設置される、「国鉄再建闘争本部」に。「一定の闘争指令権を委譲する」という、前代未聞の方針を決定した。ねらいは「分割・民営化反対の多数派結成」だそう。・・・・中略・・・・再び国労との共闘路線を打ち出した背景には。今回の国鉄当局の人事異動で、当局の労務担当重役が更迭され、そのことによって【動労として頼りにしてきた)。労政そのものが転換するのではないかとの懸念を持ったためと思われる」と観測している。

と有るように、動労国労同様に、後ろ盾を失ったという観測がなされていますが、当時の動労は分割民営化反対を組合運動の中心として置いていたわけです。

世論は必ずしも分割・民営化は良いと思っていなかった。

ここで、国有鉄道の昭和60年12月号、世論あらかるとという記事を参照してみますと、世間では1/4は分割民営化を容認するとしていますが、民営化は良いが分割に関してはもう少し考えるべきではないかという意見も多々あり、国民は必ずしも分割民営化を望んでいた訳ではないことが判ります。

実際、この頃はかなりマスコミでも積極的に分割民営化が言っていたにもかかわらず、民営化は容認するものの分割は慎重にと言うのが国民の本音で有ったのだろうと思われます。

1985年世論調査:国鉄分割民営化に関する世論 世論は必ずしも分割民営化を容認していたわけではない

1985年世論調査国鉄分割民営化に関する世論

国鉄の大幅な赤字に際して、必ずしも分割民営化は最良の機会ではないと、世間では考えていたことだけは間違いないようです。

続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第三節 5000万署名運動
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├○ 一 総評、国労5000万署名運動の決定 │
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 以上見てきたように、政府、自民党の分割・民営化攻撃が国鉄労使関係の改変ではなく、国労の解体とそれを突破口として闘う労働運動の消滅を意図するものである以上、闘いは国鉄内部での限定された反撃の域を超えて展開される必要があった。そこで、以下においては、総評第73回定期大会で5000万署名運動が提起され、これ以降、分割・民営化攻撃に反対する国民運動の中心をになっていった。
 5000万署名運動の発端となったのは、1985年7月に開催された総評第73回定期大会(7・15~18日)であった。
この大会総評は国鉄の分割・民営化を阻止する運動の柱として、国民の多数派形成を目標とする署名運動を行うことを提起したのである。そして、この総評大会の運動方針に呼応するかたちで、国労は7月29日から5日間、第48回定期大会(名古屋)を開催した。そして、この大会では2年後に国鉄の分割・民営化をめざす監理委員会の答申に真正面から対決する運動方針が決定されることとなった。すなわち、大会では、「分割・民営化」阻止の闘いはいかにして国民的多数派を結集するかにあるという立場から、総評が決定した有権者過半数の賛同を獲得するための5000万署名運動に全力をあげた取り組みを行なうことを再確認し、雇用を守るために重要段階ではストライキで闘うことを全会一致で決定した。この意味で、国労第48回大会は多数派結集のために国労内部の意思統一を固め、分割・民営化に反対する国民的運動を展開していくための総決起の場となった。
 そして、これ以降、8月4日には、総評国鉄再建闘争本部、国鉄再建闘争・東京共闘会議の共催で実施された中央集会(明治公園)でも、その闘争宣言において5000万署名運動への取り組みが集会参加者に呼びかけられていった。
 次いで、8月28日に開催された総評の単産・県評代表者会議では、国鉄再建闘争活動計画の柱として、5000万署名運動の具体的行動方針が提起された。それによれば、総評、地・県評の各組織が署名に賛同する個人や団体に呼びかけ、署名運動を推進する実行組織を中央、地方で組織する、署名の獲得目標は有権者過半数とする、活動の期間は9月~12月とし、県単位で計画、集約するという内容を骨子とした行動方針であった。そして、この具体的行動方針を前提として、前日の8月27日、国労第三回中央委員会では、各地城での署名活動を国労組織が中心となって担うとともに、分割・民営化に反対する対当局交渉、国会での追及、地方自治体への働きかけ、国民諸階層への宣伝活動を強化するという意思統一を行った。

続く

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国鉄労働組合史詳細解説 143

国鉄では、はあ制する余剰人員に対して万全の措置を講ずとして、他省庁や公社、地方自治体などの受け入れを要請しました。
しかし実際には、他省庁などからすれば中途採用で入ってくる職員さんは、未知数の上適性もある訳でその後なじむ人も居た反面、水が合わず1年もせずに退職したなんて人も居ました。
今回は其処まで踏み込めるか否かは判りませんが、当時の様子を国労に記事以外からも参照しながらその実情に迫ってみたいと思います。
 

余剰人員という名の定員整理

国鉄では、昭和30年代から概ね40万人台で推移してきました。
昭和30年代は増大する輸送力にそって、迅雲が増える分も吸収できたわけですが、その後は動力近代化などで合理化が図れたにもかかわらず、組合は、反合理化闘争で、人員の削減を極力拒否してきたことのツケがここに来て回ってきたとも言える状況に置かれたと言えるかも知れません。
日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法では、国鉄を民営化する前に、余剰となる人員を他省庁などへの就職を斡旋すると共に、清算事業団に移行後も、速やかに再就職が行えるように措置すると言うことを目的とする事とされていました。
以下は、法律第九十一号(昭六一・一二・四)

日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法

から抜粋したものです。

   第一章 総則

 (目的)

第一条 この法律は、日本国有鉄道改革法(昭和六十一年法律第八十七号)の規定による日本国有鉄道の改革を確実かつ円滑に遂行するための施策の実施に伴い、一時に多数の再就職を必要とする職員が発生することにかんがみ、これらの者の早期かつ円滑な再就職の促進を図るため、当該改革前においても日本国有鉄道の職員のうち再就職を希望する者について再就職の機会の確保等に関する特別の措置を緊急に講ずるとともに、当該改革後において日本国有鉄道清算事業団の職員になつた者のうち再就職を必要とする者について再就職の機会の確保及び再就職の援助等に関する特別の措置を総合的かつ計画的に講じ、もつてこれらの者の職業の安定に資することを目的とする。

 (関係者の責務)

第二条 日本国有鉄道又は日本国有鉄道清算事業団(以下「清算事業団」という。)及び国、地方公共団体その他の関係者は、第五条第一項に規定する国鉄退職希望職員又は第十四条第一項に規定する清算事業団職員の早期かつ円滑な再就職の実現が、日本国有鉄道改革法の規定による日本国有鉄道の改革を確実かつ円滑に実施する上で不可欠であるとの認識の下に、この法律に定める措置を着実に実施するものとする。

第三条 日本国有鉄道又は清算事業団は、第五条第一項に規定する国鉄退職希望職員又は第十四条第一項に規定する清算事業団職員について、再就職の機会の確保及び再就職の援助等を図るために必要な措置を円滑かつ効果的に講ずるように努めなければならない。

第四条 国は、次条第一項に規定する国鉄退職希望職員又は第十四条第一項に規定する清算事業団職員について、再就職の機会の確保及び再就職の援助等を図るために必要な施策を円滑かつ総合的に推進するように努めなければならない。

2 地方公共団体は、前項の国の施策に協力して、次条第一項に規定する国鉄退職希望職員又は第十四条第一項に規定する清算事業団職員の再就職の機会の確保等を図るために必要な措置を講ずるように努めなければならない。

ここにありますように、改革により発生するであろう過員(管理員会の発言では余剰人員)を解消するために特別な法律を作ってその対応を図るとしており、国鉄関連会社だけにと留まらず、他省庁、公社、地方自治体なども該当したわけで、公安職員は特に希望しない限りはそのまま警察官に採用されたようです。
ただ、公安職員の資質もあるのでしょうが、警察官としてはちょっと力不足な人もいたという話を聞いたこともありますが、この辺はある程度はシカラがないことかとは思えます。
他にも、NTTや郵政に転職した人も居られましたが、職場によっては同じような現業であっても、互いの温度感が違うので、すっと溶け込めた職場もあれば、そうでなかった職場も有ったのではないかと推測されます。
私自身は、郵政しか知りませんが、郵政研修所に第1陣でやって来た国鉄職員は常に緊張しているという雰囲気を全身からみなぎらせていたのが印象に残っています
 

国鉄の余剰人員発生は様々な要因から

国鉄の要員問題が顕著になってきたのは、昭和57年の大幅な列車ダイヤ削減の影響が大きかったと言われています。
特に、貨物輸送の落ち込みが大きく、列車ダイヤ自体を削減してしまったため、機関車に余剰が生じる。機関車の余剰だけであれば、極論を言えば休車扱いにすることで検査機関の延長などが可能となりますが、機関車を動かさないと言うことは、機関車に乗務する人も要らないと言うことになり、その人の仕事がなくなることを意味します。

職場に来ても仕事がない・・・そんな状態になる訳です。

動労が方針転換した背景には組織防衛の意識が強く働いたから。

駅勤務の人の場合は多忙な駅への配置換えとか、機動要員として各駅への応援なども可能ですが。機関士の場合、いきなり翌日から窓口で切符を販売しろと言っても無理なことは明白でしょう。国鉄の場合、機関区で採用されれば機関士までの道であり、駅であれば車掌という選択肢もありますが、運転士から車掌なりというのは一般的ではありませんでした。

そこに組織の硬直性が有り、結果的に余剰人員発生時に、動労がいち早く転向して、貨物蔵そう運動などに取り組んだのも、余剰人員として指定されて、合理化の対象となることを避けるためであり、積極的に出向などにも応じることで、組織を守るという選択肢をしています。

この背景には、松崎自身が若い頃に取り組んだ、機関助士廃止反対闘争の失敗の経験が生かされている様に思えます。

実際、徐々に実力は付けてきたと言っていた動労ですが、機関助士反対闘争では、国労・鉄労の切り崩しもあって、組織存亡の時期があったと言われています。

そうしたこともあり、昭和57年の大幅な貨物列車・旅客列車共に大幅に削減されたダイヤ改正以降、貨物増送運動いわゆる働こう運動を行うなど、組織生き残りをかけた運動が始まりました。

 

千葉動労革マル動労の裏切りと激しく非難

これに対して、異論を唱えたのは千葉動労であり、千葉動労のサイトでは以下のように、動労の裏切り行為であると言うことで以下のような記述がなされています。

82年1月には「職場と仕事を守るために、働き度を2~3割高める」という悪名高い「働こう運動」を打ちだしていた。
  それでも当初はかたちだけは国労との共闘を維持していたが、たちまち馬脚をあらわす。
 82年ブルトレ問題でのぬけがけ的妥結を皮切りに、以降入浴問題、現協問題等々でつぎつぎに当局と妥結。東北・上越新幹線開業に伴う2・11ダイ改では、第一組合である国労をあからさまに無視する当局に抗議して、国労が6年ぶりに順法闘争をたたかっている最中、鉄労とともに当局提案を全面的に受け入れた。ここに動労を使って国鉄労働運動をつぶすというこの攻撃の出発点が形づくられた。  

動労革マルの裏切り から引用

1985(昭和60)年7月30日に政府において再建監理委員会の答申に沿って、国鉄改革を行う旨の閣議決定が行われ、其れを受けて国鉄も、国鉄国鉄余剰人員対策本部を設置、約61,000人の再雇用先を探すこととなり、国鉄関連企業及び公的部門への働きかけが行われることとなり、9月下旬からは管理局長など局幹部が都道府県や政令指定都市を訪問して職員採用に動いたとされています。

政府が1985(昭和60)年12月13日に閣議決定した国鉄余剰人員雇用対策の基本方針について」は国有鉄道1986年2月号の記事から引用しますと。以下のような内容でした。

  1. 公的部門をはじめとする各分野における雇用の場の確保
  2. 新経営形態移行前の対策
  3. 新経営形態移行後の対策

の 3 項目について述べたものである。同時に出された内閣官房長官の談話 では、余剰人員対策の最重点事項である再就職先を各分野 にわたって 広く確保するためには、まず国をはじめとした公的部門が 進んで雇用の場を提供する必要があり、具体的に、政府 として国等の公的部 門における採 用目標数を3 万人と し、その達成に政府全体が一丸となって全力を挙げて取り組む旨を明ら か に している 。 

国鉄当局としては、国が積極的に雇用の確保に努めてくれると信じて居たわけで、公的部門での採用目標数を3万人と明記したことは、政府一丸となって取り組む旨を明らかにしたとして、国鉄としても大いに励みになったと記述されていますが、実際には、国労の記述にもあるように、公的機関の採用は非常に少なかったとして、中々手厳しく書かれています。

基本方針をまとめた国鉄余剰人員雇用対策本部によると、国の採用人員の10%とは86年度で約2600人であり、これだけの採用を90年度までの5年間続けるとしても1万3000人にしかならないだけでなく、地方公共団体の多くは行革と財政難で人減らしを進めている状況で、国鉄職員の受け入れ要請にはにべもない態度であった。地方自治体の具体策が全く立っていないことや、民間企業での約1万人の受け入れ問題が残されており、余剰人員の再就職問題は具体的展望を示されないまま、そして無責任な方針にもとづいてスタートした。

 続く

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第二節 分割・民営化推進体制の確立
           ―内閣. 運輸省. 国鉄
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├○ 三 政府の分割・民営化推進体制 │
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政府の国鉄余剰人員雇用対策基本方針

 政府は、85年12月13日、閣議で分割・民営化にともなう余剰人員の再就職にかんする基本方針を決定した。前述したように、監理委員会の最終答申では、分割・民営化後の新会社の適正要員を18万3000人、余剰人員を9万3000人とはじきだした。うち3万2000人を新会社に上乗せし、2万人の希望退職を募り、残る4万1000人は「旧国鉄」に所属させ、公的機関や民間企業で再就職を図ると、答申していた。その後、亀井監理委員会委員長が国会答弁などで「国や地方自治体などの公的機関は、採用可能な職種の一割を国鉄職員の受け入れにあて、3万人を採用し、残りを民間で」という案を示した。しかし、受け入れ機関側の抵抗もあり、明確な計画が固まらなかった。
 各省庁や地方自治体との協議を開始した。地方自治体の場合は、保母などの資格の必要な職種が多いこと、女子の占める割合が大きく、自治省によると国鉄職員を受け入れ可能な職種が全採用数の2割以下で、結局、86年度に国鉄から受け入れ可能人数は、特殊法人も含めて公的機関で2000人に達するかどうか、という状況であった。
 自民党側は、余剰人員対策を明確に示さなければ、分割・民営化に反対している社会、共産両党などに有力な反論の口実を与え、法案の審議・成立に支障を来すことを心配して「公的機関で3万人採用」を明確に計画の中に盛り込む意向であり、これを政府に迫った。
 結局、政府が閣議決定した「国鉄余剰人員雇用対策の基本方針」に盛られた雇用確保策の内容は次のようになった。
  ①  各省庁は86~90年度の採用数(特別資格を要する職種などを除く)の10%以上を国鉄から採用する。
  ②  各省庁は所管の特殊法人にたいし国と同様の採用をするよう指導または要請する。
  ③  自治省地方公共団体にたいし国に準じた採用をするよう要請する。
  ④  政府は経済団体、業界団体に採用への協力を要望する。
  ⑤  国鉄は関連企業にたいし新規採用は原則停止当の措置を講じ、国鉄職員を優先採用するよう要請する。
 このように基本方針には、再建監理委員会や自民党が求めていた、「公的機関での3万人の採用」を明記せず、藤波官房長官の「国等の公的部門の採用目標数は3万人とし、達成に、政府全体が一丸となって全力をあげる」との談話で決着した。基本方針をまとめた国鉄余剰人員雇用対策本部によると、国の採用人員の10%とは86年度で約2600人であり、これだけの採用を90年度までの5年間続けるとしても1万3000人にしかならないだけでなく、地方公共団体の多くは行革と財政難で人減らしを進めている状況で、国鉄職員の受け入れ要請にはにべもない態度であった。地方自治体の具体策が全く立っていないことや、民間企業での約1万人の受け入れ問題が残されており、余剰人員の再就職問題は具体的展望を示されないまま、そして無責任な方針にもとづいてスタートした。
 中曽根首相は86年2月24日、都内のホテルに財界五団体のトップを招き、「国鉄職員の雇用要請に関する懇談会」を開いた。
首相は「国鉄改革の最大の問題は余剰人員の雇用対策と長期累積債務だ。政府は長期債務についてすでに処理方針を決めたので、改革の成否は雇用問題にかかっている」「余剰人員6万1000人のうち民間企業にお願いしているのは約1万人以上で、すでに私鉄などには協力いただいている。各企業も協力してほしい」と要請した。これに対し、財界首脳は「国鉄に協力する」と答え、具体策は今後検討すると述べた。
 
続く
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国鉄労働組合史詳細解説 142

完成したのに消えてしまったので、改めてアップさせていただき

下書きのサムネイルがおかしかったので、それを避けようと思い消したところ下書きまで消えてしまいかなり落ち込んでいます。

再建監理委員会による臨調答申前後の国鉄の現場では

再建監理委員会による国鉄改革は、分割民営化の方向で進むこととなり、民営化を容認していた仁杉総裁は副総裁及び太田職員局長などの説得もあり、徐々にトーンダウンしていくとともに、身内の会社が国鉄から業務を請け負っているとしてマスコミにたたかれるなどして詰め腹を切られされる形で辞任、1985年6月24日には辞任、その際に反対派の幹部の辞表をとりまとめて一緒に退任することで、国鉄本社内には分割民営化反対派は一掃されることとなります。

後任には、元運輸事務次官であった杉浦喬也(すぎうら たかや)氏が総裁として就任、国鉄は一気に分割民営化一色に染まっていきます。

当時の国鉄は、改革と言うことで欧風客車と言われた、「サロンカーなにわ」や「サロンエクスプレス東京」と言ったジョイフルトレインに刺激されて各管理局でも工夫を凝らした車両が誕生するなど生き残りをかけて積極的な動きが見らたものでした。

機関区等の一般公開も積極的に行われたもので、私もカメラ片手によく出かけたものでした。

もっとも、国鉄分割民営化に関して興味を持っていた私にしてみればそれ以上に、職場の組合掲示板などに興味を持ってしまい。国労の「分割民営化絶対阻止」と言った抗議文の横で、鉄労による「分割民営化推進」と書かれた真逆のスローガンを見るに付け、複雑な事情が国鉄を覆っていることを認識させられました。
また、詰め所の名札には、出向者の一覧がまとめられているなど、国鉄の厳しい現場の状況を垣間見る思いでした。

動労の変節と乗り越えの理論

一番大きく変わったのは動労でしょうか。

かつては鬼の動労と言われるほど、過激な運動を繰り返してきた訳ですが、昭和30年代からの新左翼が台頭してきた中で、革マルと近しかった「政研派」と呼ばれる非主流派が反戦青年委員会に所属する組合員などを排除ではなくむしろ育てていった結果、動労は穏便な職能組合から、過激な組合へと変節していったわけです。

こうして政研派率いる動労は過激な運動を繰り返しつつ時には、国労を激しく非難しつつ、闘争では共同行動を取るなどしてその存在感を高めていきました。

こうした、動労は昭和57(1982)年以降大きく変節します。

とりわけ、昭和57年の貨物列車削減のダイヤ改正は、貨物列車を牽引する機関車が多い職場を直撃、仕事がないという状態を生み出してしまいました。

このまま行けば合理化で職場が消滅するのではという観点から、動労では新たに新しい活動を開始します。

それは、革マルの理論の一つ、「乗り越えの理論」を採用することでした。

乗り越えの理論とは

  • 他党派の戦術やイデオロギーを批判する(理論上ののりこえ)

  • 派党闘争に勝ち抜き、他党派を革命的に解体する(組織上ののりこえ)

  • 既存の価値観に囚われない新しい労働運動や大衆運動を展開する(運動上ののりこえ)

を指していると言われており、動労は最後の再建計画と言われた国鉄再建による当局の本気度と言いますか、本格的な合理化闘争に対して、3番目の

  • 既存の価値観に囚われない新しい労働運動や大衆運動を展開する(運動上ののりこえ)

を目指して行動する事となりました。

その一つが、貨物輸送安全宣言であり。
積極的な出向や休職の推進などでした。

当然のことながらこうした転向を千葉労働としては、革マル派の策謀であるとして厳しく批判することとなります。

そこで、歴史的な動労と鉄労による合同がなされるわけで、これに一番驚いたのは総評であり、国労でもありました。

一番の双璧である国労動労のうち、動労が総評から抜けるわけで、慰撫工作を行いますが、動労はその方針を貫き、総評はその勢いを減じていくこととなります。

動労の乗り越えの理論

こうした動労の動きに反発するのは、動労から離脱した千葉動労でした。

千葉動労は、中核派のグループで結成されており、革マル派とは相いれない組織として本部である動労に対して厳しい反応を示します。

よく言えば純粋、悪く言えば融通が利かないのが中核派と言えましょう。

革マル派が目的のためには手段を択ばない・・・乗り越え理論による運動は最たるもので、組織の中核に入り込んでいくということを目標としており、改革3人組の一人と言われた、松田昌士(まつだまさたけ)【後にJR東日本社長・会長】と組むことも厭いませんでした。

鉄道労連分裂の失敗と、松田昌士の失脚

JR発足後は動労と手を切って追い出そうとして、鉄道労連の初代会長志摩好達初代委員長が、JR発足直後の7月に鉄道労連から離脱しようとする動きがあったが、これは松田昌士が裏で手を引いていたともいわれ、生産性運動(マル生運動)以後の嫌がらせなどで動労から散々なことをされてきた鉄労組合員からすれば動労との提携は心情的に受け入れられるものではなかったであろうし、この分裂は当然と思われたが、政府の思惑もあり。(政府側は1企業1組合の創設に拘っていた)この計画はとん挫することとなった。この背景には松田昌士氏が主導したということで、結果的に弱みを握られることとなったとされています。

この辺は、wikiでは以下のように記述されています。

 西岡研介によれば、鉄道労連の初代会長である志摩好達(鉄労出身)が、JR発足の3か月後である1987年7月にその脱退を表明した事件があり、背後には松田が糸を引いていたという。ところが、当時の政府筋から「スタートしたばかりのJRで労働組合が分裂すれば、行革の成果に傷がつく」とブレーキが掛かったため松田は手を引き、孤立した志摩は脱退を断念したという。

 つまり、松田は松崎明と、その背後にいるとされた革マル派を、分割民営化に利用した上で使い捨てにしようとしたが失敗、その弱みから松崎に屈服したというのである。また、この事件のおかげで、JR連合の分裂が遅れたということにもなる。 

結果的に、JR連合の分裂が遅れたことは事実であったし、JR発足の昭和62(1987)には、突出して事故等が東日本で多かった背景にはこうした問題も内包していたのか否か、その辺の関連性も含めて今後さらに検証していく必要があるかと思われます。

以下は、千葉動労動労本部の大会に対して以下のように動労の様子を伝えています。

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第二節 分割・民営化推進体制の確立
           ―内閣. 運輸省. 国鉄
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┌─────────────────┐
├○ 二 政府の分割・民営化推進体制 │
└─────────────────┘
 
 「国鉄改革のための基本的方針」の閣議決定監理委員会の最終答申をうけた政府は、85年7月30日の閣議で答申を「最大限尊重する」と決定し、「国鉄改革に関する関係閣僚会議」を設置した。8月7日、政府は「国鉄余剰人員雇用対策木部」の設置を閣議決定し、労働省にこれを置き、国鉄当局は、「雇用対策室」を新設した( 前述) 。10月11日、政府は国鉄改革関係閣僚会議と閣議で、最終答申をひきうつした国鉄を六分割・民営化する「国鉄改革のための基本的方針」を決定した。そして、答申どおり分割・民営化の時期を87年4月1日とし、そのための所要の法案を次期国会に提出する方針を打ち出した。

┌─────────────────┐
├○ 三 政府の分割・民営化推進体制 │
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 「国鉄改革のための基本的方針」の閣議決定 監理委員会の最終答申をうけた政府は、85年7月30日の閣議で答申を「最大限尊重する」と決定し、「国鉄改革に関する関係閣僚会議」を設置した。8月7日、政府は「国鉄余剰人員雇用対策本部」の設置を閣議決定し、労働省にこれを置き、国鉄当局は、「雇用対策室」を新設した。10月11日、政府は国鉄改革関係閣僚会議と閣議で、最終答申をひきうつした国鉄を六分割・民営化する「国鉄改革のための基本的方針」を決定した。そして、答申どおり分割・民営化の時期を87年4月1日とし、そのための所要の法案を次期国会に提出する方針を打ち出した。
 中曽根総理大臣は国鉄改革関係閣僚会議の席上、「国鉄再建は、行政改革に残された最も重要かつ緊急な課題だ。この方針に基づいて通常国会に改革法案が提出できるよう、運輸大臣を中心に担当省庁で努力してもらいたい。私も全力を挙げてこの改革の実現に取り組む」と決意を述べた。

 《基本方針の骨子》
  ① 旅客鉄道部門を北海道、四国、九州と本州(東日本、東海、西日本)の六つに分割する、
  ② いずれも国鉄出資の特殊会社として87年4月1日に発足するが、経営基盤が整いしだい株式を  放出し、早期に純民間会社とする、
  ③ 貨物部門は単一会社とし、国鉄バスは分割し、それぞれ独立させる。
  ④ 新幹線はその資産をリース会社が一括保有し、本州の三社が借りて運営する。
  ⑤ 長期債務など37兆円の負債は6兆円を国鉄用地売却で処理、14兆円を新事業体が引き継ぎ、残りの17兆円を国民負担で処理する。
  ⑥ 特定地方交通線は切り捨て、他の地方交通線も「地域の実情に即した運営」「徹底した合理化」に努める。
  ⑦ 新事業体の要員規模は合理化によって18万3000人とし、これによって生じる9万3000人の余剰人員は、新事業体と旧国鉄に振り分け、旧国鉄に所属する余剰人員の転職は、特別立法などにより政府が強力に支援する。
 この決定によって関連法案の準備にはいるが、その前に長期債務を処理する新たな財源対策及び余剰人員の再雇用対策などを具体的に示す必要があるため、そのあと政府は、国鉄運輸省、大蔵省、労働省などを中心に、基本的方針に沿って詰めを急がせた。
関連法案の次期通常国会への提出は、86年2月ごろをめどとした。
 国労は、政府が「国鉄改革のための基本的方針」を決定したことに対し、同日要旨次のような声明を発表した。
  「政府の閣議決定は、答申直後の「対処方針」に引き続くものだが、「基本的方針」は最終答申の「趣旨に沿って」政府の態度として決定したものにすぎない。答申については、専門家をはじめ各界から批判や疑問が相次いでいる。世論調査でも大部分の国民が疑問を持っている。こうした批判や疑問にこたえることなく、分割・民営化を強行しようとする閣議決定は、きわめて遺憾だ。「基本的方針」は分割・民営化に対する基本的な論点、 技術上の諸問題、新事業体の収支見通しなど、政府がどのような検討を加えたかは不明のままであり、また長期債務の財源、余剰人員問題についても対処策は明らかにされていない。われわれは答申以降、5000万署名をはじめとする分割・民営化反対の闘いをくりひろげてきたが、分割・民営化の内容が明らかになるに従って反対運動は盛り上がりつつある。われわれは社会党を中心とする野党と連携を密にし、次期国会で徹底した論戦をくりひろげるとともに、引き続き総評に結集する仲間とともに、利用者・国民の支援・協力のもとに強力に闘いを推し進める。」
 社会党の小柳勇国鉄再建対策委員長は、政府の「基本的方針」の決定に対し、「密室審議の中でまとめた分割・民営化を柱とした内容に沿ったものだ。国鉄を危機に追い込んだ政府自身の反省がなく、地方交通線を切り捨て、後始末を国民と国鉄関係労働者の犠牲で行おうというもので、許し難い」との抗議談話を発表した。
 共産党もこの閣議決定に対し、「国鉄解体を実施する基本方針を閣議決定したことは、国民と国鉄労働者の批判を無視した暴挙であり、断じて許すことができない。この決定は国鉄の経営危機を作り出した政府・自民党、財界の責任を免罪したうえ、膨大な債務の解決方針を示すことなく、国民と国鉄労働者に犠牲を転嫁するものであり、ローカル線廃止、運賃値上げ、国鉄労働者の大量首切りなど百害あって一利なしだ。」との談話を発表した。
 
続く

国鉄労働組合史詳細解説 141

申し訳ございません。
改めて、仁杉総裁更迭の頃からのお話をさせていただこうと思います。

国鉄改革の推進役として古巣の国鉄

仁杉総裁は、昭和58(1983)年12月2日、第9代国鉄総裁として就任しましたが、その後中曽根首相[当時]に、国鉄改革に関して積極的で無いとして、電撃的に解任されることとなり、反対派の常務理事の辞表とりまとめて辞任することになるのですが、その前に簡単に、仁杉総裁の経歴を振り返ってみたいと思います。

大正4年5月7日 生誕
昭和13年3月  東京帝国大工学学部土木工学科卒業
昭和13.4    鉄道省入省 任鉄道技手、建設局
昭和27. 2      運輸総局施設局土木課
昭和28. 6      大阪工事事務 所次長
昭和30.11     技師長室
昭和33. 2      施設局土木課長
昭和34. 7     同 管理課長
昭和34.12     名古屋幹線工事局長
昭和37.10    東京幹線工事局長
昭和39. 6     建設局長
昭和40. 2     臨時 工事積算室長兼務
昭和40. 4    日本国有 鉄道理事(常務理事)
昭和43. 4     同 退任(任期満了〕
昭和43. 4      極東鋼弦コンクリ ー ト振興(株)取締役
昭和46.11     西武鉄道側専務取締役
昭和48.11     同 副社長
昭和49. 5      西武建設側社 長( 兼任)
昭和54.10     日本鉄道建設公団総裁
昭和58.12.2  日本国有鉄道総裁

以上のように技術者としての道を歩んできたわけで、高木総裁の後を受けて再び国鉄出身の総裁誕生となりました。
昭和40年には常務理事として第3次長期計画にも携わっていたようで、古い記事を探していますと下記のように常務理事就任直後のインタビュー記事で、国鉄としては、高速道路の兼ね合いで国鉄としてはより立派な新幹線のような線路を作りたいのだが、それが中々出来ないという点や、人員を増やさず輸送力を増やすべき工夫と言うことで、技術屋らしいと言いますか、技術一本と言いますか、そのように感じられます。

中央の写真は、若き日の仁杉常務理事

仁杉総裁が民営化を容認した背景には、西武鉄道時代の経験が

こうして元技術屋の総裁である、仁杉氏は鉄道建設公団総裁を経て、国鉄の8代総裁として古巣に戻ってくることになる訳ですが、国鉄自身は後の無い再建計画として、臨調は国鉄の分割民営化を容認する発言をしていました。
就任最初の頃は国鉄職員に対しては、「親方日の丸意識の払拭・お客様を大切にと言うことで下記のような発言しています。
「厳正な規律のなかにも職員の間 での相互信頼 温かい交流が大切なことだと思う。私は皆さんに、
  1. 親方日の丸意識の払拭
  2.  ルール・規律の遵守
  3. 職員間の連携を深め再建に向けて心を一つにする
  4. 各現場において勉強を重ね技能の研鑽につとめる
    の4 点をとくに お願いしたい。幸い関係各方面の国鉄問題への関心は高まっており、今こそ再建への絶好の機会であると思うので、これらのことについて努力していただきたい

国有鉄道 昭和59年1月

就任時の挨拶と言うことで、国有鉄道P2に書かれていました。

実際、この当時の国鉄職員の接客はお世辞にも優れているとは言えず、昭和59年2月号の国有鉄道では、新聞の投書からという記事が掲載されていて、国鉄職員に対する接客の苦情などが数多く掲載されていたものでした。そうした国鉄職員に対して、親方日の丸的な意識止めようと意発言しているわけで、西武鉄道時代の経験が大きいと本人も認めています。

仁杉総裁の民営化容認発言で、国労動労などと一緒に抗議声明発表

ただ、下記の通り国労が批判しているように、

「昭和59(1984)年6月21日の日本記者クラブにおける講演で、「分割も民営も基本的には賛成だ」との発言は、労働組合からの猛反発をうける事になります。

国労動労、全動労、全地労の四組合は共同で抗議声明を出したとありますが、昭和57(1982)年頃から、国労動労はその基本方針でその運動方向の違いなどから互いに批判しあう(国労は、出向反対派であったが、動労は鉄労同様に、出向には積極的に応じるなど、動労の変節が目立っていた時期でした。

国鉄は非分割民営化案を発表

さて、再建監理委員会が昭和59(1984)年8月10日に分割民営化の方向性を打ち出し、その具体案を打ち出していた時期、国鉄は唐突とも言えるように、昭和60(1985)年1月10日に国鉄としての独自再建案を発表しますが、これはローカル線の経営は地方がして欲しい、その反面、幹線部分は国鉄が運営するものであった事は既に記した事ですが、この案はマスコミからも相手にされることは無かったわけですが、このような国鉄独自の再建案が発表された背景には、国鉄だけが審議から外されていたこともあり、また1987年までに分割民営化は出来ないのでは・・・と言う思惑もあったと言われています。この辺は、日本労働年鑑1987年 特集  国鉄分割・民営化問題 II 分割・民営化路線と国鉄当局の対応 に詳しいので、引用させていただきます。

 

監理委員会がすでに国鉄分割・民営化の具体案づくりを本格的に進めている時期に、国鉄当局がこれに反対する独自案を出した理由は、つぎのように考えられる。
一つは、監理委員会が答申作成にあたって国鉄をほとんど無視して進めてきたことにたいする国鉄の側からの、とくに分割反対派から国鉄の意思をアピールしておくべきだと考えたこと、それにいたる判断は、国鉄民営化は八七年四月一日に可能だが、分割は無理と見なしたことがあった

国鉄内では、この案にもとづいて「分割抜きの民営化」に向けて具体的な体制づくりをはじめ、二月初めには総裁直属の「経営改革推進チーム」が非公式に発足し、全国一社制について、各方面に国鉄の考え方を広げるキャンペーンをはじめ、また国鉄内の分割・民営化容認の改革派にたいする締めつけをきびしくしていった。

*1

更に追い打ちをかけることとなった、総裁の脇の甘さ

改革3人組と後に言われた(井手・松田・葛西)を本社から転出させるなどの体制で分割容認派を排除していく中で、徐々に世論は分割容認の方向に流れていくこととなりました。

そんな折、仁杉総裁の家族[仁杉総裁の娘の夫が経営する会社]が総裁就任後も国鉄の協力会社として多額の発注を受けていたことが発覚し。
それを国会でも追及されることとなりました。側にも非があった点としては、総裁の家族が経営する会社がいわば利益供与を受けているのでは無いかと社会党の代議士から指摘を受けることとなり、国労の下記資料でも書かれているように、亀井監理委員会委員長からは、「5月16日の記者会見で仁杉総裁について「分割に反対する国鉄自身の再建案が1月に出たが、その考えを変えてもらわなければ、総裁を代わってもらわなければならない」と発言した。」とあるように、当初は分割民営化の推進役として期待された仁杉総裁は、ますます進退窮まることとなりました。

結果的には、以下のように6月21日辞意表明

24日には、反対派全員の辞表をとりまとめ、一斉に退任、翌25日からは、国鉄最後の総裁として元運輸事務次官杉浦喬也氏が就任することとなりました。

仁杉国鉄総裁辞意表明 6/21

仁杉国鉄総裁は中曾根首相に辞意を表明、首相は後任に杉浦喬也前運輸事務次官を内定

仁杉総裁辞表提出 6/24

仁杉同鉄総裁は山下運輸大臣に中曾根首相宛の辞表を提出、運輸相はこれを受埋、縄田副総裁、半谷技師長も退任

杉浦国鉄総裁誕生 6/25

政府は仁杉国鉄総裁の任を免し、同時に杉浦喬也氏を国鉄総裁に任命。また国鉄は役員13人のうち6人を交替させる大幅人事異動を発令、副総裁に檎元雅司氏、技師長に坂田浩一氏就任

以上 国鉄があった時代 から引用

jnrera.starfree.jp

なお、仁杉総裁が、変節していく背景には縄田副総裁及び太田職員局長の動きにも注目しないと行けないのですが、この辺は長いので次回お話をさせていただく予定としております。

仁杉総裁の関連会社に関する報道を受け糾弾する千葉動労の記事

仁杉総裁の関連会社に関する報道を受け糾弾する千葉動労の記事

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第二節 分割・民営化推進体制の確立
           ―内閣. 運輸省. 国鉄
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┌────────────────────┐
├○ 一 仁杉総裁の更迭と杉浦新体制の発足 │
└────────────────────┘
 
 監理委員会答申の一ヵ月前、国鉄の分割・民営化をめぐる事態が緊迫化するなかで、1985年6月25日、仁杉国鉄総裁が辞任した。仁杉総裁は、国鉄のなかで「分割・民常化」を率先して推進していく役割をにない、83年11月29日に高木総裁の後任として任命されたのであった。しかし、当時の国鉄内には「分割. 民営化」を受け入れる状況はなかった。のちに改革派と呼ばれた国鉄官僚の共通点は、労働組合に対するタカ派的立場で、職場管理権を確立することにあり、まだ分割・民営化を唱えていなかった。
したがって、仁杉国鉄総裁は就任後すぐには中曽根政権と監理委員会の期待する分割・民営化には動けなかった。
 しかし、84年6月21日の日本記者クラブにおける講演で、「分割も民営も基本的には賛成だ」との発言をし、この総裁発言は、前述したように労働組合の猛反発をうけ、国労動労、全動労、全地労の四組合は共同で抗議声明を出した。
 そして、85年1月の国鉄独自再建案( 前述) の発表後、仁杉総裁と国鉄首脳陣との間に食い違いが目立っていった。山下徳天運輸大臣は、1月12日に仁杉総裁を運輸省に呼び、「運輸省としては、基本的には、再建監理委員会と同じように、分割・民営化の方向で検討を進めるべきだと考えている」と述べ、「分割. 民営化に向けた再建監理委員会の審議に国鉄も積極的に協力すべきだ」と強く要請した。この要請に対し、仁杉総裁は「国鉄としても頭から分割を否定しているわけではない。審議促進のため協力する」と答えた。しかし・国鉄内部では先に述べたように「民営化」に向けた法改正の準備作業を開始しており、縄田副総裁は「分割については検討しない」と明言するなど、運輸大臣への総裁の回答とは違いが生まれていた。このことからも明らかなように仁杉総裁の指導力は低下していた。監理委員会に対する国鉄首脳の反抗的態度に、中曽根首相は2月6日の衆議院予算委員会で「臨調答申に反するような考えの人がいれば、けじめをつけなければならない」と強い姿勢を明らかにするほどであった。
 とりわけ、仁杉総裁の指導力を一段と低下させたのが、3月6日の衆議院予算委員会社会党が追及した、総裁の家族の経営する会社が国鉄指定業者の下請けを続けていた事実であった。亀井監理委員会委員長は、5月16日の記者会見で仁杉総裁について「分割に反対する国鉄自身の再建案が1月に出たが、その考えを変えてもらわなければ、総裁を代わってもらわなければならない」と発言した。こうした一連の動きからみて、仁杉総裁の辞任は時間の問題となっていた。
 監理委員会の最終答申のでる一カ月前国会も会期末となった6月21日に仁杉総裁は中曽根首相に会い、辞意を表明し、首相もこれを了承した。形は仁杉総裁の辞意表明であったが、実際は監理委員会の分割. 民営化答申を実行に移す場合、現状の国鉄経営陣のままでは事が運ばないとして中曽根首相の意向で辞任を迫ったものであった。中曽根首相は、仁杉総裁の指導力を危ぶみ、国鉄の動きを観察していたが・縄田副総裁を中心とする反分割の動きを押さえ切れなかったことも、首相の懸念を大きくした、と報道された(『朝日新聞』1985年6月22日付) 。仁杉総裁は役員全員の進退一任をとりつけ、分割反対の首脳陣を国鉄から一掃する仕事を行い、総裁としての仕事を終え、6月25日には、総裁、副総裁、技師長のほか4人の常務理事計7人が同時に退任するという、国鉄史上最大規模の首脳陣入れ替え人事が実行された。
 後継者には杉浦喬也・前運輸事務次官が任命された。国鉄総裁就任を受諾した同氏は、2日の記者会見で「答申が出たら、政府をあげて実行ということになるわけで、国鉄としてもその線に沿って具体的に検討の必要がある」「( 人事については) 私の考えに賛成の人はがんばってもらい、賛成いただけない人とはご一緒に仕事ができない」と語った。こうして国鉄内の分割・民営化反対派は一掃され、政府・監理委員会の方針がストレートにとおる体制が確立された。国鉄当局は新体制のもとで、7月4日に「再建推進本部」を設置し、分割・民営化へ向けての準備をすすめていった。
 国労は、国鉄総裁の更迭について、「本日の総裁辞任は、国鉄の再建について広く国民に問うこともなく『分割・民営化』を強行しようとする中曽根首相の意思を反映したものだ。われわれは、こうした政治的暴力にまきこまれることなく、引き続き『分割・民営化』反対の闘いをすすめる」との委員長談話を発表した。


*1:傍線・赤文字は筆者追記

国鉄労働組合史詳細解説 140

気がつけば2カ月ほど放置状態となっておりましたので、取り急ぎ更新したいと思います。

今回は、国労国鉄労働運動史なども参考にしながらアップさせていただきます。

再建監理委員会答申、国鉄を分割民営化することに

1,985年7月26日、国鉄再建監理委員会は、再建監理委員会「国鉄改革に関する意見」を総理大臣に提出することとなりました。

再建監理委員会の特徴は、旅客会社を6つに分割し、貨物会社は線路を間借りする第②種鉄道事業者として扱うこととしていました。

ま他、圧倒的な収益力を誇る東海道・山陽新幹線を中心にして、新幹線は保有機構が譲渡を受けてJRに貸し付ける

  1. 旅客6分割
  2. 貨物分離で1社
  3. 新幹線は一括保有機構が旅客会社に貸付
  4. 余剰人員対策

以下、引用「国鉄再建監理委員会答申 *******鉄道の未来を築くために*******」

jnrera.starfree.j再建監理委員会は、国鉄の危機的状況を招いたのは最大の原因は公社制度にあるとして、現行制度での再建はもやは不可能であるとして、国鉄分割民営化を打ち出したのであるが、ここで注目すべきは、貨物部門は旅客部門から経営を分離する点、新幹線にあっては、「わが国の基幹的交通機関として、国土の均衡ある発展等に果たす役割から見て、新幹線利用者間の負担の均衡ができるだけ図られるよう配慮して分割」するとして新幹線にあってはリース方式が提言されていました。

国鉄は昭和59年には幹線系は黒字を達成していた?

話しは前後するが、公社制度の中で幹線系の輸送に至っては合理化の推進と、特定人件費の分離などの結果、1984(昭和59)年には、僅かではあるが幹線系は黒字を計上していたと言われています。

国有鉄道 1985年11月号 59年度客貨別経営成績には以下のように解説されていました。
これに関する資料として公表されているものがなかったのですが、以下のような記述がなされていました。

在来線については、新幹線と同様、輸送量が伸びたこと及び運賃改定の実施により、収入が対前年1,018億円 (6%)増加したが、原価も909億円 (4 %)増加し、差し引き109億円の損益の改善となり、59年度は5,479億円の損失となった。またこれを営業係数でみると前年度の134→132へと改善された。
以上の結果 、旅客全体では前年度の3,694億円の損失は3,304億 円となり、660億円の改善であった。なお、東北・上越新幹線の資本経費を除いた旅客全体では、前年度ま では損失を計上していたが、59年度は359億円の黒字となった。

と書かれているように、幹線系にあっては特定人件費の分離などの結果営業外損益の増加はあったものの、営業経費の圧縮が大きく昭和60年までの幹線系の収支均衡は1年早く実現したことになります。

このように、最後の再建計画は遊休地の売却や貨物システムチェンジなどの影響もあって、その収支は改善されてきているわけですからもう少し時間をかけて検討されても良かったという気がしますが、当時の風潮では分割民営化がベストというが世間一般の考え方であったようです、この背景には高速道路網が未だ全国を網羅して居ないこともあり、鉄道に対する期待も大きかった事も反映されていたと思われます。

国鉄分割民営化反対に際して、他労組も反対署名などで協力を約束

ちょっと前段が組合関係とは大きく離れてしまいましたが、国労の資料によりますと、国鉄以外の労組・団体なども国鉄の分割・民営化には積極的に反対してくれたと以下のように書かれています。

 監理委員会の答申が提出されて以降、多くの労働組合が組合大会において、国鉄分割・民営化反対、国鉄労働者支援の決議を行った。新聞労連は7月26日の定期大会で国鉄労働者とともに連帯して闘うことを決議した。同日、政労協も定期大会で「国鉄の分割・民営化と10万人首切りに反対する決議」を採択した。全国一般は7月31日から開いた定期大会で国鉄分割・民営化反対闘争を支援することを決定した。全金は8月27日からの定期大会で採択した決議は「総評提起の5000万署名・100円カンパを柱とする分割・民営化反対の闘いを支持し、国労の闘いを支援する」と記されていた。ホテル労連は8月31日の大会において「国鉄再建闘争を支援する特別決議」を採択した。

このように、各労組も国鉄の分割民営化に対しての一定の理解を示し、国労動労による分割民営化に対する反対運動を共闘することを表明していますが。

蒸気のように、再建監理委員会答申以後の国鉄を取り巻く動きを見ていきたいと思います。

当時の様子を年表から確認する

以下は弊サイト、国鉄があった時代昭和60年7月の部分から抜粋したものです。

7月分

総評第七三回大会開催 7/15
昭和60年度最大の課題として、国鉄問題をあげ。運動方針とは別個に独立議案として「国鉄再建闘争方針」を提起。活動方針は

  1. 国鉄の「分割・民営化」を阻止し、真に国民のための国鉄再建をかちとるために国民の多数派形成をめざし、有権者過半数を目標とした署名運動を展開する
  2. ローカル線廃止をやめさせる運動を進める
  3. 国鉄労働者の首切りを許さないために、総評傘下全組合員が団結してたたかう
  4. 総評国鉄再建闘争本部を設置する、などが柱となっている

加古川線 黒田庄~比延間【新駅開業】日本へそ公園 7/15
東北・上越新幹、線、利用者l億人を達成 7/18

57年6月23日の東北新幹線の開業以来1,122 日目の記録達成、東海道新幹線の1億人達成の1,016日にわずか106日遅れただけだった。両新幹線の一日の平均乗客数は58.59年には9万人台であったが、今年3月の上野開業により一気に増加し、1日12万人に。これまでの1日の最高利用人員は、今年5月6日に東北新幹線が記録した17万人

第1次特定地交線美幸線第8回対策協議会で9月16日限りで廃止、パス転換を決定22日第2次特定地交線幌内線の第1回対策協議会開催 7/18

国労動労・全動労・全施労の国鉄4労組は、国鉄再建監理委の最終答申に対し連名の抗議声明 7/26
動労の第一二回大会開催 7/26

統一労組懇や民主団体などによびかけ、1,000万署名に取組むことを決定

山陰本線 竹野 ~ 佐津間【臨時駅開業】(臨)切浜海水浴場 7/27
東海道貨物線【旅客営業再開】品川~汐留間(カートレイン九州運行開始に伴う) 7/27
汐留~東小倉間に「カートレイン」運転開始 7/27
同じく、地元負担で建設される、東海道新幹線豊橋~名古屋間に新設される(仮称)三河(現・三河安城)駅でも起工式 7/29
国労第48回定期全国大会(名古屋)。7/29~8/2

分割・民営化反対のため5000万署名運動の強化、重要段階でのストライキなどの方針採決

国労委員長に山崎俊一氏 7/29~8/2

国労(20万人)は名古屋で開かれた定期大会最終日に役員改選を行ない、新委員長に山崎俊一書記長(53歳)、新書記長に荒井敏雄調査資料室長(52歳)ら新執行部を選出
山崎委員長は「分割民営化阻止」を宣言

政府「意見」を最大限尊重する旨の閣議決定 7/30
政府、「国鉄再建閣僚会議を改組して国鉄改革閣僚会議」とし、長期債務の処理、余剰人員対策などにあたることとなった。山下運輸大臣は杉浦総裁に対して「直ちに改革推進体制を整備し、作業に着手されたい」と指示 7/30
国鉄再建実施推進本部にプロジェクトチーム設置 7/30
昭和60年度仲裁裁定完全実施を決定 7/30
運輸省国鉄改革推進本部 7/31

運輸省〈現・国土交通省〉は国鉄再建監理委員会の分割・民営再建答申を実施に移すため,山下運輸相を本部長とする国鉄改革推進本部を設けた。長期債務処理の具体策などを詰め、次期通常国会への提案をめざし130本をこす法律の立法、改正づくりにあたる

ここで特筆すべきは、7月の最初の方に記述したように、分割民営化答申が出される前の7月15日から開催された総評七三回大会で、労働戦線統一問題と並んで国鉄再建問題も大きな話題として検討された事です。

85年度運動方針とは別に単独議題として提案され、以下の方針が確認されました。

  1. 国鉄の「分割・民営化」を阻止し、真に国民のための国鉄再建をかちとるために国民の多数派形成をめざし、有権者過半数を目標とした署名運動を展開する
  2. ローカル線廃止をやめさせる運動を進める
  3. 国鉄労働者の首切りを許さないために、総評傘下全組合員が団結してたたかう総評国鉄再建闘争本部を設置する

当時の総評にあっては、国労全逓と並ぶ大組織で有り、国労の衰退は総評の解体に繋がる事になります。

8月分

国労が時限スト 8/5
分割・民営化に反対する国労は再建監理委員会の最終答申に抗議して始業時から全国1、500カ所で1時間の時限スト。乗務員関係を除いたためダイヤに影響はなかった。国労のストは昨年8月以来1年ぶり
東京都12号線認可 8/5
運輸省は小形地下鉄となる練馬~光が五間の東京郡宮地下鉄12号線の工事施工を認可
国鉄本社 第292回運転事故防止対策委員会開催 8/5
小千谷第二発電所の起工修ふつ式 8/6
鉄労第18回定期全国大会で、分割民営化支持の運動方針採決、杉浦総裁が初めて出席 8/6
鉄労第18回全国大会(6~8日)鉄道労働組合(辻本滋敬組合長)の6日から3日間の日程で、東京・上野の池之端文化センターで関かれ、歴代総裁で初めて労組大会に出席
政府「国鉄余剰人員雇用対策本部設置」 8/7
国鉄改革関係閣僚会議で「国鉄余剰人員対策本部」を内閣に設置し、本部長に中曽根首相をすえ、政府をあげて取り組むことを決定
国鉄本社職員局に「雇用対策室」「職業訓練室」を新設「余剰人員対策本部」を拡充強化 8/7

等と記述されていますが、ここで鉄労が分割民営化を容認したこと、また杉浦総裁が労組大会に出席したことが特筆されます。

国鉄があった時代(企画・監修 加藤公共交通研究所)

地方自治体でも多くの自治体で反対決議がなされたと、国労は以下のように集約していますが。国労も認めているように、実際にはローカル線の廃止は反対だが、国鉄の分割民営化は容認という場合もあったようで、実際の国鉄分割民営化反対は、もう少し少なかったものと思われます。

国鉄分割・民営化に反対する地方自治体の決議や意見書採択は、国労の集約結果によると、85年7月24日現在で12県、130市、319町、54村の合計515となっていた。

 

 

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├○ 他労組、団体による国鉄分割・民営化反対の支援決議 │
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 監理委員会の答申が提出されて以降、多くの労働組合が組合大会において、国鉄分割・民営化反対、国鉄労働者支援の決議を行った。新聞労連は7月26日の定期大会で国鉄労働者とともに連帯して闘うことを決議した。同日、政労協も定期大会で「国鉄の分割・民営化と10万人首切りに反対する決議」を採択した。全国一般は7月31日から開いた定期大会で国鉄分割・民営化反対闘争を支援することを決定した。全金は8月27日からの定期大会で採択した決議は「総評提起の5000万署名・100円カンパを柱とする分割・民営化反対の闘いを支持し、国労の闘いを支援する」と記されていた。ホテル労連は8月31日の大会において「国鉄再建闘争を支援する特別決議」を採択した。9月8日から開催していた運輸一般も国鉄分割・民営化に反対し、ともに闘うことを決議した。全運輸省労組も9月12日の定期大会で「国鉄解体の分割・民営化に反対し、国民の足を守り国鉄労働者とともに闘う決議」を採択した。同じ日に開催された全気象労組も国鉄労働者と共に闘う決意を表明した。そのほか多くの労組が闘争支援を決定した。
 国鉄分割・民営化に反対する地方自治体の決議や意見書採択は、国労の集約結果によると、85年7月24日現在で12県、130市、319町、54村の合計515となっていた。ただし、この決議には「地方交通線廃止反対」だけで、「国鉄分割・民営化反対」がないものも含まれている。
 世界労連は9月30日から10月4日まで開いた総評議会で、日本の国鉄分割・民営化反対闘争への連帯メッセージを採択した。
また、ITF(国際運輸労連)は10月15、16日の執行委員会で、鉄労の加盟を満場一致で否認した。

国鉄労働組合史詳細解説 139

久々に、更新させていただきます。

今回は、国労が臨調による分割民営化最終答申に反対して、分割民営化反対の運動を行って頃の話を中心に書かせていただきます。

世論はNTTの民営化の成功で官業の民営化は正しいという判断

今回は、国鉄分割民営化が既定事項として進められていた、昭和60年の8月の話となります。

国労は全動労などとともに最後の抵抗として、ストライキを試みることになります。
しかし、全面ストライキを打てる状況ではなく、地上勤務者(駅員など)を中心としての時限ストであり、その影響は軽微なものでした。

ただ、当時の世論は現在と真逆で、世論は分割民営化を容認する言う雰囲気があったのも事実でした。

少なくとも、当時の世論はストばかりする国鉄(そのようなイメージができあがっていたのも事実)であり、それに対して、先行して民営かされたNTTは民営化したことで、電話機の自由化(それまでは、電話機は電電公社からのレンタル品)であり、自由なデザインの電話機を設置できるようになるなど、概ね公益事業の民営化は利用者にもメリットを与えうると言う世論が醸成されていたように見えます。

それまでの電話は電電公社からのレンタル品であり、自由に電話を買うことはできず

それまでの電話は電電公社からのレンタル品であり、自由に電話を買うことはできず

そのような中、新生NTTは電話機の自由化や長距離を中心に値下げなどによる方策で公共事業の民営化は、善であるという印象をあたえることになりました。

NTTには、通信基幹会社として株式の国による保有が義務づけられJRはそうした縛りがない点が問題

電電公社からNTTに変更の場合、国家による位置づけが異なっていたことが原因と言える

国労は、「分割・民営化反対阻止の闘い」に邁進するが

分割・民営化反対阻止の闘い  大会直後の8月4日、監理委員会の分割・民営化答申に抗議し、全国一社制による国鉄の再生をめざす集会が全国360カ所で開かれ、約70万人が参加した。中央集会は、明治公園で1万2000人の労働者と都民が結集し開かれた。  

8月5日、国労は監理委員会の最終答申に抗議し、国鉄の分割・民営化阻止を目標とした全国統一ストライキを決行した。この日始業時から、地上勤務者を対象に、全国1585分会・職場、6万7702人が1時間のストを決行した。

国労が時限スト 8/5

分割・民営化に反対する国労は再建監理委員会の最終答申に抗議して始業時から全国1、500カ所で1時間の時限スト。乗務員関係を除いたためダイヤに影響はなかった。国労のストは昨年8月以来1年ぶり

引用・国鉄があった時代 昭和60年後半から引用

NTTとJRで一番大きな違いは、将来的に国がどうするかと言う点

ただし、ここで注目しなくてはいけないのは、電電公社は当時は完全に国内にあっては独占状態、(郵政省の場合、信書は郵便独占ですが、小包の分野は当時は郵便局が6kgまでと制限されていましたが実際にはヤマト運輸による4kg程度の荷物に関してもかなり迫っており、郵政省も引き受け重量の引き上げ・・・最終的に30kgまでということで、競争状態になります。しかし、通信に関しては電電公社が民営化されるまでは、独自の電話網を構築していたJRや警察電話(ただし専用の回線をNTTと契約しているため、独自の回線網を持っていたのは電電公社を除けば国鉄のみ)のみであり、実質的な競争者はいなかったのに対して、国鉄は高速道路や、飛行機という他の交通機関との競争にされされていたことは注目しなくてはなりません。

本来であれば、そうした点も注視されるべきところではありますが、世間からすればストライキばかりしている、窓口の対応は最悪・・・当時の新聞の投書欄等では、釣り銭を投げつけられたとか、横柄な駅員がいたと言った苦情めいた話が多くあったのも事実で、実際にはそうした職員は一部であったとしても悪目立ちしてしまうのは仕方のないことでした。

実際、昭和57年には、寝台特急紀伊」が名古屋駅で、20Km/hの速度で客車に衝突、最後尾の寝台車と機関車を破壊した事故や、昭和59年にも西明石駅で速度を超過して分岐線を通過、寝台車が脱線してホームに激突、通路側を破壊しながら停車した事件(機関車は脱線しなかったが、ホームに機関車が衝撃したショックで連結器が破損して緊急停止)など、国鉄を取り巻く世間の目は厳しいものとなっていたもの事実であり、国労が分割民営化反対を声だかに叫び、また、国鉄電電公社では最初の段階から条件が大きく異なる中で、一律に「官業の民営化=善」であるという発想は問題であったわけですが、その辺がスルーされていたわけです。

名古屋駅特急紀伊衝突事故 詳細

名古屋駅構内で機関車激突名古屋駅プルトレに被害 3/15
名古屋駅構内で機関車激突名古屋駅でプルトレに被害 3/15
画像は、事故と直接関係ございません。黒木氏画像提供

2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅10番ホームでに停車中の東京発紀伊勝浦寝台特急紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51ディーゼル機関車DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。乗客と機関士(52)の計14人が重軽傷
機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒して寝すごし、運転中も、もうろう状態だったらしい(16日夕。中村署に業務上過失致傷などの疑いで逮捕された

http://jnrera.starfree.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_57.html

特急「富士」西明石駅構内で客車がホームに激突32名けが 10/19

以下詳細
1:48頃、山陽本線西明石駅構内を運転中の上り寝台特急「富士」の先頭車両がホームに激突大破した
当時の新聞記事等から再現すると、西明石駅では当日保線作業が行われており、列車線(外側線)から電車線(内側線)への進路変更が行われており、この点は点呼時伝達されていたが、飲酒をしていた機関士はそのまま乗務、同乗していた機関助士も同乗していたがこれを止めることはできなかった模様
(ここで注意していただきたいのは、機関士が飲酒していたという事実と、これを止め得なかったと言うこと。なお当時は夜間については二人乗務とされていた。)
進路が変更されていることから、構内通過速度は制限されていたにもかかわらず、直進速度(約100キロ)で分岐器に進入したため、重い機関車は脱線を免れたが、次位の客車は軽い寝台客車であったため連結器が外れそのままホーム端に激突
1両目は車体の片側をえぐりとる状態、2両目以降も脱線、計13両が脱線、幸い転覆は免れた
また、ホームに激突した側が通路側であったので負傷者のみであったがこれが逆(寝台側)であったら死傷者が多数に上ったのではないかと思われる。)なお、寝台車は製造まもないオハネフ25-104であった
この事故で東加古川~須磨間が不通となり、12:43分に下り線が開通、16:34分から西明石から大久保間の下り線が開通、翌20日13:33分から上り線が開通所定の運転に戻った

http://jnrera.starfree.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_59_5.html

国労も、こうした点を指摘すれば良かったのかもしれませんが。

国労としても感情論に走りすぎて、

以下の運動方針にもありますが、

  1. 今年度の運動の最重点は「分割・民営化」阻止であり、中央執行委員会が一丸となってこの闘いに取り組む。

  2. 闘いにあたっては中央・地方の意思統一が重要であり、そのため機関中心の組織運営とし、重要な政策や戦略の策定にあたっては、全国委員長・書記長会議にはかり協議する。戦術については従来どおり全国戦術委員長会議で協議する。

と言うことで、柔軟な発想ができず最後はイデオローギに拘ってしまったように思えてなりません。

ただ、それ以上に「官業の民営化=善」という風潮、いわゆる新自由主義に乗せられてしまった国民もそこにいたことを時代の潮目が変わりつつあるなか、十分見極める必要があるのではないでしょうか。

 

今後この辺は、労働運動史と言うよりも社会学的な視点から検討すべきことかもしれませんので、ひとまず筆を置かせていただきます。

 

参考:上記のイラストの文字を以下に記しておきます。

上段

電電公社は、公社時代から独占事業と言うこともあり収益は常に黒字であり、アメリカからの市場開放勢力などの外圧的要因があった。国鉄の場合と最初からそのスタートが異なる点には注意すべきである。

       ⇒ 

下段

NTTとJRの一番大きな違いは、電電公社は民営化することで競争を促すために参入を果たすとしていますが、基幹的通信機関として完全民営化とせず、国が一定以上の株式を保有する特殊会社とすることが法令で明記されているのに対し、JRの場合は赤字国鉄という状態をどうするかという観点からスタートしており、分割も会社間の競争を促すためというもっともらしい理由がつけられていますが、既に国鉄の時点で中長距離は高速道路などとの競合状態にあり、ローカル線などでは高速道路に蚕食されおり、超長距離にあっては飛行機という存在にそのシェアを奪われている点に注視すべきです。さらに、国鉄の場合国による株式の保有義務を持たせなかったことが更に現在の問題を大きくしています。

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********************************以下は、国労の資料になります。************************

分割・民営化反対阻止の闘い  大会直後の8月4日、監理委員会の分割・民営化答申に抗議し、全国一社制による国鉄の再生をめざす集会が全国360カ所で開かれ、約70万人が参加した。中央集会は、明治公園で1万2000人の労働者と都民が結集し開かれた。  

8月5日、国労は監理委員会の最終答申に抗議し、国鉄の分割・民営化阻止を目標とした全国統一ストライキを決行した。この日始業時から、地上勤務者を対象に、全国1585分会・職場、6万7702人が1時間のストを決行した。

 全動労も全国九地方労組10拠点支部で29分ストを行った。国労東京駅分会では、相次ぐ合理化と狙い打ち的な活動家の大量配転のあとに迎えた8・5ストであった。スト参加対象者は198人。当局は1人1人に手紙を出したり、管理者を総動員し、さまざまな形で切り崩し工作をつづけた。そのうえ「99%がスト脱落」とのデマ情報を流した。当日は、鉄道公安員30人、白腕部隊30人を動員し、組合側が1人の組合員を説得しているところに押しかけ、強引にその組合員を連れ出していった。スト参加者は近くの国労会館に結集しており、ギリギリの攻防の末、スト参加率は52%であった。 このように、全国各地の職場で当局の脅迫じみた切り崩しが進められたなかでのストライキの成功に、国労本部は反撃への橋頭堡を築いたものと総括した。

 国労本部は8月12日、第1回中央執行委員会を開催し、中執の任務配置をきめ、大会決定にもとづいて前年度に引き続き中央闘争委員会を設置し、指令一号を発した。  指令一号  

① 今年度の運動の最重点は「分割・民営化」阻止であり、中央執行委員会が一丸となってこの闘いに取り組む。

② 闘いにあたっては中央・地方の意思統一が重要であり、そのため機関中心の組織運営とし、重要な政策や戦略の策定にあたっては、全国委員長・書記長会議にはかり協議する。戦術については従来どおり全国戦術委員長会議で協議する。

 総評は8月28日、単産・県評代表者会議を開き、秋期闘争方針を確認するとともに、国鉄分割・民営化反対闘争を政府に対決するものと位置づけ、国民多数派の形成にむけた5000万人署名活動を柱とする「国鉄再建闘争活動計画」を決めた。この活動計画の要旨は次のとおりである。(署名活動の詳細は後述)

 ① 内閣総理大臣と衆参両院議長に対する請願署名とする。

 ② 署名を求める柱は「分割・民営化」答申に反対を基本としながら、「国鉄のネットワークを21世紀へ存続させる請願書」の趣旨に立ち、地方では地域の特殊性を踏まえて柔軟に対処することとし、国民的多数派形成の運動にふさわしい内容として幅を持たせる。

 ③ 目的=中曽根政権による国民無視の国鉄分割・民営化に反対し、国民の足と生活を守り、国鉄および関連に働く仲間の雇用を守るために国民的多数派形成をめざし、壮大な国民運動を展開する。

 ④ 目標と対象者=獲得目標数有権者過半数とし、対象は有権者はもちろん利用者すべてとする。(以下、略)。

 国労は、総評の取り組む5000万署名運動の成功のため、当面の闘いについて以下の闘争指令一号を発し、全組合員の総決起を訴えた。

 ① 監理委員会の答申について各級機関および全組合員が学習し、その内在している矛盾、弱点を把握すること。

 ② 答申の矛盾と弱点を徹底的に暴露し、分割・民営が国鉄改革・再建でないことを明らかにして、国民的「力」に点火するオルグと宣伝を強める。

 ③ 8・5ストの総括運動と結合して、当局の不法不当な労務管理を点検・摘発する組織的行動を強め、分断・差別を許さない団結を強化する。(中略)

 ④ ワッペン着用に対する不当処分の通告が準備されている模様である。この処分通告は露骨な団結破壊の攻撃であり、労働者の権利と団結を守る立場から抵抗し反撃しなければならない。(以下、略)。

 国鉄の分割・民営化阻止の闘いを本格的に開始した矢先、国鉄当局は9月13~19日にかけて労組指令によるワッペン着用、ネームプレート着用拒否の闘いに参加した労働者5万8482人に対し、戒告、訓告、厳重注意などの処分を行った。続いて10月5日には、監理委員会最終答申に抗議する8・5ストその他の闘争参加者6万4387人という大量処分を通告した。そのうち国労は6万4126人、全動労205人、動労27人、千葉動労29人であった。国鉄当局はこうした攻撃に加え、「国労は『三項目』の推進に協力的でない」との「心証」から、「雇用安定協約」の継続について難色を示した。その一方で、動労、鉄労、全施労の三組合には「87年3月31日までの間、現行の雇用安定協約を継続する」との態度を決め、協約を締結した。国労は、前述したように85年11月19、20日の中央委員会で「三ない運動」の中止を決定したが、当局は協約の締結を拒否した。このように当局側の攻撃が一段と激しさを増していった。