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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 149

国鉄分割民営化が、既定の路線として進みつつある中では、市民レベルによる反対運動が提起されるようになってきました。
こうした取り組みの結果、「国民会議の結成」に繋がったと書かれていますが。
こうした動きはあるものの、当時の国労は分割民営化絶対反対が基本方針であり、階級闘争という形で当局と対立してきた経緯がある国労からすれば、動労や鉄労のように労使協調路線は出したくても出せないカードでした。

昭和60年頃までは、国労国鉄内では最大の組織力を誇り、ストライキを行いつつも主張していくことは主張していくとし、市民団体と連携しながら分割民営化反対の運動を続けて行くわけですが、仁杉総裁が昭和60(1985)年6月24日に辞任し、杉浦新総裁が就任した頃から、風向きは大きく変わって行くこととなりました。
これは、当時の政府では、分割民営化推進するための総裁を送り込んだわけであり、分割民営化を容認する鉄労・動労・全施労などに対し、あくまでも分割民営化を主張する国労にしてみれば最大の外敵が現れたと言えるかもしれません。
1986年6月25日発行の公企労レポートによりますと。
「分割・民営に向け首脳更迭断行 新総裁に「基本方策」の踏み絵」と言うタイトルが書かれており、これは一種の政府によるクーデターとも言えるもので、仁杉総裁以下副総裁、常務理事4人の解任という半数が入れ替わるという異例の人事を断行することとなり、国労は更に窮地へ追い込まれることとなりました。
ここで、国労の山崎書記長は、政府のやり方はフェァではないとして下記のように発言しています。1985年6月25日付公企労レポート 第2070号から引用

国鉄の「基本方策」は現存する

記者 突然、総裁以下首脳陣が更迭されるという国鉄史上まれに見る事態になり、監理委員会の分割・民営への新婦人が整ったと言うことになりました。組合としてこれをどのように受け止め。今後どのように対応されていくのかお聞きしたい」
 
山崎書記長 今回は、どういう分割案が出るか、まだ監理委員会の答申が出ない前に分割反対だと言うことだけで首を切ってしまうということはファッショであり、政府に意向に反対するものは首を切っても無理矢理言うことを聞かせる。しかも監理委員会は諮問委員会に過ぎないもので理、これが結論を出さない前に分割・民営に反対する勢力の一掃を図ると言うことは議会民主主義を無視したものだと思います。
この後も、談話は続くのですが、当局側で国鉄分割民営化を反対と言えなくなった以上組合が発信するしかないと発言しているわけで、その点は現在の視点から見れば至極当たり前のことを言っているように見えますし、当時の監査委員会では国鉄当局からの分割のデメリットを話そうとしても、分割民営化ありきで話が進んでおり、分割民営化以外の話は聞いて貰える雰囲気ではなかったとも発言しています。
実際、監理委員会は、政府は単なる諮問機関というよりも網一歩も二歩も踏み込んだ組織として扱うこととしていましたし、電電公社や専売公社と国鉄ではその温度差が大きかったのも事実でした。
専売の場合は元々政府による独占企業ですので直営から民営となってもそのスタイルは変わらない、電電公社の場合は民営化は外圧(アメリカからの通信分野の開放等)によるところも無視出来ないわけで、国鉄だけは累積する赤字との兼ね合いということで。その目的が異なっていたのは判りますが、そもそもの原因を作ったのは政治家であり時の政府であったのですが、その辺が包かむりのままではいささか問題かと思うわけですが、その辺は問題視されていないわけです。
 
ただし、国労が正論と言えるこうした発言をしてきたとしても、それまでの違法なストライキ等が正当化されるわけでもなく、そうした意味では国労がここに来て、市民団体などを巻き込んでの活動は目を見張るものがあるものの、いささか遅きに失したと言える部分もあるように思えます。

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第四節 分割・民営化に反対する国民運動
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├○ 二 ローカル線切り捨て反対、住民の足を守る会などの活動 │
└─────────────────────────────┘

 前節で述べた5000万署名運動と並行して、分割・民営化に反対する「住民の足を守る会」、ローカル線切り捨て反対、学者・文化人の活動もまた精力的に展開された。いわば、これらの市民レベルで組織された諸団体・組織の運動は、総評、国労を主体とした5000万署名運動と結びつき、この時期における分割・民営化反対闘争の国民戦線を形成していたのである。また、これらの市民レベルにおける闘いは、後ほど述べるように、1986年7月19日に国民会議国鉄の分割・民営化に反対し、国鉄を守る国民会議)が正式に発足したことによって一本に合流し、国鉄の分割・民営化に反対する全国的な国民運動の流れを生み出していくこととなった。
 そこで、以下においては、1985年前後から国民会議の結成の時期に、市民レベルで組織された大衆運動がどのように展開されたのかを年表的に列挙する。
 1984年12月18日 「国鉄問題を考える京都府民の会」開催。
 1985年1月30日 「国鉄問題を考える静岡県民シンポジウム」開催。
 1985年2月15日 「国鉄問題を考えるシンポジウム」が学者、法律家、文化人と全大阪消費会の共催で開催。
1985年 3月 2日  「ローカル線廃止反対キャンペーン」の一環として、静岡で「ローカル線コンサート」開催。
1985年4月1日  「国民の足を守る中央会議」の主催により、また「国鉄再建を考える会」の呼びかけに応えて「国鉄問題専門家会議」の開催。
 1985年5月5日 ローカル線廃止反対キャンペーンとして、「ローカル線コンサート」が福岡県飯塚市で開催。
1985年5 月27日  「分割・民営化に反対し北海道の足を守る会」の主催で「国民の国鉄再建をめざす全道総決起集会」を開催。
1985年5 月27~7月13日 「国民の国鉄を守る地区対話集会」が長野県下15地区で開催。
1985年6月28日  姫路市において「国鉄問題を考えるシンポジウム」の開催。
1985年6月30日  北海道旭川市で「国鉄の分割民営化反対、ローカル線を守ろう青空コンサ-ト」の開催。
1985年 7月5日  「国鉄分割民営化反対・国鉄再建政策推進大阪集会」の開催。
1985年 8月21日 「分割・民営化」反対中部地区共闘会議の結成集会が東京・国労会館で開催。
1985年 9月1日   国鉄「分割民営化」反対山陰総決起集会が鳥取県米子市で開催。
1985年11月18日 「ふるさと線を守り国民の国鉄をつくる学者・文化人の会」が発足。
1985年11月23日  第27回国鉄うたごえ祭典の開催。
1986年1月18日   熊本で「国鉄を走らせる県民の会」と「国民の足を守る県民会議」の主催で「国鉄再建・県連帯のつどい」を開催。
1986年2月15日~17日「ふるさと線を守り、国民の国鉄をつくる学者・文化人の会」の制作によるミュージカル『希望』の東京初演。全国公演へのスタートとなる。
1986年2月21日  国鉄問題を考える学者・法律家・文化人の会など36の市民団体の主催による「ストップ・ザ・1方的な国鉄分割・民営化、国民本位の国鉄改革を要求する全関西利用者・市民の集い」を開催。
1986年3月3日 「国民の足を守る山形県民会議」の主催で「物流シンポジウム」を開催。
1986年3月14日 「国鉄の分割・民営化に反対する三多塵市民集会」の開催。
1986年3月31日 鳥取島根県の「住民の足を守る会」が連名で米子鉄道局に「国鉄の安全性、利便性を高めるための住民要求」を要請書として提出。
1986年4月18日 「国鉄分割・民営化に異議あり!市民ネットワーク」が参議員会館で結成総会を開催。
1986年4月25日 「秋田県の公共交通を考えるシンポジウム」が国民の足を守る秋田県共闘会議の主催で開催。

 ここに紹介した様々な分割・民営化反対のための取り組みは、この間に展開された市民運動のほんのわずかの事例を列挙したに
すぎない。実際には、全国各地において、5000万署名運動と結びつきながら多種多様な反対運動シンポジウムやキャンペーン、あるいは市民集会や自治体への請願、要請の運動として取り組まれていったのである。そして、これらのいわば草の根の市民運動は、1986年7月の国民会議の結成に集約されることとなる。

続く