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国鉄労働組合史詳細解説 116

今回も、国鉄労働組合の記事を底本に解説を加えていく形で進めさせていただきます。

国労の記述によりますと、国鉄再建監理委員会が昭和58年8月2日に、第一次緊急提言を行い、その提言では、職員管理の強化等が提言されたと書いています。

再建監理委員会の緊急提言と国労

そこで、第一次緊急提言の全容を知らないことには、どの様な内容であったのか検討のしようもないかと思いますので、少し調べて見たところ、幸い、国鉄の部内紙「国有鉄道の記事がありました。

提言の骨子は以下の通りでした。

  • 経営管理の適正化
  • 事業分野の整理
  • 営業収支の改善及び債務増大の抑制

であり、国労が注視したのは、経営管理の適正化と、これに関連する労務管理の強化であったわけで、

国労の本文を参照しますと、第一次の緊急提言では、職員管理の強化などが謳われているとして、下記のように指摘しています。

職員管理の強化が強調され、「企業性の欠如した体質からの脱却」のための国鉄当局の職員教育の充実と「職場規律の確立」について「現在行われている措置を着実に推進するとともに、幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである」と述べていた。

実際にどの様な内容であったのかを知るために、国有鉄道1983年9月号に記事を参照しますと下記のような内容が書かれていました。

職場規律の確立に関する章

3. 職場規律の確立職場規律は,およそ組織体が円滑に運営されていくための基盤であり,そとに乱れがあるという状態では,国鉄事業の再建は到底おぼつかない。よって,職場規律の確立については,現在行われている措置を着実に推進するとともに,幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである。

としています。

国労としては、昭和57年の太田労政から始まった、職場管理の強化に対しての反発心がありましたから、ここに来て監理委員会も職場規律の確立を謳ったことで、危機感を出したのではないかと考えられています。

 国労では、"恐怖政治の再現"としているが

国労の記述を参照しますと、下記のように、国労都当局はかってのような対立をせざるを得ないとしています。
逆説的に言えば、当局と国労の蜜月時代が終わりを迎えたと言うことを国労が認めているとも言えます。

実際、国鉄幹部が蜜月の終了を宣言したことに対して、国労幹部が土下座した(まぁ、多少の誇張はあるかと思いますが)なんて記述を見た記憶がありますが、少なくとも生産性運動中止以降の、国鉄当局と国労幹部のなれ合いの時代は終わったことが理解できます。

国鉄当局が国労敵視政策を強め、処分権の乱用が各地で起きていることが報告された。「昨年12月だけでねらい打ちに四人が解雇処分されていることや、分会機関を認めない局や現場管理者、団交経緯の全面白紙化などが各地で発生し、組合員が〝恐怖政治?下にある」との実態が明らかにされた。これについて「この現象は一部地方のものではない」と意思統一し、「これまで地方によっては柔軟な対応をしてきたことをやめ、『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と全地本が対決姿勢を強化する方針を固めた」

と記述していますが、ここで国労が言う30年以上前の対決というのは、どの様なものだったのでしょうか。

時期的には、昭和27年頃以降と言うことになりそうです。

この頃の労使関係を、弊サイトから再び拾ってみたいと思います。

以下、昭和27年の国労関連記事だけを抜粋

国鉄労組は、戦術会議で、座り込み、賜暇戦術等の実力行使を背景に強い交渉をはじめるよう全国に指令 5/30

国労、夏季手当てを要求し総裁室前で座り込み。東京地本は超過・休日勤務協定更新も拒否 6/4
国労革同派(国労内の共産党系組織)中心に新中央闘争本部成立 8/1→国労分割の伏線となる。
仲裁委員会 国鉄仲裁裁定提示 8/13

国鉄職員の賃金改訂問題を検討中の仲裁委員会は、基本給は8月以降平均月額を13,400円とすること、特別勤務手当、寒冷地手当.年末手当の3件はいずれも当事者間の団交により決めるべきことという裁定を提示した
これに関連しての記者会見でも、国鉄総裁は再び運賃問題をとりあげ、できるだけ運賃引上げはさけたいが、財源確保に他の方法がなけれぽ避けられないかも知れないと言う趣旨の発言を行い、国鉄の自主性を主張
国労は15日中闘委を間いて仲裁委員会の裁定を尊重することを決定 8/15


国労総選挙にそなえ「国鉄労働組合政治連盟」なる結社設置を決定 9/2
機労側委員欠席のまま開かれた中央交渉委員会で「地方交渉委員会には、機労側委員を加えない」と決定 9/


国鉄労組は仲裁裁定完全実施に向けた闘争のため、緊急指令を全国に通達、強力的な闘争を開始 11/7
国鉄労組、大蔵省に対して示威活動 11/8

補正予算の編成期に際会しているため、政府の予算編成を牽制すべく実施、これ以外にも国会その他関係箇所への陳情戦術展開し、団交開始に先だち予算を決定するのは、団交に一定の枠をはめるものであるとの主張をうったえた

 当時の国労は、それまでのGHQという重しがとれたことで、その活動は対立の構図を生みました。

更に注目すべきは、その際に共産党系都は距離を置きつつも、基本的な考え方には強調する共産党とは距離を置くが共闘は否定しないという国鉄労働組合革新同志会(革同)が誕生したことでした。

昭和30年代の労働運動は、階級闘争ということで、労働者の地位向上を目指すとしたものでした。

こうした、国労内での左派組織の増加は、国鉄当局との対立を生むこととなり、昭和32年の新潟闘争を招くこととなります。
新潟闘争の拠点となった新潟地本は、広島共々共産党が地本の幹部を占めていた拠点した。

この辺は、姉妹blog、日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】をご覧ください。

 

blackcat-kat.hateblo.jp

当時の国鉄労組の活動は、政治スト的なものよりも純粋に賃金闘争が中心となるのですが、国鉄本社(当時の名称では本庁)前への座り込みや、下賜休暇(いわゆる年休闘争)による業務の混乱などを招く戦術が行われていました。

その都度、そうした争議の責任者である幹部職員が解雇されるといった悪循環が起こっていました。

そこで、昭和57年当時の国鉄の話題から外れるのですが、国鉄当局と国労が激しく対立した時期の始まりは、昭和29年5月27日に国鉄当局が、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否したことから始まったと思われます。

 改めて昭和29年の国労対決の始まりを見ていただきます

大きく逸脱しますが、国労が『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と言う内容を知っていただこうと思います。

再び弊サイトから時系列でご覧いただこうと思います。

国労中央委員会を広島に開催、4月からの新貸金として17,000円要求を決定 1/20
賃銀増額要求に対し、国労側は、当事者間での相談による解決が困難であるとの判断により、中央調停委員会にその調停方を申請 3/27
国鉄労組、当局に対し。8千5百円の夏期手当の支給を申し入れ、翌日より団交に入る 5/13
国鉄当局、解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告 5/12
国労全国大会等開催 5/15~20

山形県上ノ山で、第十三回全国大会及び第三十六回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労では15日から山形県上の山で第13回定期大会を開催、処分三役の再選等を決定 5/20

国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告

夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた

国労、当局を非難 5/28

国鉄労組は声明を発し、解雇者が役員であるとして当局が団交拒否したことを受けて、国労が反発、通達取消を迫り、断乎闘うとして全国に闘争指令


国労、仲裁委員会に対し、団交開始命令の申請を行うかたわら、全国にわたり順法闘争による第一波攻撃を実施 6/1

国鉄当局は国労に対し組合が合法I的であることを前提として措置していた専従職員に対する賃金の支払等便宜供与の打切りを各地機関に通告すると同時に組合に対してその旨通告 6/6

国労、団交応諾を求めて3波にわたる実力行使 6/9~6/下旬

国労に仲裁委からの勧告 6/12
国労、波状的な攻撃を行うも効果無し 6/15

国労の申請に対して、地裁がそのあっせんに乗り出すにいたった 6/28

国労東京地裁に対し、国労交渉委員の地位保全の申請を行う 6/30

国労と当局ひとまず和解 7/7

東京地裁は、7/2、5,7,12日と五次にわたる和解あっせんに努め、7日の第四次あっせんでは、問題となっていた組合三役の取扱についての焦点をずらし、これをいちじるしく緩和した第三案を両当事者に提示し、当局側も納得して一先ずは和解の運びとなった

長崎国鉄総裁は「当面の労働関係について」という談話を発表。国鉄職員に対し暫定的な措置として国労との和解を受諾した経緯と夏期輸送に万全を期するよう要望 7/12
当局とのひとまず和解したことから、予備折衝が開始され、組合側はこの日から予定していた5割休暇戦術を一先ず延期、二七項目の要求を当局に要求 7/13
総裁談話として、組合側の猛省を促す予定であったが、一先ずは様子を見ることとし、談話発表は取りやめ 7/14

国労と当局、苦情処理、労働安全衛生委員会の了解事項調印 8/14

7月、東京地裁の和解あっ旋以来、暫定的に36条協定等の実質的なとりきめを行うなど、三役問題についての根本問題は一時棚上げという冷戦状態であるが、これまで活用停止のため至極不便となっていた、苦情処理と労働安全衛生両委員会の運用についての了解事項に調印し、業務執行上の実利をとることを選んだ

国労が解雇された専従職員を委員長に選んだことで国鉄当局の態度が硬化、国労を組合として認めないとして、24協定に基づく組合費の天引きなどを拒否するということが行われました。

国鉄があった時代、昭和29年から引用

jnrera3.webcrow.jp

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第2章、国鉄分割民営化攻撃と国労攻撃

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 第4節 第四節80年代前半の賃金・労働条件を      
       めぐる闘いと専制労務管理への反撃
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 一 職場規律の確立攻撃

 1983年6月に発足した国鉄再建監理委員会は、発足後2カ月に満たない8月2日に第一次緊急提言を行った。そこにおいても職員管理の強化が強調され、「企業性の欠如した体質からの脱却」のための国鉄当局の職員教育の充実と「職場規律の確立」について「現在行われている措置を着実に推進するとともに、幹部職員が積極的に現場と接触するほか定期的な総点検を行うこと等により早急に組織全体への浸透を図るべきである」と述べていた。
 職場規律の確立攻撃が本格化したのは82年からであり、現場協議協定の改訂交渉が決裂し、無協約状態になったのは82年12月1日からであった。83年1月8日から3日間にわたって国労幹部学校が開かれたが、そのなかで国鉄当局が国労敵視政策を強め、処分権の乱用が各地で起きていることが報告された。「昨年12月だけでねらい打ちに四人が解雇処分されていることや、分会機関を認めない局や現場管理者、団交経緯の全面白紙化などが各地で発生し、組合員が〝恐怖政治?下にある」との実態が明らかにされた。これについて「この現象は一部地方のものではない」と意思統一し、「これまで地方によっては柔軟な対応をしてきたことをやめ、『労使関係は30年以上前の対決を再現せざるをえない』と全地本が対決姿勢を強化する方針を固めた」。

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├○ リボン、ワッペン着用禁止とネーム・プレート着用強制 │
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 前述したように、自民党国鉄再建小委員会(三塚委員会)が82年7月に「国鉄再建のための方策」を発表した。そこに示された方向は、管理経営権の回復と職場規律の確立なしには、いかなる施策も画餅に過ぎないことを強調すると同時に、三塚委員会の再建方向は、「経営改善計画」とあわせて具体化を実施し、原稿経営体制のままで再建が可能な場合に87年度を目途に国鉄の分割・民営化を図るという、いわゆる民営化「出口論」であり・国鉄首脳にとっての拠り所であった。このため国鉄首脳は合理化と職場規律の確立に邁進したのであった。
 国鉄当局は運輸大臣の指示により、職場規律の確立をはかるため1982年3月に第一次職場総点検を実施し、以後1985年12月の第8次職場総点検まで8回にわたって実施した。点検内容は、回を重ねるごとにその時々の国鉄職場の状況を反映した調査項目に変化していた。第1回目の点検のかなりの部分が現場協議制の実態把握におかれていたのに対し、84年4月の点検項目は「増収活動」「提案学習グループ」「職場内教育」など、職員管理がどの程度、どのように徹底されているかというような現場管理者の管理能力も測られる内容に変わった。

続く