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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 9

みなさまこんにちは、今日も少しだけ更新させていただこうと思います。
いささか勉強不足の感は否めませんが更に詳しく調べて発表したいと思いますのでよろしくお願い致します。

組合側から見た2・1ストライキ

下記は、労働党という政治団体による2・1ストに関する記述です。
こうした労働運動のことを記述する難しさは、どちらかに偏ることなく見ていくことが難しいか痛感しています。

 民間労働者に続いて官公労働者も立ちあがった。国鉄全逓を含む共同闘争機関=全官公庁共同闘争委員会がつくられた。大幅賃上げで始まった闘争は、政府に拒否されると、「吉田内閣打倒、社会党を中心とする民主政府の樹立」という明確な政治目標を掲げて、四七年の「二・一ゼネスト」へと発展した。それまで産別との統一行動に反対していた総同盟なども共闘を拒否できなくなり、社会党共産党、産別、総同盟などによる「倒閣実行委員会」もつくられた。四七年一月には、ほとんどすべての労働組合が参加する六百五十万人規模の全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成された。一月二十八日には、全闘が主催して「吉田内閣打倒危機突破国民大会」が開かれ、東京では五十万人が参加した。

 わが国労働者階級は、闘争の経験が浅く、たぶんに自然発生的な要素が強かったが、資本家に頼ってではなく、自らの階級の団結した力に頼って要求を実現し未来をきりひらく道を力強く歩み始めた。大幅賃上げ、首切り反対から始まった闘いは、ゼネラルストライキを武器に政府打倒のスローガンを掲げて政治を揺さぶるところまで急速に発展したのである。

 まさにその時、GHQが強権を発動し、わが国労働者階級の前に立ちはだかった。マッカーサーは、「公共の福祉に対する致命的衝撃を与えることを未然に防止するために」との口実で、ゼネスト禁止命令を発動した。総同盟は早速呼応し、「ことここに至らしめないために、あらゆる努力を払ったが、政府の労働政策の貧困と一部共産党分子による煽動(せんどう)は、いっさいの妥協を排し、労働者大衆をぎまんし、一挙に政権奪取のゼネストを強行せんとして、ついに禁止さるるにいたった。…気狂いに刃物は危ないととりあげられてしまったのだ」とののしった。わが国支配層と政府は、GHQの強権に救われた。

 ここは前述したように、食糧不足による配給品もままならぬ状況と戦後貨幣価値暴落によるインフレと抑制という中での鬩ぎ合いと言えます、当時の組合は「全日本産業労働組合会議」(以下、「産別会議」と省略)に参加しており、組織系統的には「左派のナショナルセンター」としての位置づけでした。

国労内の分裂、国鉄労組民主化同盟(民主化同盟)の誕生

実際の2・1ストに関しては産別会議自体がGHQの意向を読み誤ってたところがあるようです。
以下のように労働党の見解では、GHQによる強権で政府が救われたと書かれていますが、実際には前回も書きましたが、経済の混乱=騒擾を警戒しているGHQとすれば当然の結果だったと言えます。
その反面、この2・1ストの失敗は、部内での体制批判も強まり、国鉄にあっては国労内にも、昭和22年11月7日には「国鉄反共連盟」と呼ばれる組織が誕生しました。
上野駅で開催された結成大会には、60支部約300人が集合し、運動方針・組織方針・反共宣言書・役員(幹事長斎藤鉄郎)などが決められました。
 国鉄反共連盟は翌年の昭和23年3月18日には、国鉄労組民主化同盟(国鉄民同)と改称したとされており、国労の中にあって、穏健派としてその後も続くことになります。

鶏からあひるへ・・・

実際に、その後「産別会議」は、産別民主化同盟に、さらには総評〈設立当初は右派、2回めの会議で左派に転向したことから、「鶏からあひるへ」と揶揄されたと言われています。

この言葉には諸説があって、「当時のGHQ労働組合担当者が、“チキン(臆病者)が役立たず(lame duck、)になった”と罵ったのを通訳が理解できず、「アヒルになった」と直訳したという説や、「鶏(チキン)になると期待して育ててみたら役たたずのあひる(lame duck)になってしまった。

という説がありますが、どちらにしても、GHQにしてみれば総評の変心は、GHQにとってもあまり良い印象を与えなかったようです。

前置きが長くなりましたが、以下に国労の資料を参考に少し解説を加えさせていただこうと思います。

国労内での分裂と職場離脱逃走

昭和23年3月18日に国労内に誕生した、国鉄労組民主化同盟(以下、民同)都の部内で闘いが始まったことがここでも伺われますが、国労の寄り合い所帯世代は国鉄終焉の分裂でその結末を見るということになりそうです。

 国労内部では、民同と共産党系との間で決定的な対立状態にあり、民同はこうした事態を引き起こしたのは共産党などの過激な方針のためだとして、その責任を追求した。

国労の一部の過激な活動家が・・・北海道に多かったというのはちょっと意外なのですが、北海道というのは伝説的にこうした活動家が多いのでしょうか?

 強力な統一的闘いができず組織できず、一部の活動家を中心に、職場離脱闘争、集団欠勤闘争が行われた。職場離脱者は北海道に多く、本州に渡り、各地をオルグして決起を促した。だが弾圧は過酷であり、当局は職場離脱者のうち復帰しない者、約1000名を全て免職処分にした。中闘も職場放棄の防止を通達し、闘争は終息した。

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昭和22年の交通公社時刻表復刻版 表紙

国鉄は、その後のマッカーサーによる示唆により
アルコール専売・タバコ専売とともに、公社化されることとなりましたが、基本はパブリックコーポレーション〈公共企業を行うための企業)ということで、性格的に言えばガス会社や電気会社みたいなものなんでしょうが、日本にはそうした会社がなかったものですから、取り敢えず「公社」という入れ物自体がよく判っていなかったことに国鉄の悲劇があったと言えます

当時の公企体の経営機能のもっとも大きな点は

  1. 業務運営内容についての事実上の制約が大きいこと(国鉄法第1条)
  2. 政府の監督権限が強く、公企体としての自主性の保障が極めて弱いこと(国鉄当事者能力の欠如)
  3. 収支適合原則を原理とした、独立採算制の導入などにあった。

簡単にいえば、

  • 勝手にするなよ、
  • 許可を出しても自分たちでしてね、
  • 資金の手当ても自分でしてね。
  • 自己責任だから。
  • その代わり、口だけは出すよ。

そんなところでしょうか?

 

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*******************************以下、国労の資料になります。********************************

 48年7月官公労組の夏季闘争が本格化しようとした矢先、突然当時の芦田内閣に対し、官公部門の労働者の労働基本権を全面的に抑圧することを法制度的に求めるマッカーサー書簡が出された。労働組合の一部などでは、これは書簡であって命令ではないと解釈したが、事実は命令であり、マ書簡に基づき、政府は同月末、政令201号を急遽公布し、公務員の争議権、団交権を剥奪し、団結権を制限し、従来の協約を一切無効とした。
 48年5月の国労の中央委員会では、加藤閲男委員長(民同)、鈴木市蔵副委員長(共産党)、金政大四郎書記長(革同)という3派鼎立の指導体制に変わっていった。中央闘争委員会(中闘)は7月29日、労働基本権剥奪に反対する非常事態宣言を出した。だが、国労内部では、民同と共産党系との間で決定的な対立状態にあり、民同はこうした事態を引き起こしたのは共産党などの過激な方針のためだとして、その責任を追求した。このため、強力な統一的闘いができず組織できず、一部の活動家を中心に、職場離脱闘争、集団欠勤闘争が行われた。職場離脱者は北海道に多く、本州に渡り、各地をオルグして決起を促した。だが弾圧は過酷であり、当局は職場離脱者のうち復帰しない者、約1000名を全て免職処分にした。中闘も職場放棄の防止を通達し、闘争は終息した。
 マ書簡、政令201号によって、官公労使関係は大きく改編された。48年11月、国家公務員法が改編された。48年11月、国家公務員法が改訂された。国鉄は、マ書簡により、49年6月に公共企業体に移行し、公共企業体労働関係法が適用された。

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公共企業体としての国鉄の発足と国鉄労働組合の闘い

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 1 公共企業体としての国鉄の発足と大量人員整理
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├○ 公共企業体としての国鉄の発足   │
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 1949(昭和24)年6月、国鉄は専売とともに、公共企業体に移行した。変更の契機は、労働問題にあった。国鉄・専売の公企体化に伴い、公共企業体労働関係法(公労法)が制定され、その適用下におかれた。団結権は一応保障された。ただし、公企体の職員でなければ組合員や役員になることはできない。(4条3項)という条項は、組合が自主的に組合員や役員を選出することを妨げるものであり、のちに問題化した。団体交渉権は「管理運営事項」を除く労働条件事項については保障されたが、争議権は否認された。紛争の調停・仲裁機関としては国鉄調停・仲裁委員会が設けれら、52年の公労法改定で、適用範囲が3公社5現業に拡大され、公労委(公共企業体労働委員会)となった。
 公企体の経営機能のうえで、もっとも大きな点は、
 (1)業務運営内容についての事実上の制約が大きいこと(国鉄法第1条)
 (2)政府の監督権限が強く、公企体としての自主性の保障が極めて弱いこと(国鉄当事者能力の欠如)
 (3)収支適合原則を原理とした、独立採算制の導入などにあった。
このため70年代に到るまで、政府の国鉄への財政的援助はなく、国鉄は投資資金を自前で調達しなければならなかった。すなわち、投資計画については厳重に管理されたが、借入資金とその返済を含め、資金面では国鉄が全て責任を負っていた。

続く

参考

 

公共企業体労働関係法 法律第二百五十七号(昭二三・一二・二〇)

(職員の団結権

第四条 職員は、組合を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる。但し、管理又は監督の地位にある者及び機密の事務を取扱う者は、組合を結成し、又はこれに加入することができない。

2 前項但書に規定する者の範囲は、政令で定める。

3 公共企業体の職員でなければ、その公共企業体の職員の組合の組合員又はその役員となることができない。