すみません、1か月以上も放置状態になってしまいましたので、本日は2編アップさせていただこうと思います。
昭和48年から電車化された、特急なは、画像は昭和50年3月9日 最終日の岡山駅構内
現在では考えられないことですが、駅構内への撮影は自己責任の下自由に行うことができた。
特急の助士が構内監視のために乗務員室ドアから顔を出しているのが判ります。
昭和45年(1970年)日本では、戦後初の国際博覧会として日本万国博覧会が開催され内外に日本の復興をアピールしたものでした。
実際、1965年以降日本は急速に豊かになり、空き地も減って自動車も普及、働けば働くだけ給料は増えて家を買うことは資産形成につながると競ってマイホームを買う、そんな時代でした。
そんな中、全逓の委員長が提唱したやや右よりと取れる社会党と民社党による共産党排除の反共統一論が注目されました。
その主張は、
自民党に代わる新しい政権の確立を目標として、労働戦線を統一することが急務であり
- 労働運動に分裂と混乱をもたらしている共産党と絶縁す ること
- 労働運動における階級闘争至上主義か労使協調主義かの観念論争と組織争奪を一時停止すること
- 労働戦線を新しいケースと環境に適合し た産別組織に再編すること
- 労働戦線統一の達成という基盤のうえに社会党と民社党の再統一を期待する
という4項目をであり、民間労組や同盟には高く評価されたものの総評内では反対も多かったと言われています。
これは、経済が発展していく中で、成果の再配分が正常に行われている状況の中で従来のような公労協が中心となって戦う労働運動方式が時代遅れになりつつあるという認識に立っていたのだと言えます。
当時を振り返ってみれば、民間労組では、労使協調による成果の再配分と言う方針が一般的となり、かっての三池争議のような激しい労働運動は影を潜めていましたが、全逓や国労などいわゆる公労協は対立の構図を崩しておらず、民間労組が実を取ったのに対し、公労協は自らの交渉で賃金を決定できるわけでも無く、結果的に政治的駆け引きが運動の中心とならざるを得ない状況なっていきました。
また、そのようになったのか、その背景等は下記のように指摘されています。
大原社会問題研究所の、日本労働年鑑 第52集 1982年版 特集 労働戦線統一問題
「労働戦線統一」運動の展開と挫折(一九六〇年代末~七三年七月)から引用させていただきますと。
いうまでもなく、「高度成長」の展開、産業構造の高度化に関連する労働組合運動における民間大企業労組のウェイトの増大と〃総評ばなれ〃があった。加え て、六七年一月の衆議院選挙の結果、公明党が進出し、野党の〃多党化〃現象が顕著になった。宝樹論文は、そうした背景のもと、民社をも吸合した社会党政権 樹立、そのための共産党排除とそれを前提とした「戦線統一」を提唱したものであった。このように、「戦線統一」と政権構想が車の両輪のごとく組み合わされ ていた。
総評の方針がジリ貧になるのではないかと言う危機感からだと言われています。
そして、それが、全逓宝樹文彦委員長の論文「労働戦線統一と社会党政権樹立のために」(『月間労働問 題』67年1月)、「1970年代の労働運動推進のために」(読売新聞70年1月1日)と言う記事による、共産党主導による労働運動は結果的に、労働者と民衆の勢力を分断する恐れがあるとして反対を唱えたものであるといえます。
宝樹文彦氏は、「二・一ゼネスト以降を頂点として共産党には労働運動を指導する識見も能力もなかった」という評価を下しています。
さらに、国労のお話から少し外れますが、鉄労が加盟する同盟などは、どの様な評価をしたのでしょうか。
再び、大原社会問題研究所の、日本労働年鑑 第52集 1982年版 特集 労働戦線統一問題「労働戦線統一」運動の展開と挫折(一九六〇年代末~七三年七月)から引用させていただきますと。
同盟、全民懇の動向
同盟は七〇年二月の第六回定期大会で決定された七〇年度運動方針のなかで、労働戦線の統一問題について、従来の態度を一歩すすめ、つぎのような考え方を明らかにした。また、その方針にもとづき、労働戦線の統一・結集のよびかけを準備する動きを示した。
(1)民主的労働運動への転換が急激にすすむなかで、第一義的には、これらの民主主義労働運動を志向する組織を同盟に組織するよう全力をそそぐ が、それのみに固執せず、さらに広くよびかけ、新しい運動の開拓と建設にとりくむ。
(2)これらの組織と共同行動を協議する場をつくるようよびかける。
(3)よびかけは、まず民間労組を対象としておこない、既存の全国組織や産別組織にこだわらない。全民懇は、七〇年三月の第二回会合で、参加組合を一九労組にふやし、懇談会の名称から「主要」をはずして、「全国民間労組委員長懇談会」に改め た。そして六月の第三回会合では、参加組合数を一挙に二三九組合にひろげた(内訳は総評系一四組合、同盟系六三組合、中立労連系四五組合、新産別系二一組 合、純中立二三組合、無所属七三組合)。この会合で民間労働戦線統一に果たす全民懇の役割を確認し、「戦線統一促進についての提唱」を採択した。そして、 「ナショナル・センター次元の統一は望ましいが、いずれも自己の立場にとらわれすぎて、現実には無理である、強力なナショナル・センターをつくるには、そ れを支える産業別組合の再編がすすみ、強化されることが前提になる。したがって、第一段階は、民間単産を中心にして、できるところからゆるやかな連絡協議 会を設置し、統一へのプログラムを作成していく」方針を明らかにした。
と書かれており一定の評価はしているようですが、急進的な組織再編については否定的な見解を示していることが伺えます。
そうした総評を中心とした労働再編の動きは、大阪などの地方での「民間連絡協議会」(民労協)や民間大企業労組委員長による「全国民間労組委員長懇談会(全民懇)などの形で始 まっわけですが、国労は、この時期、「マル生」粉砕闘争で歴史的な勝利を獲得した時期であり、72年春闘 では交通共闘の成功もあって、社会党を中心とした政権奪取という、総評の方針を積極的に支持したと言われています。
しかし、民間先行による労働再編を進めようとした労組の多くは、「生産性向上運動」 に賛成しており、国労の立場とは両立しなかったと言われています。
昭和47年第33回衆議院議員総選挙 Wikipediaから引用
72年の総選挙で、社会党が前回の失地を回復したが、日本共産党もが躍進したため、共産党排除の政権構想と車の両輪であった労線再編に大きな影響を与えた。ま た73年春闘の高揚に見られる総評の戦闘的成長に体し、同盟側は警戒と批判を強めた。73年7月、形成されていた22単産会議では、統一への合意が得られ ず、民間先行の第1次労使再編は挫折したのですが、この論文を契機としてその後の連合の再編へとつながっていくことになります。
参考 昭和47年第33回衆議院議員総選挙 Wikipediaから引用
社会党が90、共産党は14であり、こうした背景から民社党(民主社会党と日本社会党の合流)が上述の宝樹論文につながったと言えます、実際この論文がその後の連合設立の契機となったことは間違いありません。
**************************以下、国労作成の記事になります。*******************************
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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚
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2 国鉄朗々組合新綱領の採択
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├○ 民間先行の労働戦線再編運動-国労新綱領づくりの背景 │
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60年代末から民間先行の労働戦線再編の動きが活発化し。その契機は全逓宝樹文彦委員長の論文「労働戦線統一と社会党政権樹立のために」(『月間労働問 題』67年1月)、「1970年代の労働運動推進のために」(読売新聞70年1月1日)で、前者は労働組合の産業別再編、社会党と民社党にの統一による政権を展望し、共産党排除の反共統一論で、右よりの再編であった。
労働再編の動きは、大阪などの地方での「民間連絡協議会」(民労協)や民間大企業労組委員長による「全国民間労組委員長懇談会(全民懇)などの形で始 まった。総評は、70年8月の大会で、全ての組合、すべての労働者の大結集、選別の排除を軸とした「労戦統一14原則」決定し、72年の8月の大会では、 共同行動の強化、労働運動の主体性の確立など「労戦統一17方針」を決定した。国労は、この時期、「マル生」粉砕闘争で歴史的な勝利を獲得し、72年春闘 での交通共闘の成功もあって大変高揚期にあり、総評の方針を積極的に支持した。民間先行による労働再編を進めようとした労組の多くは、「生産性向上運動」 に賛成しており、国労の立場とは両立しなかった。
72年の総選挙で、社会党が前回の失地を回復し、日本共産党が躍進したため、共産党排除の政権構想と車の両輪であった労線再編に大きな影響を与えた。ま た73年春闘の高揚に見られる総評の戦闘的成長に体し、同盟側は警戒と批判を強めた。73年7月、形成されていた22単産会議では、統一への合意が得られ ず、民間先行の第1次労使再編は挫折した。だが、その年の11月には、民間労組共同会議が結成され、76年10月に結成された政策推進労組会議とともに、 70年代末~80年代の労戦再編の動きにつながっていった。
次回は、国労新綱領の作成と採択になります。