所得倍増計画と経済成長
昭和35年【1960年】時の首相、池田勇人首相が提唱した国民所得倍増計画を策定し、経済優先の路線を進むこととなりました。
国鉄もそれに呼応するかのように老朽資産の更改とともに輸送力の増強にも力を入れることとなり東海道新幹線の建設などもこれに呼応して作られたと言っても過言ではありません。
高度経済成長はその反面多くの矛盾も生じさせました、インフレによる諸物価の値上がりや公害問題【四日市ぜんそく ・水俣病・イタイイタイ病など】といった公害病など、多くの問題が生じました。
①大都市問題:公害問題、通勤地獄、住宅環境の悪化、
②大都市圏と地方圏の所得格差、生活水準格差の拡大 etc
特に四日市ぜんそくの場合は、コンビナートにおける脱硫装置を当時きちんと設置しておけば防げたものであり、それを設けずに煙突を高くしたことで被害を拡散させたと言われています。
民間労組は総評から同盟へ、もしくは労使協調路線へ
なお、高度経済成長に歩調を合わせるように民間では、労使対立から経済優先路線に乗った労使協調路線に方向が変換されていったのもこの時期でした。
昭和39年の春闘では、池田勇人首相が太田薫総評議長と会談し、公務員と民間の賃金格差をなくすことで合意するなど、公務員労組にあっても政治的に政府と対立する要素はなくなっていったと思われるのですが、経済成長の恩恵で春闘相場は年々上昇し、70年、71年春闘では、5ケタ回答=1万円以上が多くなり。賃上げ率も10%台に達しました。
当時の公務員の人の話を聞くと、毎年毎年給料が上がっていくのが実感出来たと言われています。
実際、昭和40年代には大学卒で3万円程度であった初任給が昭和52年には10万円を超えていますからいかに賃金上昇が大きかったか伺えます。
国鉄には限りませんが、当時の賃金決定の流れを見ていますと。日本の基幹産業と言われた、IMF-JC(国際金属労連日本協議会)に加盟している鉄鋼、造船、電機などが春闘相場を作り、それを受けて中労委が私鉄賃金、そのあとに公労委が国鉄、電電などの公企労の賃金を決めて、そのあとに人事院勧告によって国家公務員の賃金決定、地方公務員の賃金決定という流れになっていました。
特に公務員の場合はベースアップの改定が9月頃の差額精算という形で調整されていたように思います。
そこで、前置きが長くなったので国鉄の様子を見てみようと思います。
マル生運動中止で意気上がる国労
国鉄ではマル生運動の中止により、国労・動労の労働者にとっては明るい話題であったとはいえ、中間管理職は冬の時代を迎えたと言われています。
特に現業機関の助役は、本来の業務に加えて、便所掃除や駅での清掃など下位職も代行せねばならず、現場によっては現場協議と称する管理者の吊し上げなどが行われたりしたと言われています。
合理化反対と運賃値上げ反対と大幅ベースアップ獲得の矛盾
マル生運動中止翌年の1972年(昭和47年】2月の第98回中央委員会では、1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げ、スト権奪還、「マル生」運動完全粉砕、ヤードの統廃合やローカル線廃止な どの「合理化」反対、国鉄運賃値上げ反対と絡めて国民大衆とともに闘うことを決めた。
矛盾していると思うのは私だけでしょうか。それとも、国鉄は打ち出の小づちを持っていたのでしょうか?
最後の運賃値上げ反対と1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げの獲得というのは極めて矛盾した内容であり、「合理化」反対して、賃金上昇を獲得してさらには、収入源である運賃値上げに反対して国民と呼応するというのは冷静に考えるとすごく矛盾していると思うのですが、当時の組合ではそうした概念は無かったようで、官公労働者の申し訳ないが浮世離れした感を拭いきれないものがあります。
違法ストライキで賃上げ獲得という矛盾
また、この当時は春闘で列車が止まるのは春の風物詩として定着した感があり、市民も手慣れたものでしたが、大手私鉄10社ということで当時でも大手は14社あるので一部の私鉄はストライキに参加しなかったといえます。
なお、関西では近鉄がストライキしない鉄道として記憶しています。
>27日始発からストに入った。全国で2500万人という大きな影響が出て、「交通ゼ ネスト」的模様を示した。
マル生運動中止以後は、現場の声が強くなり国鉄内部は混乱
さらに注目すべきは、この頃から現場の声が強くなりそうした意向は車両製造にも反映されることとなりました。
そのため、当時の113系や115系では運転席が153系や165系並に広くなったり、103系ATC準備車がATC装置を床下に置かずに室内に置くことで乗客スペースを減らすと言ったおよそ利用者不在の車両が作られていくこととなりました。
この辺はまた別の機会に書かせていただきます。
運転台直後の下降窓が無い製造当初のタイプ、運転室が狭い
パノラミックウインドウと乗務員ドアの間に小さな下降窓が設けられており、その分居住性が改善された運転室
この対応が登場した背景には運転士による室内環境の改善が反映されている。
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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚
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1 国民春闘への高揚
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├○ 70年代初めの春闘 │
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春闘は、60年代後半、一層大衆化した。同時に、高度経済成長の矛盾が噴出するなかで、賃上げ以外の要求も多様化した。賃上げでは64年の池田・大田会議 で、民間賃金と官公労働者の賃金とのリンクの仕方が、いわゆる民間準拠として、事実上確認され定着した。国労の60年代後半の春闘は大幅賃上げととも に、相次ぐ「合理化」に対する春闘でもあった。70(昭和45)年春闘では、総評は「国民諸要求を獲得する闘いの先頭に立ち」。「一五大要求」を掲げ、国 民春闘への最初の足がかりとなった。
他方、IMF・JCを中心とする民間大企業労組の影響力も強まり、60年代末以降の労働者再編の動きや春闘の相場形成において、事実上の中心となっていた。民間大企業労組の比率は、60年代末には総評より同盟が組合員数で多数派となった。春闘相場は年々上昇し、70年、71年春闘では、5ケタ回答=1万円以上が多くなった。賃上げ率も10%台に達した。
72年の国労春闘は、「マル生」粉砕闘争で勝利した後の春闘であり、組合員が復帰した職場では歓迎団結集会が開かれるなど職場は明るい雰囲気がみなぎっ た。2月の第98回中央委員会では、1万6100円プラス5.5%の大幅賃上げ、スト権奪還、「マル生」運動完全粉砕、ヤードの統廃合やローカル線廃止な どの「合理化」反対、国鉄運賃値上げ反対と絡めて国民大衆とともに闘うことを決めた。この春闘は、4月27日、28日に設定された交通運輸と公労協の統一 ストが、事実上の決戦ストとなった。国労・動労・私鉄大手10組合は、27日始発からストに入った。全国で2500万人という大きな影響が出て、「交通ゼ ネスト」的模様を示した。この年、調停委員長見解に示された国鉄の賃上げ額は10,162円、12.9%であった。
73年春闘は、田中内閣の『列島改造論』のもと、異常な自家の高騰やインフレを招き、国民生活に影響を与えていた。この春闘では、二つの特筆すべきストが行われた。
一つは、2月10日の公労協、公務員共闘のスト権ストである。このストは、官公労働者のスト権を統一ストによって奪還する意思を内外に表明するストであ り、我が国の労働運動史上初のスト権ストであった。国労は当日、運転区を中心に10拠点で半日ストを決行した。いま一つは、4・17年金ストであり、53 単産、350万人が参加した。年金ストは、年金額の改善と物価スライド制、掛金の積立方式から賦課方式への切り替えを要求していた。国会では年金改正法案 が審議されており、年金ストは国民的要求を反映し、政府との実質的交渉を迫るものであった。73年9月に修正可決された年金改正案は若干の改善と物価スラ イド制の導入が行われた。
続く