すみません、1か月以上放置してしていました、今回は第1次石油ショックのことについて少しお話をさせていただこうと思います。
石油ショック(もしくはオイルショックと呼ばれる場合もあり)ますが、これは二つの側面がありました。
中東戦争により、原油の公定価格上昇並びに経済制裁などを受けたこと。
当時の日本は、石炭から石油への主たるエネルギー源を1960年頃から置き換えており、73年頃はエネルギーの殆どを石油に頼っていたためその影響をまともに受けたこと。
日本外交により、日本は中東の友好国として認定されて経済制裁からは外れたのですが、政府は引き続き、国民向けにはマイカーの使用自粛や広告ネオンの消灯、テレビ放映時間の短縮といったことが行われました。
その反面、企業による悪質な買い占めなどで卸売物価は上昇し、逆に経済成長は縮小、戦後続いてきた高度経済成長はここに終わりを告げることとなり、初めてのマイナス成長を記録しました。
実際に買い占めにあった例として、トイレットペーパーの買い占めがありました。
企業による買い占めや売り惜しみが起こり、トイレットペーパーが不足するという異常な事態となり物価は急上昇していきました。
この原因は、どうもちょっとしたデマが拡散していったことが原因のようで、その辺はwikipediakから引用してみようと思います。
1973年10月16日、産油国が原油価格を70%引き上げることを決定したため、当時の田中角栄内閣の中曽根康弘通商産業大臣が「紙節約の呼びかけ」を10月19日に発表した。
このため、10月下旬には「紙がなくなる」というデマが流れはじめ、同年11月1日午後1時半ごろ、大阪千里ニュータウンの千里大丸プラザ(現:ピーコックストア千里中央店・オトカリテ内)が、特売広告に「(激安の販売によって)紙がなくなる!」と書いたところ、300人近い主婦の列ができ、2時間のうちにトイレットペーパー500個が売り切れた。
その後、来店した客が広告の品物がないことに苦情をつけたため、店では特売品でないトイレットペーパーを並べたが、それもたちまち売り切れ、噂を聞いた新聞社が「あっと言う間に値段は二倍」と書いたため、騒ぎが大きくなり、騒動に発展した。
当時は「第四次中東戦争」という背景もあり、原油の高騰により紙が本当に無くなるかもしれないという不安心理から、各地でデマが飛び火し、行列が発生したため、マスメディアにも大きく取り上げられ、パニックは全国に連鎖的に急速に拡大した。高度経済成長で大量消費に慣れていた日本人が急に「物不足の恐怖」に直面したために起こったパニックとも言われている。パニックの火付け役は新聞の投書だとする説もある。
どうも、最初の火付け役は新聞が原因とも取られかねないのですが、この余波は全国に瞬く間に広がり、トイレットペーパーに限らず日用品が売り場からなくなるという事態にパニックになったと言われています。
ということで、石油ショックを直接の契機とするものではないものの、それと連動した
引用 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構[JOGMEC]
集団心理のなせる業だとも言えます。
またこれに連動して便乗値上げや買い占めが相次ぎ、物価は上昇していくこととなりました。
そこで、総評は「インフレから生活を守る国民春闘」と位置づけ活動することとなりました。
74年 全体では、卸売価格が31.3%、消費者物価が24.5%上昇。国民生活は、生活防衛が最優先課題となりました。
実際の石油価格上昇による物価引き上げは、経済企画庁の試算によれば、73年10月から74年3月までで、消費者物価を7.8%引き上げた効果はあるとしたものの、実際の上昇から見れば小さいものであり、企業などが買い占めや意図的な値上げにより発生したものと考えられました。
また、1974年の経済成長は戦後初めてマイナスを記録することとなり、高度経済成長と呼ばれた時代の終焉を演出することとなりました。
引用 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構[JOGMEC]
国労を中心とした、総評は公労協を中心に設定した3・1ストで、生活困窮者や働く国民の問題を含めて政府と対決することとしたようで、国労の思惑はさらにここでスト権解決の軌道に乗せようとすることも併せて考えていたようですが、スト権問題まではうまくいかなかったようです。
なお、国労としては、①受験列車、②生鮮食料品・生活必需物資列車に関しては一定の配慮を図ったものとなりました。
これは、世論からの批判を避けるといった思惑もあったようです。
しかし、今までは聖域とされてきた新幹線も含めた全面的な停止は国鉄としても初めてのことでした。
この争議は、4月9日から 13日にかけて行われ、官民一体のゼネスト体制により会社では、前日から泊まり込みの態勢が敷かれた会社などもありました。
当時はこのような交通ストを中心としたストライキは春の風物詩と言われたものでしたが、民間ではストライキそのものが減少していく中で公労協を中心としたストライキは結果的には利用者に受け入れられることはなく、特に貨物輸送などは顕著で、市場関係者による生鮮食料品輸送などは、トラック輸送で行われるようになっており、昭和50年の、スト権ストでは政府が困るだろうと思っていたら気が付くと政府ではなく、組合が逆に面食らったという話につながっていくのですが、その辺の話はまた後程させていただこうと思います。
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第7節 春闘・スト権奪還闘争の高揚
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1 国民春闘への高揚
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├○ 狂乱物価と74年国民春闘 │
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73年秋、第4次中東戦争が勃発し、石油産出国は原油価格の大幅値上げを行った。一次エネルギーの90%を輸入に依存していた日本は、痛烈なショックを 受けた(第一次オイルショック)しかも、これを機会に生活必需品の品不足が「演出」されたり、価格引き上げが行われ、”物価”は狂乱状態となった。74年 全体では、卸売価格が31.3%、消費者物価が24.5%上昇した。国民生活は、生活防衛が最優先課題になった。74年春闘は12月4日、公労委が「応急 手当として年度末手当0.3ヵ月分を年内に繰り上げて支給する。」調停案を出したが、秋季年末段階から始まっていた。73年10月12日に発足した74春 闘共闘委は、「インフレから生活を守る国民春闘」と名付けれられた。
公労協を中心に設定した3・1ストは、国会の予算審議のヤマ場で、社会の底辺にある生活困窮者や働く国民の問題を含めて政府と対決し、院内外での革新政党等の共同行為によって国民春闘の路線を敷き、スト権問題でも政府を引き出して解決の軌道に乗せようとしたものであった。
国労は、新幹線を含む太平洋を縦断し、青森~熊本を結ぶスト戦術を決定した。その際、①受験列車の運転、②生鮮食料品・生活必需物資列車の運転などを初 めとする具体的対応策を行い、政府や自民党、財界の世論操作を含む攻撃をかわした。3月26日にも大規模なストが行われたが、4月決戦の中で、9日から 13日にかけて、官民一体のゼネスト体制により、春闘史上空前の闘いが展開された。この決戦に参加した労働者は58単産、600万人に及んだが、その中核 となったのは公労協と交運の統一ストであり、とくに国労の全職場におけるスト、動労の拠点スト、私鉄を中心とした交通のストであり、日本の交通機関は数日 間にわたってマヒ状態になった。国労は、この春闘決戦において、文字通り中核的役割を果たした。この闘いに参加した国労組合員は22万人にのぼった。全国 ストは、実に5日間約110時間余りにわたった。
4月13日、公労協平均で27,691円、29.22%の調停委員長見解が示された。政府によるインフレ福祉手当、各種年金の繰り上げ支給も行われた。 スト権問題については、「五項目合意」が政府と春闘共闘委の間で成立した。春闘における賃上げ率・額は史上最高であり、ほぼ30%程度の引上げとなった。 74年春闘の総括では、インフレから生活を守る国民春闘として闘われたことに着目し、「国民春闘」という言葉が使われるようになった。