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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 19

皆様こんにちは、労働運動関係って本当は非常に内容が濃くて、簡単に書いてはいけないのかなと思いつつかれこれこうしたことに首を突っ込んで10年以上、資料を集め始めたのは30年ほど前の国鉄解体末期、国鉄からJRになるプロセスを記録しようとスクラップを始めたのがきっかけ、それから時につけ折りにつれ残片的に資料を読んだりして、ここに来て本格的に勉強を始めた大馬鹿者ではございますが、すればするほどこうした労働運動は奥が深くて、いつまでも光が見えてきません。
少しづつ自分なりに整理した事項をアップしながら書いていきますので皆様よろしくお願いいたします。

国労分裂のきっかけとなった新潟闘争

本来であれば三池争議について語るべきなのですが、あまりにも三池争議は大きな話題なので今の私が中途半端な知識で書いても混乱を招くだけですので、ここでは新国労(後の鉄労)が発足するきっかけとなった新潟闘争を中心にお話を進めさせていただこうと思います。

国鉄労働組合は、戦後全逓とともに、戦後の労働運動を先導する組合でしたがその急先鋒を戦ったのが新潟地本と言われています。
その反面、新国労(後の鉄労)が誕生するきっかけとなったのも新潟地本であり、ここで行われた第二組合の創設はその後の三池闘争などでも導入されるきっかけとなるなど、日本においての労働運動、純粋な共産党が主導する階級闘争とは別のもう一つの運動を同時に発生させていったと言えます。
といいますのも、2.1ゼネストの失敗(GHQの強い意向により中止させられたことにより、労働運動の流れが明らかに変わりました、GHQも最初は容認していた共産党の活動を再度非合法化することも視野に入れた活動に変わったことから、共産党排除した、民主化同盟(その後の総評の基盤となる)を発足させる機運となりました。

総評は、GHQによる主導で導かれ、反共産等色が強い組合でしたが、第2回の大会では平和四原則を決定するなど急速に左傾・反米化してしまい、GHQをして“ニワトリからアヒルへ”一説では、『チキン(臆病者)がレームダック(役立たず)になった』とぼやいたのをダック=アヒルと訳したからではないかといわれています。
GHQにしてみれば、反共の砦になるはずだった組合が先祖返りしたことに不満を持ったであろう事は容易に考えることが出来ます。

 

日本労働党の「戦後日本の労使関係・労働運動の歴史的総括のために」から引用させていただくと

> 総評結成大会の宣言は、「日本共産党の組合支配と暴力革命的な方針を排除し、…自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一の巨大なる礎をすえたのである」と述べている。そして「北朝鮮軍による武力侵略に反対する。ただし日本が占領下にある現在、総評は戦争に介入しない」との態度を表明した。
>  以下のエーミスGHQ労働課長の報告文書は、総評結成がGHQの工作の産物であり、産別会議を分裂させ民同派を育成してつくったものであることをきわめて露骨に語っている。

実際に、産別会議はその後衰退を続け昭和33年頃には消滅しています。

そんな総評も、結局一枚岩とは行かず、部内で分裂を起こして、民同左派と右派に別れることとなりました。

新潟地本とはどんな戦いをしたのか?

そんな中で、ひときわ激しい運動を行っていたのは、国労の新潟地本であり、ここは、革同(国労革新同志会 昭和23年共産党国鉄反共連盟の中間派で、労農党系等との合流を果たしながら民同左派を結成)の拠点であり、国労としても重点的な闘争地域として指定したところもあったようです。

特にこの新潟闘争では、当局側による解雇者2名に対する解雇撤回闘争として昭和32年の7月10日から激しい実力闘争に突入し。1週間にわたって列車を次々止め、大きな影響が出ました。

得られたものは何もなかった闘争

結局ここで得られたものは、何もなく結果的には国労が書いているように、新国労の結成を手助けするだけの効果しかなく、いわば闘争することに嫌気をさした民同右派と呼ばれるグループが国労から去っていくという流れを作ったといえます。

当時の闘争の様子を 月刊『国際労働運動』から時系列で見てみましょう。

 7. 8 新潟地本幹部2人に当局から懲戒免職処分
 7. 9 処分に反対し、闘争に突入。
 7. 9 中闘指令により勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、運休、遅 延が拡大した。各所で鉄道公安と衝突。
 7. 11 機労(国鉄機関車労組後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列車運転拒否 など闘争に参加
 7.15 さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化
 7.16 全列車が停止、中央闘争部よりストライキの中止指令。当局は4人の免職発表
 7.17 15人免職処分が追加
この闘争により得られたものは、何もなく組織の分裂を招くこととなり、9. 1 国鉄新潟地方労働組合(新地労)が結成(後の鉄労の前身)がされることとなり、国労という組織運営の難しさを感じさせるものでありました。

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画像 wikipediaから

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国鉄があった時代 JNR-era
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以下、国労の資料となりす。

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┌───────────────┐
├○ 警職法・安保・三池の闘い    │
└───────────────┘
続き

 6月予定されるアメリカ大統領の来日までに批准を完了しようとした政府は、5月19日、国会に警官隊を導入して会期の延長と新安保条約の衆院での承認を強行した。
 国民の憤激は高まり、安保改定阻止に加えて、民主主義擁護の立場から岸内閣への批判が決定的となった。この国民的盛り上がりを背景に、6月4日と15日及び22日、それぞれ約600万人の組合員が参加する三波にわたる統一ストが実施された。この時、国労が行ったストは、国鉄のストとしては初めての本格的なスト、しかも政治ストであった。
 この国民的盛り上がりで、アメリカ大統領の訪日は中止され、岸内閣は退陣した。60年8月の国労第20回大会(甲府市)では、国労安保闘争のなかで、「組合結成以来かってない規模と内容をもって闘いを果敢に決行し安保闘争の中心的な役割を見事に果たした。」と総括した。 
 他方、三池では60年はじめに第2組合が結成された。だが、多くの支援オルグが現地入りして闘争を支えたが、三井鉱山の単組は闘争に加わらなかった。さらに、炭労は産業別の統一ストの組織化に失敗し、次第に闘いの困難性が増した。
 経営者側は第二組合を使って就労活動を始め、入坑とこれの阻止との間で凄惨な闘いが繰り返された。安保闘争が終了すると、政治的な状況は一層、組合側に不利となり、結局、事実上、指名解雇を容認する中労委の斡旋案を受け入れて、争議は敗北し、収拾を余儀なくされた。

┌───────────────┐
├○ 国労・組織問題の新たな展開   │
└───────────────┘
 
 安保闘争のあと、国労は組織問題に直面した。民社党の成立とともに始まった分裂の動きが、国労内部で具体化し始めた。60年8月の第20回大会では、新生民同と呼ばれる民同右派グループが、中執の運動方針案に対して全面修正案を提出した。その内容は、組合主義の立場にたって政治闘争を否定すること、社会党民社党を並列支持すること、国際自由労連に加盟することなどであった。この修正案は否決された。だが、大会直後から、10月に大阪地本で脱退が始まり、新国鉄大阪地方労組が結成され(組合員6,245人)、他の地本に波及した。62年11月には、新国鉄労働組合連合(新国労)が結成され、後68年10月、鉄道労働組合(鉄労)が発足した。