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日本国有鉄道 労働運動史

鉄道ジャーナリストこと、blackcatの国鉄労働運動史

国鉄労働組合史詳細解説 76

皆さまこんばんは、しばらく間が空いてしまいましたが国鉄改革の歩みと言うことで、本日も綴らせていただきたいと思います。

昭和57年のマスコミによるブルトレ手当問題(ヤミ手当問題)に端を発した国鉄問題は、臨調の答申もあって国鉄当局が変わるきっかけを作っていくことになりました。

さらには、昭和57年のダイヤ改正国鉄にとっても初めての減量ダイヤであり、この交渉に際して、従来の方針を変更し、現場協議制を本来の姿に戻すとして国労に通告することになりました。

その背景には、臨調答申などの背景や政府・自民党の後押しも大きかったと推測されます。

逆に、この当時の国鉄は利子支払いのために借金せざるを得ない状況に追い込まれていたと言えます。

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二条駅に留置された581・583系(画像 wikipedia

国鉄本社が職場規律の確立に舵を切ったこと

昭和57年7月21日、国鉄本社で、15時50分から本社9階大会議室で、全国総局長・鉄道管理局長会議が開催されたそうです。

そこで、高木総裁自ら、職場規律の確立を強く要請するなど、流れは大きく変わってきました。

ここで高木総裁も職場規律の確立を要請すると言っているように、国鉄としても悪習である現場協議制を本来の形に戻して行くと言う方向に動きました。

当時の国鉄線(昭和57年9月号31P)から引用させていただきます。

全国総局長。鉄道管理局長会議開催

 21日、運輸省で小坂運輸大臣に対して職場総点検の是正状況を中間報告したのに引き続いて、15時50分から本社9階大会議室で、全国総局長・鉄道管理局長会議が開催された。
 冒頭、挨拶に立った高木総裁は、経営改普に懸命の努力を続けている各鉄道管理局長に感謝の意を表した後、国鉄の再建のためには,職場規律、合理化、サービス向上、増収の4つの認識にいろいろな角度から取り組んでいくことが必要で、中でも職場規律の確立はすべての前提である」として、職場規律を中心に4つの課題にしっかり取り組むよう強く要請した。また、現場協議協定の改定についても、「労使問題の根源がここから派生している」として、幹部自らが現協問題のすべてをじっくり勉強して、部下管理者に対する周知と指導を徹底するよう厳しく訓示した。
 引き続いて、竹内常務理事が経営再建問題について、三坂常務理事が職場規律と新規採用停止を中心とした合理化問題について、太田職員局長が現場協議制度の改定について、岩崎共済事務局長が共済年金問題について議題脱明を行ない、質疑応答に移り、熟心な意見交換が続いた。
 最後に馬渡副総裁が、「来年度の予算編成もさることながら、今年度の執行自体が非常に困難な状態で、死にもの狂いで増収と合理化を完遂する以外に道はない。とにかくやるしかない。それならぱ暗い顔でなく胸を張って堂々と気持良く取り組もう」としめくくり、18時過ぎ散会した。

昭和57年度の監査報告書では、下記のように職場規律の確立が肝要であると書かれています。

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国鉄を取巻く環境の変化と労働組合

このように、国鉄を取巻く環境は大きく変化し、国鉄当局も太田職員局長も職場規律改善に向けて動き出すことになりました。

これは、政府からの要請も大きかったようで、昭和57年の監査報告書には下記のように書かれています。

 

抜粋して引用させていただきます。

1職 場 管 理
第4 職 員 管 理

(1)現    状
  国鉄の職場規律の乱れが次々と指摘され国民の厳しい枇判を受けることとなり、かかる事態に対し昭和57年3月運綸大臣の指示により全職場の総点検を実施した。その結果。多くの職場において、いわゆる悪價行、ヤミ協定、現場協議制の運用の乱れなどが存在し、問題の広がりと深さは、それまで把握されていた以上に深刻であることが判明した。
  国鉄は。このような実態を早急に是正しなければ、職場の正常な業務運曾は維持できず国民の信頼を回復させることも到底できないとの危機意識をもって、この一年間組織を挙げて問題の解決に取り組んできた。また、これと併行して、職場規律の乱れの温床との指摘のあった現場協議制についても、これまでの鰹験や反省をもとに検討を加え、昭和57年12月1日をもって、本来の趣旨にのっとり改訂し、現場での正常で円滑な業務運営を期することとした。
  一方、政府は、昭和57年7月の臨時行政爾査会の答申を受け、国鉄経営の危機的状況に鑑み、同年9月緊急対策を閣議決定し、職場規律の確立をあらゆる経営改善施策展開の大前提として位置付けた。これを受けて、国鉄は、職場規律の確立を最優先課題としてその促進にさらに力を入れて取り組んだ。
  このような取組みによる成果を把握するため、国鉄は、昭和57年9月に第2次の総点検を行い、是正状況を厳しく自己点検し是正の促進と定看化を図り、さらに昭和58年3月に第3次の総点検を実施した。その結果。いわゆるヤミ手当をはじめ、給料日 の早退、管理者の金銭的負担等が解消したほか、いわゆる悪t貫行、ヤミ協定等かなりの項目についても大勢として改善の方向にあることが認められた。また、新しい現場協議委異会制度に関する協約については末締結の組合もあるが、昭和57年12月以降の
 現場における業務運営は、ごく一部を除き、大きな混乱もなく行われていることが把握された。

更にこれに対して、国労は「現場協議制」については、国労は、協約の実質上破棄通告であると強く反発し、団体交渉を重ねるとともに公労委の調停にも持ちこんだようですが、国鉄当局としても、職場規律の確立は喫緊の課題であり、提案を変更することはなく、国労全動労全国鉄動力車労働組合)は、無締結状態となりました。
動労、鉄労、全施労は11月30日当局の改定案を大筋で了承し解決しています。
この頃から、国労動労の温度差が出てきていたことが伺えます。
参考 現場協約と改定案の相違点

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引用 国有鉄道昭和57年11月 から引用
 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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続き

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

┌───────────────────────┐
├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
└───────────────────────┘

 57.11ダイヤ改正交渉と鉄労・動労・全施労の先行妥結

 このような少数3組合の先行妥結に対して国労は、このような協定では、『労働条件に関する協定とはいえない」こと、従来の労使関係からして『少数組合と先行妥結した内容を国労に押し付けることは許されない」などと強調するとともに、36協定破棄、順法・非協力闘争治っで対抗しながら、異なる協定の締結を求めて精力的に交渉を要求した。その結果、「昭和57年11月ダイヤ改正に伴う労働条件については、地方対応機関において交渉し(82年11月14日)、交渉は事実上打ち切られることになった。そして、これまでの「合理化」問題交渉では、他方で一定の労働条件改善(昇格)が行われていたが、この57・11ダイヤ改正問題をめぐる交渉からは、そのような措置も行われなくなった。

 現場協議制に関する交渉の決裂

自民党三塚委員会が”破棄”を提言し、臨調第4部会報告も”本来の趣旨”に改めるよう主張していた「現場協議制」について、「国鉄当局は82年8月19日、「現場協議制に関する協約」の改定案を提示し、協約期限の11月30日までに交渉がまとまらなければこの協約は破棄すると提案してきた。この提案は、すでに7月19日に動労、全施労、鉄労などには提示されていたもので、国労は解明要求を申し入れて、その交渉には応じていなかった。この8月19日に示された改定案の骨子は、①協議の対象範囲を労働協約就業規則、規程、達、通達等に定められていない現場固有の日常の労働条件に関して生じた団体的紛争に限定する。②開催は毎月①階とし、臨時開催を認めず、1回の教義時間は時間以内とする。③ 上級委員会を設置し、現場労使が対立した問題は上位する、などであった。
                                      
続く

国鉄労働組合史詳細解説 75

昭和57年時刻改正当時の国鉄当局

国鉄改革の問題が表面化する前、国鉄も少しづつ変わりつつありました。

特に昭和57年11月は東北新幹線開業もあり、新幹線シフトさせつつも大幅な旅客並びに貨物列車を減少させることとなり、運用の合理化、ヤードの集約と言った大規模な合理化が引き続き続けられることとなりました。

お客様本位を始めた国鉄当局

特に、57年11月の改正では、

貨物輸送課長 矢山恒夫氏の説明によりますと、「将来とも生き残るべき拠点間直行列車を一万一〇〇〇キロ増発する一方で、使命を終えたヤード系集結輸送列車を四万九〇〇〇キロを削減。
 さらに、拠点間直行列車の増発もさることながら、入出線時刻の改善をめざし、有効時間帯に列車をはめ込んでいくことを目玉としたことで、従来からの高速直行一二六本の列車の中で、荷役線から荷役線まで着く時間が三〇分以上縮めたものが半分以上。
 さらに、コンテナ列車一七本、車扱列車五本の計二二本を新設したのですが、これについても、荷主さん、通運さんのオーダーに応えるような「オーダーメイド」の列車を作ることに苦心いたしました。

と書かれています、

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国鉄線 昭和57年11月号から引用

以前は国鉄がこうしたダイヤを作ったから、それに合わせて出荷しろ…だったわけで、そうした意味ではかなり変わったなと言えましょう。

しかし、昭和55年のダイヤ改正時からでも0.6%貨物輸送は減少していたわけで、そうした意味では国鉄としても崖っぷちであったと言えます。

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運輸白書昭和58年版から引用

列車削減による機関車等の余剰発生

それでも、上記の例でもわかるように「ヤード系集結輸送列車を4万9,000キロを削減」していますので、

(増発 11.000)-(削減 49.000)=(削減 38.000)
貨物列車だけでも、38,000キロの列車が消えたことになります。さらに今回は旅客列車も減少させたうえで車両の効率的運用などに努めたことで、機関車等に多数の余剰が発生しました。

また、東北新幹線開業により、「ゆうづる」・「みちのく」等で使われていた583系電車は寝台列車に廃止に伴い、昼夜兼行で走れる区間が少なくなり大幅に余剰が発生することとなりました。

二条駅ヤードなどにも583系が多数留置されることとなりました。

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画像 Wikipedia

国鉄時代のダイヤ改正は概ね1年前から準備が始められ、ヨンサントウのような大規模な場合は数年前から準備が始めるのが恒例で、担当者が温泉宿に詰めてそれこそ缶詰め状態で検討会議をすることが一般的であったと言われています。

57.11ダイヤ改正の概要と国労動労の反応

1981年10月27日に、国鉄当局は57・11ダイヤ改正の概要を発表し、実際に組合と協議することになったのですが、東北新幹線開業という華やかな場面がある裏側で、35万人体制を目指すという合理化初年の計画でもありました。
  1. 旅客輸送については、東北・上越線新幹線開業を機会に在来線旅客関係で約2万5000キロの削減を図る。
  2. 貨物輸送関係については、輸送力と輸送量の大幅な乖離を解消するために地域間直行貨物輸送体制をめざし、貨物取扱駅251駅の削減(800駅体制)、ヤード41の削減による再編(100ヤード体制)、貨車1万3000両の削減、貨物関係約4万キロの削減をはかる。
  3. これらにともなう作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用効率化をはかる。
 
 と言ったものであり、乗務員並びにヤード職員を中心に大幅な合理化が計画されているわけですから組合としては看過できない問題でした。
そこで、国労は、『経営改善計画』は早くも破たんしているといわなければならない。にもかかわらず国鉄は35万人の要員規模にするという計画を強行しようとしており、収支改善のみを追求し、国鉄の公共性を放棄するものと言わざるを得ない。」
という抗議声明を発しています。
国労としてはこのダイヤ改正に反対することとして、11月16日に今回のダイヤ改正について具体的な要求を提出するとともに、12月14・15日の第133回中央委員会(国労会館)でも、この57・11ダイヤ改正に対する闘いは「国民の国鉄づくりを目指すたたかいと、国鉄労働者の労働条件を維持・改善する取り組みとを結合した闘い」として位置づけ事前協議に入ったとされています。
ただ、この交渉はなかなか進まなかったと言われていますが、国労は、当局側は「不当労働行為にならない程度で団体交渉に応じる」態度であり、従来のダイヤ改正問題では「確認事項」として問題の整理がなされてきたのに、ここにいたって当局は公労法8条(団交から管理運営事項を除外)をもち出して「覚書」扱いを主張したと主張しているのですが、・・・・

第八条 公共企業体の管理及び運営に関する事項は、団体交渉の対象とすることができない。

2 第四条の規定により組合に加入できない者以外の職員に関する左に掲げる事項は、団体交渉の対象とし、これに関し労働協約を締結することを妨げない。

 一 賃金、労働時間及び労働条件

 二 就業規則

 三 時間外割増賃金

 四 休日及び休暇

 五 懲戒規則並びに昇職、降職、転職、免職、休停職及び先任権の基準に関する規則

 六 苦情処理機関

 七 安全

 八 労働協約の終期、更新及び延長

本来、鉄道のダイヤ改正に関することは労働条件の変更に関する部分があるとはいえ、列車の増発削減等は、経営専管事項であり団体交渉に載せるべきものではないのです。
これは、郵政省でもそうでしたが、事業運営の事項に関しては管理運営事項として厳密に区分されていましたので、経営の根幹にかかわる部分まで組合に確認させていたのは正直不可解というのが個人的な見解です。
実際に、昭和50年7月には7月1日に予定されていたダイヤ改正が、組合との交渉遅れで7月18日に延期される事態となりました。
北海道内ダイヤ改正 7/18
本来7月1日に予定されていた北海道内のダイヤ改正が17日遅れで実施され〈いしかり〉登場

特急〈いしかり〉が札幌~旭川間にデビュー。7往復、エル特急に 写真は、高架前の札幌駅ホームに停車中のライラック(いしかり)をライラックに改称
 
 
 
そこで、国労は「国労との団体交渉の形骸化をねらう当局」に対して全国的な統一闘争を背景にねばり強く事前折衝をつづけながら団交を要求するともに、本社座り込み抗議行動などを実施した。しかし、国労の要求は、一歩も前進せず、協定化は難航をきわめた。 
これは、当時の太田知行職員局長が人事のトップに立ったことが大きかったと思われます。
少なくとも、個人的な見解では、本来のダイヤ改正にかかる項目などを、管理運営事項に戻した功績は大きいと言えましょう。
参考 幣サイトの宣伝で恐縮ですが

whitecat-kat.hatenablog.com

しかし、既に何度か書きましたが、動労はスト権ストの失敗以降、方向転換の道を探っていたようであり、実際に昭和55年の改正以降も減り続ける貨物輸送に不安を感じていたと思われるのです、11月10日には、最大労組である国労より先に、動労・鉄労・全施労は当局との間で「57.11ダイヤ改正の実施に伴う労働条件に関する協定」を妥結したのとされています。
本来は組合間で定めたコミュニティルールで、多数派と交渉して妥結してから他の組合とも妥結するのが今までの流れであっただけに、国労としてみれば想定外の出来事であったと思われます。

更に、その内容はその後の労使協調宣言を彷彿させるような内容であり、国労との温度差を感じさせるものでした。

57.11ダイヤ改正にあたっては、国鉄のおかれた状況を認識し、これまでの事前協議、団体交渉の経緯を尊重し、労使の信頼関係に立脚し、協定・協約等を遵守して、円満な実施をはかるものとする」と謳われていた。

ということであり、国労との温度差を感じさせるものでした。

 

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
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 57.11ダイヤ改正交渉と鉄労・動労・全施労の先行妥結

 1981年10月27日に当局が発表した五七・一一ダイヤ改正は、35万人体制を目指す「経営改善計画に基づく初めてのダイヤ改正であった。その概要は、
 ① 旅客輸送については、東北・上越線新幹線開業を機会に在来線旅客関係で約2万5000キロの削減を図る。
 ② 貨物輸送関係については、輸送力と輸送量の大幅な乖離を解消するために地域間直行貨物輸送体制をめざし、貨物取扱駅251駅の削減(800駅体制)、ヤード41の削減による再編(100ヤード体制)、貨車1万3000両の削減、貨物関係約4万キロの削減をはかる。
 ③ これらにともなう作業体制・勤務体制の見直し、動力車・列車乗務員の運用効率化をはかる。

 という内容であった。
 この提案に対し国労動労は、「『経営改善計画』は早くも破たんしているといわなければならない。にもかかわらず国鉄は35万人の要員規模にするという計画を強行しようとしているが、今回のダイヤ改正提案もその一環であり収支改善のみを追求し、国鉄の公共性を放棄するものと言わざるを得ない。」との抗議声明を発表した。国労は、11月16日に今回のダイヤ改正について具体的な要求を提出し、12月14・15日の第133回中央委員会(国労会館)でも、この57・11ダイヤ改正に対する闘いは「国民の国鉄づくりを目指すたたかいと、国鉄労働者の労働条件を維持・改善する取り組みとを結合したたたかい」として位置づけ事前協議に入った。
 1982年に入ってダイヤ改正をめぐる交渉は本格化し、12月末のは労使間で一定の確認と整理が行われた。しかし、この時期は前述のように、自民党三塚委員会の「提言」(4月16日)、国鉄当局の「職場規律総点検報告」(4月23日)、臨調第4部会報告(5月17日)、ブルートレイン乗務旅費返還訴訟の提起(7月15日)、現場協議協約改定案提起(7月9日)、臨調基本答申(7月20日)などもあって、労使交渉がスムーズにはすすまなかった。当局側は「不当労働行為にならない程度で団体交渉に応じる」態度であり、従来のダイヤ改正問題では「確認事項」として問題の整理がなされてきたのに、ここにいたって当局は公労法8条(団交から管理運営事項を除外)をもち出して「覚書」扱いを主張した・国労は、国労攻撃のキャンペーンが猛威を振るっているなかで、国労との団体交渉の形骸化をねらう当局に対して全国的な統一闘争を背景にねばり強く事前折衝をつづけながら団交を要求するともに、本社座り込み抗議行動などを実施した。しかし、国労の要求は、一歩も前進せず、協定化は難航をきわめた。
 この事態を受けて国労は、10月15日以降は職場における26協定の破棄、非協力闘争に入り、10月末から11月初めにかけて一週間にわたる本社前抗議行動を展開した。
11月6日になって当局は「団交再開」を申し入れてきたが、国労は10日、全国委員長会議を開いて
 ① 14日までに決着し24日までに全国統一解決を目指す。
 ② 14日までに解決しない場合は15日始業時から全国拠点統一時限ストを実施する、との方針を固めた。
 ところが、この日(10日)、この57.11ダイヤ改正問題交渉でその後顕在化する特徴的な出来事があった。動労・鉄労・全施労は当局との間で「57.11ダイヤ改正の実施に伴う労働条件に関する協定」を多数組合の国労をだしぬいて妥結したのである。そこでは、「57.11ダイヤ改正にあたっては、国鉄のおかれた状況を認識し、これまでの事前協議、団体交渉の経緯を尊重し、労使の信頼関係に立脚し、協定・協約等を遵守して、円満な実施をはかるものとする」と謳われていた。
                                      
続く

国鉄労働組合史詳細解説 74

皆様こんにちは、久々に更新させていただきます。本日は、昭和58年度の運輸白書を参照しながら、お話を綴らせて頂こうと思います。

 

減少する旅客及び貨物輸送

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運輸省 昭和58年度運輸白書から引用

上記の図を見ていただくとよくわかるのですが、国鉄の旅客輸送は昭和50年頃までは右肩上がりで増加しており、昭和51年から輸送キロは緩やかに増加しつつも旅客数が減り続けました。

昭和25年当時と比べると1/10シェアとなった貨物輸送

貨物についてはもっと顕著で、昭和45年をピークに減り続け、昭和50年には車扱い貨物に関しては昭和30年代よりも減少してしまっており、そのシェアは昭和25年の30%からわずか0.3%と1/10にまで減少してしまいました。

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特に車扱い貨物が嫌われた原因としては、ヤードでの入替作業が大きかったと言われています。

到着した貨物を改めて方向別に仕分けして新たな貨物列車を組成するのですが、平均して8時間程度足止めを受ける。
更に、連絡させるべき貨物列車に牽引定数の予備が無いと次の貨物列車に回されるので、更に到着が遅くなる。
当然のことながら、何時到着するかわからないという問題が生じてきます。
さらに、貨物列車の場合積み荷を積み替える必要があり、こちらもその多くが人力作業で行われていました。
そのような理由から、高速道路が開通した昭和40年以降は幹線であっても貨物輸送は大きく落ち込み、かってはヤードでは滞留貨車で向こうが見えないと言われた吹田操車場でも隙間が見えるようになって来たりしたと言われています。

値上げと旅客離れという悪循環

国鉄としては、昭和51年以降は利払いなどの利息の支払いも増えて値上げをせざるを得ず、値上げすると当然のことながらある一定数の顧客離れを起こしてしまう。

こうした悪循環に陥ってしまいました。

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昭和56年以降は、運賃値上げが恒例行事となってしまいました。
昭和57年にはわずか6年で初乗り運賃が倍の120円となっており、国鉄としても人員合理化を行うとともに列車キロを削減する縮小再生産に入らざるを得なかったことが何となく理解できると思います。

この時期に国労から出された、緊急基本要求

その辺が、国労が書いているような、国鉄当局の合理化攻撃であったというのですが、現状の輸送量などを考えるとやむを得なかったのではないかと思ってしまいます。

”第二臨調”行革路線が目指す国鉄のさらなる”減量経営”化を企画したもので、その後の数次のダイヤ改正を経て、人員削減から「余剰人員」創出へと連なる大きなステップであった。

 そんな中で、国労は下記のような緊急基本要求を8月26日付で当局に対して求めています。
当時は、国労労働組合の筆頭であり、当局としても国労の意見を無下には否定できないのでした、その内容を見ていきますと下記のようになっていました。

 (1)国鉄の分割・民営化に反対し、現行経営形態を維持すること。
 (2)「現協」協約改定案にあたっての「一夏20日までまとまらなければ再締結しないという態度を?空白(おそらく撤回)すること。
 (3)乗車券、割引証は長い歴史を持つ雇用条件・労働条件であり現行の諸条件を守ること。
 (4)兼職議員の諸条件は憲法の精神に則った職権である。従って現行の諸条件を守ること。
 (5)現場労使間の諸問題の解決に当たって現場労使間で十分協議し、意見の一致を期すこと。
 (6)運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。
 (7)不要不急の設備投資を抑制し、サービス向上、安全輸送の確保、都市通学・通勤輸送の充実を図るための投資
 (8)東北・上越新幹線の開業に伴う赤字は政府の責任とすること。
 (9)年金一元化の実態とそれにともなう国鉄共済の既得権を最大限維持し、国鉄職員の将来に対する不安を解消すること。

 

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何れも、(3)~(6)及び(9)は、既得権益であるからそのまま残せということになっているのですが、現状の車両キロの減少などを考えると正直不安を感じてしまうものです。
また、(6)運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。につきましては、一見何となく国民の方向を向いているように見えますが、実際にはこうした福祉・文教政策への割引が国鉄経営の大きな赤字を生む元凶であることを国労が知らないはずはなく、40年代には国労自体が、貨物運賃のうち「石炭・石油と言った車扱い輸送はおよそ収支相償う運賃を収受せず政策的に安く抑えており、資本家階級を利するものだと激しく反対」しているわけで、この(6)はいわば国労のポーズではないかと推測しています。

参考

plaza.rakuten.co.jp

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**********************以下は、国労の資料になります。****************************

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 三 臨調=行革路線に基づく国労攻撃との闘い│
└───────────────────────┘

 1981年10月に一方、1982年に入ってからマスコミによる「国鉄問題:ないしは反国労キャンペ提起された57.11ダイヤ改正問題は、”第二臨調”行革路線が目指す国鉄のさらなる”減量経営”化を企画したもので、その後の数次のダイヤ改正を経て、人員削減から「余剰人員」創出へと連なる大きなステップであった。そして82年5月17日の第二臨調第四部会報告及び7月30日の臨調基本答申(第3次答申)に盛られた「緊急11項目」時はこの年の夏頃から具体的に職場にあらわれ始めた。8月26日付の国労の「緊急基本要求」(前述)は、それに対応する要求でもあった。
 すでに7月15日、ブルートレイン検査掛に支払われていた乗務旅費がいわゆる「ヤミ手当」だとして国鉄当局は国労動労組合員155人に対し返済請求の訴訟を提起し、同月19日の団体交渉で当局は「現場協議に関する協約」の改定案を提示し協約期限の11月30日までにまとまらなければこの協約を破棄すると通告していた。9月になると兼職議員の禁止、10月には無料乗車証の廃止などが提案された。これらは、長年の職場慣行の破棄もともないながら職場における国労潰し包囲網の展開に他ならなかった。
                                     
続く

国鉄労働組合史詳細解説 73

みなさま、おはようございます。

 

今回は、国労の労働運動史を底本とせず、昭和57年当時の国鉄当局の動きを大原社会問題研究所の労働年鑑を参照しながら私なりに解説を加えさせていただこうと思います。

はじめに

昭和56年末のブルトレ闇手当問題に端を発するマスコミによる告発キャンペーン、更には、翌年3月の名古屋駅における特急紀伊衝突事件は、機関士が酒に酔って運転していたこともあり、世間から非難を浴びることとなりました。

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そうした、流れの中で出てきた国鉄の抜本的改革を含む臨調答申は、大きく注目されることとなりました。

さらに、こうした背景を受けて国鉄当局も、従前の労使関係、どちらかと言えば融和政策から、対決政策に大幅に舵を切ったと言えます。

それまではどちらかと言うと、現場労働者にしてみれば泡沫の夢から覚めたような、現場管理者にしてみれば悪夢から覚めたような感じだったのではないでしょうか。

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現場協議制の廃止などを実施

現場協議制は、公労委仲裁委員会の勧告(一九六七年一二月)に基づき、一九六八年三月から、職場段階(車掌区・機関区・駅等)における交渉がおこなわれてきました。

これは、現業を抱える職場では現場の問題は現場で解決すべきであるということで、国労が提起し、地方調停委員会での調停作業を経て労使が受諾した結果、締結されたものでした。

 「当該現場の労働条件に関する事項であって、当該現場でなければ解決し難いもの及び当該現場で協議することが適当なものについて協議する」ことを定めたこの協約でしたが、組合とすれば、現場当局の交渉のためのきわめて重要なものであり、組合側からすれば、現場交渉を通じて職場における新たな労使慣行を形成していく格好の場であったわけです。

言ってみれば、職場管理の状況を呈していたわけで、管理職の吊し上げ等も行われ、物言わぬ管理者の誕生や管理者不適な者を管理者にせざるを得ないと言った状況も発生していました。(組合が適職者に対して助役試験を受けさせなかったためと言われています、この手法は郵政でも全逓が行っていました。)その「現場協議制を本来の趣旨にのっとった制度にあらためる」と第二臨調が提言したことを受けて、国鉄当局は一九八二年七月一九日、国労動労など関係組合に協約の改訂を申し入れました。制度の目的を変更する旨を通告し、従来の労働協約は一九八三年一一月三〇日をもって期間満了としその後再締結しないことを明確に通告しました。

  1. 業務の正常なる運営
  2. 正常で平和的な労使関係の維持
  3. 国鉄業務の公共性、特殊性に鑑み、現業機関における労働条件に関して生じた団体的紛争の迅速かつ実情に即した処理、としており、また「協議」は「審議」に変わり、対象事項や回数を限定する

当初は反対の意を示した各組合でしたが、動労、鉄労、全施労はその提案を最終的には受入れましたが、国労・全動労は反対を貫くことになりました。

改定案を受入れた動労、鉄労、全施労、反対した国労・全動労

 この最初のボタンのかけ間違いとでもいいますか、つまずきがその後大きく流れを変えていくことになるのですが、ここでは動労が、今回の改訂方針を受入れたことは注目されます。

これは、1982年のダイヤ改正で、貨物を中心に大幅なダイヤ減量で多くの機関車などが余剰になったことも関係していました。
列車キロが減るということは同時に乗務員の減少を意味するわけですから、乗務員のみで構成されている動労にしてみれば、死活問題で有ったわけで。

多少の不満はあっても、当局に従うべきであると考えたと思われます。

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組合活動の抑制を行ってきた当局

  臨調の基本答申では「違法行為に対しての厳正な処分、昇給昇格管理の厳正な運用、職務専念義務の徹底等人事管理の強化を図る」と提言されており、

これに基づき、当局は、それまではある程度容認してきた、リボン・ワッペン着用にたいしても訓告などの処分を行うようになってきました。

ビラ貼り・立て看板・横断幕の一方的撤去等々組合活動にかかわる権利にたいする介入・干渉が各地で起こったと言われています。

また、時間内入浴などの処分も行われており、職場確立のための緊急アンケートも行われています。

(バッチについては、国鉄時代は処分の対象にしなかったよう見受けられますが、JR東海発足後は組合バッチを付けていた社員に対して処分が発令されています。余談ですが、それ以降国労では、国労バッチの代わりに国労ボールペン(国労のマークがクリップ付近についたもの)や国労ネクタイ(ネクタイのタイの部分が国労のマーク入り)で対抗すると言ったことが行われました。)

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ちなみに、郵政省の場合は、協約でバッチに関しては容認だったようで、全郵政・全逓ともバッチはしていました。

また、俗にいうブルトレ闇手当問題に関しても、動労が組合として立て替える形で返納すると表明したことに対し、国労および全動労の組合員は長年の慣行による職務手当であり返還する義務はないと返納を拒否、その後国鉄当局が返還を求めて提訴する事態となっています。

また、国鉄には地方議員との兼職に関しましては、私もこれからさらに調べていく必要があるのですが、興味深いものを見つけました。

それは、国鉄職員はかっては町村長議員のみ認められていたが、市会議員は認められていないということで、これを改正しようという動きが有ったそうです。

少し長いですが、当時の国会審議録から抜粋させていただきます。

昭和二十九年十二月六日(月曜日)第020回国会 運輸委員会 第2号

 ○委員長(高木正夫君) 速記を初めて。
 それでは国有鉄道法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 先ず発議者大和与一君から提案理由の説明を願います。
○大和与一君 只今議題となりました日本国有鉄道法の一部を改正する法律案につき、提案者を代表いたしまして提案理由を簡単に御説明申上げます。
 現行日本本国有鉄道法におきましては、国有鉄道の職員は、地方公共団体の議会の議員(町村を除く)を兼ねることが禁止されているのでありますが、かかる措置は実情に副い得ないものがあり、且つ憲法によつて保障された公民権である被選挙権を不当に制限している虞れがあると考えられるのであります。
 即ち第一に、国有鉄道職員の居住状況を見ますると、全国を一貫する厖大なる輸送業務に携おつている関係から、分岐駅、繰車場、工場或いは一定距離間に所在する組成駅等においては、その構内に幾多の業務機関が設置され、当該市町村における職員居住の割合は他に比して極めて大であり、所によつては職員数がその大半を占める個所さえあるのであります。
 かかる個所において、市なるが故に国有鉄道の職員が、全く地方自治に参与することができないということは、地方自治の本旨に反するものといわなければなりません。ちなみに国鉄職員で現在市議会の議員を兼職している著は全国七十七名の多数に上つているのであります。
 なお、最近政府が慫慂している町村の合併が促進されるならばますますその数は増加することが予想されます。
 第二に、国有鉄道の職員が地方議員を兼職した場合業務に及ぼす影響が大であるかのごとく考えられるのでありますが、単に職員ばかりでなく、市議会の議員としてその職務に専従している人は極めて少く、他に勤務を持ち、或いは家事のかたわらその責務を果しているのが通例であろうと思われます。勿論、職員は直接又は間接に旅客、貨物の輸送に従事する重責を担つております。併しながら市町村の行政区域は比校的狭く且つ、交通機関の発達いたしております現状におきましては、何ら業務に支障なく議員たるの責務を果しつつあることは既往の実績が雄弁にこれを物語つているところであります。
 第三に、同じ公共企業体の職員である專売公社の職員には議員兼職に対する何らの制限規定もなく、電信電話公社職員は市議会の議員まで兼職が認められている現在、国鉄職員なるが故に、町村議会の議員のみにとめておくことは、過去の政治的慣習を無視するものであるばかりでなく、一貫性のない極めて不均衡な取扱いであるといわなくてはかりません。かかる問題は法律によつて抑制すべき事柄ではなく、有権者の自由にして民主的な判断に待つべきものであると思考いたします。
 以上の諸点より、国鉄職員に対する職員兼職の制限規定は本法律より削除すべきが当然ではありますが、本問題の今日までの経緯に鑑み、少くとも市議会までは兼職を認むべきが妥当と考え、右のごとく提案いたした次第であります。
 何とぞ慎重御審議の上、速かに可決あらんことをお願いいたします。

上記で審議された議事録の内容ですが、当時は国鉄の職員が積極的に町村議員などをすることは否定されていなかったむしろ、奨励されていたように見受けられます。

なお、兼職議員は、電電公社や、日本専売公社にもありましたが、町村議員に限ると言った制限はなく、市会議員などになっている職員もいるということで国鉄だけが問題視するのはおかしいとして指摘されています。
最終的には国鉄法が改正されて、昭和30年1月には、それに伴う部内規程等も改正され、国鉄にしてみれば地方議員の兼職はごく一般的なことであったようです。

そうした兼職議員にもメスが入ることとなりました。

それまでは、当選後総裁の承認を経て兼職が可能であったのが廃止されました、この件に関して、町議会議員に立候補し当選した国鉄職員が公選法の規定を根拠に失職したものとされたことに対し地位確認の訴えをした事例として、下記に判例が載っていますが。
国鉄の状況を考えれば、当選後失職はやむを得ないものであるとせざるを得ないという判決になっています。

労働基準判例検索-全情報

 活動家に対する免職処分を発令

 この時期は、職場での活動家にたいする免職処分が連続したようで、下記のように多くの組合役員が免職処分を受けています。

  • 甲府駅(分会組織部長、一九八二・八・一五)
  • 帯広駅(分会員二人、一九八二・一二・一三)
  • 福島駅(分会青年部書記長、一九八二・一二・二三)
  • 直方貨車区・気動車区(支部書記長と執行委員、一九八二・一二・二七)
  • 喜多方駅(分会員、一九八二・四・二五)
  • 松山電気支区(支部書記長、一九八三・五・三一)

このように、昭和57年(1982年)以降の国鉄は、労務管理に関しても大きく舵を切ることとなりその根拠として、第二臨調答申を根拠として進めてきたところが有り、それにより国鉄は長い低迷期を経て積極的に旅客サービスなどへと踏み出していくこととなります。
ちょうど、フルムーン旅行などの発売などがまさにこれ以降と重なるように感じます。
次回は、再び国労の資料に基づき解説を加えさせていただきます。

 

国鉄労働組合史詳細解説 72

高木総裁とはどんな人だったのか?

皆様こんばんは、本日も少しだけ更新させていただきます。

今回は最初に高木総裁のことを少しだけ書かせていただこうと思います。高木総裁は、藤井松太郎総裁が、国鉄当局の見解として「条件付き付与」を示唆するなどしたことが、当時の政府自民党に弱腰であると言われて、辞任した後を受ける形で総裁に就任したもので、元大蔵省の事務次官としてのキャリアがあり、最初は本人も固辞していたそうですが、三木首相から要請を委任されて受けたとされています。なお、就任に際しては、「スト権の問題には一切触れるな。今は時期が悪いから」と囁かれたそうです。
私の履歴書 高木文雄 日経新聞平成6年3月より引用させていただきますと

藤井氏が辞めざるを得なぐなった経緯を考えても、政治色の強い問題だから自民党が挙げて応援してくれなければとても仕事はやれない。いくら福田氏と大平氏が賛成されても、運輸に詳しい国会議員に敬遠されたら何も出来ない。私の心配を聞いた三木首相は、井出一太郎官房長官海部俊樹官房副長官を呼んで支援が得られるよう指示した。海部氏が加藤六月氏ら数人の代議士に電話してバックアップを取り付け、結局私が引き受けることになってしまった。木村睦男運輸大臣も立ち会われて、「運輸省の諸君も全面応援する」と付け加えられた。

中略

51年2月5日に首相官邸で辞令をいただいた。その時、三木首相は私の耳元で
「スト権の問題には一切触れるな。今は時期が悪いから」とささやいた。
国鉄総裁室で藤井総裁から引き継ぎを受けた。藤井氏は
「私は一切意見の申し継ぎをいたしません。私の不始末であなたに迷惑をかけてしまった。ご自由にやってください」と言われた。
トンネル掘削の土木技師だが、国鉄に深い愛着をもつ古武士のような立派な人だった。いずれにせよ、また宮仕えに後戻りだ。

参考

高木文雄 第8代国鉄総裁

 

労働運動にはあえて触れず、営業中心に改革を進めた人物

ということで、国鉄総裁として労働運動に関しては触れずだったのですが、それでも2期(2期目は途中退任)勤めるなど国鉄総裁としての任期は、十河信二総裁に次いで2番目と言われています。
高木総裁の功罪としては、労働運動に関しては労使対決は避けて下記のように臨調答申に対しても、むしろ臨調を批判する立場の発言をしてきた傾向がありました。結果的にそれが2期目において、任期半ばで退任せざるを得なくなる結果を生むことになるのですが、それは少し先の話。

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組合問題に関しては触れなかったものの、国鉄の運賃50%値上げ(結果的には更なる国鉄離れを招き失敗でありましたが)や地方交通線問題の問題(特定地方交通線と幹線を分離、運賃の地域別運賃導入など)や、大阪梅田駅ビルを皮切りに全国に駅ビルを積極的に建設したことや、山口線のSL復活、フルムーン切符の発売など、今までの国鉄では発想では出てこなかった制度などを作ったと言えます。

(フルムーンは動労の提案

もっとも、フルムーンパスの導入は、動労の提案だと、「鬼の動労」の緊急提言、市民出版社、一九八四ねb11月9日発行で書かれています。以下に引用したいと思います。

 上原謙高峰三枝子さんのアベック写真の広告で売れているブルームーン切符だって、元をただせば動労要求から始まったのである。
 八〇年(昭50)の十月ダイヤ改正から、新幹線東京~博多聞に昼間寝台車を走らせろ!・ 新幹線に展望車を.グリーン車を老人、子供に開放せよ、から、修学旅行列直に看護婦(現在では看護師)を乗務させろとか、マイカー輸送車を特急に連結して同時愉送せよとかの要求と一緒に「新婚旅行者に特別割引制度と永年周期割引制度の確立」要求がこれである。

引用ここまで

 


1982年CM 国鉄 フルムーン 高峰三枝子 上原謙

 


再び私の履歴書 高木文雄 日経新聞平成6年3月より引用させていただきますと

私は国鉄の赤字を埋めるためには、レール以外の仕事も積極的に手掛け、地の利を生かした関連事業を展開してはどうかと考えていた。小林一三翁は宝塚歌劇場を造って、阪急電鉄の旅客収入の増加を図った。五島慶太老は東急目蒲線敷設と田園調布の都市開発を結び付けて、事業成功の神様とあがめられた。

多角経営は私の持論である。大阪梅田を皮切りにステーションビルをあちこちに展開した。「民業圧迫だ」と批判を受けたこともあったが、「皆さんの方が官業圧迫だ」と突っぱねた。新幹線の車内に大型パネル広告を出した。神戸ポートピア博覧会入場券と新幹線切符のセット販売、フルムーンの割引旅行、山口線でのSL走行などの企画も皆で考えた。

ちょっとした工夫でも、少しずつ経営に貢献できる。運転士はただ安全に運転するだけではだめだ、施設係は保線に専心するだけでは駄目だ、という風潮を広げていくのに気を配った。これらは、今日のJRに引き継がれたと考えている。東京駅で最近、「駅コン」と呼ぶコンサートを開いている。
私の時代には提案しても出来なかったことが実現した。お客さんとの触れ合いに目を向けるようになったJRの最近の姿勢を見ると感無量だ。人は忘れやすいが、当時の国鉄はそれほどお役所的だった。

しかし、先にも少し書きましたが。

上記のような素晴らしき実績はあったものの、臨調に対してはやや批判的で、下記のように国労からの質問に対して。

ブルトレ問題のように交渉で解決できない問題もあるが、労使関係を土台にして話しあっていく基本姿勢に変わりなく、意見交換の出来る場は増やしたい」「臨調はスジを書いただけでスジ道は再建監理委員会がつくることになる。
 民営化すればうまくいくというものではない。誤りのない判断をしてもらうため監査委員会に積極的に参加したい」「経営改善計画は輸送量の落ち込みから相当な手直しが必要だ」「緊急一一項目でいう新規採用抑制は、輸送の現実からやらざるを得ない。給与については昇給、賞与を含め、今日までの制度・慣行を守りつづけたい」などと述べた。
 ついで8月26日、国労は先の全国大会の決定方針に基づいてまとめた。「緊急基本要求を当局に申し入れた。それは、① 基本要求、勤務問題、労働衛生、外注問題、⑥賃金問題など35項目に及んでいたが、それらのうち「基本要求」は次のようになっていた。

 国鉄の分割・民営化に反対し、現行経営形態を維持すること。
 「現協」協約改定案にあたっての「一夏20日までまとまらなければ再締結しないという態度を すること。
 乗車券、割引証は長い歴史を持つ雇用条件・労働条件であり現行の諸条件を守ること。
 兼職議員の諸条件は憲法の精神に則った職権である。従って現行の諸条件を守ること。
 現場労使間の諸問題の解決に当たって現場労使間で十分協議し、意見の一致を期すこと。
 運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。
 不要不急の設備投資を抑制し、サービス向上、安全輸送の確保、都市通学・通勤輸送の充実を図るための投資
 東北・上越新幹線の開業に伴う赤字は政府の責任とすること。
 年金一元化の実態とそれにともなう国鉄共済の既得権を最大限維持し、国鉄職員の将来に対する不安を解消すること。

*********************以下は、国労の資料になります。**************************


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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い│
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 続き
 
 国労本部は、この大会で臨調の行革路線と対決して闘うために中央闘争委員会の設置を決め発足させたが、8月18日、本部三役と戦術委員が高木文雄総裁らと交渉を持ち、臨調答申の内容について説明を受けるとともに、当局の考え方を明らかにさせた。
 すなわち、交渉の冒頭で国労本部委員長は、「先の交渉の際にも総裁の見解をただしたが、この間の労使間、職場の緊張状態は解消されておらず、この現状認識について総裁の見解を示すべきだ。
また臨調答申が出されたが、これをどう国鉄当局として受け止めているのかを明らかにすべきではないか」などと質した。
 これに対して高木総裁は、「ブルトレ問題のように交渉で解決できない問題もあるが、労使関係を土台にして話しあっていく基本姿勢に変わりなく、意見交換の出来る場は増やしたい」「臨調はスジを書いただけでスジ道は再建監理委員会がつくることになる。
 民営化すればうまくいくというものではない。誤りのない判断をしてもらうため監査委員会に積極的に参加したい」「経営改善計画は輸送量の落ち込みから相当な手直しが必要だ」「緊急一一項目でいう新規採用抑制は、輸送の現実からやらざるを得ない。給与については昇給、賞与を含め、今日までの制度・慣行を守りつづけたい」などと述べた。
 ついで8月26日、国労は先の全国大会の決定方針に基づいてまとめた。「緊急基本要求を当局に申し入れた。それは、① 基本要求、勤務問題、労働衛生、外注問題、⑥賃金問題など35項目に及んでいたが、それらのうち「基本要求」は次のようになっていた。
 (1)国鉄の分割・民営化に反対し、現行経営形態を維持すること。
 (2)「現協」協約改定案にあたっての「一夏20日までまとまらなければ再締結しないという態度を すること。
 (3)乗車券、割引証は長い歴史を持つ雇用条件・労働条件であり現行の諸条件を守ること。
 (4)兼職議員の諸条件は憲法の精神に則った職権である。従って現行の諸条件を守ること。
 (5)現場労使間の諸問題の解決に当たって現場労使間で十分協議し、意見の一致を期すこと。
 (6)運賃値上げをやめ、通学・通勤割引率を引き上げること。
 (7)不要不急の設備投資を抑制し、サービス向上、安全輸送の確保、都市通学・通勤輸送の充実を図るための投資
 (8)東北・上越新幹線の開業に伴う赤字は政府の責任とすること。
 (9)年金一元化の実態とそれにともなう国鉄共済の既得権を最大限維持し、国鉄職員の将来に対する不安を解消すること。

 国労は、これらの緊急基本要求をかかげて10月27日~29日と11月1日~12日の2波にわたり、国鉄本社前で反動労務政策に反対する抗議集会、座り込みなどを連続して行なった。さらに、3月16日には「国鉄監理委設置法」案反対、仲裁の即時完全実施などを要求して、全地本の地区部拠点でストライキ、職場集会大衆行動などを実施した。

ただきますと

 

国鉄労働組合史詳細解説 71

臨調答申と国労

 昭和57年7月30日、国労は第44回定期全国大会(東京日比谷公会堂)を開催しており、国鉄の「分割・民営化」を盛り込んだ第二臨調第三次答申(基本答申)が出された日でもありました、基本答申は、下記の11項目からなっていました。

  1. 職場規律の確立を図るため、労働実態のともなわない手当、ヤミ専従、管理職の下位職代務等)は全面的に是正し、現場協議制度自体も改める。
  2. 新規採用を原則として停止する。配置転換を促進し、各現場の要員数を徹底的に合理化する。
  3. 設備投資は、原則として停止。整備新幹線計面は、当面見合わせる。
  4. 貨物営業は、拠点間直行輸送を中心とし、業務のあり方を抜本的に再検討する。
  5. 地方交通線の整理を促進する。また、上記以外の特定地方交通線を含む地方交通線についても、私鉄への譲渡、第3セクター化、民営化等を積極的に行う。
  6. 分割会社との間係を配慮しつつ、自動車、工場および病院の分割等を推進する。
  7. 永年勤続乗車証、精勤乗車証および家族割引乗車証を廃止する。他の交通機関との間に行われている相互無料乗車の慣行を是正する。
  8. 期末手当、業務手当等の抑制について検討する。
  9. 国鉄運賃については、安易な運賃改定は行わない。なお、通学定期割引等の運賃の公共負担については、国として所要の措置を講ずる。
  10. 兼職議員については、今後、認めない。
  11. 資産処分の一層の促進を図る、関連事業についても積極的な増収に努める。

詳細は、

幣ページ 国鉄があった時代  昭和57年7月「新形態移行までの間緊急にとるべき措置」をご参照ください。

といった、大胆な提言であり、「現場協議制度」や「兼職議員」については、国労が労働運動の権利として得た部分が大きかったため、こうした部分にまでメスが入ったことに対して大きく反発することになりました。

現場協議制とは?

その辺を国労の資料から参照しますと、下記のように断固反対すると発言しています。

国労の全国大会の討議の中でも、臨調路線との対決姿勢が強調され、本部答弁でも、書記長は「大会の総意は臨調答申の国鉄分割・民営と緊急11項目の攻撃に断固反対し、総反撃に立ち上がる体制固めを確認した。と集約答弁を行った。

国鉄当局の中でも、政府の分割方針に反対する勢力もありましたが、国鉄当局全体の流れは、政府の答申に沿ったものとなり、実際に現場協議制について改革が進められることとなりました。

現場協議制の歴史を簡単に振り返ってみますと、

現場協議制度は、昭和42年12月19日 公労委による。
「現場における団体交渉及び労働協約締結に関する紛争仲裁委員会の勧告」に基づいて生まれた制度でとして遡ることが出来ます。
元々、現場での細かい点は本社組合間で行われてきたが、それを現場レベルでも行えるようにとのことで、国労並びに新国労(後の鉄労)から仲裁(国労)並びに調停(鉄労)から出されていたことが、この勧告案を出した背景にあります。
昭和43年4月に『現場協議に関する協約』を国労と締結、鉄労(当時は新国労)とは、別個の調停案に基づき、昭和43年5月に「職場委員会の設置に関する協約」を締結、さらに動労とは昭和45年3月「現場協議に関する協約」を締結したとあります。

現場協議制は、現場は輪送叢務の第一線であり,現場での紛争を迅速かつ実情に即した形で解決をはかることを目的として設けられたものでしたが、10年を経た昭和50年頃には制度自体が形骸化してしまい、実態に合わない事態となっていました。
結果的にヤミ慣行を増長させる結果などになっていました。

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 昭和40年代から指摘されていた悪慣行

その結果、団体交渉が本来業務のようになってしまって本来の業務が出来なかったり、誹謗中傷のための場になってしまったり、現場長の権限外事項が協議される等の状況が発生してしまったという報告がなされていました。

こうした事態は、40年代後半以降において「職鳩闘争の場として悪用されている。」、「反抗的,非協力的な態度が目立つ。」、「多数の説明員,傍聴者が入り,正常な協議ができない。」と言った問題が指摘されていましたが、それに対する改善が出来ていないという状況が続いていました。

現場協議制の見直し当局が宣言

  臨調基本答申では、「現場協議制度は本来の趣旨にのっとった制度にあらためる」と提言しており、これに基づき、当局は昭和57(1982)年7月19日、国労動労など関係組合に協約改訂を申し入れしました。実質的には、現行の現場協議制を廃止するモノであり、改定案は下記の通りでした。

  • 従来の現場協議を改め、現場協議委員会を設置する
  • 制度の目的を、(1)業務の正常なる運営、(2)正常で平和的な労使関係の維持、(3)国鉄業務の公共性、特殊性に鑑み、現業機関における労働条件に関して生じた団体的紛争の迅速かつ実情に即した処理
  • 「協議」は「審議」に変わり、対象事項や回数を限定する

ということで、従来の現場協議制とは大きくその性格を異ならせるものであり、上記の11項目の提言と相まって、国労としては当然のことながら容認できないものでした。

また、当局は昭和58(1983)年11月30日をもって期間満了となる従来の「現場協議に関する協約」を再締結する考えがないことを表明したわけで、実質的に「現場協議制」の終わりを告げていました。

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改定案現場協議 国鉄線 昭和57年11月号から引用

 

現場協議制改定を受入れた鉄労・動労と拒否した国労

国労は、積極的に当局と団体交渉を重ねるとともに公労委の調停にも持ちこみましたが、当局はその方針は変更せず、国労は昭和58(1983)年12月1日以降無協約状態となりました(全動労も同様)。一方、動労、鉄労、全施労は同年11月30日に当局の改定案を大筋で受入れて解決。

この頃から、元総評として同じ道を歩んでいた国労動労が少しづつその距離を開けていくこととなったことが伺えます。

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国労は国民の国鉄を目指すとして当局に反発

 

国労は、政府が国鉄改革のためと称して、緊急11項目を国鉄労働者と勤労国民に押しつけることを明らかにしたと反発して、当局に対して対決姿勢を強めることとなりました。

内容は、下記の「闘争宣言」のところを参照ください。

 

**********************以下は、国労の資料になります。****************************

 

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第1章、臨時=行革路線と国鉄労働組合

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 第2節 80年代前半の国労つぶし包囲網との闘い
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二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い

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├○ 二 臨調基本答申に対する国労の対応とその後の闘い│
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 臨調基本答申に対する国労の対応

 国鉄の「分割・民営化」を盛り込んだ第二臨調第三次答申(基本答申)が出された7月30日は、国鉄第44回定期全国大会(東京日比谷公会堂)開催さなかのことであった。この臨調答申の内容とその狙いが大会討議のなかでも柱のひとつとなり、臨調路線との対決姿勢が強調された。本部答弁でも、書記長は「大会の総意は臨調答申の国鉄分割・民営と緊急11項目の攻撃に断固反対し、総反撃に立ち上がる体制固めを確認した。と集約答弁を行った。
 そして大会最終日には「大会宣言」の他に、骨子次のような「闘争宣言」を採択した。

 「この数月月間、自民党、政府・国鉄当局とこれに加担するマスコミ等が一体となって国鉄労働者と国鉄労働組合に悪罵の限りをつくし、集中砲火を浴びせてきた。これは国鉄労働組合の団結力・闘争力を崩壊させ、国民と分断し、国労の体質改善をも狙い、日本の労働組合運動と確信の運動に重大な打撃を与えようとしているものとみざるを得ない。
 7月30日、第2臨調は基本答申を発表した。その中で"国鉄改革”の方策として5年以内(昭和62年度)を目標として『分割・民営』化をすすめること、その間、緊急11項目を国鉄労働者と勤労国民に押しつけることを明らかにした。また、ローカル線廃止、運賃値上げ、7分割を強行することを明らかにした。国鉄労働者に対しては、団体交渉を否認し、雇用条件であり労働条件である乗車証の廃止をはじめ、新規採用のストップ、職員兼職の廃止、貨物の大幅な削減と『合理化』など、国鉄労働者が獲得してきた諸権利や制度を一方的に改悪しようとしている。
 まさに、われわれはこれまでの歴史の中で経験したことのない重大な局面にたたされている。
 国鉄当局は自民党と政府に従属し、完全に当事者能力を喪失した。『国民の国鉄』としての経営責任を放棄し、国鉄労働者と国鉄労働組合を無視し国鉄破壊の政策をあくまでも強行するならば、列車の正常な運行はもとより安全運転にも重大な影響が生じることを警告する。その責任はあげて政府・自民党国鉄当局にある、
 国鉄の破壊攻撃をはねかえし、『国民の国鉄』としての民主的再建を目指し、『合理化』反対闘争と『国民の交通・国民の国鉄をめざす民主化・政策要求』闘争を結合して闘うとともに、臨調行革に反対するすべての民主勢力の統一行動を成功させるために、先頭にたって闘う決意をかため合おう。」

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国鉄労働組合史詳細解説 70-2

すみません、1か月近く更新できませんでした。

今回も、国鉄再建に関する小委員会の記録を綴らせていただこうと思います。

国鉄電電公社が辿った道

国鉄改革から30年、地方交通線の分離などで、身軽になって出発したJR各社ですが、市場金利の低下と言う予想外の要因や沿線人口減少に伴う利用者の減少さらにそれ以上に過疎化が進む現状にあって、JRの位置づけを今一度考える時期に来ていると言えましょう。

鉄道輸送は、ユニバーサルサービスではなかったのか?

NTT東西会社は、NTT法により公衆通信回線網を国民のインフラと位置づけ、NTT以外の各社にも提供することを義務付けている他、ユニバーサルサービス制度として、NTT東西以外の会社も一定の負担をすることとなっているのは皆様ご存じの通りだと思います。

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ユニバーサルサービス制度について | 公開情報 | KDDI株式会社から引用

ユニバーサルサービス制度」とは、ユニバーサルサービスの提供を確保するため、ユニバーサルサービスを提供する適格電気通信事業者 (現在はNTT東日本・西日本が指定を受けています) に必要な費用の一部を補填し、電話会社全体で応分に負担する仕組みです。

改めて問われるJRは国民の財産か、否か?

今後の本格的な人口減少社会を迎え、未上場のJR北海道JR四国に関しては今一度鉄道輸送がユニバーサルサービスなのか否かと言う視点から考える必要があるかと思います。JRの場合、NTTの民営化と異なり、赤字解消・組合対策とい言った点ばかりが強調されて、分割ありきで議論が進められたことは問題であったのではないでしょうか。

さて、前置きの方が長くなってしまいそうなのですが、今回は、国鉄再建に関する小委員会の記事からお読みいただこうと思います。
第8回目は、鉄労視点からの国鉄再建問題の見解と言うことでは、細かいことが書かれていませんが翌日には、重点職場の管理職に対してアンケートが送付されていることから、鉄労からの聞き取りは、いわば証拠固めのようなところが有ったのかもしれません。なお、重点職場と言うのは、職場の荒廃が進み早急に改善を要すると思われる拠点と言う意味で、郵便局では困難局と言う名称が使われていました。

なお、会合は3日おきくらいの早いぺースで進められており、3月5日の会合では、「マル生当時の不信感が尾を引いている中で総裁通達によって現場は本気になるのか」|本当にウミは出るのか」…と言った国鉄組織に対する不信感ともとれる発言が相次いだことも国鉄の本気度がどこまであるのかを考えているとも言えましょう。

ただ、こうして国鉄当局もその実態を変えていこうと思って行動を開始していた矢先、名古屋駅で酔っぱらい運転の機関士が名古屋駅で連結すべき客車に約20㎞/hの速度で衝突し、寝台車に食い込むという事故を発生させてしまい、国鉄の職場が本当に改善できるのかと疑いを持たされる結果となりました。

第12回3月16日(火)
 冒頭、前日発生した名古屋駅構内列車衝突事故の説明が行なわれ、次いでかねて委員から要求のあった56年度昇給。営業関係昇職経路、労働処分関係訴訟、専従職員、運転検査旅費問題等について説明された。とくに名古屋駅事故は総点検中の不祥事だけに委員の間から厳しい指摘が相次いだ。

参考 国鉄があった時代 昭和57年前半

2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅10番ホームでに停車中の東京発紀伊勝浦寝台特急紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51ディーゼル機関車DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。乗客と機関士(52)の計14人が重軽傷。
機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒して寝すごし、運転中も、もうろう状態だったらしい(16日夕。中村署に業務上過失致傷などの疑いで逮捕された。
この事故は、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。

国鉄があった時代(企画・監修 加藤公共交通研究所)

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*********************以下詳細は、下記をご覧くださいませ。**********************

 第8回3月2日(火)
 労働組合からのヒヤリングの第1弾として鉄道労働組合から組合長、書記長他が出席、鉄労としての国鉄再建問題についての見解が述ぺられた。

3月3日、全国の重点職場の全管理職3,257名に対し小委員会としてのアンケートがそれぞれ自宅あて発送された。また、第8回までの審議状況が「中間報告」としてまとめら、、三塚委員長から自民党の機関である政調審議会に1日、総務会には5日に報告された。一方、このころマスコミ等で次々と明るみにされた職場規律の乱れに関し、4日運輸大臣から国鉄総裁に対し総点検の指示があり、これを受け、5日国鉄は総裁名で『職場観律の総点検およぴ是正について』の通達を発した。

第9回3月5日(金)
運輸省から前日の大臣指示について説明があった後、国鉄から当日付けの総裁通達のほか前回まで宿題となっていた勤務、昇職、昇給等について説明した。これに対し「マル生当時の不信感が尾を引いている中で総裁通達によって現場は本気になるのか」|本当にウミは出るのか」「今回が国鉄を救う二度とないチャンスだ、断固たる決意でのぞんでぽしい」等の意見が出された。
 第10回3月9日(火)
 前回に続き審議の過程で宿題となっていた回復昇給、管理者の意識調査、議員兼職、再雇用、処分等について国鉄から説明した。多くの委員から国鉄側の脱明に対し直ちには議院兼職については「時代も変わったのだから不承認とすべし」との意見が大勢を占めた。
 第11回3月12日(金)
 国鉄監査委員会から意見聴取として安居喜造監査委員長他5監査委員が出席、それぞれ所見を述べ、小委員会側の各委員からそれに対する意見を要望等か表明された。
 第12回3月16日(火)
 冒頭、前日発生した名古屋駅構内列車衝突事故の説明が行なわれ、次いでかねて委員から要求のあった56年度昇給。営業関係昇職経路、労働処分関係訴訟、専従職員、運転検査旅費問題等について説明された。とくに名古屋駅事故は総点検中の不祥事だけに委員の間から厳しい指摘が相次いだ。
 3月18日、第1回の現場視察が抜打ち的に行なわれた。三塚委員長他1名の国会議員、自民文関係者。井上東京西局長ら国鉄関係者一行14名が同日8時30分甲府駅を訪問、直ちに現場の詰所をつぶさに巡った後。駅長以下管理者と懇談し激励した。筆者も同行したが、聞きしに勝る職場規律の乱れに各委員も驚きの表情をかくさなかった。その後、大月保線区へ移動、区長以下管理者と懇談した。
第13回3月19日(全)
国会議員の中でとりわけ国鉄問題に造詣の深い細田吉蔵岡鉄基本問題調査会顧問から公社制度にまつわる諸問題を中心とした提冒を伺ったが、岡田顧問は最後に政治の責任をとくに強調された。
委員からは「国鉄問題については政治家として腹をすえでやる名娶がある」「自民党も反省する必要がある」等の意見が出された。
 瘍11回3月21日(*)
 国鉄から総点検の経過報告、名古屋駅構内列車衝突事故、浜川崎・高島両駅の運転事故、深川保線区の改善状況等につき説明した。これに対し、委員から名古屋駅事故の重大性に鑑み厳重な拠分を速やかにすべきであるとの指摘がなされた。

 3月25日、第2回の現場視察が行なわれた。今回は前回と異なり前もって予告の上、東京3局5現場を13名の委員が3班に分かれて視察した。
 第15回3月26日(金)
 前日の現場視察結果が各班長から報告された後、国鉄から総点検の途中経過報告(前日、大臣に報告)、各組合の春闘方針、職員教育等について説明した。
 第16回3月30日(火)
 労働組合からのヒヤリングの続編として、国鉄労働組合および国鉄動力車労働組合からそれぞれ個別に見解を聴取した。
 第17回4月2日(金)
 先に全国の管理職員に発送したアンケートの結果が三塚委員長から紹介され、改めて職場の実態の深刻さと管理職員の労苦か示された。また、国鉄から関連事業全般および八王子地区の不正乗車問題を説明した。
 118回4月6日(火)
 国鉄から合理化の計画と実績、団体交渉の仕組み、乗車証等にっいて説明した。合理化について三塚委員等から「年度末手当が先か、1万2000人が先かで苦労があったが、はじめて合理化を先に決定し、しかも手当は前年度より下回る率で妥結した。これは画期的なことであり管理経営権か明確に示された」との発言かあった。その他「乗車証について思い切って見直すぺきだ」などの指摘があった。
 第19回4月9日(全)
 これまでの審議の過程での主な指摘事項12項目について国鉄の考え方を改めて表明した。その項目は次のとおりである。
①202億損害賠償訴訟②現場協議制③信賞必罰④労働処分⑤紛対覚書⑤年休管理、突発休等⑦昇給管理⑧ヤミ協定等⑨管理職問題⑩施設管理権および組休⑪兼職議員問題⑫乗車征問題。今回をもって第1部の検討会は一応の区切りとなった。
 卵20回4月13口(火)
 委員長からこれまでの審爾に基づく私案が提示され、自由討議が行われたが若干の字句の修正の上で承認された。
 13日 小委員会で承認された私案は「管理経営権及び職場規律確立に関する報告」との標題を冠L、16日交通部会・国鉄基本問題調査会合同会議及び政調審議会の承認を経て同日総務会において各総務の深い感銘と高い評価の中で自由民主党の党議として決定され、翌17日、田中竜男総務会長から運輸大臣(鹿野政務次官が代理)と国鉄総裁に手渡された。

 

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